文化祭まで、あと二週間。
私立星蘭学園は、いつも以上の活気に包まれていた。
廊下には色とりどりの装飾案が貼られ、教室からは出し物の相談をする声が聞こえてくる。
その中心にいるのは、文化祭実行委員長となった神崎颯真だった。
「だから、そっちの教室を使うなら、通路をふさがないように配置を変えればいいんだよ」
「なるほど! じゃあ、机の並べ方を考え直してみる!」
「あと、飾りつけは美術部に相談してみるといい。材料が余ってるかもしれないから」
「ありがとう、神崎!」
颯真は次々と相談を受け、意見をまとめていく。
以前なら、誰もが生徒会長である一ノ瀬冷花の判断を待っていた。
しかし、今は違う。
まず颯真に相談し、必要に応じて冷花に確認する。
その流れが、少しずつ定着していた。
「……神崎くんは、ずいぶん頼られていますね」
生徒会室で資料を整理していた冷花が、感心したように言った。
「まあな。これでも人望には自信があるんだ」
「そうですね。私よりも、気軽に話しかけられているようです」
「……お前、そこは気にしてたのか?」
颯真が尋ねると、冷花は手を止めた。
「気にしていた、というより……少し不思議に思っていました」
「何が?」
「私も、皆さんの役に立ちたいと思っています。ですが、神崎くんのように、相談を受けた人が笑顔で帰っていくことは、あまりありません」
冷花は真剣だった。
颯真は少しだけ困った顔をした。
「お前は最初から正解を教えようとするからな」
「正解を教えることは、よくないのでしょうか?」
「よくないわけじゃない。でも、相談に来たやつは、答えだけが欲しいとは限らないんだよ」
「……答え以外に、何が必要なのですか?」
「例えば、話を聞いてもらうこととか。頑張ってるって認めてもらうこととか」
冷花は、考え込むように黙った。
「難しいですね」
「そうか?」
「はい。神崎くんは、それを自然にできているのでしょう?」
「……まあ、たぶんな」
「すごいです」
またしても、まっすぐ褒められた。
颯真は顔をそらした。
「お前、最近、俺を褒めすぎじゃないか?」
「そうでしょうか?」
「そうだよ。調子が狂うんだって」
「では、控えたほうがいいですか?」
「いや、そういうわけでも……」
「どちらなのですか?」
「……好きにしろ!」
冷花は小さく首を傾げた。
そして、資料に目を戻す。
「分かりました。では、今後も必要だと思ったときには褒めます」
「お前なあ……」
颯真はため息をついた。
しかし、その口元は、少しだけ緩んでいた。
*
その日の午後。
文化祭実行委員会で、予想外の報告が飛び込んできた。
「神崎先輩、大変です!」
慌てて駆け込んできたのは、一年生の実行委員だった。
「どうした?」
「体育館で予定していた舞台発表なんですが、照明設備の一部が故障していることが分かりました!」
「何だって?」
颯真は立ち上がった。
体育館では、複数のクラスが演劇や音楽発表を予定している。
照明が使えなければ、演出の変更だけでは済まない企画もあった。
「修理は間に合いそうなのか?」
「業者の方に確認したんですが、部品の取り寄せが必要で、文化祭当日までに直るかどうか……」
「ほかの会場は?」
「講堂は音楽部が使う予定ですし、空き教室では舞台が狭すぎます」
委員たちの顔に、不安が広がった。
「せっかく準備してきたのに……」
「今から演目を変更するのは厳しいよな」
「どうしよう……」
颯真は、すぐに結論を出さなかった。
まず、何ができるのかを考える。
そのとき、会議室の扉が開いた。
「状況を確認しました」
一ノ瀬冷花だった。
彼女は手に資料を持ち、落ち着いた声で説明を始めた。
「講堂の使用時間を再調整すれば、一部の発表を移動させることは可能です。また、照明設備がなくても実施できる演目については、体育館に残す方法もあります」
「さすが会長……!」
委員たちの顔に、少しだけ希望が戻る。
しかし、冷花は資料を見つめたまま続けた。
「ただし、講堂の使用時間を変更する場合、音楽部のリハーサル時間が減少します。全体の進行表も修正する必要があります」
彼女の言葉は正しい。
だが、次々と問題点を挙げられた委員たちは、再び黙り込んでしまった。
冷花は不思議そうに周囲を見渡した。
「……ほかに、懸念点がありますか?」
誰も答えない。
颯真は、その様子を見て口を開いた。
「一ノ瀬。ちょっといいか?」
「はい」
「今の案、俺たちにも考えさせてくれないか」
冷花は一瞬だけ目を見開いた。
「もちろんです。ですが、時間が限られています」
「分かってる。だからこそ、みんなの意見を聞きたいんだ」
颯真は委員たちに向き直った。
「今の時点で、思いつくことを何でもいいから言ってくれ。実現できるかどうかは、あとで考えよう」
最初に手を挙げたのは、演劇を予定していた二年生だった。
「うちのクラス、舞台の背景に使う布を作ってるんですけど……。あれを使えば、照明がなくても雰囲気は出せるかもしれません」
「いいな! ほかには?」
「音楽部のリハーサル、朝早くから始めるのはどうでしょう?」
「それなら、講堂を使える時間を増やせるかも」
「体育館の発表を、午前と午後に分けて、講堂に移せるものだけ移動させたら?」
次々と意見が出始めた。
冷花は口を挟まず、ひとつひとつ記録していく。
そして、全員の意見が出そろったところで、静かに言った。
「……その方法なら、実現できる可能性があります」
委員たちが顔を上げる。
「講堂の使用時間を調整し、体育館の演目を一部変更すれば、全体の進行に大きな影響を与えずに済みます。安全面についても、問題はありません」
「本当ですか?」
「はい。ただし、各クラスとの再調整は必要です」
「じゃあ、私たちで話してきます!」
委員たちは、先ほどまでの不安が嘘のように動き始めた。
颯真は、ほっと息をついた。
「よし。これなら何とかなるな」
「神崎くんのおかげです」
冷花が言った。
「いや、みんなのおかげだろ」
「あなたが意見を引き出してくれたからです」
「……まあ、そうかもしれないけどな」
颯真は照れくさそうに頬をかいた。
そのとき、冷花がふと彼の顔を見た。
「神崎くんは、困っている人を安心させるのが上手ですね」
「お前も、ちゃんと助けてくれたじゃないか」
「私は、問題を解決する方法を提示しただけです」
「それが必要だったんだよ。俺だけじゃ、あそこまで整理できなかった」
冷花は黙った。
颯真は、少し笑った。
「だから、二人でやればいいんだ。お前が得意なことと、俺が得意なことを組み合わせれば、もっといい方法が見つかるかもしれないだろ?」
「……二人で」
冷花は、その言葉を繰り返した。
そして、ゆっくりとうなずいた。
「はい。私も、そう思います」
*
問題が解決したあと、委員たちは急いで各クラスへの連絡に向かった。
生徒会室に残ったのは、冷花と颯真の二人だけだった。
「やれやれ……。何とか間に合いそうだな」
颯真は椅子に座り、背もたれに体を預けた。
「お疲れさまでした」
冷花が、お茶の入ったカップを差し出す。
「お、ありがとう」
「神崎くんは、いつも大変そうですね」
「誰のせいだと思ってるんだよ。お前が俺を実行委員長に推薦したからだろ」
「適任だと思いましたので」
「そこは否定しろよ!」
「適任ではなかったのでしょうか?」
「いや、そうじゃなくて……!」
颯真が言葉に詰まると、冷花は真面目な顔で首を傾げた。
「神崎くんは、難しいですね」
「お前にだけは言われたくない!」
その瞬間だった。
冷花の肩が、小さく揺れた。
「……ふっ」
颯真は動きを止めた。
今、何が起きた?
彼女の口元が、ゆっくりと緩んでいる。
いつもの、ほんのわずかな微笑みではない。
こらえきれないように、目元まで柔らかくなっていた。
「……あははっ」
冷花が笑った。
声を上げて。
楽しそうに。
まるで、普通の女の子のように。
颯真は、完全に固まってしまった。
「……一ノ瀬?」
「すみません……。神崎くんが、あまりにも必死だったので……」
冷花は口元を押さえながら、まだ笑っている。
「お、お前……笑えるんだな」
「笑います。私も人間ですので」
「いや、そういう意味じゃなくて……」
颯真は、何と言えばいいのか分からなかった。
いつも完璧で、冷静で、隙のない彼女。
その彼女が、自分の言葉で笑っている。
それが、どうしようもなく嬉しかった。
「……もう一回笑ってみろよ」
「え?」
「いや、その……。今の、もう一回」
冷花はきょとんとした。
「同じことで笑うのは難しいと思います」
「そういう問題かよ!」
「それに、神崎くんが笑わせようと意識すると、余計に難しくなるのではないでしょうか」
「お前、意外と容赦ないな……」
冷花は、また小さく笑った。
今度は、先ほどより控えめだった。
それでも颯真には、十分すぎるほどだった。
「……一ノ瀬」
「はい?」
「お前、笑ってるほうがいいと思う」
言ってから、颯真は自分の発言に気づいた。
何を言っているんだ、俺は。
これでは、まるで――。
しかし、冷花は怒るでもなく、ただ静かに彼を見つめた。
「……そうでしょうか?」
「ああ」
「では、これからは、もう少し笑うようにしてみます」
「いや、無理に笑わなくてもいいんだぞ」
「神崎くんは、笑っているほうがいいと言いました」
「それは……!」
「あなたの意見は、参考にしたいと思っています」
冷花は、穏やかな声で続けた。
「神崎くんは、私が気づかなかったことを教えてくれますから」
颯真は、返す言葉を失った。
彼女は、ただ自分のことを認めてくれているだけなのだろう。
だが、その言葉が胸に深く残った。
「……そっか」
ようやく、それだけ答える。
冷花はカップを両手で包みながら、ふと尋ねた。
「神崎くんは、私が笑うと嬉しいのですか?」
「……っ!」
颯真の顔が、一気に赤くなった。
「な、なんでそうなるんだよ!」
「先ほど、とても嬉しそうでしたので」
「それは……! 珍しいものを見たからだ!」
「珍しいもの、ですか」
「そうだよ!」
冷花は少し考えてから、うなずいた。
「なるほど。では、また珍しいものを見せられるように努力します」
「いや、だから努力するものじゃないって!」
颯真の声が、生徒会室に響き渡った。
冷花は、そんな彼を見て、また小さく笑った。
その笑顔を見ながら、颯真は思った。
――この笑顔を、もっと見たい。
勝負に勝つことよりも。
彼女に認められることよりも。
今は、その笑顔を守りたいと思った。
まだ、その気持ちに名前はつけられない。
けれど、彼の中で何かが確かに変わり始めていた。
*
翌朝。
星蘭学園では、ある噂が広がっていた。
「聞いた? 一ノ瀬会長が笑ったらしいよ」
「えっ、あの一ノ瀬会長が?」
「しかも、神崎くんと二人きりのときに!」
「何それ! 神崎くん、何をしたの!?」
「まさか、弱みでも握ってるんじゃ……」
「いやいや、逆に一ノ瀬会長が神崎くんに心を許してるんじゃない?」
噂は、あっという間に学園中へ広がった。
当の本人たちは、そんなことになっているとは知らず、いつもどおり登校していた。
「おはよう、一ノ瀬」
「おはようございます、神崎くん」
冷花はいつものように挨拶をした。
颯真も、いつものように返事をした。
ただ、一つだけ違うことがあった。
冷花が彼を見る目には、以前よりも少しだけ柔らかな光が宿っていた。
そして颯真は、その変化に気づいていた。
「……何だよ?」
「いえ。今日も、よろしくお願いします」
「ああ。こっちこそ」
二人は並んで、生徒会室へ向かった。
その後ろ姿を見つめながら、佐伯は深いため息をついた。
「……あいつら、いつになったら自分たちのことに気づくんだろうな」
学園の女王、一ノ瀬冷花。
そして、彼女に何度も挑み続ける神崎颯真。
二人の関係は、少しずつ変わり始めていた。
私立星蘭学園は、いつも以上の活気に包まれていた。
廊下には色とりどりの装飾案が貼られ、教室からは出し物の相談をする声が聞こえてくる。
その中心にいるのは、文化祭実行委員長となった神崎颯真だった。
「だから、そっちの教室を使うなら、通路をふさがないように配置を変えればいいんだよ」
「なるほど! じゃあ、机の並べ方を考え直してみる!」
「あと、飾りつけは美術部に相談してみるといい。材料が余ってるかもしれないから」
「ありがとう、神崎!」
颯真は次々と相談を受け、意見をまとめていく。
以前なら、誰もが生徒会長である一ノ瀬冷花の判断を待っていた。
しかし、今は違う。
まず颯真に相談し、必要に応じて冷花に確認する。
その流れが、少しずつ定着していた。
「……神崎くんは、ずいぶん頼られていますね」
生徒会室で資料を整理していた冷花が、感心したように言った。
「まあな。これでも人望には自信があるんだ」
「そうですね。私よりも、気軽に話しかけられているようです」
「……お前、そこは気にしてたのか?」
颯真が尋ねると、冷花は手を止めた。
「気にしていた、というより……少し不思議に思っていました」
「何が?」
「私も、皆さんの役に立ちたいと思っています。ですが、神崎くんのように、相談を受けた人が笑顔で帰っていくことは、あまりありません」
冷花は真剣だった。
颯真は少しだけ困った顔をした。
「お前は最初から正解を教えようとするからな」
「正解を教えることは、よくないのでしょうか?」
「よくないわけじゃない。でも、相談に来たやつは、答えだけが欲しいとは限らないんだよ」
「……答え以外に、何が必要なのですか?」
「例えば、話を聞いてもらうこととか。頑張ってるって認めてもらうこととか」
冷花は、考え込むように黙った。
「難しいですね」
「そうか?」
「はい。神崎くんは、それを自然にできているのでしょう?」
「……まあ、たぶんな」
「すごいです」
またしても、まっすぐ褒められた。
颯真は顔をそらした。
「お前、最近、俺を褒めすぎじゃないか?」
「そうでしょうか?」
「そうだよ。調子が狂うんだって」
「では、控えたほうがいいですか?」
「いや、そういうわけでも……」
「どちらなのですか?」
「……好きにしろ!」
冷花は小さく首を傾げた。
そして、資料に目を戻す。
「分かりました。では、今後も必要だと思ったときには褒めます」
「お前なあ……」
颯真はため息をついた。
しかし、その口元は、少しだけ緩んでいた。
*
その日の午後。
文化祭実行委員会で、予想外の報告が飛び込んできた。
「神崎先輩、大変です!」
慌てて駆け込んできたのは、一年生の実行委員だった。
「どうした?」
「体育館で予定していた舞台発表なんですが、照明設備の一部が故障していることが分かりました!」
「何だって?」
颯真は立ち上がった。
体育館では、複数のクラスが演劇や音楽発表を予定している。
照明が使えなければ、演出の変更だけでは済まない企画もあった。
「修理は間に合いそうなのか?」
「業者の方に確認したんですが、部品の取り寄せが必要で、文化祭当日までに直るかどうか……」
「ほかの会場は?」
「講堂は音楽部が使う予定ですし、空き教室では舞台が狭すぎます」
委員たちの顔に、不安が広がった。
「せっかく準備してきたのに……」
「今から演目を変更するのは厳しいよな」
「どうしよう……」
颯真は、すぐに結論を出さなかった。
まず、何ができるのかを考える。
そのとき、会議室の扉が開いた。
「状況を確認しました」
一ノ瀬冷花だった。
彼女は手に資料を持ち、落ち着いた声で説明を始めた。
「講堂の使用時間を再調整すれば、一部の発表を移動させることは可能です。また、照明設備がなくても実施できる演目については、体育館に残す方法もあります」
「さすが会長……!」
委員たちの顔に、少しだけ希望が戻る。
しかし、冷花は資料を見つめたまま続けた。
「ただし、講堂の使用時間を変更する場合、音楽部のリハーサル時間が減少します。全体の進行表も修正する必要があります」
彼女の言葉は正しい。
だが、次々と問題点を挙げられた委員たちは、再び黙り込んでしまった。
冷花は不思議そうに周囲を見渡した。
「……ほかに、懸念点がありますか?」
誰も答えない。
颯真は、その様子を見て口を開いた。
「一ノ瀬。ちょっといいか?」
「はい」
「今の案、俺たちにも考えさせてくれないか」
冷花は一瞬だけ目を見開いた。
「もちろんです。ですが、時間が限られています」
「分かってる。だからこそ、みんなの意見を聞きたいんだ」
颯真は委員たちに向き直った。
「今の時点で、思いつくことを何でもいいから言ってくれ。実現できるかどうかは、あとで考えよう」
最初に手を挙げたのは、演劇を予定していた二年生だった。
「うちのクラス、舞台の背景に使う布を作ってるんですけど……。あれを使えば、照明がなくても雰囲気は出せるかもしれません」
「いいな! ほかには?」
「音楽部のリハーサル、朝早くから始めるのはどうでしょう?」
「それなら、講堂を使える時間を増やせるかも」
「体育館の発表を、午前と午後に分けて、講堂に移せるものだけ移動させたら?」
次々と意見が出始めた。
冷花は口を挟まず、ひとつひとつ記録していく。
そして、全員の意見が出そろったところで、静かに言った。
「……その方法なら、実現できる可能性があります」
委員たちが顔を上げる。
「講堂の使用時間を調整し、体育館の演目を一部変更すれば、全体の進行に大きな影響を与えずに済みます。安全面についても、問題はありません」
「本当ですか?」
「はい。ただし、各クラスとの再調整は必要です」
「じゃあ、私たちで話してきます!」
委員たちは、先ほどまでの不安が嘘のように動き始めた。
颯真は、ほっと息をついた。
「よし。これなら何とかなるな」
「神崎くんのおかげです」
冷花が言った。
「いや、みんなのおかげだろ」
「あなたが意見を引き出してくれたからです」
「……まあ、そうかもしれないけどな」
颯真は照れくさそうに頬をかいた。
そのとき、冷花がふと彼の顔を見た。
「神崎くんは、困っている人を安心させるのが上手ですね」
「お前も、ちゃんと助けてくれたじゃないか」
「私は、問題を解決する方法を提示しただけです」
「それが必要だったんだよ。俺だけじゃ、あそこまで整理できなかった」
冷花は黙った。
颯真は、少し笑った。
「だから、二人でやればいいんだ。お前が得意なことと、俺が得意なことを組み合わせれば、もっといい方法が見つかるかもしれないだろ?」
「……二人で」
冷花は、その言葉を繰り返した。
そして、ゆっくりとうなずいた。
「はい。私も、そう思います」
*
問題が解決したあと、委員たちは急いで各クラスへの連絡に向かった。
生徒会室に残ったのは、冷花と颯真の二人だけだった。
「やれやれ……。何とか間に合いそうだな」
颯真は椅子に座り、背もたれに体を預けた。
「お疲れさまでした」
冷花が、お茶の入ったカップを差し出す。
「お、ありがとう」
「神崎くんは、いつも大変そうですね」
「誰のせいだと思ってるんだよ。お前が俺を実行委員長に推薦したからだろ」
「適任だと思いましたので」
「そこは否定しろよ!」
「適任ではなかったのでしょうか?」
「いや、そうじゃなくて……!」
颯真が言葉に詰まると、冷花は真面目な顔で首を傾げた。
「神崎くんは、難しいですね」
「お前にだけは言われたくない!」
その瞬間だった。
冷花の肩が、小さく揺れた。
「……ふっ」
颯真は動きを止めた。
今、何が起きた?
彼女の口元が、ゆっくりと緩んでいる。
いつもの、ほんのわずかな微笑みではない。
こらえきれないように、目元まで柔らかくなっていた。
「……あははっ」
冷花が笑った。
声を上げて。
楽しそうに。
まるで、普通の女の子のように。
颯真は、完全に固まってしまった。
「……一ノ瀬?」
「すみません……。神崎くんが、あまりにも必死だったので……」
冷花は口元を押さえながら、まだ笑っている。
「お、お前……笑えるんだな」
「笑います。私も人間ですので」
「いや、そういう意味じゃなくて……」
颯真は、何と言えばいいのか分からなかった。
いつも完璧で、冷静で、隙のない彼女。
その彼女が、自分の言葉で笑っている。
それが、どうしようもなく嬉しかった。
「……もう一回笑ってみろよ」
「え?」
「いや、その……。今の、もう一回」
冷花はきょとんとした。
「同じことで笑うのは難しいと思います」
「そういう問題かよ!」
「それに、神崎くんが笑わせようと意識すると、余計に難しくなるのではないでしょうか」
「お前、意外と容赦ないな……」
冷花は、また小さく笑った。
今度は、先ほどより控えめだった。
それでも颯真には、十分すぎるほどだった。
「……一ノ瀬」
「はい?」
「お前、笑ってるほうがいいと思う」
言ってから、颯真は自分の発言に気づいた。
何を言っているんだ、俺は。
これでは、まるで――。
しかし、冷花は怒るでもなく、ただ静かに彼を見つめた。
「……そうでしょうか?」
「ああ」
「では、これからは、もう少し笑うようにしてみます」
「いや、無理に笑わなくてもいいんだぞ」
「神崎くんは、笑っているほうがいいと言いました」
「それは……!」
「あなたの意見は、参考にしたいと思っています」
冷花は、穏やかな声で続けた。
「神崎くんは、私が気づかなかったことを教えてくれますから」
颯真は、返す言葉を失った。
彼女は、ただ自分のことを認めてくれているだけなのだろう。
だが、その言葉が胸に深く残った。
「……そっか」
ようやく、それだけ答える。
冷花はカップを両手で包みながら、ふと尋ねた。
「神崎くんは、私が笑うと嬉しいのですか?」
「……っ!」
颯真の顔が、一気に赤くなった。
「な、なんでそうなるんだよ!」
「先ほど、とても嬉しそうでしたので」
「それは……! 珍しいものを見たからだ!」
「珍しいもの、ですか」
「そうだよ!」
冷花は少し考えてから、うなずいた。
「なるほど。では、また珍しいものを見せられるように努力します」
「いや、だから努力するものじゃないって!」
颯真の声が、生徒会室に響き渡った。
冷花は、そんな彼を見て、また小さく笑った。
その笑顔を見ながら、颯真は思った。
――この笑顔を、もっと見たい。
勝負に勝つことよりも。
彼女に認められることよりも。
今は、その笑顔を守りたいと思った。
まだ、その気持ちに名前はつけられない。
けれど、彼の中で何かが確かに変わり始めていた。
*
翌朝。
星蘭学園では、ある噂が広がっていた。
「聞いた? 一ノ瀬会長が笑ったらしいよ」
「えっ、あの一ノ瀬会長が?」
「しかも、神崎くんと二人きりのときに!」
「何それ! 神崎くん、何をしたの!?」
「まさか、弱みでも握ってるんじゃ……」
「いやいや、逆に一ノ瀬会長が神崎くんに心を許してるんじゃない?」
噂は、あっという間に学園中へ広がった。
当の本人たちは、そんなことになっているとは知らず、いつもどおり登校していた。
「おはよう、一ノ瀬」
「おはようございます、神崎くん」
冷花はいつものように挨拶をした。
颯真も、いつものように返事をした。
ただ、一つだけ違うことがあった。
冷花が彼を見る目には、以前よりも少しだけ柔らかな光が宿っていた。
そして颯真は、その変化に気づいていた。
「……何だよ?」
「いえ。今日も、よろしくお願いします」
「ああ。こっちこそ」
二人は並んで、生徒会室へ向かった。
その後ろ姿を見つめながら、佐伯は深いため息をついた。
「……あいつら、いつになったら自分たちのことに気づくんだろうな」
学園の女王、一ノ瀬冷花。
そして、彼女に何度も挑み続ける神崎颯真。
二人の関係は、少しずつ変わり始めていた。



