学園の女王とイケメン王子様

 私立星蘭学園。

 政財界の名家に生まれた子息、全国模試で上位に名を連ねる秀才、全国大会で活躍するスポーツ選手、さらには音楽や芸術の分野で将来を期待される才能の持ち主まで。

 あらゆる分野のエリートが集うこの学園には、ひとつの暗黙の了解があった。

 ――一ノ瀬冷花には逆らうな。

 中等部二年生にして生徒会長。

 学年トップの成績、非の打ちどころのない容姿、どんな競技でも上位に入る運動能力。さらに料理や裁縫といった家事全般まで完璧にこなす。

 名門一ノ瀬家の令嬢という家柄も相まって、彼女は学園の頂点に君臨していた。

 そして今朝も。

「おはようございます、一ノ瀬会長!」

「お、おはようございます!」

 廊下を歩くだけで、生徒たちが次々と頭を下げていく。

 冷花は足を止め、礼儀正しく一礼した。

「おはようございます。今日も一日、よろしくお願いします」

 それだけだった。

 それだけなのに。

「い、今の聞いたか?」

「『今日も一日』って……昨日の僕たちの態度に何か問題があったんじゃ……」

「まさか、生徒会から何か指摘されるのか?」

 ひそひそと交わされる声。

 冷花は聞こえていないのか、聞こえていて気にしていないのか、涼しげな表情のまま歩いていった。

 実際のところ、彼女は何も考えていなかった。

 朝の挨拶をした。

 相手も挨拶を返してくれた。

 それで終わり。

 彼女にとって、それ以上でも以下でもない。

 ところが周囲はそう受け取らない。

 彼女のわずかな表情の変化に意味を探し、何気ない言葉の裏に意図を読み取り、勝手に緊張していく。

 その結果、冷花の周囲にはいつも人がいなかった。

 正確には、近づきたいと思う人間は大勢いる。

 けれど、近づける人間がいないのだ。

 そんな彼女に、今日も遠慮なく近づいていく少年が一人いた。

「おーい、一ノ瀬!」

 廊下に響く、よく通る声。

 周囲の生徒たちが一斉に振り返った。

「おい、誰だよ。会長を呼び捨てにしたぞ……」

「神崎だ」

「神崎颯真か……。また始まるのか?」

 声の主は、神崎颯真。

 冷花と同じ中等部二年生であり、学園一のイケメンと称される少年だった。

 整った顔立ちに、少し癖のある髪。運動神経抜群で、成績も優秀。家柄も申し分なく、女子生徒からの人気は冷花に負けず劣らず高い。

 そんな彼には、ひとつだけ解決できない問題があった。

 目の前を歩く少女に、何をやっても勝てないのである。

「神崎くん。おはようございます」

「おう。……って、そうじゃない!」

「何か用でしょうか?」

「あるに決まってるだろ!」

 颯真は、びしっと冷花を指さした。

「一ノ瀬冷花! 今日こそ、お前に勝負を申し込む!」

 廊下が静まり返った。

 誰かが息をのむ音さえ聞こえた気がした。

 冷花は数秒ほど颯真を見つめ、それから首をわずかに傾けた。

「そうですか」

「……は?」

「では、勝負の内容を教えてください」

「いや、反応それだけかよ!」

「勝負をするのでしょう? 内容がわからなければ、準備もできません」

「そ、それはそうだけど……!」

 颯真は調子を狂わされながらも、すぐに胸を張った。

「今日の一時間目、数学の小テストがあるだろ!」

「ありますね」

「そこで勝負だ! どっちが高い点数を取るか!」

「わかりました」

「負けたほうは、勝ったほうのお願いを一つ聞く!」

「構いません」

「よし! 言ったな!」

 颯真は勝ち誇ったように笑った。

 対する冷花は、いつもどおりの無表情だった。

「ちなみに神崎くん」

「なんだ?」

「今回の小テストの範囲は、先週までに授業で扱った二次方程式と関数です。昨日の放課後、あなたがサッカーをしていた時間に、私はすでに復習を終えています」

「なんでそんなことをわざわざ言うんだよ!」

「事実を伝えただけですが」

「お前なあ……!」

 颯真が頭を抱える。

 その様子を見ていた生徒たちは、そろって思った。

 ――神崎くん、すごいな。

 ――あの一ノ瀬会長に、あんなに普通に話しかけられるなんて。

 しかし、彼らは知らない。

 颯真が冷花に対して、特別な勇気を持っているわけではないことを。

 単に、負けず嫌いなだけなのだ。

 そして、本人もまだ気づいていなかった。

 自分が彼女に勝ちたいと思う理由が、少しずつ変わり始めていることに。

     *

 午前十時十五分。

 二年生の教室に、数学の小テストが配られた。

「それでは、始めてください」

 教師の合図とともに、教室中で一斉に鉛筆が動き出す。

 颯真も問題用紙に目を落とした。

 第一問。二次方程式。

 簡単だ。

 第二問。関数のグラフ。

 これも問題ない。

 第三問。文章題。

 少し考える必要があるが、解ける。

 颯真は自分の実力に手応えを感じていた。

 今回はいける。

 昨日はサッカーを早めに切り上げて勉強した。今朝も教科書を読み直してきた。

 何より、数学は得意科目だ。

 冷花にだって、苦手な問題くらいあるはずだ。

 そう信じて、颯真は最後の問題に取りかかった。

 そして、テスト終了。

「どうだった、神崎?」

 休み時間になった途端、友人の佐伯が尋ねてきた。

「完璧だ。たぶん満点!」

「おお、マジか。今回は一ノ瀬に勝てるんじゃないか?」

「当然だろ。俺だって、いつまでも負けっぱなしじゃないんだよ」

 颯真は自信満々に笑った。

 その視線の先では、冷花が自分の席で読書をしていた。

「おい、一ノ瀬!」

「はい」

「テスト、どうだった?」

「特に問題ありませんでした」

「そうか。俺もだ!」

「それはよかったですね」

「……お前、もう少し悔しそうな顔とかできないのか?」

「なぜですか?」

「いや、なんでもない……」

 勝負を挑んだ側が、なぜか疲れている。

 そんな光景も、星蘭学園ではすっかりおなじみになっていた。

     *

 昼休み。

 颯真は友人たちと食堂で昼食を取っていた。

「なあ、神崎」

 佐伯が箸を動かしながら言った。

「お前さ、なんでそんなに一ノ瀬に勝ちたいんだ?」

「はあ?」

「いや、普通そこまでこだわらないだろ。勉強でもスポーツでも、あいつに勝てないからって、毎回勝負を挑むなんてさ」

「決まってるだろ。負けたままなのが嫌だからだ」

「それだけ?」

「それだけだよ」

 颯真は即答した。

 自分より優秀な人間がいる。

 しかも、どれだけ努力しても、なかなか追いつけない。

 それが悔しい。

 だから勝ちたい。

 実に単純な理由だった。

「まあ、お前らしいけどな」

 佐伯は苦笑した。

「でも、一ノ瀬って、なんか怖くないか?」

「どこが?」

「いや、あの無表情とか。何考えてるかわからないし」

「別に普通だろ」

「普通じゃないって。こないだ俺、廊下でぶつかりそうになって謝ったんだよ。そしたら、じっと見つめられてさ」

「それで?」

「『前方には注意してくださいね』って言われた」

「……それだけ?」

「それだけだよ! でも、あの目で言われると、もう二度と廊下を歩けない気がするんだ!」

「歩けよ!」

 颯真は思わず突っ込んだ。

 確かに、冷花は表情が乏しい。

 喜んでいるのか、怒っているのか、判断しにくいところもある。

 けれど、彼女は別に意地悪な人間ではない。

 間違っていることを指摘するし、困っている人がいれば助ける。仕事だって誰よりも丁寧にこなす。

 ただ、それを大げさに表現しないだけなのだ。

「お前ら、一ノ瀬のことを誤解しすぎなんだよ」

 颯真がそう言うと、佐伯は目を丸くした。

「……お前、あいつのこと、よくわかってるんだな」

「は? な、なんだよ、それ」

「いや、別に?」

「変なこと言うな!」

 颯真は慌てて昼食をかき込んだ。

 そのときだった。

「神崎くん」

 聞き慣れた声が、背後からした。

 颯真の動きが止まる。

 ゆっくり振り返ると、そこには冷花が立っていた。

「い、一ノ瀬!?」

「先ほどの小テストについてですが」

「お、おう! なんだよ!」

「採点が終わったそうです。先生が、結果を教えてくださいました」

 冷花は手元の小さなメモを見た。

「私は百点でした」

「……っ!」

「神崎くんは九十九点だったそうですね」

「な、なんでお前が俺の点数を知ってるんだよ!」

「先生から聞きました」

「先生ぇぇぇ!」

 颯真が天を仰ぐ。

 冷花は淡々と続けた。

「惜しかったですね。第七問の符号を一つ間違えたようです」

「わかってるよ! 見直したときに気づいたんだよ!」

「そうでしたか」

「……それで? 勝負は俺の負けってことか」

「はい。約束どおり、私の勝ちです」

 冷花は静かにうなずいた。

 颯真は悔しそうに唇をかんだ。

 あと一点。

 たった一点だった。

 もう少しで、彼女に勝てたのに。

「……くそっ。次は絶対に勝つからな!」

「期待しています」

 冷花はそう言って、軽く頭を下げた。

 そして、そのまま食堂を去ろうとする。

 しかし、数歩進んだところで、ふと足を止めた。

「神崎くん」

「……今度はなんだよ」

「あなたの答案について、一つ気になったことがあります」

「答案?」

「第七問です。途中の計算式は正しかったので、最後の符号さえ間違えなければ満点でした」

「……だから?」

「見直しをすれば気づけたはずです。あなたなら、次は満点を取れると思います」

 颯真は、ぽかんと口を開けた。

 冷花は相変わらず、無表情だった。

 褒めているのか、ただ事実を述べているだけなのか、やはりわかりにくい。

 けれど。

「……おう」

 颯真は、少しだけ笑った。

「次は満点を取って、お前に勝つ」

「はい。お待ちしています」

 冷花は今度こそ立ち去った。

 その背中を見送りながら、佐伯がぽつりと言った。

「……なあ、神崎」

「なんだよ」

「お前、あいつのこと好きなの?」

「ぶっ飛ばすぞ!」

 食堂に、颯真の怒声が響き渡った。

     *

 放課後。

 生徒会室では、冷花が一人で書類を整理していた。

 今日の議事録をまとめ、明日の会議資料を確認し、提出された部活動の予算申請書に目を通す。

 どれも特別難しい仕事ではない。

 順番に処理していけば、予定どおりに終わる。

 冷花は時計を確認した。

 午後四時三十分。

 そろそろ帰宅してもよい時間だった。

 そのとき。

 コンコン。

 扉をノックする音がした。

「どうぞ」

 扉が開く。

「よう、一ノ瀬!」

 顔を出したのは、もちろん颯真だった。

「神崎くん。何か用でしょうか?」

「決まってるだろ。次の勝負の申し込みだ!」

「今日、負けたばかりですが」

「だからだよ! 次こそ勝つ!」

「……そうですか」

 冷花は手元の書類を机に置いた。

「それで、今度は何で勝負するのですか?」

「明日の体育だ。バスケットボールで勝負しようぜ!」

「構いません」

「よし!」

 颯真は拳を握った。

 冷花は淡々と告げる。

「ただし、明日は体育の授業でバスケットボールをする予定はありません」

「……は?」

「明日の体育は持久走です」

「うそだろ!?」

「時間割を確認していなかったのですか?」

「いや、だって……!」

 颯真は頭を抱えた。

 明日は持久走。

 しかも、冷花は長距離走でも学年トップの記録を持っている。

 また負ける未来が見えた気がした。

「……じゃあ、持久走で勝負だ!」

「わかりました」

「今度こそ勝つからな!」

「はい」

 冷花は、いつもどおりの表情で答えた。

 颯真はしばらく彼女を見つめていたが、ふと口を開いた。

「なあ、一ノ瀬」

「はい?」

「お前さ、俺と勝負してて楽しいか?」

 自分でも、なぜそんなことを尋ねたのかわからなかった。

 いつもなら、次こそ勝つと宣言して帰るだけだ。

 けれど今日は、少しだけ気になった。

 冷花はすぐには答えなかった。

 窓の外に視線を向け、それから颯真を見た。

「楽しい、という感情については、あまり意識したことがありません」

「……そっか」

「ですが」

 冷花は続けた。

「あなたは、私に遠慮をしませんね」

「当たり前だろ。お前に勝ちたいんだから」

「そうですね」

 彼女はわずかに目を細めた。

 笑ったわけではない。

 けれど、いつもより少しだけ柔らかな表情だった。

「神崎くんと話していると、予想外のことが起こります」

「……それ、褒めてるのか?」

「私にとっては、興味深いことです」

 颯真は、なぜか返事に困った。

 冷花がそんなことを言うとは思わなかったからだ。

「……ま、まあ、当然だな! 俺は普通のやつとは違うからな!」

「そうなのですか?」

「そうだよ!」

「では、明日の持久走で確認させてください」

「……お前、絶対に俺をからかってるだろ!」

「そのつもりはありません」

 冷花は首を傾げた。

 颯真は深いため息をついた。

 やっぱり、この女には勝てそうにない。

 勉強でも、運動でも、会話でも。

 いつだって、自分の予想を超えてくる。

 だからこそ。

「覚えてろよ、一ノ瀬! 絶対にお前を負かしてやるからな!」

「はい。楽しみにしています」

 颯真は勢いよく生徒会室を飛び出した。

 廊下に響く足音が、次第に遠ざかっていく。

 静かになった生徒会室で、冷花は再び机に向かった。

 書類を手に取り、続きを確認する。

 けれど。

 ふと、先ほどの颯真の顔が頭に浮かんだ。

 負けても、負けても、彼は挑戦してくる。

 自分を恐れず、遠慮せず、思ったことをそのまま口にする。

 ほかの生徒たちとは、ずいぶん違う。

「……不思議な人ですね」

 冷花は誰に聞かせるでもなく、そうつぶやいた。

 そして、ほんの一瞬。

 自分の口元がわずかに緩んでいることに、彼女自身は気づかなかった。

 翌日、持久走。

 神崎颯真は、学園の女王に勝利することができるのか。

 そして、彼はまだ知らない。

 自分が挑み続けている少女が、いつの間にか彼のことを、ほかの誰よりも気にかけるようになり始めていることを。