《死んだら楽になるのかな》
そう投稿して、私はスマートフォンをベッドの上に伏せた。
誰かに止めてほしかったわけじゃない。
心配してほしかったわけでもない。
ただ、ずっと頭の中にあった言葉を、どこかに置いてみたかった。
十七歳の春。
私は高校二年生になった。
去年とは違う教室。
窓の外には、桜が咲いていた。
高校に入学した頃は、
今度こそ。
今度こそ、普通に過ごせるかもしれない。
そんなふうに、少しだけ期待していた。
でも。
何も変わらなかった。
小学校でも。
中学校でも。
そして、高校でも。
気づけば私は、また輪の外にいた。
教室に入ると、一瞬だけ会話が止まる。
私が近くを通ると、小さな笑い声がする。
聞こえるように悪口を言われる。
机の中に、知らない紙が入っていたこともあった。
どうしてなのか知りたかった。
何度も自分を変えようとした。
髪型を変えた。
話し方を変えた。
なるべく笑うようにもした。
それでも駄目なら、今度はなるべく目立たないようにした。
でも。
何をしても同じだった。
たぶん。
嫌われる人間には、嫌われる理由なんて必要ない。
いつからか、そう思うようになった。
私は高校を辞めた。
制服は今も、クローゼットの奥に掛かっている。
もう着ることはない。
それから。
私は、ほとんど家を出なくなった。
母とは必要なことしか話さない。
友達はいるわけがない。
朝起きる理由もない。
カーテンは、ほとんど閉めたまま。
スマートフォンの中だけで一日が始まって、そのまま終わった。
夏が来た。
秋が来た。
冬が来た。
私は、ほとんど何も見なかった。
そして。
また春が来た。
私は十八歳になった。
母が、
「今年も桜、咲き始めたよ」
と教えてくれた。
でも、見に行こうとは思わなかった。
去年は、学校へ向かう途中で見たけど、
今年は見ない。きっと来年も。
その時の私は、本気でそう思っていた。
ベッドの上でスマートフォンを手に取る。
袖が少しずれて、手首の近くに残った昔の傷が見えた。
薄く残った線。
私は何も思わず、袖を戻した。
それから、もう一度画面を見る。
《死んだら楽になるのかな》
数分前に投稿した言葉。
消そうかと思った。
その時。
スマートフォンが震えた。
通知が一件。
さっきの投稿に、知らないアカウントから返信がついていた。
アイコンは、淡い桃色の花。
名前は、
桜
《もうすぐそっちの世界に行くから、見てきてあげるよ》
私はしばらく、その文章を見つめた。
意味が分からなかった。
少しだけ、不気味だった。
「……なにそれ」
思わず呟く。
そのまま、
《なにそれ》
と返した。
すぐに返信が来た。
《ごめん》
《変なこと言ったね》
少しして。
またメッセージが届いた。
《なにかあったの?》
《別に》
送る。
《話したくなったら聞くよ》
《別にいい》
少しして、
《そっか》
それだけ返ってきた。
どうして死にたいの、とも聞かない。
生きなきゃ駄目だよとも言わない。
頑張れとも言わない。
会話はそこで終わった。
終わったはずだった。
私は画面を閉じようとして、もう一度アカウント名を見た。
桜。
その文字を眺めていたら。
《桜って呼べばいいのかな》
私は何も考えずに送っていた。
送信してから、自分でも少し不思議だった。
どうして会話を続けたのかは分からない。
すぐに返信が来た。
《うん。桜でいいよ》
続けて、
《きみは?》
少し迷った。
知らない人に本名を教える必要なんてない。
ネットの中だけの人なのだから。
それなのに。
《風の音で、かざね》
と送った。
少しして。
《いい名前だね》
私はその文字を見つめた。
名前を褒められた記憶なんて、ほとんどなかった。
《桜も》
《ありがとう》
それだけ。
たったそれだけなのに
――私は少し、うれしかった。
それから。
私たちは、ほとんど毎日のようにメッセージを交わすようになった。
最初は、桜からくることの方が多かった。
ある日の夕方。
《こんばんは》
通知に気づいて、私はすぐに返した。
《こんばんは》
《今日は何してたの?》
《寝てた》
少しして、
《そっか》
そして。
《眠れたんだね》
私は画面を見つめた。
寝すぎだとか。
そんなことは言われなかった。
ただ。
眠れたことを、そのまま受け取ってくれた。
《うん》
それだけ返した。
桜は、いつもそんな人だった。
《ご飯食べた?》
《まだ》
《あとで食べられそう?》
《たぶん》
《ならよかった》
それ以上は言わない。
《眠れない》
そう送った夜には、
《眠くなるまで起きててもいいと思うよ》
と返ってきた。
《そうする》
《うん》
急かさない。
私が一言しか返さなくても、機嫌を悪くしない。
私を変えようともしない。
とても、ゆっくりした人だった。
顔は知らない。
声も知らない。
年齢さえ知らなかった。
ただ。
名前が桜で。
文章が柔らかくて。
私は勝手に、女の子だと思っていた。
わざわざ性別を確認しようとも思わなかった。
ある日。
《何歳なの?》
と聞いたことがある。
《20》
私は少し驚いた。
《20?》
《うん笑》
《年上なんだ》
《風音は?》
《18》
《じゃあ2個違うね》
二十歳。
もっと大人っぽい人を想像した。
でも、桜の文章は相変わらずだった。
柔らかくて。
少しのんびりしていて。
いつの間にか私は、一日の中で何度もスマートフォンを見るようになった。
通知が鳴れば、桜かもしれないと思う。
違えば、少しだけがっかりした。
そんな自分を認めるのが嫌で、なるべく自分からは送らないようにしていた。
それでも。
ある夜。
私は珍しく、自分からメッセージを送った。
《今何してるの?》
少しして返信が届く。
《本読んでる》
《何の本読んでるの?》
《花の本》
《花好きなの?》
少しだけ間が空いた。
《好きっていうより、見てみたい花があるんだ》
《なんの花?》
《桜》
私は画面を見つめた。
《自分の名前の花?》
《そう》
《見たことないの?》
《写真ではあるよ》
少しして。
《でも、本物はちゃんと見たことない》
私は眉を寄せた。
《どうして?》
返事はすぐに来た。
《病室から見えないんだ》
その文字を見て。
指が止まった。
病室。
桜から初めて聞く言葉だった。
《病気なの?》
少しして。
《心臓が悪いんだ》
《いつから?》
今度は少し間があった。
《7歳の時から》
続けて。
《もう13年かな》
「……十三年」
思わず声が漏れた。
七歳から。
二十歳まで。
《学校は?》
《病院の中》
《ずっと?》
《うん》
そして。
《小学校も中学校も》
《高校も病院の中だったよ》
私は返事ができなかった。
七歳から十三年。
私が学校へ行って。
嫌われて。
最後には、自分から全部捨てた時間。
桜は、病院の中にいた。
私はクローゼットの奥に掛かった制服を思い出した。
見たくないと思っていた制服。
もう二度と着たくないと思っていた制服。
でも。
桜にはきっと。
あれを着て、普通の学校へ通う生活そのものがなかった。
――《心臓が悪いんだ。》
その文字を見た瞬間。
初めて桜から送られてきた言葉を思い出した。
《もうすぐそっちの世界に行くから、見てきてあげるよ》
あれは。
死にたい人の言葉じゃなかった。
死にたくなくても。
死というものが、自分のすぐそばにある人の言葉だった。
私はしばらく画面を見つめていた。
かわいそう。
そう思うのは、違う気がした。
だから。
何も送らなかった。
ただ。
その夜。
初めて思った。
――会ってみたい。
顔も知らない。
声も知らない。
本当はどんな人なのかも分からない。
それでも。
桜が見たいと言った、この人に。
本物の桜を、ちゃんと見せてあげたい。
そう思った。
*
次の日。
私はいつもより早く目を覚ました。
カーテンの隙間から、春の光が差し込んでいた。
普段なら、その光から逃げるように布団をかぶる。
でも。
その日は身体を起こした。
顔を洗った。
髪を整えた。
服に着替えた。
バッグを肩に掛ける。
鏡を見る。
外へ出る格好をした自分を見るのは、久しぶりだった。
それから私は、リビングへ向かった。
母は台所にいた。
「……お母さん」
「ん?」
振り返る。
「桜って、花屋さんに売ってる?」
野菜を切っていた母の手が止まった。
「……桜?」
「うん」
母は私の顔を見る。
そして、肩に掛かったバッグを見る。
もう一度、私の顔を見る。
「切り花の桜なら……この時期、置いてるお店あると思うよ。枝のやつ」
「そうなんだ」
私はそれだけ言った。
母は少し黙った。
それから急に、
「く、車の鍵どこだったかしら……!」
と慌てた声を出した。
「と、取ってくるわね…!」
「……大丈夫」
母が私を見る。
「一人で行くから」
「一人で?」
「うん」
母の目が少し潤んだ。
私は見ないふりをした。
玄関へ向かう。
靴を履く。
ドアの前に立つ。
「……ありがとう
ちょっと行ってきます」
と言った。
母はすぐには返事をしなかった。
それから。
「……気をつけてね」
小さく答えた。
振り返ると。
今にも泣きそうな顔で笑っていた。
私は何も言わずに、前を向いた。
ドアに手を掛ける。
そこで。
足が止まった。
怖い。
外には、人がいる。
知らない人とすれ違う。
見られる。
また笑われるかもしれない。
何か言われるかもしれない。
帰りたい。
まだ家から出てもいないのに。
そう思った。
でも。
――桜に、桜を見せたい。
ゆっくり。
私は玄関の扉を開けた。
春の光が、一気に差し込んだ。
眩しくて、目を細める。
外の空気は、思っていたより少し冷たかった。
でも。
どこか柔らかかった。
私はスマートフォンを取り出した。
近くの花屋を探す。
歩いて十五分。
私はゆっくり歩き始めた。
最初は、足元しか見られなかった。
人とすれ違うたびに身体が硬くなる。
車の音。
自転車のベル。
子どもの声。
誰かの笑い声。
全部が久しぶりで、怖かった。
それでも。
戻らなかった。
地図の中の青い点だけを見ながら歩いた。
しばらくすると。
小さな花屋が見えた。
店先には、色とりどりの花が並んでいる。
赤。
黄色。
白。
薄い紫。
久しぶりに見るたくさんの色が、少し眩しかった。
入り口の前で、また足が止まった。
人に話しかけなきゃいけない。
それだけで、帰りたくなる。
でも。
私は小さく息を吸った。
「……すみません」
店員が笑顔で振り返る。
「はい」
「桜って……ありますか」
「あ、ありますよ」
店員が奥を指さした。
私は、その方向を見る。
そこに。
細い枝に、淡い桃色の花が咲いていた。
思わず近づく。
「……あった」
小さく声が漏れた。
去年。
制服を着て見上げた桜。
今年は見ないと思っていた。
来年も見ないと思っていた。
なのに。
私は今。
自分から桜を探しに来ていた。
一本だけ選んだ。
店員さんが、その細い枝を丁寧に紙で包んでくれた。
包みの上から、いくつかの桜の花が顔を出している。
私はそれを受け取った。
店の外へ出て。
すぐに写真を撮った。
そして。
桜に送った。
《あった》
ほとんどすぐに既読がつく。
《ほんとだ》
続けて。
《きれい》
そして。
《ありがとう》
私はその文字を少しだけ見つめた。
その時だった。
スマートフォンが震えた。
着信。
画面には、
桜
と表示されている。
私は固まった。
電話なんて、一度もしたことがなかった。
しばらく迷ってから。
通話ボタンを押した。
「……もしもし」
自分でも聞き取れないくらい、小さな声だった。
少しの沈黙。
そして。
「風音?」
私は目を見開いた。
想像していたより。
ずっと低い声だった。
でも。
すごく柔らかい。
ゆっくりで。
穏やかで。
「……桜?」
「うん」
私は何も言えなかった。
「写真、ありがとう」
「……うん」
「外、出られたんだね。大丈夫?」
「……大丈夫。」
電話の向こうで、小さく笑う。
「そっか」
少し間を置いて。
「すごく、きれいだね」
私は腕の中の桜を見た。
やっぱり。
どう聞いても。
思っていた声とは違う。
でも。
声が低い女の子なのかもしれない。
そう思うことにした。
「……今、どこの病院にいるの?」
「急だね」
桜は少し笑った。
「教えて」
桜は病院の名前を教えてくれた。
私はすぐにアプリの地図を開く。
ここからなら。
それほど遠くない。
私は少し迷ってから。
「今日、行ってもいい?」
電話の向こうが静かになった。
「……風音が?」
「うん」
「大丈夫?」
「たぶん」
少しの沈黙。
それから。
「じゃあ」
柔らかい声。
「待ってる」
*
病院の自動ドアの前に立った瞬間。
また帰りたくなった。
ここまで来たのに。
やっぱり無理かもしれない。
知らない場所。
知らない人。
でも。
腕の中には、紙に包まれた一本の桜がある。
私はそれを少しだけ抱き直した。
自動ドアが開く。
白い床。
消毒の匂い。
たくさんの人。
受付。
エレベーター。
長い廊下。
ひとつずつ。
ひとつずつ進んだ。
やがて。
教えてもらった病室の前に着いた。
扉の横に、小さなネームプレートがあった。
水瀬 桜
桜って、本名なんだ。
苗字を知ったのも、その時が初めてだった。
私は、手が動かなかった。
しばらく、その場に立っていた。
スマートフォンが震える。
《道迷ってない?》
《大丈夫》
すぐに返信が来る。
《無理しなくていいからね》
私はその言葉を見つめた。
それから。
小さく息を吸った。
ノックする。
「どうぞ」
聞こえた声。
電話と同じだった。
私はゆっくり扉を開けた。
窓際のベッド。
そこにいたのは。
茶髪のストレートマッシュ。
薄い青色の入院着。
細い身体。
柔らかい顔立ちの――
男の人だった。
その人が私を見る。
そして。
にっこり笑った。
「風音?」
私はその場で止まった。
やっぱり。
聞き間違いじゃなかった。
「……男の子だったの?」
桜は一瞬きょとんとした。
「うん」
少し考えて。
「……言ってなかったっけ?」
「女の子だと…」
「そっか」
桜は小さく笑った。
「桜って名前だからね。よく女の子だと思われる」
私は何も言えなかった。
二十歳。
男の人。
今まで画面の中で話していた桜が。
目の前にいる。
急に。
怖くなった。
男の人だから、ではない。
目の前に、人がいることが。
私の名前を知っている人が。
私のことを知っている人が。
そこにいることが。
怖かった。
桜は私を見ていた。
でも。
近づいてはこなかった。
ただ。
ゆっくり片手を差し出した。
「怖がらないで?」
優しい声だった。
少しだけ間を置いて。
「大丈夫だよ」
その瞬間。
私は桜に背を向けた。
そのまま病室を出た。
廊下を小走りで進む。
息が浅くなる。
胸が苦しい。
怖い。
やっぱり怖い。
来なければよかった。
ネットの中だけにしておけばよかった。
会わなければよかった。
――大丈夫だよ。
さっきの声が、頭の中に残っていた。
私は足を止めた。
――怖がらないで?
私はゆっくり振り返る。
少し先に、病室の扉が見える。
私は腕の中を見た。
紙の隙間から覗く、淡い桃色の花。
私は今。
この花を誰かに見せるために。
自分から、ここまで来た。
私は。
ゆっくり来た道を戻った。
病室の前に立つ。
少し迷って。
そっと扉を開けた。
桜はベッドの上にいた。
私に気づく。
驚くでもなく。
どうして逃げたのとも。
何も聞かなかった。
ただ。
にっこり笑った。
私は一歩。
また一歩。
ゆっくりベッドへ近づいた。
そして。
腕の中に抱えていたものを差し出した。
「……これ」
桜の目が大きくなる。
「え……」
「桜」
「……本物?」
私は頷いた。
桜は、しばらく何も言わなかった。
ただ。
紙の中から覗く花を見つめていた。
それから。
本当に嬉しそうに。
「……ほんとに、桜だ」
と呟いた。
その声が、少しだけ震えていた。
桜はそっと手を伸ばす。
花びらに触れそうになって。
でも。
触れる直前で手を止めた。
壊してしまいそうで怖いみたいに。
「……きれい」
私は、その横顔を見ていた。
病室の窓からは見えないと言っていた人。
十三年間、写真でしか知らなかった花。
その花を見つめて、桜が笑っている。
私は。
ほんの少しだけ。
口元を緩めた。
たぶんこの日。
私は久しぶりに、
誰かの前で笑った。
そして。
去年までは、ただ通り過ぎていた春を。
今年は初めて、
少しだけ綺麗だと思った。
そう投稿して、私はスマートフォンをベッドの上に伏せた。
誰かに止めてほしかったわけじゃない。
心配してほしかったわけでもない。
ただ、ずっと頭の中にあった言葉を、どこかに置いてみたかった。
十七歳の春。
私は高校二年生になった。
去年とは違う教室。
窓の外には、桜が咲いていた。
高校に入学した頃は、
今度こそ。
今度こそ、普通に過ごせるかもしれない。
そんなふうに、少しだけ期待していた。
でも。
何も変わらなかった。
小学校でも。
中学校でも。
そして、高校でも。
気づけば私は、また輪の外にいた。
教室に入ると、一瞬だけ会話が止まる。
私が近くを通ると、小さな笑い声がする。
聞こえるように悪口を言われる。
机の中に、知らない紙が入っていたこともあった。
どうしてなのか知りたかった。
何度も自分を変えようとした。
髪型を変えた。
話し方を変えた。
なるべく笑うようにもした。
それでも駄目なら、今度はなるべく目立たないようにした。
でも。
何をしても同じだった。
たぶん。
嫌われる人間には、嫌われる理由なんて必要ない。
いつからか、そう思うようになった。
私は高校を辞めた。
制服は今も、クローゼットの奥に掛かっている。
もう着ることはない。
それから。
私は、ほとんど家を出なくなった。
母とは必要なことしか話さない。
友達はいるわけがない。
朝起きる理由もない。
カーテンは、ほとんど閉めたまま。
スマートフォンの中だけで一日が始まって、そのまま終わった。
夏が来た。
秋が来た。
冬が来た。
私は、ほとんど何も見なかった。
そして。
また春が来た。
私は十八歳になった。
母が、
「今年も桜、咲き始めたよ」
と教えてくれた。
でも、見に行こうとは思わなかった。
去年は、学校へ向かう途中で見たけど、
今年は見ない。きっと来年も。
その時の私は、本気でそう思っていた。
ベッドの上でスマートフォンを手に取る。
袖が少しずれて、手首の近くに残った昔の傷が見えた。
薄く残った線。
私は何も思わず、袖を戻した。
それから、もう一度画面を見る。
《死んだら楽になるのかな》
数分前に投稿した言葉。
消そうかと思った。
その時。
スマートフォンが震えた。
通知が一件。
さっきの投稿に、知らないアカウントから返信がついていた。
アイコンは、淡い桃色の花。
名前は、
桜
《もうすぐそっちの世界に行くから、見てきてあげるよ》
私はしばらく、その文章を見つめた。
意味が分からなかった。
少しだけ、不気味だった。
「……なにそれ」
思わず呟く。
そのまま、
《なにそれ》
と返した。
すぐに返信が来た。
《ごめん》
《変なこと言ったね》
少しして。
またメッセージが届いた。
《なにかあったの?》
《別に》
送る。
《話したくなったら聞くよ》
《別にいい》
少しして、
《そっか》
それだけ返ってきた。
どうして死にたいの、とも聞かない。
生きなきゃ駄目だよとも言わない。
頑張れとも言わない。
会話はそこで終わった。
終わったはずだった。
私は画面を閉じようとして、もう一度アカウント名を見た。
桜。
その文字を眺めていたら。
《桜って呼べばいいのかな》
私は何も考えずに送っていた。
送信してから、自分でも少し不思議だった。
どうして会話を続けたのかは分からない。
すぐに返信が来た。
《うん。桜でいいよ》
続けて、
《きみは?》
少し迷った。
知らない人に本名を教える必要なんてない。
ネットの中だけの人なのだから。
それなのに。
《風の音で、かざね》
と送った。
少しして。
《いい名前だね》
私はその文字を見つめた。
名前を褒められた記憶なんて、ほとんどなかった。
《桜も》
《ありがとう》
それだけ。
たったそれだけなのに
――私は少し、うれしかった。
それから。
私たちは、ほとんど毎日のようにメッセージを交わすようになった。
最初は、桜からくることの方が多かった。
ある日の夕方。
《こんばんは》
通知に気づいて、私はすぐに返した。
《こんばんは》
《今日は何してたの?》
《寝てた》
少しして、
《そっか》
そして。
《眠れたんだね》
私は画面を見つめた。
寝すぎだとか。
そんなことは言われなかった。
ただ。
眠れたことを、そのまま受け取ってくれた。
《うん》
それだけ返した。
桜は、いつもそんな人だった。
《ご飯食べた?》
《まだ》
《あとで食べられそう?》
《たぶん》
《ならよかった》
それ以上は言わない。
《眠れない》
そう送った夜には、
《眠くなるまで起きててもいいと思うよ》
と返ってきた。
《そうする》
《うん》
急かさない。
私が一言しか返さなくても、機嫌を悪くしない。
私を変えようともしない。
とても、ゆっくりした人だった。
顔は知らない。
声も知らない。
年齢さえ知らなかった。
ただ。
名前が桜で。
文章が柔らかくて。
私は勝手に、女の子だと思っていた。
わざわざ性別を確認しようとも思わなかった。
ある日。
《何歳なの?》
と聞いたことがある。
《20》
私は少し驚いた。
《20?》
《うん笑》
《年上なんだ》
《風音は?》
《18》
《じゃあ2個違うね》
二十歳。
もっと大人っぽい人を想像した。
でも、桜の文章は相変わらずだった。
柔らかくて。
少しのんびりしていて。
いつの間にか私は、一日の中で何度もスマートフォンを見るようになった。
通知が鳴れば、桜かもしれないと思う。
違えば、少しだけがっかりした。
そんな自分を認めるのが嫌で、なるべく自分からは送らないようにしていた。
それでも。
ある夜。
私は珍しく、自分からメッセージを送った。
《今何してるの?》
少しして返信が届く。
《本読んでる》
《何の本読んでるの?》
《花の本》
《花好きなの?》
少しだけ間が空いた。
《好きっていうより、見てみたい花があるんだ》
《なんの花?》
《桜》
私は画面を見つめた。
《自分の名前の花?》
《そう》
《見たことないの?》
《写真ではあるよ》
少しして。
《でも、本物はちゃんと見たことない》
私は眉を寄せた。
《どうして?》
返事はすぐに来た。
《病室から見えないんだ》
その文字を見て。
指が止まった。
病室。
桜から初めて聞く言葉だった。
《病気なの?》
少しして。
《心臓が悪いんだ》
《いつから?》
今度は少し間があった。
《7歳の時から》
続けて。
《もう13年かな》
「……十三年」
思わず声が漏れた。
七歳から。
二十歳まで。
《学校は?》
《病院の中》
《ずっと?》
《うん》
そして。
《小学校も中学校も》
《高校も病院の中だったよ》
私は返事ができなかった。
七歳から十三年。
私が学校へ行って。
嫌われて。
最後には、自分から全部捨てた時間。
桜は、病院の中にいた。
私はクローゼットの奥に掛かった制服を思い出した。
見たくないと思っていた制服。
もう二度と着たくないと思っていた制服。
でも。
桜にはきっと。
あれを着て、普通の学校へ通う生活そのものがなかった。
――《心臓が悪いんだ。》
その文字を見た瞬間。
初めて桜から送られてきた言葉を思い出した。
《もうすぐそっちの世界に行くから、見てきてあげるよ》
あれは。
死にたい人の言葉じゃなかった。
死にたくなくても。
死というものが、自分のすぐそばにある人の言葉だった。
私はしばらく画面を見つめていた。
かわいそう。
そう思うのは、違う気がした。
だから。
何も送らなかった。
ただ。
その夜。
初めて思った。
――会ってみたい。
顔も知らない。
声も知らない。
本当はどんな人なのかも分からない。
それでも。
桜が見たいと言った、この人に。
本物の桜を、ちゃんと見せてあげたい。
そう思った。
*
次の日。
私はいつもより早く目を覚ました。
カーテンの隙間から、春の光が差し込んでいた。
普段なら、その光から逃げるように布団をかぶる。
でも。
その日は身体を起こした。
顔を洗った。
髪を整えた。
服に着替えた。
バッグを肩に掛ける。
鏡を見る。
外へ出る格好をした自分を見るのは、久しぶりだった。
それから私は、リビングへ向かった。
母は台所にいた。
「……お母さん」
「ん?」
振り返る。
「桜って、花屋さんに売ってる?」
野菜を切っていた母の手が止まった。
「……桜?」
「うん」
母は私の顔を見る。
そして、肩に掛かったバッグを見る。
もう一度、私の顔を見る。
「切り花の桜なら……この時期、置いてるお店あると思うよ。枝のやつ」
「そうなんだ」
私はそれだけ言った。
母は少し黙った。
それから急に、
「く、車の鍵どこだったかしら……!」
と慌てた声を出した。
「と、取ってくるわね…!」
「……大丈夫」
母が私を見る。
「一人で行くから」
「一人で?」
「うん」
母の目が少し潤んだ。
私は見ないふりをした。
玄関へ向かう。
靴を履く。
ドアの前に立つ。
「……ありがとう
ちょっと行ってきます」
と言った。
母はすぐには返事をしなかった。
それから。
「……気をつけてね」
小さく答えた。
振り返ると。
今にも泣きそうな顔で笑っていた。
私は何も言わずに、前を向いた。
ドアに手を掛ける。
そこで。
足が止まった。
怖い。
外には、人がいる。
知らない人とすれ違う。
見られる。
また笑われるかもしれない。
何か言われるかもしれない。
帰りたい。
まだ家から出てもいないのに。
そう思った。
でも。
――桜に、桜を見せたい。
ゆっくり。
私は玄関の扉を開けた。
春の光が、一気に差し込んだ。
眩しくて、目を細める。
外の空気は、思っていたより少し冷たかった。
でも。
どこか柔らかかった。
私はスマートフォンを取り出した。
近くの花屋を探す。
歩いて十五分。
私はゆっくり歩き始めた。
最初は、足元しか見られなかった。
人とすれ違うたびに身体が硬くなる。
車の音。
自転車のベル。
子どもの声。
誰かの笑い声。
全部が久しぶりで、怖かった。
それでも。
戻らなかった。
地図の中の青い点だけを見ながら歩いた。
しばらくすると。
小さな花屋が見えた。
店先には、色とりどりの花が並んでいる。
赤。
黄色。
白。
薄い紫。
久しぶりに見るたくさんの色が、少し眩しかった。
入り口の前で、また足が止まった。
人に話しかけなきゃいけない。
それだけで、帰りたくなる。
でも。
私は小さく息を吸った。
「……すみません」
店員が笑顔で振り返る。
「はい」
「桜って……ありますか」
「あ、ありますよ」
店員が奥を指さした。
私は、その方向を見る。
そこに。
細い枝に、淡い桃色の花が咲いていた。
思わず近づく。
「……あった」
小さく声が漏れた。
去年。
制服を着て見上げた桜。
今年は見ないと思っていた。
来年も見ないと思っていた。
なのに。
私は今。
自分から桜を探しに来ていた。
一本だけ選んだ。
店員さんが、その細い枝を丁寧に紙で包んでくれた。
包みの上から、いくつかの桜の花が顔を出している。
私はそれを受け取った。
店の外へ出て。
すぐに写真を撮った。
そして。
桜に送った。
《あった》
ほとんどすぐに既読がつく。
《ほんとだ》
続けて。
《きれい》
そして。
《ありがとう》
私はその文字を少しだけ見つめた。
その時だった。
スマートフォンが震えた。
着信。
画面には、
桜
と表示されている。
私は固まった。
電話なんて、一度もしたことがなかった。
しばらく迷ってから。
通話ボタンを押した。
「……もしもし」
自分でも聞き取れないくらい、小さな声だった。
少しの沈黙。
そして。
「風音?」
私は目を見開いた。
想像していたより。
ずっと低い声だった。
でも。
すごく柔らかい。
ゆっくりで。
穏やかで。
「……桜?」
「うん」
私は何も言えなかった。
「写真、ありがとう」
「……うん」
「外、出られたんだね。大丈夫?」
「……大丈夫。」
電話の向こうで、小さく笑う。
「そっか」
少し間を置いて。
「すごく、きれいだね」
私は腕の中の桜を見た。
やっぱり。
どう聞いても。
思っていた声とは違う。
でも。
声が低い女の子なのかもしれない。
そう思うことにした。
「……今、どこの病院にいるの?」
「急だね」
桜は少し笑った。
「教えて」
桜は病院の名前を教えてくれた。
私はすぐにアプリの地図を開く。
ここからなら。
それほど遠くない。
私は少し迷ってから。
「今日、行ってもいい?」
電話の向こうが静かになった。
「……風音が?」
「うん」
「大丈夫?」
「たぶん」
少しの沈黙。
それから。
「じゃあ」
柔らかい声。
「待ってる」
*
病院の自動ドアの前に立った瞬間。
また帰りたくなった。
ここまで来たのに。
やっぱり無理かもしれない。
知らない場所。
知らない人。
でも。
腕の中には、紙に包まれた一本の桜がある。
私はそれを少しだけ抱き直した。
自動ドアが開く。
白い床。
消毒の匂い。
たくさんの人。
受付。
エレベーター。
長い廊下。
ひとつずつ。
ひとつずつ進んだ。
やがて。
教えてもらった病室の前に着いた。
扉の横に、小さなネームプレートがあった。
水瀬 桜
桜って、本名なんだ。
苗字を知ったのも、その時が初めてだった。
私は、手が動かなかった。
しばらく、その場に立っていた。
スマートフォンが震える。
《道迷ってない?》
《大丈夫》
すぐに返信が来る。
《無理しなくていいからね》
私はその言葉を見つめた。
それから。
小さく息を吸った。
ノックする。
「どうぞ」
聞こえた声。
電話と同じだった。
私はゆっくり扉を開けた。
窓際のベッド。
そこにいたのは。
茶髪のストレートマッシュ。
薄い青色の入院着。
細い身体。
柔らかい顔立ちの――
男の人だった。
その人が私を見る。
そして。
にっこり笑った。
「風音?」
私はその場で止まった。
やっぱり。
聞き間違いじゃなかった。
「……男の子だったの?」
桜は一瞬きょとんとした。
「うん」
少し考えて。
「……言ってなかったっけ?」
「女の子だと…」
「そっか」
桜は小さく笑った。
「桜って名前だからね。よく女の子だと思われる」
私は何も言えなかった。
二十歳。
男の人。
今まで画面の中で話していた桜が。
目の前にいる。
急に。
怖くなった。
男の人だから、ではない。
目の前に、人がいることが。
私の名前を知っている人が。
私のことを知っている人が。
そこにいることが。
怖かった。
桜は私を見ていた。
でも。
近づいてはこなかった。
ただ。
ゆっくり片手を差し出した。
「怖がらないで?」
優しい声だった。
少しだけ間を置いて。
「大丈夫だよ」
その瞬間。
私は桜に背を向けた。
そのまま病室を出た。
廊下を小走りで進む。
息が浅くなる。
胸が苦しい。
怖い。
やっぱり怖い。
来なければよかった。
ネットの中だけにしておけばよかった。
会わなければよかった。
――大丈夫だよ。
さっきの声が、頭の中に残っていた。
私は足を止めた。
――怖がらないで?
私はゆっくり振り返る。
少し先に、病室の扉が見える。
私は腕の中を見た。
紙の隙間から覗く、淡い桃色の花。
私は今。
この花を誰かに見せるために。
自分から、ここまで来た。
私は。
ゆっくり来た道を戻った。
病室の前に立つ。
少し迷って。
そっと扉を開けた。
桜はベッドの上にいた。
私に気づく。
驚くでもなく。
どうして逃げたのとも。
何も聞かなかった。
ただ。
にっこり笑った。
私は一歩。
また一歩。
ゆっくりベッドへ近づいた。
そして。
腕の中に抱えていたものを差し出した。
「……これ」
桜の目が大きくなる。
「え……」
「桜」
「……本物?」
私は頷いた。
桜は、しばらく何も言わなかった。
ただ。
紙の中から覗く花を見つめていた。
それから。
本当に嬉しそうに。
「……ほんとに、桜だ」
と呟いた。
その声が、少しだけ震えていた。
桜はそっと手を伸ばす。
花びらに触れそうになって。
でも。
触れる直前で手を止めた。
壊してしまいそうで怖いみたいに。
「……きれい」
私は、その横顔を見ていた。
病室の窓からは見えないと言っていた人。
十三年間、写真でしか知らなかった花。
その花を見つめて、桜が笑っている。
私は。
ほんの少しだけ。
口元を緩めた。
たぶんこの日。
私は久しぶりに、
誰かの前で笑った。
そして。
去年までは、ただ通り過ぎていた春を。
今年は初めて、
少しだけ綺麗だと思った。
