平成ポップ旋風



玄関を抜けて外に出ると、冷たい潮風が容赦なく頬を叩いた。

今日から新しい学校だ。伊根丹中学校。どうせ東京に戻るまでの暇つぶしなのだから、適当にやっていればいい。

そう自分に言い聞かせながら、唯一は砂利道を歩き出した。隣の神崎家の二階を見上げると、相変わらずカーテンは閉まったままで、翔の気配はなかった。

しかし、歩き始めて十五分で、唯一のプライドは早くも打ち砕かれ始めた。

「……嘘でしょ、坂道キツすぎ……っ」

山道に入った途端、足にかかる重みが一気に増した。東京の平坦なアスファルトとはまるで違う。

湿った落ち葉や砂利で滑りそうになり、お気に入りの白いスニーカーのつま先は、あっという間に泥で黒く汚れていく。

それだけじゃない。杉林の生ぬるい湿気と海風のせいで、朝あんなに時間をかけてセットした前髪は瞬く間にペタンと潰れ、巻き髪もダラリと伸びきってしまった。

「うそ……私の髪が……! 最悪……!」

歩いても、歩いても、視界に入るのは鬱蒼とした緑の木々と、遠くに見える鉛色の海だけ。

原宿のカラフルな看板も、コンビニの明かりも、可愛い雑貨屋のショーウィンドウも何一つない。

右を見ても左を見ても、緑と青。それだけ。

肩に下げたスクールバッグが、ズンと肩に伸し掛り主張してきた。

「毎日これ歩くの!? ありえない! 絶対無理なんだけど!」

ふくらはぎは早くもパンパンに張り、額からはじんわりと汗が滲んでくる。

そのうえ、すれ違う地域のお年寄りが「あの、村上さんのところの女の子かい」といちいち顔を覗き込んで声をかけてきた。

視線を振り払うように、田んぼのあぜ道をすり抜けると、唯一が振り撒いたコロンを掻き消すような泥の匂いが付き纏っていた。

やっとの思いで校門をくぐった時には、唯一の体力も前髪も、そして機嫌も完全に底をついていた。

年季の入った傷だらけの床を踏みしめながら、廊下を通り、指定された一年の教室に入る。

転校生としての挨拶は、教卓の前で行われた。

「東京から引っ越してきました、村上唯一です! よろしくね!」

元気よく挨拶をすると、教室内が一瞬にしてざわついた。東京というワードは、この小さな漁師町の子供たちにとって、テレビの向こう側の世界と同義だった。

最初の休み時間、唯一のデスクの周りにはすぐに人集りができた。特に女子生徒たちが、物珍しそうに唯一を取り囲む。

「村上さんって、東京のどこに住んどった?」

「世田谷! 原宿とか新宿もすぐ近くだったよ!」

唯一は胸を張った。

「すごーい! 原宿って、あのタレントショップとかいっぱいあるところだろ? 竹下通りとか行ったことあるだ?」

「あるある! アイドルの生写真とか売ってるお店とか超楽しいよ! クレープ屋さんもいっぱいあってさ!」

女子たちが「へえー!」「羨ましい!」と声を上げる。唯一はすっかりいい気になり、身振り手振りを交えて喋り続けた。

「あ、ねぇ、この近所ってマックとかないの? バス停の近く探したんだけど見当たらなくてさ」

唯一が何気なく尋ねると、取り囲んでいた女子の一人が苦笑いを浮かべた。

「マックなんかあるわけないだろ。舞鶴まで行かんとないで」

「えー! マジで!? 舞鶴ってバスで一時間くらいかかるとこでしょ? ありえない! 東京なら駅ごとに絶対あるのにー!」

唯一は大きく大袈裟に手を広げて笑った。

「え、じゃあゲームセンターは? 放課後とかどこで遊ぶの?」

「ゲームセンターも……一番近くて宮津のダイエーかな」

「ダイエー!? ゲーセンじゃないんだ! うわ、すごーい、マジで何もないんだね! 東京だったらカラオケもゲーセンも学校帰りに寄り放題だったから、ここに来てマジでびっくりしちゃった!」

唯一は弾むように両手を振り上げて笑ってみせた。胸のポケットから出したばかりの、原宿の雑貨屋で買った派手なピンクのシャープペンを、見せつけるように指先でくるりと回す。

クラスの真ん中に立つ自分。覗き込んでくるみんなの視線につい声が高くなった。

「……そんなになんでもあるんだなあ、東京は」

一人の女子が、引きつった笑みを浮かべた。

「うん! だから私、こっちに来て本当に退屈でさ! 早く東京戻りたいなーって思っちゃう!」

唯一は胸を張り、八重歯を見せてカラカラと笑った。その瞬間、周りを取り囲んでいた女子たちの肩が、ぴくりと跳ねた。互いに顔を見合わせ、そっと目線を取り交わす。

「……へえ。まあ、ここ田舎だしな」

「うち、次の時間のノート見直さんなんで、席戻るわ」

蜘蛛の子を散らすように、輪がすうっと消えていく。指先で回していたピンクのペンが、カチャンと虚しい音を立てて机の上に転がった。

唯一は開いたままの口を、ゆっくりと閉じた。誰とも目が合わない。教室の隅で輪になった女子たちが、こちらに背を向けたまま、ヒソヒソと低い声を重ねている。

開きっぱなしの教科書の角を、唯一は爪で強く引っ掻いた。固い紙が折れ、小さな白い筋が残る。

「え? みんな、どうしたの?」

唯一の席の周りだけ、ぽっかりと穴が空いて丹後の冷たい風が吹き込んできた。

次の休み時間になっても、誰も唯一の席には近づいてこなかった。女子たちが教室の隅で輪になり、時折こちらを伺うように視線を向けながら、小さな声でコソコソと話している。

「……なんか、すっごい見下されとる感じせん?」

「東京ではこうだったとか、そんなん言われてもな」

「じゃあ来んかったらよかっただろ」

風に乗って、そんな断片的な言葉が耳に飛び込んできた。唯一は教科書を開いたまま、固まった。え……なんで? 私、何か変なこと言った? 東京の話をしてあげたら、みんな喜んで聞いてくれたじゃん。

なんで急にみんな離れていくの? 胃のあたりがキュッと縮こまった。

授業が始まっても、先生の声は全く頭に入ってこなかった。隣の席の女子に消しゴムを借りようと声をかけると、「あ、うん……」と目も合わせないまま差し出された。受け取った消しゴムは、やけに軽かった。

────こんなはずじゃなかった。

やっぱり、田舎なんて大嫌いだ。

放課後を告げるチャイムが鳴ると、唯一は誰とも会話を交わすことなく、逃げるように教室を飛び出した。校門を出て、まっすぐ家に逃げ帰った。

夜になれば、真知子が静かな顔で「学校はどうだったの」と言い、賢治は「友達はできたか」と無神経に大声で聞いてくるだろう。

自分の部屋に行くと、洗面所から追い出された化粧水のボトルが机の上に寂しく転がっていた。


◇