村上家に戻ると、足の踏み場もないほどの段ボール箱が廊下に積み上がっていた。
「遅かったじゃない、唯一ちゃん」
台所で割烹着を着た真知子が振り返った。手には固く絞った雑巾が握られている。
「神崎さんのお家でお話でもしていたの?」
「……ううん」
唯一は手短に答えると、カバンを胸に抱え直し、そのまま背を向けた。
「少し冷えてきたから、温かいお茶でも淹れましょうか」
「いい。大丈夫」
階段を上り、四畳半の自分の部屋に入る。まだ荷解きの終わっていない段ボール箱が壁際に積まれたままだった。窓を開けると、遠くで規則正しく響く波の音だけが聞こえてくる。
東京では、夜になってもどこかで車の音がしていた。救急車のサイレン。電車の走る音。隣の家から漏れてくるテレビの音。
けれど、ここには何もない。静まり返った部屋にポツンと取り残されていると、息をするたび、胸の奥がすうすうした。
たまらなくなって、無性にママの声が聞きたくなった。唯一はカバンの底から、ピンク色の小さなメモ帳を取り出した。震える指を抑えながら表紙をめくる。丸っこい字で書かれた東京の市外局番。
母────るりの電話番号。
この番号を見るのは何年ぶりだろう。
「……電話したいな」
小さく呟いてから、唯一はメモ帳の端を指先で折り込んだ。そのまま床を滑るようにして、部屋を出る。足先から一歩一歩階段を降りると、玄関が見える。
玄関脇の電話台には、黒い固定電話機が据え付けられていた。居間の前を通り過ぎ、緑色の発光ボタンが並んだ電話機の前で立ち止まった。
ゆっくりと手を伸ばす。指先がプラスチックの受話器に触れた。ほんの少しだけ持ち上げる。カチャリ、とフックが押し上がる音が響いた。
その音が妙に大きく聞こえて、唯一の心臓がドクンと跳ねた。慌てて受話器を元の位置へ戻す。すぐ隣の居間から、段ボールをカッターで切るシャリッという音がした。
続いて、ガムテープを剥がす乾いた音。半開きの引き戸の隙間から覗くと、真知子が畳に膝をつき、背を丸めて雑巾がけをしていた。
唯一は電話機を見る。それから、真知子を見た。別に、電話をしてはいけないと言われたわけじゃない。ママに電話するな、なんて誰にも言われていない。それなのに。
「なんか、嫌だな」
唯一は受話器から手を離した。居間からは、雑巾を絞る水の音が聞こえている。ポケットの中のメモ帳を、指先で何度もなぞった。
「……電話ボックス探そう」
そう呟くと、唯一は後ずさった。静かに玄関の引き戸を開け、外へ出る。東京だったら、少し歩けばコンビニの灯りが見え、曲がり角には当たり前のように緑の電話ボックスが立っていたはずだった。けれど。
「ない」
上着の袖を握りしめ、小銭の入った財布をポケットの底で転がしながら歩いても、闇の奥にあの緑色の灯りが浮かび上がってくる気配はなかった。
砂利道。畑。魚を干すための網。泥のついたコンクリート塀。それだけが、どこまでも続いている。
「嘘でしょ」
もう少し歩けばあるかもしれない。そう思った。けれど、歩けば歩くほど、街灯の間隔は開いていくばかりだった。地面を揺らすほどの重い波の音が、闇の奥から吹き抜けてくる。
唯一は足を止め、左右の暗がりを見回した。街灯の光は途切れ、その先には黒々とした山の影が覆いかぶさっている。すれ違う人も、走る車のライトもない。
ポケットの中で、小銭がジャラッと音を立てた。ここが、どこなのか分からなくなった。後ろを振り返ると、遠くに、ぽつんと村上家の玄関灯が滲んで見えた。
「……戻ろ」
次の瞬間、唯一は走り出していた。泥混じりの砂利を蹴り飛ばしながら、来た道を戻る。足がもつれそうになっても止まらない。
玄関の灯りだけを目印に、吐く息を白く乱して駆けていく。
玄関の戸を滑り開け、靴を脱ぎ捨てる。居間から真知子の「おかえりなさい」という声が聞こえたが、返事もせずに二階へ駆け上がった。
部屋に入り、引き戸をしっかりと閉める。暗闇の中で畳の上に膝をつき、ポケットからメモ帳を取り出した。
「……ママ」
小さく呼んでも、壁に吸い込まれるだけだった。引き開けたままの窓の外を見る。
「私、ここで生きていけるのかな……」
唯一は膝を抱え、冷えた足元を固く丸めた。
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