四月の風には、まだ冬の名残の冷たさがあった。東京を出たときは、桜の蕾もずいぶん膨らんでいた。けれど、舞鶴から北へ向かって走る伊根行きのバスが山間を抜けて海沿いに出た途端、景色から春の色がごっそり削ぎ落とされた。
窓の外に広がるのは、鉛色に濁った日本海と、その波を正面から受け止めるゴツゴツとした岩場だけだった。
「ほら唯一、あれが海だぞ」
父の村上賢治は、バスのシートに大きな体を押し込めるようにして座り、窓の外を指さした。学生時代にラグビーをやっていたという肩幅は、狭い座席からはみ出している。
声が無駄に大きく、一声あげるたびに、ぶら下がるつり革が揺れていた。車内にいる数少ない地元の乗客。頭にタオルを巻いた老人や、買い物袋を抱えたおばさんが、一斉にこちらを振り返った。
「見れば分かるよ。寒いし」
村上唯一は、ウィンドウブレーカーの襟を顎の下まで引っ張り上げた。焦げ茶の髪を後頭部でひとつにまとめた結び目が、首を動かすたびに小さな影を作る。
「丹後はな、昔から『弁当忘れても傘忘れるな』って言うくらい天気が変わりやすいんだ。……ま、慣れればいいところだぞ」
賢治はあっけらかんと言い、隣に座る真知子を見た。
「な、真知子。東京の家を引き払うときはバタバタしたけど、ここなら落ち着くだろ」
真知子は灰色のカーディガンを着て、膝の上でバッグを几帳面に揃えて抱えていた。眼鏡のツルを指先で少しだけ押し上げ、静かに微笑む。
「そうね、賢治さん。空気もきれいだし、お仕事の引き継ぎが済めば、三人でゆっくり過ごせそう」
「だろ? 博のやつも、ずっとここに住んでるんだ。あいつができるんだから、俺たちにできないわけがない」
真知子の言葉に調子を良くした賢治は、膝をポンと叩いた。
「博さんって、お父さんの幼なじみなんだよね?」
唯一が尋ねると、賢治は胸を張った。
「おう。小学校から高校までずっと一緒だ。博は頭が良くてさ、昔から本の虫だったが、俺とはなんだかんだ気が合ってな」
賢治はガハハと笑った。
「まさか俺が東京から、こっちへ戻ることになるとは思わなかったよ」
東京という言葉に、母・るりの顔が頭をよぎった。巻き髪を指でいじりながら、「いつか唯一を迎えに行くからね」と世田谷の家を出て行く時に言っていた母。
二年前の離婚のとき、唯一を引き取ったのは賢治だった。
────いつかママが迎えに来てくれる。
唯一は胸の中で、その言葉を何度も反復した。今はただ、パパの転勤と新しいお母さんとの生活に付き合わされているだけだ。
ここにずっといるわけじゃない。東京に戻るまでの、ほんの少しの辛抱だ。
バスが停まったのは、小さな郵便局と、古びた酒屋があるだけの停留所だった。海からの風が直接吹きつけてくる。潮の匂いの中に、湿った土と山林の匂いが混ざっていた。
「ここから歩いて二十分だ。博の家は、うちの真隣だからな」
賢治が大きなボストンバッグを両手に持ち、先頭を切って歩き出した。真知子が「お荷物、ひとつ持ちますよ」と手を伸ばしたが、賢治は「いいっていいって!」と大袈裟に鼻を鳴らして歩を進める。
真知子は手をそっと引っ込め、服の皺を伸ばしてから静かにその後ろをついていった。
アスファルトの道は途中で途切れ、粗い砂利道になった。道の両側には、黒い瓦屋根の家並みが肩を寄せ合うようにして立っている。
どの家の庭先にも、魚を干すための網や、プラスチックのコンテナが転がっていた。東京の、整然とした住宅街とは何もかもが違っていた。
「ここだ」
賢治が立ち止まったのは、古い板垣に囲まれた大きな平屋の前だった。敷地の奥には木造の母屋と、少し新しい小さなプレハブの建物が建っている。
プレハブの入口には『神崎動物診療所』と書かれた金属製の看板が掲げられていたが、塩害のせいか端が茶色く錆びついていた。
「博! 着いたぞー!」
賢治が敷地の中にドカドカと踏み込み、大声で叫んだ。母屋の引き戸がガラガラと音を立てて開き、ひとりの男が出てきた。
背が高く、線の細い男だった。くたびれた白シャツの上に黒いカーディガンを羽織り、髪は少しボサボサで、眼鏡のフレームが細い。
どこか学者を思わせる、浮世離れした雰囲気を持っていた。それが、神崎博だった。
「賢治か。……早いな」
博は太陽を見上げ、眉を顰めていた。
「何言ってるんだ、約束通りの時間だぞ! ほら、妻の真知子と、娘の唯一だ」
賢治が真知子の背中に手をやり、前へ押し出した。ゆっくりと頭を下げた真知子の髪が肩口で揺れる。
「初めまして、村上真知子です。主人から、神崎さんには大変お世話になっていると伺っております」
「……どうも」
博は軽く会釈をしたが、形の良い唇は彫刻のように硬い。その様子に、真知子は戸惑ったように賢治を見上げた。博の視線が真知子からゆっくりと横へ移り、唯一の上で止まった。
それまで一寸も動かなかった博の頬が、ふと緩む。目元が、わずかに下がった。長い睫毛が垂れ、印象がガラリと変わる。
眼鏡の奥からまっすぐに見つめ返され、唯一は思わず賢治の背中に一歩身を隠した。
────なに、このおじさん……なんでそんな顔で見んの?
博はハッとしたように視線を外し、短く咳払いをした。
「……遠いところを、ご苦労様。寒かっただろ」
「まあな! バスが少なくて参ったよ。でも、家もすぐ隣だし、これからよろしく頼むな、博!」
賢治が早口に捲し立て博の肩をバシバシと力任せに叩いた。博の体が叩かれるたびに微かに傾き、一瞬だけ視線が泳ぐ。博は賢治の手を避けるでもなく、そのまま硬い表情で眼鏡の位置を直した。
賢治の口元には笑みが張り付いていた。けれど、その目の奥はどこか別の場所を見ているように動かなかった。言葉が途切れるたび、冷たい風の音だけが響いた。沈黙を誤魔化すかのように真知子が口を開く。
「あ……神崎さん。お家のお掃除をしていただいたそうで、本当にありがとうございます。荷解きが落ち着きましたら、改めてご挨拶に伺いますね」
真知子が申し訳なさそうに言った。
「お構いなく。鍵は開けてあるから」
「そうか! 助かるよ博! よし、真知子、唯一、荷物を運び入れるぞ」
賢治が大きな声を張り上げ、隣の家へ向かおうとした。踏み出した足を止め、ふと思い出したように振り返って博を見る。
「翔くんは学校か?」
博は小さく首を振った。伸びかけた髪を気に留める風もなく、山の方へ目を向ける。
「いや。山にいる。朝から行ったきりだ」
「相変わらずだな」
賢治のトーンが、少しだけ下がった。
「ああ」
眉を寄せた博は小さく吐息を洩らし、唯一へ向き直った。
「……僕が呼んでも帰らない。あの子は、知らない相手のほうがまだ素直かもしれない」
そう言って、博は古いカーディガンのポケットから、竹の皮に包まれた小さな包みを取り出した。
「おにぎりだ。さっき作った。……翔の分もある。唯一ちゃん、裏の山に入って、呼んできてくれないか。登り口の杉の木を抜けたところに、倒木が転がっている場所がある。そこで一緒に食べるといい」
「え、私ですか?」
突然振られた役に、唯一は戸惑った。見知らぬ同い年くらいの男の子を呼びに行くのも妙な話だし、そもそも父親である博が呼んでも戻らないものを、初対面の自分が連れ戻せるわけがない。
「唯一、頼めるか?」
賢治がすぐに口を挟んだ。
「俺と真知子は荷解きをしなきゃならん。翔くんは、お前より一つ上の二年生だ。挨拶がてら、呼んできてくれ」
「……うん、分かったけど」
賢治にも背中を押され、唯一は納得がいかないまま返事をした。おにぎりの包みは、ずっしりと重かった。手に取ると、ほんのりと温もりが残っている。
梅干しの酸っぱい匂いと、海苔の香ばしい香りがふわりと鼻をくすぐった。
「……いってきます」
唯一は大人たちに背を向け、神崎家の裏手に広がる山道へと歩き出した。
山の中は、下界よりもずっと寒かった。杉の巨木が空を覆い隠し、太陽の光が斑点のように地面へ落ちている。足元は湿った落ち葉と苔で滑りやすく、唯一の白いスニーカーはあっという間に泥で汚れ始めた。
「冷たい……」
吐く息が白く染まる。東京のコンクリートの上を歩いていた足には、不規則な山道は酷く歩きづらかった。動くたび、低い枝に引っかかりそうになる。
それでも、背後に残してきた大人たちの重苦しい空気から離れられたことで、胸のつかえが少しだけ下りていた。
パパの大声。
真知子さんの、どこか遠慮がちな目線。そして神崎さんの、あの目元を下げた視線。
────なんなの、一体……。
「幼馴染」と、賢治は言っていた。
「翔くん、どこにいるんだろ」
博に言われて山へ入ったものの、あてもなかった。杉林は奥へ行くほど深く、暗くなっている。風が木々を揺らす音が、ざわざわと耳障りに響いていた。
少し開けた場所に出た。倒木が数本転がり、そこに日差しが差し込んでいる。そこに、誰かがいた。倒木の上に腰掛け、膝を抱えている少年。
唯一は足を止め、息を呑んだ。
