春。
大学の入学式を数日後に控えた朝、私は家族に見送られて、関東へ向かった。
玄関を出る前に、母が何度も確認する。
「忘れ物ない?」
「大丈夫」
「本当に?」
「大丈夫だって」
そう答えながら笑う。
それでも、最後に靴を履いていると、母が背中越しに声をかけてきた。
「瑠夏」
振り返る。
「無理しないのよ」
その言葉に、私は小さく頷いた。
「うん」
家を出る。
振り返ると、母が玄関先に立ったまま手を振っていた。
私も手を振り返す。
電車に乗って、窓の外を眺める。
見慣れた景色が少しずつ遠ざかっていく。
何度も乗り換えて、ようやく新しい街へ着いた頃には、空の色も少し変わっていた。
駅から新しい部屋へ向かう。
鍵を開ける。
誰もいない部屋。
まだ何も置かれていない空間に、キャリーケースの音だけが響いた。
「……ここか」
小さく呟く。
今日から、ここが私の家になる。
荷物を置いて、カーテンを開ける。
窓の向こうに広がっているのは、今まで見たことのない街だった。
少しだけ寂しい。
でも、それ以上に胸が高鳴っていた。
ここで大学生活が始まる。
そして。
ここから、私の新しい仕事も始まる。
***
入学式の日。
少し早めに家を出た。
大学へ向かう道には、同じように新しい生活を始める人たちがたくさんいた。
友達と笑いながら歩く人。
スマートフォンで地図を確認している人。
家族と一緒に写真を撮っている人。
その中を歩きながら、私は少しだけ背筋を伸ばした。
知らない場所。
知らない人。
それでも今日から、私はこの大学の学生になる。
門をくぐった瞬間、胸の奥がふっと熱くなった。
「……始まるんだ」
誰に聞かせるでもなく呟く。
大学では英語を専攻することにした。
授業も、高校までとは全然違う。
自分で選んで、自分で動く。
自由になったぶん、自分で決めなければならないことも増えた。
最初は戸惑うことも多かった。
広いキャンパスで教室を探して迷ったり、履修登録の画面を前に固まったり。
そんなとき、隣の席の女の子が声をかけてくれた。
「ここ、私もよく分からない」
「よかった。私だけじゃなかった」
顔を見合わせて笑う。
ほんの些細なこと。
でも、そんな瞬間が少しずつ増えていった。
お昼を一緒に食べるようになったり、授業の帰りに駅まで歩いたり。
家族のいない街で感じていた心細さが、少しずつ薄れていった。
***
大学生活と並行して、モデルの仕事も始まった。
きっかけは、高校三年生の春。
新体操のインターハイを終えたあとだった。
大会を終えた達成感に浸っていた私に、芸能事務所の人が声をかけてくれた。
最初は驚いた。
モデルなんて、自分とは遠い世界の話だと思っていた。
でも、話を聞くうちに、不思議と心が動いた。
やってみたい。
その気持ちを両親に話した。
大学進学と一緒に環境が変わるなら、その中で新しいことにも挑戦してみよう。
そう決めた。
だから、大学一年生になった今。
私は学生であり、モデルでもある。
ただ、華やかな仕事ばかりではなかった。
事務所で待っていたのは、地道なレッスンだった。
「肩の力を抜いて」
「はい」
「目線はもう少し遠く」
鏡の前で姿勢を直す。
「そこから一歩」
歩く。
止まる。
振り返る。
また歩く。
新体操で身体を動かしてきたから、身体の使い方には慣れているつもりだった。
けれど、モデルの動きは別物だった。
指先ひとつ。
顔の向きひとつ。
視線の置き方ひとつ。
少し変えるだけで、写真の印象が変わる。
「難しい……」
思わず呟く。
「でも、瑠夏は身体の軸が綺麗だから、そこは強みだよ」
そう言われると、悔しさの中に少しだけ嬉しさが混ざった。
新体操で積み重ねてきたものが、ここでも自分を支えてくれる。
だったら。
もっとできるようになりたい。
鏡の中の自分を見つめて、もう一度姿勢を作る。
「お願いします」
また最初から。
***
小さな撮影の仕事も、少しずつ増えていった。
ファッション誌の企画。
商品の紹介ページ。
数カットだけの撮影。
どれも大きな仕事ではない。
それでも、撮影の日は楽しみだった。
スタジオに入る。
スタッフさんに挨拶をする。
髪を整えてもらう。
カメラの前に立つ。
「お願いします」
その瞬間だけは、大学生の自分とは少し違う顔になる気がした。
シャッターが鳴る。
一枚。
二枚。
「少しだけ顎を引いて」
「はい」
「いいね。そのまま」
撮影が終わってモニターを見る。
まだまだだ。
そう思う。
でも、最初の頃よりは自然に笑えるようになっている。
カメラを向けられても、逃げたくならなくなった。
ほんの少しずつ。
自分の中に変化が生まれている。
そのことが嬉しかった。
そんな毎日を過ごしていたある日のこと。
撮影を終えて事務所に戻ると、担当スタッフに呼び止められた。
「瑠夏、次の仕事なんだけど」
「はい」
いつもと少し違う表情だった。
スタッフが机の上に資料を置く。
「今までより大きい企画が決まったよ」
「大きい企画……?」
資料を受け取る。
ページを開く。
撮影日。
企画内容。
掲載媒体。
そして、共演者の名前。
何気なく視線を落とした私は、その文字を見た瞬間、指を止めた。
「……え」
そこに書かれていた名前を、私は知っている。
知っているどころじゃない。
高校生の頃、友達に誘われて観に行った映画。
スクリーンいっぱいに映っていた、その人。
物語の中で見せた表情が、今でも記憶に残っている。
映画を観終わったあと、友達と感想を話しながら帰ったことまで覚えている。
その人の名前が、今。
私の手元にある撮影資料に書かれていた。
「……涼真さん」
無意識に、名前がこぼれる。
「そう」
スタッフが頷いた。
「今回、涼真さんと一緒に撮影してもらう」
胸が、どくんと鳴った。
「私が……?」
資料に視線を戻す。
何度見ても、そこにある名前は変わらない。
涼真。
映画の中で見ていた人。
テレビの向こう側にいる人。
私にとっては、ずっと遠い場所にいる人だった。
それなのに。
「撮影は明日だから」
「……明日?」
思わず顔を上げる。
「うん。朝からスタジオ入り」
「……」
返事が出てこない。
明日。
その言葉だけが、頭の中を何度も巡った。
資料を持つ指に、少しだけ力が入る。
楽しみなのか。
緊張しているのか。
自分でも、まだ分からない。
ただ。
高校生の頃、スクリーンの中で見ていた人と、
明日、同じ場所に立つ。
その事実だけが、妙に鮮明だった。
大学の入学式を数日後に控えた朝、私は家族に見送られて、関東へ向かった。
玄関を出る前に、母が何度も確認する。
「忘れ物ない?」
「大丈夫」
「本当に?」
「大丈夫だって」
そう答えながら笑う。
それでも、最後に靴を履いていると、母が背中越しに声をかけてきた。
「瑠夏」
振り返る。
「無理しないのよ」
その言葉に、私は小さく頷いた。
「うん」
家を出る。
振り返ると、母が玄関先に立ったまま手を振っていた。
私も手を振り返す。
電車に乗って、窓の外を眺める。
見慣れた景色が少しずつ遠ざかっていく。
何度も乗り換えて、ようやく新しい街へ着いた頃には、空の色も少し変わっていた。
駅から新しい部屋へ向かう。
鍵を開ける。
誰もいない部屋。
まだ何も置かれていない空間に、キャリーケースの音だけが響いた。
「……ここか」
小さく呟く。
今日から、ここが私の家になる。
荷物を置いて、カーテンを開ける。
窓の向こうに広がっているのは、今まで見たことのない街だった。
少しだけ寂しい。
でも、それ以上に胸が高鳴っていた。
ここで大学生活が始まる。
そして。
ここから、私の新しい仕事も始まる。
***
入学式の日。
少し早めに家を出た。
大学へ向かう道には、同じように新しい生活を始める人たちがたくさんいた。
友達と笑いながら歩く人。
スマートフォンで地図を確認している人。
家族と一緒に写真を撮っている人。
その中を歩きながら、私は少しだけ背筋を伸ばした。
知らない場所。
知らない人。
それでも今日から、私はこの大学の学生になる。
門をくぐった瞬間、胸の奥がふっと熱くなった。
「……始まるんだ」
誰に聞かせるでもなく呟く。
大学では英語を専攻することにした。
授業も、高校までとは全然違う。
自分で選んで、自分で動く。
自由になったぶん、自分で決めなければならないことも増えた。
最初は戸惑うことも多かった。
広いキャンパスで教室を探して迷ったり、履修登録の画面を前に固まったり。
そんなとき、隣の席の女の子が声をかけてくれた。
「ここ、私もよく分からない」
「よかった。私だけじゃなかった」
顔を見合わせて笑う。
ほんの些細なこと。
でも、そんな瞬間が少しずつ増えていった。
お昼を一緒に食べるようになったり、授業の帰りに駅まで歩いたり。
家族のいない街で感じていた心細さが、少しずつ薄れていった。
***
大学生活と並行して、モデルの仕事も始まった。
きっかけは、高校三年生の春。
新体操のインターハイを終えたあとだった。
大会を終えた達成感に浸っていた私に、芸能事務所の人が声をかけてくれた。
最初は驚いた。
モデルなんて、自分とは遠い世界の話だと思っていた。
でも、話を聞くうちに、不思議と心が動いた。
やってみたい。
その気持ちを両親に話した。
大学進学と一緒に環境が変わるなら、その中で新しいことにも挑戦してみよう。
そう決めた。
だから、大学一年生になった今。
私は学生であり、モデルでもある。
ただ、華やかな仕事ばかりではなかった。
事務所で待っていたのは、地道なレッスンだった。
「肩の力を抜いて」
「はい」
「目線はもう少し遠く」
鏡の前で姿勢を直す。
「そこから一歩」
歩く。
止まる。
振り返る。
また歩く。
新体操で身体を動かしてきたから、身体の使い方には慣れているつもりだった。
けれど、モデルの動きは別物だった。
指先ひとつ。
顔の向きひとつ。
視線の置き方ひとつ。
少し変えるだけで、写真の印象が変わる。
「難しい……」
思わず呟く。
「でも、瑠夏は身体の軸が綺麗だから、そこは強みだよ」
そう言われると、悔しさの中に少しだけ嬉しさが混ざった。
新体操で積み重ねてきたものが、ここでも自分を支えてくれる。
だったら。
もっとできるようになりたい。
鏡の中の自分を見つめて、もう一度姿勢を作る。
「お願いします」
また最初から。
***
小さな撮影の仕事も、少しずつ増えていった。
ファッション誌の企画。
商品の紹介ページ。
数カットだけの撮影。
どれも大きな仕事ではない。
それでも、撮影の日は楽しみだった。
スタジオに入る。
スタッフさんに挨拶をする。
髪を整えてもらう。
カメラの前に立つ。
「お願いします」
その瞬間だけは、大学生の自分とは少し違う顔になる気がした。
シャッターが鳴る。
一枚。
二枚。
「少しだけ顎を引いて」
「はい」
「いいね。そのまま」
撮影が終わってモニターを見る。
まだまだだ。
そう思う。
でも、最初の頃よりは自然に笑えるようになっている。
カメラを向けられても、逃げたくならなくなった。
ほんの少しずつ。
自分の中に変化が生まれている。
そのことが嬉しかった。
そんな毎日を過ごしていたある日のこと。
撮影を終えて事務所に戻ると、担当スタッフに呼び止められた。
「瑠夏、次の仕事なんだけど」
「はい」
いつもと少し違う表情だった。
スタッフが机の上に資料を置く。
「今までより大きい企画が決まったよ」
「大きい企画……?」
資料を受け取る。
ページを開く。
撮影日。
企画内容。
掲載媒体。
そして、共演者の名前。
何気なく視線を落とした私は、その文字を見た瞬間、指を止めた。
「……え」
そこに書かれていた名前を、私は知っている。
知っているどころじゃない。
高校生の頃、友達に誘われて観に行った映画。
スクリーンいっぱいに映っていた、その人。
物語の中で見せた表情が、今でも記憶に残っている。
映画を観終わったあと、友達と感想を話しながら帰ったことまで覚えている。
その人の名前が、今。
私の手元にある撮影資料に書かれていた。
「……涼真さん」
無意識に、名前がこぼれる。
「そう」
スタッフが頷いた。
「今回、涼真さんと一緒に撮影してもらう」
胸が、どくんと鳴った。
「私が……?」
資料に視線を戻す。
何度見ても、そこにある名前は変わらない。
涼真。
映画の中で見ていた人。
テレビの向こう側にいる人。
私にとっては、ずっと遠い場所にいる人だった。
それなのに。
「撮影は明日だから」
「……明日?」
思わず顔を上げる。
「うん。朝からスタジオ入り」
「……」
返事が出てこない。
明日。
その言葉だけが、頭の中を何度も巡った。
資料を持つ指に、少しだけ力が入る。
楽しみなのか。
緊張しているのか。
自分でも、まだ分からない。
ただ。
高校生の頃、スクリーンの中で見ていた人と、
明日、同じ場所に立つ。
その事実だけが、妙に鮮明だった。



