私だけに優しい、殺人鬼

『医療ミス隠蔽の闇──現場は何を語るのか』

 派手なテロップに、煽るようなサムネイル。
 再生ボタンを押すと、不穏な雰囲気の音楽が流れ、画面が切り替わる。
 月は思わず息を呑んだ。

「人が死ぬのは、当たり前ではありません」

 動画から流れてきたのは、自分の声だった。ほんの一週間ばかり前、病院の駐車場で高瀬蒼介(たかせそうすけ)に向けて言った言葉。いつの間に撮影されていたのだろう。裏返しになったスマートフォンと自分の方を向いていた背面のレンズを思い出す。
 画面に映っていたのは、月の横顔だった。
 映像には、

『現場スタッフ激怒』
『病院側は取材を拒否』

 そんなテロップが重なっている。
 画面は暗転し、不敵な笑みを浮かべた高瀬が現れた。高瀬は目を大きく見開き、口の両端をつり上げて、大げさなゼスチャーを交えながら、カメラ目線で視聴者に語りかける。

『人が死ぬのは当たり前じゃない。一見すると人命を尊重してるように見える。でもですねぇ、皆さん! 現場スタッフのこの言葉の本当の意味が分かりますか? この病院では、無意味な延命が当たり前になってるってことなんです!』

 高瀬はそう煽り立てると、一転して神妙そうな顔をした。

『……まぁ、病院側にとってはその方が都合がいいですからねぇ。病院だって商売です。ボランティアでやってるわけじゃない。患者さんはお客さんです。生きていてもらった方が儲けになる。不健康な状態で、少しでも長く生きてもらった方が。そうしなければ病院の経営は立ち行かない。……でも、問題はそこじゃないんですよねぇ』

 高瀬はにやりと笑った。

『人が死ぬのは当たり前じゃない。じゃあ、当たり前じゃないことが起きれば病院側はどうするか。……皆さんも分かりますよねぇ。そう、隠すんです。現場スタッフは取材を拒否したつもりで、この病院の隠蔽体質を暴露しちゃったんですよ!』

 月の指先が冷たくなる。
 滅茶苦茶な言いがかりだった。しかし再生回数は既に十五万を超えている。今朝アップされたばかりにも関わらず。その数字と勢いは、大勢の人が注目していることを意味している。月は暗澹(あんたん)とした気分になった。全ての閲覧者が高瀬に騙されるとは思わないが、動画の内容を鵜呑みにする者も、それなりの数に上るだろう。
 高瀬の煽りはさらに続く。

『内部関係者が重大証言!』

 そんなテロップと共に、機械的に加工された音声が流れる。

『事故じゃないと思っていました』
『証拠はあるんですかね?』と高瀬の声。
『今はまだ、全てを話すことはできません』

 画面が切り替わり、病院の外観写真が消えて高瀬が現れる。高瀬は九条零(くじょうれい)の名前を挙げ、八年前の医療ミス隠蔽との関与をほのめかす。九条のデータを閲覧した月は知っている。九条は、八年前にはこの病院にはいなかった。しかし断定的なナレーションや切り貼りされた証言が、あたかも九条を医療ミスの当事者のように見せかける。

『現場にいた医師は、事故ではなく人為的だった可能性を示唆しているんです。そして現場には、異常なほど冷静だった人物がいた。……皆さんも考えてみてください、この事件の真相を』

 コメント欄はすでに炎上していた。

『九条って医者を調べろ』
『病院ぐるみだろ』
『逃げるな』

 とはいえ全てのコメントが同じ方向を見ているわけではない。病院ではなく高瀬に対する批判的なコメントもないわけではなかった。しかしそれらは所謂(いわゆる)粘着アンチのたぐいで、発言内容は高瀬に対する個人攻撃ばかり。動画の内容そのものを批判するわけではない。
 次々と現れるテロップに、月の背筋を冷たいものが這い上がる。

 ──九条先生は、こんな人の取材を受けている。
 ──メッセージアプリのIDを交換して。

 あの日、観覧車のゴンドラで、九条に見せられた動画の中の高瀬の言葉を思い出す──『こういう病院にシリアルキラーがいたらどうなるんですかね』──そしてさっきまで閲覧していた患者のデータベース。顔を上げてスマートフォンからモニターに視線を移せば、まだ表示されたままの画面が見えるはずだ。

 ──六十五歳男性、元病院事務長、脳出血、入院後死亡。
 ──五十九歳男性、医療法人理事、術後合併症、死亡。
 ──七十一歳女性、元看護部長、死亡。

 高瀬の手にかかれば、この偶然もシリアルキラーの仕業ということにされるだろう。そしてそれは、それだけは、真実かも知れないのだ。
 スマホの画面が暗転する。

『次回──核心人物を直撃』

 黒い画面に赤い文字。
 ややあって、九条の写真が画面に映る。
 動画はそこで終わった。

「……他の看護師からも聞いたの。隠し撮りした映像を勝手に動画に使われたって。ホント、迷惑な話よね。肖像権の侵害だし、こういうの、名誉毀損にもなるんじゃないの。でも私たち、悠長に裁判してる暇はないし。どうにかならないのかしらねぇ」

 月は上の空だった。
 九条を失うかも知れない。このまま高瀬の取材が続けば、二度と九条に会えなくなるかも知れない。それがショックだった。そしてショックを受けているという事実にまた、ショックを受ける。ストーカーじみていて気持ち悪いと思ったはずなのに──私があの人を守ってあげなければ。でも、どうすればいい?

「……あぁ、ごめんね。神倉さん、ショックだったでしょう。でもね、こういうタチの悪い人がいるって知ってほしくて。私、上に相談してみるね」

          ◇

 高瀬の動画は、その翌日も、月の頭から離れなかった。ナースステーションのモニターを見ていても、点滴交換をしていても、患者の家族に説明をしていても。無断で動画に使用された自分の発言、その言葉を引き出した高瀬の声が蘇る。

『ほら、こういう病院って、死ぬのが当たり前じゃないですか』

 思い出すたびに腹が立った。あの男は何も知らない。病室の匂いも、最期の呼吸も、患者の家族が泣き崩れる様子も。何も知らないくせに、分かったような顔で語り、人の人生をネタにする。俺を見ろ。俺を見ろ。そいつらではなく俺を見ろ。そう言わんばかりの態度。再生数、知名度、影響力、承認欲求、自己実現──それらを得るために、彼は安全圏から他人の死を利用する。彼にとって人の死は、己を飾り立てるコンテンツに過ぎないのだろう。

 窓の外は雨だった。夕方に降り始めた雨は、夜中になってさらに勢いを増していた。ガラスを叩く無数の雨粒が街の灯りを滲ませて、遠い光を見えなくしていた。
 ナースステーションでは電話が鳴り続けている。申し送り。検査依頼。ベッドの調整。職員たちが忙(せわ)しなく行き交う。
 突然、内線が鳴った。

「救急入ります! 緩和ケア病棟から一人応援お願いします」

 周囲の空気が変わる。救急隊員の声やストレッチャーの運び込まれる音が、内線の向こうから聞こえてくる。

「男性、六十七歳! 意識レベル低下! 心不全既往あり!」

 深夜勤責任者が月に言う。

「神倉さん、ERお願い」
「はい」

 月は応援要員として処置室に向かう。
 月の担当は病棟で、救急搬送された患者は本来なら管轄外だが、人手の足りない時間帯にはERやICUに出向することがある。優秀な看護師として信頼されている月は、応援要員として指名されることが多かった。ロイヤルブルーのスクラブウェアの救急科(ER)の看護師の中に、ワインレッドのスクラブを着た月が入っていく。
 酸素マスクをつけられた患者は顔色が悪かった。呼吸は苦しそうで、心電図モニターは不規則な波形を描いていた。

「家で倒れているところを発見」
「搬送まで約二十分」

 医師たちが処置を始める。月も補助に入る。慌ただしい時間だった。その最中も、何故か高瀬の顔が脳裏に浮かぶ。得意げに笑いながら、しかし目だけは無感情なまま、軽い口調で高瀬が言う。

『正直、外から見てるとですね、感覚が麻痺してるんじゃないかなーって思っちゃうんですよねぇ』

 殺意が込み上げる。
 彼の言葉は周囲の医療スタッフに対する侮辱でもあった。現場の職員は、目の前の患者と誰よりも近くで毎日向き合っている。外から見ているだけの男に、彼らの何が分かるのか。高瀬の言葉を否定するように、月は患者へと視線を向ける。
 男は苦しそうだった。顔を歪めながら、必死に生きようとしている。だが、月の胸の奥で、別の感情が静かに顔を出した。

 ──終わらせてあげたい。

 それはいつもの衝動だった。
 苦痛を終わらせる。呼吸を終わらせる。時間を終わらせる。ほんの少しだけ手を加えればいい。誰も気付かないだろう。この患者は重症だ。急変しても不自然ではない。雨音が聞こえる。モニター音が響く。
 ここでは死が日常だった。常に死が隣にある。
 だから月は知っている。自分にできることも、できないことも。

 ──感覚が麻痺していれば、こんなこと、できるわけがない。

 脳裏で高瀬に反論し、月は患者を見つめた。
 そして、静かに動く──

 数分後、モニター波形が乱れ始めた。処置室の空気が緊迫する。胸骨圧迫。投薬。指示。怒号のような声が飛び交う。だが、結果は変わらなかった。死亡確認が行われ、時刻が告げられる。家族への連絡。記録作成。いつもの流れだった。
 東雲総合医療センターでは、これが日常の光景だ。
 誰も月を疑わない。誰も犯行に気付かない。月は無言で処置室を出る。廊下の窓の向こうでは、今も雨が降っていた。胸の奥に熱が広がり、高瀬の顔が脳裏に浮かぶ。

『病院にシリアルキラーがいたらどうなるんですかね』

 月は小さく目を細めた。
 この病院にシリアルキラーがいたらどうなるか?
 答えは簡単だ。お前は死ぬ。殺される。哀れなこの患者のように。私のいる時間帯に救急搬送されればアウト、お前は私に殺されて死ぬ! 私は看護師として信頼されているのだから!
 全能感が胸を満たす。あれほど苛立ちを覚えたはずの高瀬の言葉が小さく感じる。どれもこれも些細なものだ。どれだけ高瀬が安全圏から知った風な口を利いたとして、私の、患者の、同僚の、何が損なわれるというのか。彼に毀損できるものなど、物事の表層だけだ。彼が何を言おうとこの病院は変わらない。美徳も悪徳も不変不滅だ。

 しかしそんな感覚も決して長くは続かない。
 勤務が終わり、帰宅して、仮眠から目覚めると、陰鬱な一人反省会が始まる。
 何故、こんなことをしてしまったのか。何故、こんなことになったのか。自分の人生を振り返り、過去の出来事を反芻しながら、自分がこの世に生まれてきたこと自体が間違いだった、その結論に至るまでのあらゆ道のりをなぞる。
 テーブルの上ではスマートフォンが震えている。
 月は着信を無視していた。今は誰とも話したくない。

『お前はマトモな人間じゃない』

 脳裏で母が怒鳴っている。月は母に反論する。
 お母さんは間違ってる。私はマトモな人間だ。人を殺してはいけないと分かっているし、人を殺せば罪悪感に苦しむ。マトモな人間だから、善悪の区別が付いている。でも──月は新たな疑問に直面する。私はマトモな人間になるために人を殺している。自分はマトモな人間だ、という実感を得るために、他人の死を利用する。でもそれって、死をコンテンツとして利用している高瀬とどう違うのだろう。
 スマートフォンは静かになり、しばらく経つとまた震え出す。

『お前はマトモな人間じゃない』

 幼い頃から事あるごとに母に罵られてきた。マトモな人間じゃない、というレッテルを貼られ続けた。自分にとって殺人とは、マイナスからゼロになるための儀式だった。マトモな人間、というスタート地点に立つために、露見すれば人生が終わる、危険な手段を選んでいた。
 しかし、高瀬は違う。彼はゼロからプラスになるために死を利用している。しかも安全な場所から、何のリスクも背負わずに。失敗してもせいぜい、恥をかく、無視される、その程度の損失でしかない。
 そんな彼が自分の縄張りを土足で荒らしている。
 病院という縄張りを。殺人鬼としての職業倫理という縄張りを。職業倫理とはすなわち──人の死は軽いものではない。だからこそ殺す価値がある──安全な場所から結果だけかすめ取っていくなど言語道断だった。

『お前はマトモな人間じゃない』

 母は、なおも怒鳴り続ける。
 一人反省会程度では、今日の母は黙りそうにない。
 テーブルの上ではスマートフォンが震え続けている。
 ベッドから起き上がり、スマホの画面を確認する。非通知だった。
 誰とも話したくないと思っていたはずなのに、電話の主は九条ではない、その事実に落胆する。
 それでも、もしかすると。
 かすかな期待を抱きながら、月は通話ボタンを押した。