休日は、深夜勤明けの翌日。休みの次の日は日勤。病棟勤務の看護師に土日も祝祭日もない。神倉月(かぐらつき)の勤務シフトはカレンダーとは無縁だった。
月の勤務先である東雲(しののめ)総合医療センターは、高齢化が進む地方都市・東雲市で最大規模の総合病院だった。
病床数は三百五十床。医師や看護師、技師、事務職員を合わせると職員数は約六百人に及ぶ。救急科、外科、内科を中核とし、二十四時間体制で地域医療を支えている。特に高齢患者の受け入れが多く、救急搬送される患者の大半は七十歳以上だった。
集中治療室(ICU)は八床あり、重症患者や術後管理が必要な患者を受け入れている。また、東雲総合医療センターには緩和ケア病棟も併設されている。終末期の患者が穏やかな最期を迎えるための病棟であり、窓からは海が見える。人を救う場所であり、人が死を迎える場所でもある東雲総合医療センターは、この街における生命の終着点だった。
朝の東雲総合医療センターは騒がしい。正面玄関の自動ドアが開くたびに、人の流れが絶え間なく病院の中へと吸い込まれていく。外来患者、付き添いの家族、業者、そして職員。冬の朝の光を受けた白い建物は、人を飲み込み、人を吐き出し、まるで巨大な生き物のように静かに息づいていた。
月は職員用通用口から病院に入った。昨夜はあまり眠れなかった。九条零(くじょうれい)のことを考えていたからだ。しかし眠気はなかった。己のやるべきことは見えている。
更衣室でスクラブに着替える。ロッカーの扉が閉まる乾いた音が何度も響く。誰かの交わす雑談の声が遠くで弾んでいる。香水と消毒液が混ざり合った独特の匂いのする、いつもどおりの朝だった。
なのに、今日は少しだけ景色の色が違って見えた。患者を殺したときとはまた違う、明瞭な感覚。看護服に着替え終えた月はエレベーターホールへと向かう。途中ですれ違う職員たちと挨拶を交わしながら。
「おはようございます」
「おはよう」
普段どおりの、何気ない日常。
見慣れた廊下を歩きながら、月はふと思う。この病院には約六百人の職員がいる。その中で九条零はどんな人間なのだろう。病院での彼について、自分は何も知らない。せいぜい女性看護師の噂を通じて知る程度。それも彼の容姿に関するものが大半だ。プライベートはおろか、勤務中のことすらも、ほとんど耳に入ってこない。
月が六階病棟に到着したときには既に、ナースステーションには昨晩の深夜勤者たちが集まっていた。モニターの電子音、電話の着信音、プリンターが紙を吐き出す音が慌ただしく響く中、朝の申し送りが始まる。患者の状態。検査予定。退院予定。情報が次から次へと飛び交う。
だが月の意識は別の場所にあった。
午前中の業務が終わり、病棟が一段落した隙を見て、月はナースステーションの端にあるカルテ端末の前に座った。周囲を確認する。誰も自分を見ていない。先輩看護師は電話中。新人は処置準備。医師たちは外来へ行っている。
月はキーボードへ指を置いた。ほんの少しだけ躊躇する。
職員情報の閲覧は規則上グレーだった。だが、不可能ではない。
月は職員用データベースを開いた。医師情報。職員検索。九条零──名前を入力し、検索ボタンを押す。数秒後、画面が切り替わった。表示されたプロフィールを見て、月は少し驚いた。
年齢三十二歳──私服姿のときはもう少し若く見えたものの、それでも思ったよりも若い。国立大学医学部卒業。研修終了後、大学病院勤務。五年前に東雲総合医療センターへ着任、現在は外科主任。
経歴だけを見れば、非の打ち所がない。
表彰歴あり。論文実績あり。彼はあまりにも完璧だった。そしてクリーンだった。八年前にはこの病院にはいなかったという点を含めて。
月はスクロールを続ける。医師として優秀。それは分かる。知りたいのはそんなことじゃない。休日は何をしているのか。どんな場所で暮らしているのか。家族はいるのか。恋人は。結婚歴は──そんな情報は当然のことながら、ここには載っていない。
代わりに目についたのは、人事評価だった。
協調性、良好。患者対応、極めて良好。同僚評価、良好。
「嘘でしょ……?」
思わず小さく呟いた。彼は殺人者かも知れないのに、こんなに評価が高いなんて。
いや、違う。見るべき場所はここではない。殺人者かも知れないなら、殺されたかも知れない人について調べなければ何も分からない──月は九条の過去の担当患者を検索した。
外科医だから数が多い。手術記録。術後経過。退院記録。膨大なデータが画面の向こうに並ぶ。月は一件ずつ目を通していく──
「……随分と熱心に調べ物をしているんだね」
背後から声がした。聞き覚えのある声だった。
月の心臓が大きく跳ねた。勢いよく振り返ると、白衣姿の九条零がすぐそばに立っていた。コーヒーの入った紙コップを持っている。
いつからそこにいたのだろう。
「……先生」
「おはよう」
今はおはようの時間ではない。しかし九条は平然としており、嫌味で言っているわけではないことは見て取れる。それがかえって怖かった。
月は反射的にモニターへと視線を戻し、慌てて検索ウィンドウを閉じた。
するとその下に隠れていた別のウィンドウが現れる。
今閉じたウィンドウを開く前に見ていたもの、つまり九条零に関する検索結果が画面いっぱいに表示される。すぐそばに本人がいるというのに。最悪の状況だった。
「……へえ」
九条は軽く身を屈め、月の背後から画面を覗き込む。
息がかかりそうなほど距離が近かった。
九条が小声で月に尋ねる。
「これ、俺の経歴?」
月の顔が熱くなる。
「違います」
「違わないよね」
「……」
「どうだった?」
「何が……」
「感想、聞かせてよ」
九条は楽しそうだった。
そして月に逃げ場はなかった。
「とても優秀ですね」
月は諦めて答えた。
「……それだけ?」
「他に何を言えばいいんですか」
「それを考えるのは俺じゃないよね」
九条は笑う。月の背後で。
その笑顔を想像すると、腹立たしかった。
月は検索画面を閉じた。
しかし九条はその場から離れようとしなかった。
「なんで俺のことを調べてたの?」
月はすぐには答えずに、少しだけ言葉を選ぶ。
正直に言うわけにはいかなかった。あなたのことが気になるから。あなたのことを怪しいと思うから。あなたが人を殺したという証拠が欲しいから。そんなことを馬鹿正直に言えるはずがない。
「先生のことを知らないので。どういう人なのかなって思って……」
しばらく間を置いてから、半分だけ本当のことを言った。
九条は一瞬だけ黙り、それから──
「嬉しいな」
と言った。
月は眉をひそめる。
「何がですか?」
「俺のことを知ろうとしてくれたこと」
その返答は予想外だった。
普通なら、気味が悪いとか、恥ずかしいとか、そういう反応になると思った。
しかし九条は違った。むしろ満足そうだった。
「……先生」
「うん?」
「自分のことを勝手に調べられて、気味が悪いとは思わないんですか?」
「さぁ。どうだろうね」
九条は少し考えてから、当然のことのように自然に言った。
「俺は知りたいと思うけど」
「何をですか?」
「神倉さんのこと」
「え……?」
「どんな部屋に住んでるのか。休日は何してるのか。何が好きで、何が嫌いなのか」
収まりかけていた月の心臓の鼓動がまた、速くなる。
ナースステーションは騒がしいままだった。電話が鳴っている。誰かが申し送りをしている。患者が呼んでいる。なのに、二人だけ別の場所にいるような感覚だった。
九条は紙コップを傾ける。
「だから、おあいこじゃない?」
月は返事ができなかった。
その時だった。
「神倉さん!」
先輩看護師の声が飛ぶ。
「五〇八号室の点滴確認お願い!」
月は我に返った。
「はい!」
逃げるように椅子から立ち上がる。
九条はそんな月の様子を見て笑っていた。
「仕事頑張って」
月は振り返らなかった。ただ足早に病室へと向かう。
しかし廊下を歩きながら、胸の奥に奇妙な違和感が残っていることを自覚する。
九条零は、自分のことを勝手に調べられても嫌がっていなかった。
それどころか、まるで、自分も同じことをしているかのような言い方をしていた。
──何それ。
──私のことを勝手に調べるなんて、ストーカーじゃない。
──気持ち悪い。いくら優秀で優しくても、そんな人は絶対無理。
──離れられて良かった。
しかしそれでも一つだけ、釈然としないことがある。
何故、彼はあのとき──『今の君を一人にしてはいけないと思ってね』──精神状態の悪化に気付いていたのだろう。彼も人を殺した、という証拠はまだ見つかっていない。いや、証拠を探している途中で──『……随分と熱心に調べ物をしているんだね』──彼に声をかけられて、そのまま中断してしまった。
◇
東雲総合医療センターの正面ロビーは、一日の終わりを迎えようとしていた。
外来棟は混雑している。会計待ちの患者。迎えに来た家族。仕事帰りの面会客。
月は勤務を終え、職員通用口に向かっていた。
一刻も早く帰りたかった。廃墟のような、あのリゾートマンションに。今日は疲れた。考えることが多すぎて。今はとにかく一人になりたかった。
職員通用口を抜けると、外は既に薄暗かった。駐車場の照明が点灯している。自分の車に向かおうとしたとき、月の背後で男の声がした。
「すみませーん」
どこかで聞いたことがあるような声だった。
反射的に振り返ると、月の視線の先に男が一人、立っていた。
無精髭を生やした細身の男。髪はぼさぼさで、一見すると寝癖のように見えるものの、よく見るとワックスでラフな形にセットされている。ジャケットを羽織り、肩からカメラバッグを提げた姿はスクープを追いかけるルポライターのようだった。
男は軽薄そうな笑顔を月に向けていた。その顔には、見覚えがあった。あの夜、観覧車の中で、動画に映っていた顔だ。
タカセ探偵局こと、高瀬蒼介(たかせそうすけ)──あの男が、目の前にいた。
月の勤務先である東雲(しののめ)総合医療センターは、高齢化が進む地方都市・東雲市で最大規模の総合病院だった。
病床数は三百五十床。医師や看護師、技師、事務職員を合わせると職員数は約六百人に及ぶ。救急科、外科、内科を中核とし、二十四時間体制で地域医療を支えている。特に高齢患者の受け入れが多く、救急搬送される患者の大半は七十歳以上だった。
集中治療室(ICU)は八床あり、重症患者や術後管理が必要な患者を受け入れている。また、東雲総合医療センターには緩和ケア病棟も併設されている。終末期の患者が穏やかな最期を迎えるための病棟であり、窓からは海が見える。人を救う場所であり、人が死を迎える場所でもある東雲総合医療センターは、この街における生命の終着点だった。
朝の東雲総合医療センターは騒がしい。正面玄関の自動ドアが開くたびに、人の流れが絶え間なく病院の中へと吸い込まれていく。外来患者、付き添いの家族、業者、そして職員。冬の朝の光を受けた白い建物は、人を飲み込み、人を吐き出し、まるで巨大な生き物のように静かに息づいていた。
月は職員用通用口から病院に入った。昨夜はあまり眠れなかった。九条零(くじょうれい)のことを考えていたからだ。しかし眠気はなかった。己のやるべきことは見えている。
更衣室でスクラブに着替える。ロッカーの扉が閉まる乾いた音が何度も響く。誰かの交わす雑談の声が遠くで弾んでいる。香水と消毒液が混ざり合った独特の匂いのする、いつもどおりの朝だった。
なのに、今日は少しだけ景色の色が違って見えた。患者を殺したときとはまた違う、明瞭な感覚。看護服に着替え終えた月はエレベーターホールへと向かう。途中ですれ違う職員たちと挨拶を交わしながら。
「おはようございます」
「おはよう」
普段どおりの、何気ない日常。
見慣れた廊下を歩きながら、月はふと思う。この病院には約六百人の職員がいる。その中で九条零はどんな人間なのだろう。病院での彼について、自分は何も知らない。せいぜい女性看護師の噂を通じて知る程度。それも彼の容姿に関するものが大半だ。プライベートはおろか、勤務中のことすらも、ほとんど耳に入ってこない。
月が六階病棟に到着したときには既に、ナースステーションには昨晩の深夜勤者たちが集まっていた。モニターの電子音、電話の着信音、プリンターが紙を吐き出す音が慌ただしく響く中、朝の申し送りが始まる。患者の状態。検査予定。退院予定。情報が次から次へと飛び交う。
だが月の意識は別の場所にあった。
午前中の業務が終わり、病棟が一段落した隙を見て、月はナースステーションの端にあるカルテ端末の前に座った。周囲を確認する。誰も自分を見ていない。先輩看護師は電話中。新人は処置準備。医師たちは外来へ行っている。
月はキーボードへ指を置いた。ほんの少しだけ躊躇する。
職員情報の閲覧は規則上グレーだった。だが、不可能ではない。
月は職員用データベースを開いた。医師情報。職員検索。九条零──名前を入力し、検索ボタンを押す。数秒後、画面が切り替わった。表示されたプロフィールを見て、月は少し驚いた。
年齢三十二歳──私服姿のときはもう少し若く見えたものの、それでも思ったよりも若い。国立大学医学部卒業。研修終了後、大学病院勤務。五年前に東雲総合医療センターへ着任、現在は外科主任。
経歴だけを見れば、非の打ち所がない。
表彰歴あり。論文実績あり。彼はあまりにも完璧だった。そしてクリーンだった。八年前にはこの病院にはいなかったという点を含めて。
月はスクロールを続ける。医師として優秀。それは分かる。知りたいのはそんなことじゃない。休日は何をしているのか。どんな場所で暮らしているのか。家族はいるのか。恋人は。結婚歴は──そんな情報は当然のことながら、ここには載っていない。
代わりに目についたのは、人事評価だった。
協調性、良好。患者対応、極めて良好。同僚評価、良好。
「嘘でしょ……?」
思わず小さく呟いた。彼は殺人者かも知れないのに、こんなに評価が高いなんて。
いや、違う。見るべき場所はここではない。殺人者かも知れないなら、殺されたかも知れない人について調べなければ何も分からない──月は九条の過去の担当患者を検索した。
外科医だから数が多い。手術記録。術後経過。退院記録。膨大なデータが画面の向こうに並ぶ。月は一件ずつ目を通していく──
「……随分と熱心に調べ物をしているんだね」
背後から声がした。聞き覚えのある声だった。
月の心臓が大きく跳ねた。勢いよく振り返ると、白衣姿の九条零がすぐそばに立っていた。コーヒーの入った紙コップを持っている。
いつからそこにいたのだろう。
「……先生」
「おはよう」
今はおはようの時間ではない。しかし九条は平然としており、嫌味で言っているわけではないことは見て取れる。それがかえって怖かった。
月は反射的にモニターへと視線を戻し、慌てて検索ウィンドウを閉じた。
するとその下に隠れていた別のウィンドウが現れる。
今閉じたウィンドウを開く前に見ていたもの、つまり九条零に関する検索結果が画面いっぱいに表示される。すぐそばに本人がいるというのに。最悪の状況だった。
「……へえ」
九条は軽く身を屈め、月の背後から画面を覗き込む。
息がかかりそうなほど距離が近かった。
九条が小声で月に尋ねる。
「これ、俺の経歴?」
月の顔が熱くなる。
「違います」
「違わないよね」
「……」
「どうだった?」
「何が……」
「感想、聞かせてよ」
九条は楽しそうだった。
そして月に逃げ場はなかった。
「とても優秀ですね」
月は諦めて答えた。
「……それだけ?」
「他に何を言えばいいんですか」
「それを考えるのは俺じゃないよね」
九条は笑う。月の背後で。
その笑顔を想像すると、腹立たしかった。
月は検索画面を閉じた。
しかし九条はその場から離れようとしなかった。
「なんで俺のことを調べてたの?」
月はすぐには答えずに、少しだけ言葉を選ぶ。
正直に言うわけにはいかなかった。あなたのことが気になるから。あなたのことを怪しいと思うから。あなたが人を殺したという証拠が欲しいから。そんなことを馬鹿正直に言えるはずがない。
「先生のことを知らないので。どういう人なのかなって思って……」
しばらく間を置いてから、半分だけ本当のことを言った。
九条は一瞬だけ黙り、それから──
「嬉しいな」
と言った。
月は眉をひそめる。
「何がですか?」
「俺のことを知ろうとしてくれたこと」
その返答は予想外だった。
普通なら、気味が悪いとか、恥ずかしいとか、そういう反応になると思った。
しかし九条は違った。むしろ満足そうだった。
「……先生」
「うん?」
「自分のことを勝手に調べられて、気味が悪いとは思わないんですか?」
「さぁ。どうだろうね」
九条は少し考えてから、当然のことのように自然に言った。
「俺は知りたいと思うけど」
「何をですか?」
「神倉さんのこと」
「え……?」
「どんな部屋に住んでるのか。休日は何してるのか。何が好きで、何が嫌いなのか」
収まりかけていた月の心臓の鼓動がまた、速くなる。
ナースステーションは騒がしいままだった。電話が鳴っている。誰かが申し送りをしている。患者が呼んでいる。なのに、二人だけ別の場所にいるような感覚だった。
九条は紙コップを傾ける。
「だから、おあいこじゃない?」
月は返事ができなかった。
その時だった。
「神倉さん!」
先輩看護師の声が飛ぶ。
「五〇八号室の点滴確認お願い!」
月は我に返った。
「はい!」
逃げるように椅子から立ち上がる。
九条はそんな月の様子を見て笑っていた。
「仕事頑張って」
月は振り返らなかった。ただ足早に病室へと向かう。
しかし廊下を歩きながら、胸の奥に奇妙な違和感が残っていることを自覚する。
九条零は、自分のことを勝手に調べられても嫌がっていなかった。
それどころか、まるで、自分も同じことをしているかのような言い方をしていた。
──何それ。
──私のことを勝手に調べるなんて、ストーカーじゃない。
──気持ち悪い。いくら優秀で優しくても、そんな人は絶対無理。
──離れられて良かった。
しかしそれでも一つだけ、釈然としないことがある。
何故、彼はあのとき──『今の君を一人にしてはいけないと思ってね』──精神状態の悪化に気付いていたのだろう。彼も人を殺した、という証拠はまだ見つかっていない。いや、証拠を探している途中で──『……随分と熱心に調べ物をしているんだね』──彼に声をかけられて、そのまま中断してしまった。
◇
東雲総合医療センターの正面ロビーは、一日の終わりを迎えようとしていた。
外来棟は混雑している。会計待ちの患者。迎えに来た家族。仕事帰りの面会客。
月は勤務を終え、職員通用口に向かっていた。
一刻も早く帰りたかった。廃墟のような、あのリゾートマンションに。今日は疲れた。考えることが多すぎて。今はとにかく一人になりたかった。
職員通用口を抜けると、外は既に薄暗かった。駐車場の照明が点灯している。自分の車に向かおうとしたとき、月の背後で男の声がした。
「すみませーん」
どこかで聞いたことがあるような声だった。
反射的に振り返ると、月の視線の先に男が一人、立っていた。
無精髭を生やした細身の男。髪はぼさぼさで、一見すると寝癖のように見えるものの、よく見るとワックスでラフな形にセットされている。ジャケットを羽織り、肩からカメラバッグを提げた姿はスクープを追いかけるルポライターのようだった。
男は軽薄そうな笑顔を月に向けていた。その顔には、見覚えがあった。あの夜、観覧車の中で、動画に映っていた顔だ。
タカセ探偵局こと、高瀬蒼介(たかせそうすけ)──あの男が、目の前にいた。
