私だけに優しい、殺人鬼

 ──高瀬蒼介(たかせそうすけ)/タカセ探偵局。

 観覧車が停止するまでの数分間、その名前が神倉月(かぐらつき)の頭から離れることはなかった。
 見間違いだったかも知れない。スマートフォンの画面なんて、一瞬しか見えていない。通知欄に表示される文字も小さい。それでも、確かに見えた気がした。タカセ探偵局──東雲(しののめ)総合医療センターの不祥事を掘り起こそうとしている、あの動画配信者の名前が。殺人犯かも知れないし、不祥事に関与しているかも知れない、九条零(くじょうれい)のスマートフォンに。メッセージアプリの新着通知として。

「……降りようか」

 九条が座席から立ち上がる。
 ゴンドラの扉が開き、現実に引き戻される。
 月も立ち上がり、ゴンドラを降りた。

 冬の冷たい空気が肺に流れ込む。
 広場にはイルミネーションが灯り、スピーカーから流れるクリスマスソングが買い物客の笑い声に混じりながら響いていた。
 家族連れ。恋人たち。学生グループ。皆どこか楽しそうだった。その光景を眺めていると、まるで自分だけが別の世界にいるような錯覚に囚われる。

 月の胸の奥には今も、言葉にならない重いものが消えることなく沈殿している。
 観覧車のゴンドラの中で九条と話している間は、それを忘れることができた。
 遠い地上。殺人者かも知れない九条。事故死した薬剤師の言葉。タカセと名乗る動画配信者。八年前に起きたという東雲総合医療センターの不祥事。それらは月の意識を強引に外に向けさせ、彼女の内側にあるものを見えないようにした。
 しかしゴンドラを降り、クリスマスの空気を間近に感じ、自分はこの当たり前の光景を楽しめない、そのことを思い出した途端に暗い痛みが戻ってきた。
 九条の声が月の意識を少しだけ連れ戻す。

「夕飯は?」
「いりません」

 気づいたときには答えていた。
 隣で九条の笑う気配がした。

「まだ何も食べていないでしょう」
「今日はお腹が空いていないんです」

 たまにこんな日があるんです、と言い訳しながら月は視線を落とす。
 今は何かを口に入れたいとは思えなかった。胃が冷たく固まっているようで、何も欲しくない。
 九条は少し考えたあと、小さく笑った。

「予想通りだな」
「……どういうことですか?」
「何となくそんな気がしてただけだよ。そういうことなら持ち帰りにしよう」

 そう言うと、九条は商業施設の一角を指差した。彼の示した先にあるのは、テイクアウト専門のデリカテッセンだった。透明なショーケースの中に、色とりどりのサラダや総菜、パンやデザートが並んでいる。LEDライト特有の白くまばゆい光が、出来合いの食品の鮮度を引き立てていた。
 普段なら、食欲を刺激されるだろう。
 しかし月の胃は反応しなかった。

「いえ、本当に」
「鬱状態の時は無理に食べなくていい」

 月は思わず足を止める。

「鬱状態?」

 九条は一瞬だけ月を見て、すぐに何事もなかったように笑った。

「言ったでしょう。俺にもそういう時があるって。無理に食べる必要はないけど、糖分とタンパク質は取った方がいい」

 月の胸がざわついた。

 ──やっぱり、そう。
 ──先生も、人を殺したことがあるんですか?
 ──詳しい話を聞きたいって、言ってもいいんですか?

 月の内心をよそに、九条は店内へ入っていく。
 疑惑を口にする代わりに、月も彼のあとを追った。
 食べたいものを選べずに立ちつくす月の傍らで、九条が店員に注文する。
 数分後。紙袋の中には温かいスープとサンドイッチ、そして小さなチーズケーキが入っていた。

「チーズケーキは余計じゃないですか」
「そう?」
「甘いものはあまり」
「食べてみたら案外好きかもしれない」

 九条は当然のように言う。
 まるで月のことを既に知っているかのように。
 買い物を終えた二人は、駐車場に向かう。夜風が強くなっていた。車に乗り込むと、エアコンで暖まっていたはずの空気もすっかり冷えていた。駐車場を後にした車は海沿いの道路を走る。街灯が窓の外を流れていく。その向こうに港の灯りと黒い海が見える。そして遠くを航行する船の光。
 車内は薄暗い。病院とも観覧車とも違う閉鎖空間だった。カーステレオのラジオからは、クラシックが流れている。沈黙が続く。気まずいわけではない。ただ、お互いに相手を観察しているような空気があった。

「先生」
「なに」
「さっきの人」

 九条がハンドルを握ったまま視線を向ける。

「動画配信者のタカセさん」

 一瞬だけ、九条の目が細くなった。
 だがすぐに元に戻る。

「どうしたの」
「知り合いなんですか?」

 ラジオから流れていた音楽が終わった。静かになった車内には、エンジン音だけが響いていた。九条はすぐには答えなかった。車が徐々に減速する。信号の前で停車する。赤信号の光がフロントガラスに映る。九条は前を見たまま、月に質問を返した。

「どうしてそう思った?」
「さっきスマホの画面に名前が出てるのが見えたので」

 九条は小さく笑った。

「ああ」
「知り合いなんですか?」
「会ったことはある」

 九条はあっさりと答えた。
 車が動き出す。信号は青になっていた。

「八年前の件でね。取材を受けている」

 九条は前を向いたまま言う。
 驚くほどのことではなかった。どこかの動画配信者がウチの病院に来ている、取材名目で声をかけられた、という話を同僚の看護師から聞いたことがある。その配信者の名前や動画の内容までは知らなかったものの、今ではタカセのことだと合点がいっていた。
 しかし九条が取材に応じていたことは意外だった。同僚の看護師は配信者について、迷惑な人、気をつけて、と言っていた。実際の動画の内容も、取材に協力したいと思えるようなものではなかった。

「先生は、あの人のことをどう思ってるんですか?」
「どう思っているか、ね……」

 九条は少し考えてから、淡々と答えた。

「面白い人間かな。近いうちに痛い目を見るだろうね」
「え……?」

 月はぎょっとして顔を上げ、横目で九条を見た。
 九条の横顔は冷静で、感情らしきものは読み取れない。

「彼は敵を作りすぎている。世の中には怒らせちゃいけない人間がいるでしょう」
「ええ……」
「動画のコメント欄にも誹謗中傷が溢れている。でも、本人は気付いていない。自分の煽りや炎上芸が、怒らせちゃいけない人を刺激していることに。だから面白い」

 言いながら、九条は少し笑った。

「先生はどうしてそんな人の取材に協力するんですか?」
「野放しにするわけにはいかないでしょう」

 そう答えた九条の声は、これまでになく冷たかった。
 月は窓の外に視線を逃がした。街の灯りが流れていく。コンビニ。ファミレス。ドラッグストア。どこにでもある夜の風景。隣に座る九条の内心だけが分からない。
 ラジオから流れる音楽は、静かなピアノ曲に変わっていた。二人ともそれ以上は話さなかった。それでも月はこの沈黙を気まずいとは思わなかった。それが不思議だった。マトモな人間のふりをしているわけではないのに。

 やがて車はシーサイドパレス東雲の前へ到着する。
 夜のリゾートマンションは巨大な廃墟のようだった。何百戸もあるはずなのに、灯りがついている窓はほとんどない。海風の吹き抜ける音が聞こえる。コンクリートの壁面が月明かりを受けて青白く光っている。

「このマンション、本当に人が住んでるんですね」

 九条が感心したように言う。

「私も住んでるくらいですから」
「ごめん」

 九条が笑いながら謝る。月も少しだけ笑った。車内に静かな空気が流れる。
 そろそろ帰らなければならない。分かっているはずなのに、ドアノブに手が伸びない。月は自宅マンションを見た。あの十四階の部屋に戻れば、また一人だ。広すぎる部屋。考えたくないことばかり考える時間。嫌だと思ったことはない。これまでずっと、当たり前のように受け入れていた。自分の痛みは自分だけのもの。それを誰かと共有したいとは思わないし、理解されるべきものだとも思わない。なのに手が動かない──『言ったでしょう。俺にもそういう時があるって』──
 顔を上げると、九条と目が合った。彼の眼差しは柔らかだった。

「少し顔色が良くなったね」

 九条は本当に安心したような顔をした。

 ──どうしてこの人は私を見ながらこんな顔をするんだろう。

 不可解だった。何故か胸の奥が痛く、それでいて暖かい。
 母親はこんな顔をしたことがなかった。フィギュアスケートのコーチもしなかった。友達も同僚もみんなそう。月の顔色を気にかけて、しかも安心するような人は、これまで一人もいなかった。
 月は九条に軽く会釈した。

「今日はありがとうございました。楽しかったです」

 口にしてから驚く。
 楽しかった──確かにそう思った。
 落ち込んでいたはずなのに。胸の奥には今も重い淀みが残っているはずなのに。
 九条は少し目を細め、穏やかな声で言った。

「それはよかった」

 月はドアノブに手をかけて、そこで動きを止める。
 あと少しだけ。もう少しだけ。この人と一緒にいたい。
 そのためには何か、言わなければならないと思った。訊きたいことがあったはずだ。しかし──

「おやすみ、神倉さん」

 九条が先に言った。

「また連絡する」

 月は顔を伏せたまま、小さく頷く。

「……はい」

 そのまま車を降りる。冷たい夜風が月の頬を撫でた。振り返ると、九条はまだこちらを見ていた。ヘッドライトの光の中、その姿が妙に遠く感じる。

 マンションのエントランスへと向かう月の背中を、九条は車内から静かに見送っていた。彼女の姿が自動ドアの向こうへ消えても、しばらくエンジンをかけることなく。まるで無事に帰宅したことを確認するように。あるいは──ようやく見つけたものを見失わないように。