私だけに優しい、殺人鬼

 観覧車のゴンドラは頂点を越え、ゆっくりと下降を始める。
 わずかな揺れとともに景色の角度が変わり、遠くの光が静かに流れていった。

 九条の差し出すスマートフォンには、動画サイトが映っていた。
 サムネイルには、見知らぬ男の顔。派手な笑顔に、煽るようなタイトル。

【東雲総合医療センターの闇を暴く】

 月は思わず眉をひそめた。

「何ですか、これ」
「見てみれば分かるよ」

 九条は再生ボタンを押した。
 ゴンドラの静寂を破るように、男の軽快な声が流れ出す。

『どうも皆さん、タカセ探偵局です!』

 無精髭を生やした軽薄そうな男だった。髪には寝癖がついている……ように見えるが、よく見るとワックスをつけて無造作に散らしているのだと分かる。画面に映る男の声は、妙に爽やかだった。

『今日はですねー、例の東雲総合医療センターについて掘っていきたいと思います!』

 動画には病院の外観写真や新聞記事の切り抜きが次々と映し出され、派手な効果音を伴いながら、赤いテロップが画面を埋め尽くしていた。
 タカセと名乗る男は、三十代半ばだろうか。
 軽薄そうな印象だが、喋りは下手な芸能人よりも上手かった。

『八年前の医療ミス隠蔽疑惑!』
『病院側は否定!』
『関係者は退職!』
『証拠は消失!』

 テロップが画面いっぱいに弾けるたびに、警告音のような効果音が鳴り、視聴者の不安を煽る演出が続く。

『いやー、こういう話って最高ですよね』

 画面の中でタカセが笑う。
 月は彼の笑い方にわずかな嫌悪感を覚えた。
 人の不幸を娯楽として扱い、消費している。
 そんな印象を受けたからだった。

『ただですね』

 タカセはカメラ目線で身を乗り出した。

『俺が気になるのは、隠蔽そのものじゃないんですよ』

 画面の向こうでタカセが指を立てる。

『病院の体質なんです』

 画面が切り替わり、不穏なBGMが流れ始める。タカセの姿は画面から消え、代わりに映し出されたのは夜の東雲総合医療センターの外観写真だった。
 九条がちらりと月を見る。月はその視線を感じ取ったが、気づかないふりをして黙って動画を見ていた。
 再び画面にタカセが映る。目を見開きながら笑う。彼のぎらついた表情は、俺を見ろ、俺を見ろ、そう叫んでいるかのようだった。

『だって皆さん、考えてみてくださいよ。国内でも海外でもありましたよね? 医療従事者の、シリアルキラー事件』

 月の背筋がわずかに強張る。タカセの独演は止まらない。

『看護師とか、医者とか、介護士とか。人が死ぬのが当たり前の環境。そんな場所で人殺しをしたら、どうなると思います?』

 タカセは楽しそうに笑った。

『分からないんですよ。誰も気づかない。だって、病院は、人が死ぬ場所だから!』

 画面には、医療従事者による大量殺人事件を紹介する国内外のニュース映像や、モザイクのかかった病院の廊下の写真が映り、視聴者のコメントが横に流れていた。
 月の喉が乾く。動画の中の男は当然、真実を知らない。ただ煽っているだけだ。再生数を稼ぐために。彼自身の欲求を満たすために。それなのに、何故か嫌な気分になった。

『例えばですよ? こういう病院にシリアルキラーがいたらどうなるんですかね。絶対バレないでしょうねぇ。だって、ここには。死にかけの患者がいっぱいいるんですからねぇ。一人や二人殺されたところでただの誤差、そう、誤差なんですよ』

 タカセは肩をすくめる。

『むしろ隠蔽事件よりも、そっちの方が怖い』

 最後に病院の外観写真が映り、その上に大きく「あなたはどう思いますか?」と文字が表示されたところで、動画は止まった。九条が停止ボタンを押したのだ。
 ゴンドラの中に再び静寂が戻る。
 二人の周囲には、夜景だけが広がっている。

「……タカセって人、最低ですね」

 月は思わず言った。

「そう?」
「はい。人が亡くなってるんでしょう?」
「うん」
「面白がることじゃないです」

 九条は少し笑った。

「真面目だな」
「普通です」
「まぁ、確かにね。でも、患者さんが死んだ日に嬉しそうにしていた看護師が言うには、あまりにも真面目で優等生的な発言だよ」

 穏やかに言ってから、九条は窓の外を見る。
 その横顔が夜景の光を受けていた。
 流れる光と影が頬をかすめ、その表情を読み取れなくする。

「でも伸びるんだよ。こういう動画」

 月は返事をしなかった。
 分かっている。世の中にはそういう人間がいる。事件。事故。炎上。誰かの不幸を消費し、消費させる人間。タカセもその一人なのだろう。
 九条は月に視線を移し、小声で言った。

「この人、最近うちの病院を嗅ぎ回ってるらしい」
「取材ですか?」
「多分ね」
「迷惑ですね」
「そうだね」

 そう言いながら、九条は少し笑った。
 妙だった。迷惑だと言いながら、どこか楽しそうに見える。
 九条は画面を閉じると、静かな声で言った。

「でも、案外当たってるかもね」
「何がですか?」

 九条は月に微笑みかける。
 柔らかく、穏やかに。

「病院にシリアルキラーがいるって話」

 心臓が一瞬止まったような気がした。
 九条は何事もなかったように夜景へと視線を戻す。
 窓の外には無数の灯りがきらめいている。そこにあるのは人々の生活。誰もが知っているようで、誰も知らない世界だった。
 その光を眺めながら、九条はまるで独り言のように呟いた。

「いたとしても、不思議じゃない」

 言い終えてから、九条は顔をこちらに向け、月の目を覗き込む。
 そうでしょう、と同意を求めるように。
 月の心臓が早鐘を打つ。

 ──やっぱり、そう。

 確認しなければならないと思った。

 ──先生も、故意に人を殺したことがあるんですか?
 ──先生も、シリアルキラーなんですか?

 頭に浮かぶのは、おかしな質問ばかりだった。
 母親に言われるまでもない。マトモな人間の言うことではない。
 しかしそれなら、なんと尋ねればいいのだろう。
 正解を求めれば求めるほど、すべてが虚ろになっていく。

 ──先生が人を殺したなんて、私の勘違いかも知れない。
 ──勘違いじゃなかったとしても、先生は私の味方じゃないかも知れない。

 月は窓の外へ視線を戻した。
 観覧車はゆっくりと下降している。地上の灯りが近づいてくる。さっきまで足元に散らばるだけだった無数の光が、ゆるやかに輪郭を取り戻しながら、一つひとつ確かな形へと変わっていく。道路。店舗。住宅。夜の海のように見えていた景色が、少しずつ人の暮らす街へと戻っていく。
 不思議な感覚だった。
 頂上にいた時は、何もかもすべてが小さく見えた。
 善悪も、命も、罪も。遠くから眺めれば、すべて同じ大きさに見えてしまう。
 だが地面へ近づくにつれて、それぞれが本来の重みを取り戻していくような気がした。

「先生」

 月は口を開いた。

「八年前の件って、本当なんですか?」

 九条は少しだけ眉を上げた。

「急だね」
「病院で働いていても詳しく知らないので」
「みんな知らないよ」

 九条は窓の外を見たまま答えた。

「知ってる人間は辞めたし」
「辞めた?」
「うん。辞めさせられた人もいる」

 九条はさらりと言った。
 月は思わず九条の顔を凝視した。

「その言い方だと、本当に隠蔽があったみたいに聞こえます」
「なかったとは言ってない」

 九条は月の顔を見ずに笑った。

 観覧車が下降する。
 地面が近い。あと数分で終わる。
 そう思った時だった。
 九条のスマートフォンが震えた。短い通知音が響く。彼は無言で画面を確認する。
 一瞬だけ。ほんの一瞬だけ、九条の表情が変わった。
 驚きではない。焦りでもない。もっと小さな変化だった。
 何かを確認した人間の顔をしたかと思うと、彼はすぐに画面を伏せた。

「仕事ですか?」

 何となく訊いてしまう。

「いや。違う」
「知り合いですか?」
「まぁ、そんなところだね」

 それ以上は話そうとしない。
 だが、彼がスマートフォンを伏せたとき、ほんの一瞬だけ、月にも画面が見えた。
 通知欄には、メッセージの送信者とおぼしき名前が表示されていた。

 ──高瀬蒼介(たかせそうすけ)/タカセ探偵局。

 月の胸がざわつく。
 動画で見たばかりの名前が何故、九条のスマートフォンに表示されたのか。
 観覧車はゆっくりと地面へ近づいていく。
 けれど月の胸の中では、降下することのない疑念が静かに膨み続けていた。