十二月二十六日。都内のホテルでは、出版社主催のクリスマス兼忘年会が開催されていた。会場には編集者や作家やライター、インフルエンサーが集まり、シャンパンのグラスを片手に談笑している。
「間今(まいま)さん、新刊読ませてもらいました」
「ありがとうございます」
一花(いちか)は柔らかく笑った。
白いワンピースに薄いベージュのジャケット。病院で着るスクラブとは違う、上品な装いだった。間今一花はネットで『マイマイ』の名前で活動している。看護師として働きながら綴る彼女の日常の文章は人気があり、SNSのフォロワーは十万人を超えていた。
今年出版したエッセイも、それなりに売れた。大ヒットではない。それでも出版不況のこのご時世にこうしてパーティーに招待される程度には評価されている。
「来年も新刊をお願いしたいですね」
担当編集が笑う。
「ぜひ」
一花も笑顔で応じた。
だが、その右手はテーブルの下でスマートフォンを握っていた。通知などないのに、高瀬蒼介(たかせそうすけ)とのトーク画面を開く。最後のメッセージは十日前、自分の送ったものだった。
『例の先生、かなり面白そうですね』
九条について聞き出したくて送信したメッセージは既読のまま、返信はない。その数日後、高瀬は失踪した。ニュースでは大きく報じられたが、それきり続報はなかった。ネットでは様々な憶測が飛び交っている。
『海外に逃げた』
『炎上しすぎて身を隠した』
『新年に復帰するための話題作り』
どれももっともらしい。けれど、一花は落ち着かなかった。
連絡が途絶える直前まで、高瀬は東雲総合医療センターのことばかり聞いてきた。九条零(くじょうれい)。神倉月(かぐらつき)。八年前の医療事故。自分も情報を渡していた。月の名前も、携帯番号も、勤務する病棟も、全部。
それは一花の打算だった。
有名になり始めた動画配信者と繋がっていれば、自分の名前ももっと広まる。九条が取材に協力している相手に自分も協力すれば、片思いの相手である九条と同じステージに立てる。九条が気にかけている月の情報を高瀬に流せば、恋敵の月を困らせることができる。そう思ってのことだった。
そのために、ほんの少し情報を渡しただけ。
それだけのつもりだった。
「間今さん?」
編集者の声で我に返る。
「大丈夫ですか?」
「あ……すみません。ちょっと考え事を」
一花は笑顔を作る。慣れた笑顔だった。SNSで何千回も浮かべてきた笑顔。誰も違和感を覚えない、完璧な作り笑い。
「そういえば」
隣の女性ライターがグラスを傾けた。
「例の炎上系の人、まだ見つからないらしいですね」
「ああ、高瀬でしたっけ」
「最近動画も更新ないし」
「逃げたんじゃない?」
周囲から笑い声が上がる。一花も口元だけで笑った。
「そうかもしれませんね」
そう言いながら、胸の奥だけが冷えていく。
もしも本当に彼に何かあったのだとしたら、自分の送った情報はどこまで残っているのだろう。一花はまた、無意識にスマートフォンを握り締める。その時だった。
「そうそう」
別の編集者が何気なく言った。
「間今さん、病院勤務でしたよね?」
「はい」
「クリスマスも仕事だったんですか?」
一瞬だけ言葉に詰まる。
脳裏に浮かんだのは、数日前に病院で耳にした噂だった──九条先生が、神倉月を、クリスマスイブにデートに誘った。九条の方から積極的に声をかけ、二人で車で出かけていた──一花の笑顔が、ほんのわずかに固まる。
「ええ……仕事でした」
嘘ではない。だが、その夜のことを考えるだけで胃の奥が焼けるように痛んだ。
どうして。どうしてあの子なの。私の方が先に九条先生を知っていた。私の方がずっと九条先生の近くにいた。あの子よりも私の方が九条先生に相応しいのに。九条先生に相応しい看護師になるよう努力して、こうして出版社のパーティーに呼ばれるようになったのに。なのに、どうして。
編集者はそんな一花の胸の内など知らず、楽しげに乾杯の音頭を取る。
「来年もよろしくお願いします!」
グラスが触れ合い、華やかな笑い声が広がる。
一花もグラスを掲げた。彼女は笑っている。誰よりも自然に笑っている。
しかしその笑顔の奥で、嫉妬と焦りだけが静かに膨れ上がっていた。
◇
その日も東雲(しののめ)総合医療センターの職員休憩室にはテレビの音が流れていた。
昼休みになると休憩室には様々な色のスクラブウェアに身を包んだ職員が集まる。月もその中にいた。この病院では所属部署によってスクラブの色が決まる。医師はダークネイビー、研修医はライトネイビー、病棟看護師はワインレッド、救急科(ER)はロイヤルブルー、ICUはターコイズ、外来看護師はライトピンク、薬剤部はホワイト、検査技師はラベンダー、放射線技師はチャコールグレー、リハビリ科はオレンジ、看護助手はベージュ、そして手術室ではフォレストグリーン。月は、紙コップに入った温かいコーヒーを両手で包みながら、ぼんやりとテレビを見ていた。
『──続いてのニュースです』
アナウンサーの声色が変わった。月の指先が止まる。
『行方不明となっていた動画配信者・高瀬蒼介(たかせそうすけ)さんの遺体が、本日未明、東雲市郊外の廃スケートリンクで発見されました』
休憩室がざわつく。テレビ画面にはパトカーの列が映っていた。見覚えのある建物には黄色い規制線が張られ、報道陣が押し寄せている。月は視線を逸らせなかった。
『遺体はリンク中央の氷の中から発見されたということです』
周囲の職員たちが驚きの呟きを漏らす。そんな中で月だけが、その光景を既に知っていた。あの日、クリスマスイブの夜、リンクの中央で見たからだ。
『警察は殺人事件として捜査を進めており、本日午前、高瀬さんへの殺害容疑で東雲市在住の西村修平(にしむらしゅうへい)容疑者を逮捕しました』
画面が切り替わり、警察に連行される男の俯いた横顔が映る。
逮捕されたのは高瀬のアンチを名乗るあの、西村だった。
病院の前で会った時のことがまざまざと甦る。馴れ馴れしい男だった。鬱陶しかった。不快だった。彼の無神経な言動のせいで、嫌なことを思い出した。二度と会いたくない相手だ。しかし、彼のあの時の泣きそうな顔を思い出すと、月の胸の奥は痛んだ。彼は高瀬に人生をめちゃくちゃにされたと語っていた。あの時の目を覚えている。怒りではない。恨みでもない。誰かに助けを求めるような、辛そうな目をしていた。
『西村容疑者は過去に高瀬さんの動画で取り上げられたことがあり、高瀬さんに強い恨みを抱いていたとみられています。また、死体発見現場となった廃スケートリンクは、西村容疑者の親族が所有していた施設でした』
休憩室の誰かが言う。
「もう犯人確定じゃん。動機も場所もあるし、高瀬に恨みを持ってたんだろ?」
そんな声が聞こえる。月はコーヒーに視線を落とした。違う。彼は犯人じゃない。犯人は──その事実を知っているのは、自分だけだ。
胸の奥に安堵があった。西村が逮捕されたということは、九条に疑いは向いていないということ。警察は別の方向を見ている。それは月にとって都合が良かった。だが同時に、何か重たいものが胸に沈んでいく。西村は無実だ。自分はそれを知っている。知っているのに黙っている。
テレビの中で、西村は報道陣に囲まれていた。彼は俯いたまま、一言も喋らない。冤罪なのに。無実なのに。月は思わず目を逸らした。あのとき彼は自分に話しかけてきのに。距離感も考えず、馴れ馴れしく。なのに今は喋らない──
「神倉さん」
不意に、聞き慣れた声がした。
顔を上げると、九条が休憩室の入口に立っていた。
スクラブウェアの上に白衣を着て、いつもと同じ笑顔で月を見ている。
「ちょっといい?」
周囲の看護師たちが面白そうな顔になる。
月は小さくため息をつき、九条の後を追って休憩室を出た。廊下には誰もいない。九条に誘導されるまま、月はしばらく無言で歩く。やがて人気(ひとけ)のない非常階段の踊り場に着いた。九条はそこで立ち止まった。
「見た?」
ニュースのことだった。
「はい。見ました」
月は小声で答える。九条は窓の外を見る。重々しい雲と灰色の海、その境界を引くはずの水平線はぼやけている。
しかし九条の横顔は穏やかだった。
「驚いた?」
「ええ。少し」
「そう」
短い沈黙が落ちる中、月は九条を見た。無実の人間が逮捕されたというのに、彼は平然としている。どういう神経をしているのだろう、と思いそうになるものの、月自身も人のことは言えなかった。胸が痛む。それでも警察へ行こうとは思わない。西村を助けたいとも思わない。ただ苦しいだけだ。
「……先生。西村さん、犯人じゃないですよね」
九条は優しげに笑った。
否定もせず、肯定もせず、彼はただ月を見る。
「神倉さん。世の中にはね、犯人じゃなくても捕まる人がいる」
月は何も言えなかった。その言葉はまるで自分たちのことを言っているようにも聞こえたからだ。窓の外の空は重く、雪になりそうな雲が広がっている。月は手すりへと視線を落とした。犯人じゃなくても捕まる人がいる。当たり前の話だ。ニュースを見れば分かる。冤罪事件など珍しくない。だが、今回は違う。その冤罪を作った側に、自分がいる。
「……かわいそうですね」
気付けばそう口にしていた。九条は少しだけ目を細めた。
「西村さんのこと?」
月は頷く。
「優しいね」
「違います。ただ……自分の手の届かない場所で苦しんでいる患者さんのように思えるだけです」
言ってから、月は気付く。それは西村を自分の手で殺したかったという意味だ。あの日、病院前で会った時点で、彼の心は壊れていた。たとえ誤認逮捕がなくても、彼の人生が修復されることはなかっただろう。彼に話しかけられた自分が、助けを求められた自分が、彼の苦しみを終わらせなければならなかった。いつも患者にしているように。それが西村に対する憐憫なのか、それとも過去の傷を無神経に踏み荒らされたことに対する報復なのか、自分でもよく分からない。
九条はしばらく黙っていた。そして静かに言う。
「彼は運が悪かった」
月は反射的に顔を上げる。
運。そんな言葉で片付けていいのだろうか。
だが九条の表情は変わらない。いつも通り穏やかだった。
「先生には、罪悪感はないんですか?」
「あるよ。ない方がおかしい。彼は高瀬を殺していない。だからその点については申し訳ないと思う」
月は何も言わない。続く言葉を予想してしまったからだ。そしてそれは当たっていた。九条は穏やかな声で言った。
「でも、だからといって私が警察に行くことはない」
その声音は穏やかだったが、揺らぎがなかった。そしてそれが九条だった。罪悪感はあるが、自首はしない。後悔はするが、やり直そうとは思わない。月はそのことを理解してしまう。理解できてしまう自分に気付く。
その時、非常階段の扉が開き、看護師が一人入ってきた。
「あっ……」
若い看護師は、月と九条の様子を見て、何かを察したような顔をした。
「すみません!」
彼女は慌てて扉を閉める。
数秒間の沈黙のあと、九条が吹き出した。
笑っている場合ではない。月は頭を抱えたくなる。
「絶対変な誤解してます」
「してるだろうね」
「笑い事じゃありません」
「ごめん」
月は九条の顔を見て、全く反省していない顔だと思った。思わずため息が漏れる。だが少しだけ気分が紛れた。九条もそれを狙っていたのかも知れない。そんなことを考えながら、月は話題を変えた
「午後から手術ですか?」
「うん。脳腫瘍のね」
「長そうですね」
「たぶんね」
そして何気ない調子で九条は続ける。
「終わったら夕食でもどう?」
月は呆れて九条を見る。
「今その話します?」
「するよ。大事なことだからね」
九条の答えに迷いはない。
ニュースでは高瀬の死体発見が報じられ、西村は逮捕された。自分たちは殺人犯で、西村の無実を知っている。なのにこの男は夕食の話をしている。普通ではない。本当に。本当にどうしようもない。月は小さく息を吐いた。
「考えておきます」
「それは行くやつ?」
「知りません」
九条は満足そうに笑う。
その笑顔を見ながら月はふと思う。
西村の人生は今まさに壊れようとしている。彼の執着していた高瀬は死に、警察は間違った方向に進んでいる。それなのに世界は止まらない。手術はある。夕食の約束もある。人は生き続ける。
それが少しだけ残酷に思えた。
「間今(まいま)さん、新刊読ませてもらいました」
「ありがとうございます」
一花(いちか)は柔らかく笑った。
白いワンピースに薄いベージュのジャケット。病院で着るスクラブとは違う、上品な装いだった。間今一花はネットで『マイマイ』の名前で活動している。看護師として働きながら綴る彼女の日常の文章は人気があり、SNSのフォロワーは十万人を超えていた。
今年出版したエッセイも、それなりに売れた。大ヒットではない。それでも出版不況のこのご時世にこうしてパーティーに招待される程度には評価されている。
「来年も新刊をお願いしたいですね」
担当編集が笑う。
「ぜひ」
一花も笑顔で応じた。
だが、その右手はテーブルの下でスマートフォンを握っていた。通知などないのに、高瀬蒼介(たかせそうすけ)とのトーク画面を開く。最後のメッセージは十日前、自分の送ったものだった。
『例の先生、かなり面白そうですね』
九条について聞き出したくて送信したメッセージは既読のまま、返信はない。その数日後、高瀬は失踪した。ニュースでは大きく報じられたが、それきり続報はなかった。ネットでは様々な憶測が飛び交っている。
『海外に逃げた』
『炎上しすぎて身を隠した』
『新年に復帰するための話題作り』
どれももっともらしい。けれど、一花は落ち着かなかった。
連絡が途絶える直前まで、高瀬は東雲総合医療センターのことばかり聞いてきた。九条零(くじょうれい)。神倉月(かぐらつき)。八年前の医療事故。自分も情報を渡していた。月の名前も、携帯番号も、勤務する病棟も、全部。
それは一花の打算だった。
有名になり始めた動画配信者と繋がっていれば、自分の名前ももっと広まる。九条が取材に協力している相手に自分も協力すれば、片思いの相手である九条と同じステージに立てる。九条が気にかけている月の情報を高瀬に流せば、恋敵の月を困らせることができる。そう思ってのことだった。
そのために、ほんの少し情報を渡しただけ。
それだけのつもりだった。
「間今さん?」
編集者の声で我に返る。
「大丈夫ですか?」
「あ……すみません。ちょっと考え事を」
一花は笑顔を作る。慣れた笑顔だった。SNSで何千回も浮かべてきた笑顔。誰も違和感を覚えない、完璧な作り笑い。
「そういえば」
隣の女性ライターがグラスを傾けた。
「例の炎上系の人、まだ見つからないらしいですね」
「ああ、高瀬でしたっけ」
「最近動画も更新ないし」
「逃げたんじゃない?」
周囲から笑い声が上がる。一花も口元だけで笑った。
「そうかもしれませんね」
そう言いながら、胸の奥だけが冷えていく。
もしも本当に彼に何かあったのだとしたら、自分の送った情報はどこまで残っているのだろう。一花はまた、無意識にスマートフォンを握り締める。その時だった。
「そうそう」
別の編集者が何気なく言った。
「間今さん、病院勤務でしたよね?」
「はい」
「クリスマスも仕事だったんですか?」
一瞬だけ言葉に詰まる。
脳裏に浮かんだのは、数日前に病院で耳にした噂だった──九条先生が、神倉月を、クリスマスイブにデートに誘った。九条の方から積極的に声をかけ、二人で車で出かけていた──一花の笑顔が、ほんのわずかに固まる。
「ええ……仕事でした」
嘘ではない。だが、その夜のことを考えるだけで胃の奥が焼けるように痛んだ。
どうして。どうしてあの子なの。私の方が先に九条先生を知っていた。私の方がずっと九条先生の近くにいた。あの子よりも私の方が九条先生に相応しいのに。九条先生に相応しい看護師になるよう努力して、こうして出版社のパーティーに呼ばれるようになったのに。なのに、どうして。
編集者はそんな一花の胸の内など知らず、楽しげに乾杯の音頭を取る。
「来年もよろしくお願いします!」
グラスが触れ合い、華やかな笑い声が広がる。
一花もグラスを掲げた。彼女は笑っている。誰よりも自然に笑っている。
しかしその笑顔の奥で、嫉妬と焦りだけが静かに膨れ上がっていた。
◇
その日も東雲(しののめ)総合医療センターの職員休憩室にはテレビの音が流れていた。
昼休みになると休憩室には様々な色のスクラブウェアに身を包んだ職員が集まる。月もその中にいた。この病院では所属部署によってスクラブの色が決まる。医師はダークネイビー、研修医はライトネイビー、病棟看護師はワインレッド、救急科(ER)はロイヤルブルー、ICUはターコイズ、外来看護師はライトピンク、薬剤部はホワイト、検査技師はラベンダー、放射線技師はチャコールグレー、リハビリ科はオレンジ、看護助手はベージュ、そして手術室ではフォレストグリーン。月は、紙コップに入った温かいコーヒーを両手で包みながら、ぼんやりとテレビを見ていた。
『──続いてのニュースです』
アナウンサーの声色が変わった。月の指先が止まる。
『行方不明となっていた動画配信者・高瀬蒼介(たかせそうすけ)さんの遺体が、本日未明、東雲市郊外の廃スケートリンクで発見されました』
休憩室がざわつく。テレビ画面にはパトカーの列が映っていた。見覚えのある建物には黄色い規制線が張られ、報道陣が押し寄せている。月は視線を逸らせなかった。
『遺体はリンク中央の氷の中から発見されたということです』
周囲の職員たちが驚きの呟きを漏らす。そんな中で月だけが、その光景を既に知っていた。あの日、クリスマスイブの夜、リンクの中央で見たからだ。
『警察は殺人事件として捜査を進めており、本日午前、高瀬さんへの殺害容疑で東雲市在住の西村修平(にしむらしゅうへい)容疑者を逮捕しました』
画面が切り替わり、警察に連行される男の俯いた横顔が映る。
逮捕されたのは高瀬のアンチを名乗るあの、西村だった。
病院の前で会った時のことがまざまざと甦る。馴れ馴れしい男だった。鬱陶しかった。不快だった。彼の無神経な言動のせいで、嫌なことを思い出した。二度と会いたくない相手だ。しかし、彼のあの時の泣きそうな顔を思い出すと、月の胸の奥は痛んだ。彼は高瀬に人生をめちゃくちゃにされたと語っていた。あの時の目を覚えている。怒りではない。恨みでもない。誰かに助けを求めるような、辛そうな目をしていた。
『西村容疑者は過去に高瀬さんの動画で取り上げられたことがあり、高瀬さんに強い恨みを抱いていたとみられています。また、死体発見現場となった廃スケートリンクは、西村容疑者の親族が所有していた施設でした』
休憩室の誰かが言う。
「もう犯人確定じゃん。動機も場所もあるし、高瀬に恨みを持ってたんだろ?」
そんな声が聞こえる。月はコーヒーに視線を落とした。違う。彼は犯人じゃない。犯人は──その事実を知っているのは、自分だけだ。
胸の奥に安堵があった。西村が逮捕されたということは、九条に疑いは向いていないということ。警察は別の方向を見ている。それは月にとって都合が良かった。だが同時に、何か重たいものが胸に沈んでいく。西村は無実だ。自分はそれを知っている。知っているのに黙っている。
テレビの中で、西村は報道陣に囲まれていた。彼は俯いたまま、一言も喋らない。冤罪なのに。無実なのに。月は思わず目を逸らした。あのとき彼は自分に話しかけてきのに。距離感も考えず、馴れ馴れしく。なのに今は喋らない──
「神倉さん」
不意に、聞き慣れた声がした。
顔を上げると、九条が休憩室の入口に立っていた。
スクラブウェアの上に白衣を着て、いつもと同じ笑顔で月を見ている。
「ちょっといい?」
周囲の看護師たちが面白そうな顔になる。
月は小さくため息をつき、九条の後を追って休憩室を出た。廊下には誰もいない。九条に誘導されるまま、月はしばらく無言で歩く。やがて人気(ひとけ)のない非常階段の踊り場に着いた。九条はそこで立ち止まった。
「見た?」
ニュースのことだった。
「はい。見ました」
月は小声で答える。九条は窓の外を見る。重々しい雲と灰色の海、その境界を引くはずの水平線はぼやけている。
しかし九条の横顔は穏やかだった。
「驚いた?」
「ええ。少し」
「そう」
短い沈黙が落ちる中、月は九条を見た。無実の人間が逮捕されたというのに、彼は平然としている。どういう神経をしているのだろう、と思いそうになるものの、月自身も人のことは言えなかった。胸が痛む。それでも警察へ行こうとは思わない。西村を助けたいとも思わない。ただ苦しいだけだ。
「……先生。西村さん、犯人じゃないですよね」
九条は優しげに笑った。
否定もせず、肯定もせず、彼はただ月を見る。
「神倉さん。世の中にはね、犯人じゃなくても捕まる人がいる」
月は何も言えなかった。その言葉はまるで自分たちのことを言っているようにも聞こえたからだ。窓の外の空は重く、雪になりそうな雲が広がっている。月は手すりへと視線を落とした。犯人じゃなくても捕まる人がいる。当たり前の話だ。ニュースを見れば分かる。冤罪事件など珍しくない。だが、今回は違う。その冤罪を作った側に、自分がいる。
「……かわいそうですね」
気付けばそう口にしていた。九条は少しだけ目を細めた。
「西村さんのこと?」
月は頷く。
「優しいね」
「違います。ただ……自分の手の届かない場所で苦しんでいる患者さんのように思えるだけです」
言ってから、月は気付く。それは西村を自分の手で殺したかったという意味だ。あの日、病院前で会った時点で、彼の心は壊れていた。たとえ誤認逮捕がなくても、彼の人生が修復されることはなかっただろう。彼に話しかけられた自分が、助けを求められた自分が、彼の苦しみを終わらせなければならなかった。いつも患者にしているように。それが西村に対する憐憫なのか、それとも過去の傷を無神経に踏み荒らされたことに対する報復なのか、自分でもよく分からない。
九条はしばらく黙っていた。そして静かに言う。
「彼は運が悪かった」
月は反射的に顔を上げる。
運。そんな言葉で片付けていいのだろうか。
だが九条の表情は変わらない。いつも通り穏やかだった。
「先生には、罪悪感はないんですか?」
「あるよ。ない方がおかしい。彼は高瀬を殺していない。だからその点については申し訳ないと思う」
月は何も言わない。続く言葉を予想してしまったからだ。そしてそれは当たっていた。九条は穏やかな声で言った。
「でも、だからといって私が警察に行くことはない」
その声音は穏やかだったが、揺らぎがなかった。そしてそれが九条だった。罪悪感はあるが、自首はしない。後悔はするが、やり直そうとは思わない。月はそのことを理解してしまう。理解できてしまう自分に気付く。
その時、非常階段の扉が開き、看護師が一人入ってきた。
「あっ……」
若い看護師は、月と九条の様子を見て、何かを察したような顔をした。
「すみません!」
彼女は慌てて扉を閉める。
数秒間の沈黙のあと、九条が吹き出した。
笑っている場合ではない。月は頭を抱えたくなる。
「絶対変な誤解してます」
「してるだろうね」
「笑い事じゃありません」
「ごめん」
月は九条の顔を見て、全く反省していない顔だと思った。思わずため息が漏れる。だが少しだけ気分が紛れた。九条もそれを狙っていたのかも知れない。そんなことを考えながら、月は話題を変えた
「午後から手術ですか?」
「うん。脳腫瘍のね」
「長そうですね」
「たぶんね」
そして何気ない調子で九条は続ける。
「終わったら夕食でもどう?」
月は呆れて九条を見る。
「今その話します?」
「するよ。大事なことだからね」
九条の答えに迷いはない。
ニュースでは高瀬の死体発見が報じられ、西村は逮捕された。自分たちは殺人犯で、西村の無実を知っている。なのにこの男は夕食の話をしている。普通ではない。本当に。本当にどうしようもない。月は小さく息を吐いた。
「考えておきます」
「それは行くやつ?」
「知りません」
九条は満足そうに笑う。
その笑顔を見ながら月はふと思う。
西村の人生は今まさに壊れようとしている。彼の執着していた高瀬は死に、警察は間違った方向に進んでいる。それなのに世界は止まらない。手術はある。夕食の約束もある。人は生き続ける。
それが少しだけ残酷に思えた。
