私だけに優しい、殺人鬼

 しばらくの間、月は何も言えなかった。
 目の前の氷の中には高瀬がいる。そして自分の背後には九条が立っている。
 あまりにも現実感がなかった。今日はクリスマスイブだ。九条からデートに誘われ、ここに来たはずだった。なのに自分がいるのは、イルミネーションも恋もケーキも無縁の世界。静寂だけが薄暗いリンクを支配している。

「……どうしてなんですか」
「色々理由はある。ただ、君を守るためじゃない」

 九条は淡々と答えた。

「一番大きいのは、邪魔だったからかな」

 月は振り返る。ちらりと仰ぎ見た九条の顔は穏やかだった。
 いつもと同じ、病院で見る顔。手術室に向かうときの顔。
 それなのにこの男は今、殺人を認めた。

「先生は──」

 月の声は少し震えていた。

「私を守るためじゃないって言いましたね。だったら何のためですか?」

 九条は小さく笑う。

「君は優しいね」
「答えてください」
「守るためなら、もっと早く殺してる」

 月は息を止めた。彼の言葉には冗談が混じっていなかった。
 高瀬が病院に来たとき。月に電話を掛けてきたとき。月に付きまとい始めたとき。
 その気になればもっと早く殺せた。九条はそう言っている。

「彼は危険だった」
「先生を動画でネタにしようとしたからですか?」
「いや。あれは俺の誘導だ。そうするように仕向けた」
「だったらどうして……」
「君にとっても、病院にとっても、そして彼自身にとっても危険だったからだよ」

 九条は穏やかに答えた。
 月には理解できなかった。高瀬は確かに危険だった。だが『だから殺した』という理屈が理解できなかった。しかしその一方で、理解できないはずなのに、どこかで納得している自分がいる。

「先生は、昔からこうだったんですか?」

 九条は少し考えてから「そうだね」と答えた。
 彼はリンクの天井を見上げる。つられて月も上を見る。アイスアリーナの天井は、見ているだけで吸い込まれそうな暗い空間だった。

「そうだね。子供の頃から、俺は普通じゃなかった」

 月は黙って聞いていた。

「周囲の子供たちが面白いと思うことを、面白いと思えなかった。逆に、面白いと思ってはいけないことに興味があった」

 言いながら、九条は少しだけ笑った。
 彼の言葉の意味を月は考える。具体的にどういうことなのか、気になったが聞かなかった。聞いてしまえば、取り返しのつかないことになるような気がした。
 九条は話を続ける。

「父はよく怒る人だった。理由は色々あったと思う。仕事とか、酒とか、母との関係とか」

 軽い口調だった。まるで他人事のように自分のことを語っている。

「でも俺にとって重要なのは、そこじゃない」

 九条は視線を落とした。その声色が、少し変わる。

「父はずっと言っていた。お前はおかしい、気味が悪い、マトモじゃないって」

 月の胸が微かに痛んだ。
 九条は感情を交えずに続ける。

「最初は腹が立った。でもあるとき気付いたんだ。たぶん父は正しい。俺は普通じゃない」

 九条の言葉に迷いはなかった。
 開き直りでもない。自己憐憫でもない。事実を述べているだけだった。
 九条は少しだけ目を細める。

「でもね。だからこそ、父に勝たせたくなかった」
「勝たせる……?」
「俺が犯罪者として逮捕されれば、父は勝利宣言をする。『ほら見ろ、やっぱりこいつは異常者だった、こいつを殴った俺は正しかった、俺は最初から分かっていたんだ』って。それだけは許せなかった。父が勝ち誇ることがどんなことよりも嫌だった。だから自制することや、相手を選ぶことを覚えた」

 父について語りながら九条は時折、冷たく笑った。
 月には何も言えなかった。この男は異常だ。間違いなく、普通じゃない。だがその異常性と戦い続けてきたことも事実なのだろう。
 リンクに静寂が落ちる。遠くで風の音がした。九条は月の背後から真向かいへと滑り出る。そして細い指を月の顎にかけ、上を向かせる。その視線は優しかった。優しすぎて不気味なほどに。

「神倉さん。君はどう?」

 静かな声だった。

「君も、普通じゃないでしょう」

 月の心臓が大きく脈打つ。
 足元の氷の中には高瀬が横たわっている。真向かいには九条が立っている。そして自分。顎には九条の指が触れている。今すぐここから逃げたいのに、逃げられない。動けない。まるで裁判だった。観客のいないアイスアリーナで行われる、奇妙な告白の時間。

「何を言ってるんですか」

 月は上を向いたまま、視線だけを九条から逸らした。
 九条は何も答えず、月の言葉の続きをただ静かに待っている。その沈黙が苦しかった。普通じゃない──その言葉は昔から聞き慣れている。母親が言っていたからだ。墨図のことを訴えた時も、スケートを辞めたいと言った時も、反抗した時も、いつも──

『お前は普通じゃない』
『お前はおかしい』
『お前はマトモな人間じゃない』

 月は唇を噛む。
 九条の言葉と母親の言葉は似ているが、ひとつだけ、決定的に違う部分がある。母親は否定するために言った。九条は確認するために言った。その違いが分かるからこそ、余計に苦しかった。

「私は──」

 声が掠れた。

「普通です」

 嘘だった。
 自分でも分かっている。普通の看護師は患者を殺さない。普通の人間は死を見て安心しない。普通の人間は高瀬の死体を見て、どこかほっとしたりしない。
 九条は何も言わない。月を責めないし、否定もしない。
 月は観客席を見た。かつてそこには無数の人間がいたはずだった。少なくとも月の記憶の中ではそうだった。しかし今は誰もいない。月は静かに言葉を続ける。

「スケートを始めたばかりの頃、リンクの真ん中に立てばみんなが見てくれると思っていました。でも実際はそうじゃなかった。誰も見ていないんです、私を」

 月は笑った。力のない自嘲だった。
 大会。演技。拍手。歓声。その全ての中で、観客の多くは自分など見ていなかった。自身の子供、贔屓の選手、順位、結果──それぞれ別のものを見ている。リンクの中央に立っても、主役になっても、言われたとおりのことをしても、誰も見ていない。

「だから、何をしても気付かれない気がした」

 言った瞬間、自分でも驚いた。
 こんなことを誰かに話したのは初めてだった。
 九条に視線を戻すと、彼は少しだけ目を細めた。理解したような顔だった。
 それが腹立たしく、どこか嬉しく、そんな風に思う自分がもっと腹立たしかった。

「神倉さん、君は面白いね」
「褒め言葉じゃないんですよね?」
「もちろん」

 九条はさらりと答えた。月は思わず笑ってしまう。
 この状況で笑うのもおかしい。氷の中には死体がある。目の前の男は殺人犯だ。そして自分も殺人犯。しかし不思議と恐怖はなかった。あるのは奇妙な安心感だった。
 九条はしばらく月の顔を眺めていたが、やがて静かに口を開いた。

「……神倉さん。普通じゃないことは罪じゃない。問題は、何をするかだ」

 月は黙って聞いていた。
 九条は目だけを動かして氷の中の高瀬を見た。

「高瀬には最後まで分からなかったと思う。人は全員同じではないということが。彼は全員を同じ箱に入れようとした」

 月は何も言わなかった。
 高瀬は確かにそういう人間だった。コンテンツとして、ネタとして、再生数として利用できるか否かでしか他人を見ない。そして利用できると見ると、相手の事情などお構いなしで骨の髄まで食い物にする。

「異なる人間を同じ箱に入れることの危険性を彼は分かっていなかった。でも君は違う。君はちゃんと見ている」

 どこか遠くで風が鳴る。
 月は初めて理解した。この男は自分を口説いている。普通の恋人たちのように夜景を見せることもなく、指輪を渡すこともないけれど。氷漬けの死体の前で自身の異常性を告白しながら、自分を口説いている。
 月はゆっくりと息を吐く。白い吐息が闇に溶けていく。
 誰かにこんなに本音を聞かされたことはなかった。

「……そろそろ帰ろうか」

 九条は穏やかにそう言った。まるで映画を見終えて座席から立つように、九条は自然な動作で月から指を離した。

「……先生」

 月は無意識に九条のコートの袖をつかんでいた。
 滑り出そうとしていた九条が足を止める。

「どうした?」

 月の唇が震える。何も言えなかった。言葉にできる感情ではなかった。ただ、この人を失いたくない、そんな気持ちだけが胸いっぱいに広がっていた。
 九条は月の手元へ視線を落とし、小さく笑う。

「今日はずいぶん素直だね」
「今日は……」

 月は恥ずかしそうに目を伏せた。

「たぶん、クリスマスだからです」
「その素直さは期間限定?」
「分かりません」

 九条は一歩だけ月に近づいた。
 冷えたリンクの空気とは違う、人の体温が伝わる距離。

「月」

 初めて、名前だけを呼ばれた。
 月が顔を上げる。次の瞬間、九条はそっと月の頬に手を添えた。

「逃げるなら、今だよ」

 その言葉に、月はゆっくりと目を閉じる。それが返事の代わりだった。九条は一瞬だけためらい、それから静かに唇を重ねた。触れるだけの、短い口づけ。氷の上なのに、不思議と温かかった。
 唇が離れると、二人とも何も言わなかった。ただ見つめ合い、少しだけ照れたように笑う。背後では、氷の中の高瀬が永遠の沈黙を守っている。その静寂を背に、九条は月の手をそっと握った。

「行こう」

 月は小さく頷く。
 繋いだ手は冷えていた。それでも、その温もりだけは確かだった。

          ◇

 外に出た二人の間を冷たい夜風が吹き抜ける。見上げれば星が見えた。街の灯りから離れた山の中だからだろう。東雲市では珍しいほど空が綺麗だった。二人は無言のまま車に向かった。
 車内へ乗り込む。エンジンがかかる。暖房の風が流れ始めた。フロントガラスの向こうで、廃スケートリンクの建物が徐々に遠ざかっていく。月は窓の外を見つめていた。あのリンク。あの観客席。そして氷の中の高瀬。すべてがまるで夢の中の出来事のようだ。ただ唇に触れた九条のわずかな熱だけが、現実感を伴って月の中に残っていた。
 車は山道を下っていき、やがて街の灯りが見え始めた。

「……高瀬のスマホを解析した。事前にSIMカードを破棄したから全てを把握できたわけじゃないが、それでも一つ、分かったことがある」

 不意に九条が口を開いた。その声はいつもより少し低かった。

「君の電話番号は、高瀬が自分で調べたんじゃない。彼に教えた人物がいる」
「病院の人ですか?」
「そう」

 九条は短く頷く。

「看護師の間今一花(まいまいちか)だ」

 その名前を聞いた瞬間、月の頭の中は真っ白になった。

「……間今さんが?」
「君の氏名も、携帯番号も、勤務している病棟も、全部高瀬に送っていた」

 月には信じられなかった。一花は仕事を教えてくれた先輩であり、何度も相談に乗ってくれた相手でもあった。その彼女が自分の情報を高瀬に渡していたという。

「どうして……」
「理由までは書いてなかったが、間今の方から高瀬に接触したのは確かだった。高瀬が聞き出したんじゃない、病院の駐車場で高瀬と知り合ったあとで、自分から情報を渡している。彼女には気を付けた方がいい。間今が高瀬に流していたのは、君の情報だけだったから」

 あの日、病院の駐車場で、初めて高瀬に会った時のことが月の脳裏によみがえる。
 高瀬との話を終え、車に乗り込んだ視界の片隅を、私服姿の先輩看護師、間今一花が横切った。彼女に近寄っていく高瀬の後ろ姿も見える。あの人なら高瀬をうまくあしらえるだろう。そんなことを思ったのは、その日の昼間、九条について調べていることが本人にバレて、対応に困っていた時に、一花が仕事に引き戻してくれたからだ。『神倉さん! 五〇八号室の点滴確認お願い!』と言って。しかし今思うと、あの時の彼女の声はどこか刺々しかった──

 初めてデートしたあの観覧車の夜のように、テイクアウトの夕飯を買い、九条の車でシーサイドパレス東雲へと続く道を走る。月はそこでようやく思い出した。

「あ」
「どうした?」
「私の車……病院でした」

 九条は一瞬きょとんとして、それから吹き出した。

「今気づいたの?」
「忘れてました」

 月もつられて笑うものの、もちろん笑っている場合ではない。
 明日は準夜勤。出勤は夕方だから時間に余裕がないわけではないが、歩いて通勤するには病院は少し遠かった。しかし今から車を取りに行けば、一人きりの車で自宅に戻らなければならない。それはどうにも気が進まなかった。

「先生、明日は予定はありますか?」
「ないよ」
「じゃあ……」

 言いかけて、月は妙な気まずさを覚えた。
 九条が面白そうにこちらを見る。月は小さく息を吐いた。

「明日の夕方、病院まで送ってもらえませんか?」
「それだけ?」
「はい。それだけです」

 九条は笑う。

「だったら今日は君の部屋に泊まろうかな」
「は?」
「だって俺の車で来てるし。今から俺だけ帰ったら、明日また迎えに来るの面倒じゃない? 俺はソファで寝るから気にしないで」
「気になります」

 シーサイドパレス東雲が近づく。海沿いに建つ巨大なリゾートマンションは、夜の闇の中では巨大な廃墟のようにも見えた。駐車場に車が停まる。月はシートベルトを外した。隣では九条が当然のように降りる準備をしている。

「本当に来るんですか?」
「うん」
「……好きにしてください」

 半ば諦めて月が言うと、九条は満足そうに笑った。

「ありがとう」

 その笑顔を見た瞬間、月は理解した。
 今日見せられたものは高瀬の死体だけではない。九条零という人間そのものだったということを。もちろん彼の全てを知ったわけではない。月が見たのは彼の中のほんの一部に過ぎないのだろう。だが確かに、今まで誰にも見せていなかった部分を彼は自分に見せたのだ。
 二人で車を降りると、冷たい海風が吹いた。本当に変な人だと思いながら月は歩き出す。エントランスに向かう途中、ふと空を見上げると、冬の星が静かに瞬いていた。普段は一人で乗っているエレベーターに二人で乗り、十四階へと向かう。部屋に戻った後も、今夜は一人ではない。その事実に少しだけ落ち着かない気持ちになりながら、月は玄関の鍵を開けた。
 いつもどおりの静かな部屋だった。窓の向こうでは冬の海が闇に沈んでいる。月はコートを脱ぎながら、ふと振り返った。九条も靴を脱いでいる。それだけの光景なのに、妙に現実感がなかった。
 数時間前、自分たちは氷漬けの死体を見ていた。それなのに今は、まるで普通の恋人同士のように同じ部屋に帰ってきている。おかしな夜だと思った。そして──きっともう、後戻りはできないのだろう。