私だけに優しい、殺人鬼

 スターライトスケートセンターの建物内は静かだった。
 施設を維持するための最低限の電気は通っているものの、照明は暗く、人気(ひとけ)がない。コンクリートと埃の匂いがする。冷えた空気が肌にまとわりつく。かつて歓声と音楽に満ちていた空間は、今では時間だけが取り残されたように沈黙している。
 九条が月の顔を見た。

「懐かしい?」

 月は答えなかった。
 懐かしいわけがない。思い出したくもない場所だ。
 それでも足は自然と奥に向かっていた。
 九条が大きな扉を開け、電気をつける。そこはレンタルシューズコーナーになっていた。棚は埃を被っている。だが意外にもかつての形を保っていた。色褪せたスケート靴がずらりと並んでいる。子供用。大人用。貸出番号のシールも残っていた。
 月の胸がざわつく。九条が棚からスケートシューズを一足取り出した。

「履けるかな……」
「……何をしてるんですか?」
「必要だから」

 九条は当然のように言う。
 彼の言葉の意味が分からず、月は眉をひそめた。

「リンクへ行くんでしょう?」

 その言葉に月は顔を上げた。
 リンク。建物の中心。もっとも大きな空間。もっとも思い出したくない場所。
 九条は月にスケート靴を差し出した。

「サイズはこれで合う?」

 月は靴を受け取らず、代わりに九条を見る。

「先生。私に何を見せたいんですか?」

 九条は数秒沈黙した。そして──

「君なら見た方がいいと思った」

 それだけ言った。
 答えになっていない。だが、九条の表情は珍しく真面目だった。冗談も、からかう気配も感じられない。月はゆっくりとスケート靴を受け取った。
 革は硬く、冷たかった。懐かしい感触だった。傍らのベンチに腰を下ろし、月は靴を履き替える。指先が少し震えた。最後にスケート靴を履いたのは何年前だっただろう。覚えていない。思い出したくもない。
 九条も靴を履き替えていた。そして月よりも先に立ち上がる。

「行こう」

 月も立ち上がる。ブレードが床を擦る音が響いた。かつて何千回も聞いた音だった。胸の奥が重い。それでも歩き出す。二人はリンクへと続く通路を進む。九条がわざわざクリスマスイブに見せたかった何かがこの先にあるのだろう。
 月はリンクに出る。大人の目線になったからか、記憶の中のものよりも随分と狭いような気がする。リンクには氷が張られていた。白く、静かだった。最低限の照明だけが灯り、青白い光が広い氷面を淡く照らしている。その光景はどこか幻想的で、現実から切り離された舞台のようだった。

「どうして氷があるんですか?」
「管理人の趣味らしい」

 九条は笑う。
 月はリンクに立ち、観客席を見上げた。
 誰もいない。空っぽだった。それなのに脳裏には昔の光景が浮かぶ──

 拍手。アナウンス。音楽。
 観客席には、たくさんの人がいた。だが、誰も自分を見ていなかった。
 母親は順位しか見ていない。コーチは結果しか見ていない。他の保護者は自分の子供しか見ていない。観客の中には携帯電話を見ている人もいた。トイレへ向かう人もいた。自分はリンクの中央に立っているのに、主役のはずなのに、母親に言われたとおりに笑っているのに、誰も自分を見ていない。

 月はそのとき初めて知った。
 世界は思っているほど自分に興味がない。

 それは絶望ではなかった。

 解放だった。

 ……──

「……神倉さん」

 九条に名を呼ばれ、月は我に返った。

「滑ろう。せっかく来たんだから。さあ……」

 九条が先に滑り出す。
 月も一歩前に出た。スケート靴のブレードが氷を擦る。懐かしい感触だった。身体が覚えている。頭では忘れているのに、何年経っても消えない感覚。月はゆっくりと滑り出す。最初は恐る恐る、だが数メートル進んだ頃には自然と重心が安定していた。自分でも驚いた。スケートを辞めてから十五年くらい経ったのに、身体はまだ滑り方を忘れていなかった。気が付くと、月は九条の隣に滑り寄っていた。

「先生、手を」

 半ば反射的にそう言った。
 九条が怪訝そうに手を差し出すと、月はその手を軽く取った。

「元ジュニア選手がエスコートします」

 月は小さく笑う。九条は苦笑したが、すぐに普段どおりの穏やかな笑みに戻った。月が先導するように滑り出す。リンクの中央に向かって。氷の上では身体が勝手に動いた。滑らかなターン。無駄のない重心移動。九条を導きながら進む感覚は、かつて後輩をリンクに案内した時を思い出させた。
 しかし、中央付近まで来た時、月は違和感に気付いた。

 氷の下に何か、黒いものが見える。
 最初は影だと思った。照明の反射。そう思った。
 だが違う。月は黒い何かに近付く。確認すべく、さらに近付く。
 いつの間にか月の足が止まり、握っていた九条の手から力が抜けた。
 黒い塊が、輪郭を持ち始めた。氷の奥に沈んだそれは、人の肩の線に見えた。
 胸の奥がひやりと冷える。足が勝手に速度を落とした。氷の表面越しに、ぼやけた顔が浮かび上がる。人だった。氷の下に、人がいる。月の動きが、呼吸が止まる。

 青白い顔だった。見覚えのある顔だった。
 氷に閉じ込められたその男は、まるで水中で時間だけが止まったかのようだった。頬は蝋細工のように白く、唇は紫色に変色している。睫毛には細かな霜が張り付き、皮膚の上には無数の気泡が凍り付いていた。何より異様だったのは、彼の目だった。薄く開いた瞼の奥に、濁った瞳が残されている。氷越しなのに、こちらを見返しているように見える。
 動画で、病院前で、嫌というほど見た顔だ。
 彼は高瀬蒼介だった。高瀬蒼介が、氷の中に閉じ込められていた。
 分厚い氷の層の下で、高瀬の身体は仰向けのまま固定されている。逃げようとして手を伸ばしたのか、片腕だけが不自然な角度で上がり、指先が氷の裏側に触れかけていた。その姿は、助けを求めた瞬間を永遠に保存されたかのようだった。この場所に展示されることが決まっていた標本として。

 氷の中で、高瀬蒼介は死んでいた。

 月は動けなかった。恐怖ではない。恐怖だけではない。怒り、嫌悪、安堵、困惑──様々な感情が一度に押し寄せる。高瀬は死んだ。もう二度と電話は掛かってこない。病院に来ることもない。あの不快な笑顔を見ることもない。それなのに、胸の奥で別の感情が蠢いていた。
 遅かった。そう思った。先を越された。そう思った。
 高瀬に殺意を抱いたことは、一度や二度ではなかった。事故に遭えばいいと思った。救急搬送されてくればいいと思った。患者として再会すれば自分の手で殺してやるのに、と思ったのは出会って間もない頃のこと。次に電話をかけてきたら、人気(ひとけ)のない場所に呼び出し、殺してやろうと思ったのはつい先日のことだった。
 なのに、もうできない。誰かが先にやってしまった。それもこんなに鮮やかに、完璧なやり方で。
 自分の獲物を横取りされたような感覚だった。
 そのことに気付いて月は愕然とする。

 やがて背後から人の気配がした。九条だった。
 九条はゆっくりと滑りながら月に近付いてくる。
 月は振り返らなかった。いや、振り返れなかった。視線は氷の中の高瀬に釘付けだった。そして九条は月の傍らで静かに立ち止まった。

「どうして……」

 声が震える。月はようやく気付いた。九条はこれを見せるために自分をここに連れて来たのだ、と。それを理解した瞬間、バランスを崩し、転倒しそうになる。
 九条は背後から両手で月を抱き止めた。

「高瀬蒼介は、俺が殺した」

 穏やかな声だった。
 まるで天気の話でもするように、クリスマスイブの夜、廃スケートリンクの中央で、九条零は自らの罪を告白した。