東雲(しののめ)総合医療センターの職員休憩室に、テレビの音が静かに流れる。
看護師たちは弁当を広げ、医師たちはコーヒー片手にスマートフォンを眺めていた。
窓の外は冬晴れだった。クリスマスまであと数日。病院のロビーのツリーが話題になることも増えた。月は紙コップのコーヒーを手に、休憩室の隅の席へ腰掛けていた。休憩室に九条の姿はない。午後の手術の準備をしているのだろうか。
テレビでは昼のニュースが流れている。政治、天気、交通情報。
何気なく眺めていると、アナウンサーの声色が変わった
『──続いてのニュースです』
画面に見覚えのある顔が映った。寝癖のような髪型に、無精髭を生やした軽薄そうな顔。高瀬蒼介(たかせそうすけ)だ。月の指先が僅かに止まる。
『動画配信者の高瀬蒼介さんが数日前から行方不明になっていることが分かりました』
休憩室の空気が少しだけざわつく。
『警察によりますと、高瀬さんの家族から捜索願が提出されており──』
家族。月は無意識に画面を見つめた。
『──同居はしていなかったものの、頻繁に連絡を取り合っていた親族が異変に気付き、警察に連絡したとのことです』
短い説明だった。ニュースとしては小さい。事件か事故かも分からない、ただの失踪者。その程度の扱いだった。
しかし月の胸の奥は重く沈む。もしも自分が失踪しても、警察に届け出る家族はいない。母親とは疎遠だし、父親は最初からいなかった。以前は、それでも良かった。そう遠くない未来に、罪悪感に耐えきれず自殺するだろうと思っていたから。そうするつもりで遠出したことは一度や二度ではない。でも、今は違う。自分は三十歳を過ぎても生きているような気がする。マイナスだった人生が、ようやくゼロになりつつある。なのに、高瀬が持っているものを自分は持っていない。
アナウンサーの声が通りすぎていく。
『……警察は事件と事故の両面から調べています』
テレビ画面が切り替わり、高瀬の動画の一部が流れる。続いて街頭インタビュー。そして動画投稿サイトの一覧ページに並ぶ派手なサムネイルが映る。
「マジか……」
若い看護師が呟く。
「ウチに来てた人ですよね」
「そうそう。病院の動画出してた人」
「どこ行ったんだろ」
「炎上工作の仕込みじゃないのか?」
「そこまでするものなのかな」
そんな会話が聞こえる。
月は黙っていた。コーヒーが少し苦い。結局、高瀬から電話はかかってこなかった。ああいう性格の男だ、恨みは買っていただろうし、殺されていたとしても不思議ではない。しかし月の心は晴れない。何かを奪われたような、漠然とした空虚さが胸の奥に渦巻いている。
不意に、ガタン、と音がした。誰かが椅子から立ち上がったのだ。音のした方を見ると、月の先輩看護師にあたる間今一花(まいまいちか)が心ここにあらずといった様子で床に落ちた空の紙コップを拾っていた。顔色が悪い。いつもなら休憩室の中心で話しているような人物なのに、今はどこか落ち着きがない。
「間今さん?」
同僚が声をかける。
「大丈夫ですか?」
「え?」
一花は我に返ったように笑う。いつもの彼女とはまるで違う、ぎこちない笑顔だった。
「ああ、ごめん。ちょっとびっくりしただけ」
それだけ言うと、一花は紙コップを持ったまま休憩室を出て行った。月はその背中を見送る。何かが引っ掛かった。だが理由は分からない。テレビでは高瀬の動画が流れ続けている。画面の中の高瀬は相変わらず饒舌だった。月に殺意を抱かせた男。そして今は行方不明者。月はコーヒーを飲む。ぬるくなっていた。
◇
高瀬失踪のニュースは進展がないまま下火になり、クリスマスイブが訪れた。東雲総合医療センターのロビーでは、白いクリスマスツリーが輝いている。外来は午前中で終わり。入院病棟もどこか浮ついた空気だった。患者たちは家族から届いたケーキやプレゼントの話をしている。ナースステーションでは若い看護師たちがクリスマスの予定について盛り上がっていた。
「神倉さんは?」
「予定はないです」
にこやかに答えると、周囲から笑いが起きた。
「またまた」
「本当です」
月はカルテを閉じる。
すると背後から聞き慣れた声がした。
「あるでしょう?」
振り返ると、想像通りの人物がそこに立っていた。九条零(くじょうれい)だった。彼はダークネイビーのスクラブの上から白衣を着た格好のまま、カルテを抱えている。
「……九条先生」
「クリスマスイブなのに予定がないなんて可哀想だな」
「余計なお世話です」
「だから助けてあげようと思って」
周囲の看護師たちが面白そうな顔になる。
月は頭痛を覚えた。噂にならないように隠していたのに。
「仕事してください」
「してるよ」
九条は笑う。
「じゃあ後で」
それだけ言い残して去っていった。
ナースステーションが一気に騒がしくなる。
「後でって、何ですか?」
「デートじゃない?」
「いいなぁ」
「先生、絶対神倉さんのこと、狙ってるでしょ」
月は聞こえないふりをしたが、耳は熱かった。
夕方、勤務を終えた頃には外はすっかり暗くなっていた。
月は職員用駐車場へ向かう。冷たい風が吹いている。吐く息は白い。病院の外ではクリスマスソングが流れていた。ロビーのガラス越しに見える白いツリーが夜空に映える。車へ向かおうとしたとき、見覚えのある黒い車のヘッドライトが点滅した。運転席の窓が下がる。
「こんばんは」
九条だった。髪型は勤務時のままだ。
「先生」
「約束通り迎えに来た」
「約束した覚えはありません」
「したよ」
「してません」
九条は楽しそうだった。
月はため息をつく。
「どこへ行くんですか?」
「君に見せたいものがある」
「景色ですか?」
「まあ、そんなところだね」
九条は少しだけ笑う。その笑顔に、何故か嫌な予感がした。
しかし、だからといって帰るつもりはなかった。月は助手席へ乗り込む。ドアが閉まり、暖房の効いた空気が身体を包んだ。車が静かに走り出す。病院を離れ、街に出る。道路沿いにはイルミネーションが続いていた。商店街のアーケード。駅前広場。大型ショッピングモール。どこもクリスマス一色だった。赤い帽子を被った子供。プレゼント袋を抱えた家族。手を繋ぐ恋人たち。信号待ちの間、月は窓の外を見ていた。
「楽しそうですね」
月は思わず呟いた。九条が横目で月を見る。
「羨ましい?」
「別に、そんなことは……」
嘘だった。少しだけ、ほんの少しだけ羨ましいと思った。
九条はそれ以上追及しない。代わりにカーオーディオの音量を少し上げた。流れてきたのはクリスマスソングだった。
月は窓の外に視線を戻す。街の灯りが流れていく。高瀬失踪のニュースから数日が経った。当初は気分が沈んだものの、今では不思議なくらい高瀬のことを考えなくなっていた。あの日から連絡もない。非通知の電話も鳴らない。高瀬など、まるで最初から存在していなかったかのようだった。
車は街の中心部を抜ける。イルミネーションの灯りが少しずつ減っていく。代わりに周囲は暗くなっていった。海沿いの道路を離れ、山へ向かう道へ入っていく。
月は窓の外を見る。街の灯りが遠ざかる。道路脇を流れていたイルミネーションも消える。代わりに現れたのは黒い森だった。車のヘッドライトだけが闇を切り裂いている。やがて車が減速する。舗装状態の悪い脇道に入り、数分後、停車した。
「着いた」
車のエンジンが切れる。周囲は静かだった。風の音しか聞こえない。月は車を降りる。冷たい空気が頬を刺した。見上げると、そこにあったのは巨大な建物だった。闇の中に沈むコンクリートの塊。割れた窓の向こうは黒く、灯りは見当たらない。色褪せた看板には『スターライトスケートセンター』の文字。初めて目にする光景なのに、どこかで見たことがあるような気がする。
月は傍らの九条に尋ねた。
「スケート場ですか?」
「昔はね。今は一般営業してない」
「閉鎖されたんですか?」
「いや、完全には。地元のスポーツクラブが使ったり、CM撮影や動画撮影に貸したりしてるそうだ」
理由も分からないまま、心臓の鼓動が早くなる。そしてその後で、古い記憶の扉が開く。長い年月を風雨に曝された外壁。閉鎖された施設。変わり果てた姿だが、それでも見間違えるはずがなかった。
「ここ……」
スターライトスケートセンター。小学生の頃に何度も来た場所だった。
大会。強化練習。合宿。母親に連れられて、嫌になるほど通った場所。そしてコーチの墨図義己(すみずよしき)──月の胸の奥が冷える。無数の記憶が蘇る。
「どうしてここを知ってるんですか?」
九条は建物を見上げる。
「高瀬が過去に動画でネタにしていた場所だった。西村の親戚が経営していたそうだ」
月は唇を噛む。
高瀬。西村。墨図。全部が繋がっているような気がした。
「帰りますか?」
改まった口調で九条が月に訊く。意外な言葉だった。月は建物を見る。今なら引き返せる。見なかったことにできる。だが、ここまで来てしまって忘れられるものだろうか。九条が自分をここに連れて来た理由も分からないままなのに。
「……帰りません」
月の返答に、九条は少しだけ笑う。
「そう言うと思った」
月は無言で九条を睨んだ。
だが九条は気にする素振(そぶ)りも見せず、建物の方へと歩き出す。
「行こう」
その声に導かれるように、月はかつての悪夢が眠る場所に足を踏み出した。
今はクリスマスイブの夜。どこかの街では恋人たちがイルミネーションを眺めている。どこかの家では家族がケーキを囲んでいる。だが月の向かう先にあるのは、色褪せた記憶と、凍り付いた過去だった。
看護師たちは弁当を広げ、医師たちはコーヒー片手にスマートフォンを眺めていた。
窓の外は冬晴れだった。クリスマスまであと数日。病院のロビーのツリーが話題になることも増えた。月は紙コップのコーヒーを手に、休憩室の隅の席へ腰掛けていた。休憩室に九条の姿はない。午後の手術の準備をしているのだろうか。
テレビでは昼のニュースが流れている。政治、天気、交通情報。
何気なく眺めていると、アナウンサーの声色が変わった
『──続いてのニュースです』
画面に見覚えのある顔が映った。寝癖のような髪型に、無精髭を生やした軽薄そうな顔。高瀬蒼介(たかせそうすけ)だ。月の指先が僅かに止まる。
『動画配信者の高瀬蒼介さんが数日前から行方不明になっていることが分かりました』
休憩室の空気が少しだけざわつく。
『警察によりますと、高瀬さんの家族から捜索願が提出されており──』
家族。月は無意識に画面を見つめた。
『──同居はしていなかったものの、頻繁に連絡を取り合っていた親族が異変に気付き、警察に連絡したとのことです』
短い説明だった。ニュースとしては小さい。事件か事故かも分からない、ただの失踪者。その程度の扱いだった。
しかし月の胸の奥は重く沈む。もしも自分が失踪しても、警察に届け出る家族はいない。母親とは疎遠だし、父親は最初からいなかった。以前は、それでも良かった。そう遠くない未来に、罪悪感に耐えきれず自殺するだろうと思っていたから。そうするつもりで遠出したことは一度や二度ではない。でも、今は違う。自分は三十歳を過ぎても生きているような気がする。マイナスだった人生が、ようやくゼロになりつつある。なのに、高瀬が持っているものを自分は持っていない。
アナウンサーの声が通りすぎていく。
『……警察は事件と事故の両面から調べています』
テレビ画面が切り替わり、高瀬の動画の一部が流れる。続いて街頭インタビュー。そして動画投稿サイトの一覧ページに並ぶ派手なサムネイルが映る。
「マジか……」
若い看護師が呟く。
「ウチに来てた人ですよね」
「そうそう。病院の動画出してた人」
「どこ行ったんだろ」
「炎上工作の仕込みじゃないのか?」
「そこまでするものなのかな」
そんな会話が聞こえる。
月は黙っていた。コーヒーが少し苦い。結局、高瀬から電話はかかってこなかった。ああいう性格の男だ、恨みは買っていただろうし、殺されていたとしても不思議ではない。しかし月の心は晴れない。何かを奪われたような、漠然とした空虚さが胸の奥に渦巻いている。
不意に、ガタン、と音がした。誰かが椅子から立ち上がったのだ。音のした方を見ると、月の先輩看護師にあたる間今一花(まいまいちか)が心ここにあらずといった様子で床に落ちた空の紙コップを拾っていた。顔色が悪い。いつもなら休憩室の中心で話しているような人物なのに、今はどこか落ち着きがない。
「間今さん?」
同僚が声をかける。
「大丈夫ですか?」
「え?」
一花は我に返ったように笑う。いつもの彼女とはまるで違う、ぎこちない笑顔だった。
「ああ、ごめん。ちょっとびっくりしただけ」
それだけ言うと、一花は紙コップを持ったまま休憩室を出て行った。月はその背中を見送る。何かが引っ掛かった。だが理由は分からない。テレビでは高瀬の動画が流れ続けている。画面の中の高瀬は相変わらず饒舌だった。月に殺意を抱かせた男。そして今は行方不明者。月はコーヒーを飲む。ぬるくなっていた。
◇
高瀬失踪のニュースは進展がないまま下火になり、クリスマスイブが訪れた。東雲総合医療センターのロビーでは、白いクリスマスツリーが輝いている。外来は午前中で終わり。入院病棟もどこか浮ついた空気だった。患者たちは家族から届いたケーキやプレゼントの話をしている。ナースステーションでは若い看護師たちがクリスマスの予定について盛り上がっていた。
「神倉さんは?」
「予定はないです」
にこやかに答えると、周囲から笑いが起きた。
「またまた」
「本当です」
月はカルテを閉じる。
すると背後から聞き慣れた声がした。
「あるでしょう?」
振り返ると、想像通りの人物がそこに立っていた。九条零(くじょうれい)だった。彼はダークネイビーのスクラブの上から白衣を着た格好のまま、カルテを抱えている。
「……九条先生」
「クリスマスイブなのに予定がないなんて可哀想だな」
「余計なお世話です」
「だから助けてあげようと思って」
周囲の看護師たちが面白そうな顔になる。
月は頭痛を覚えた。噂にならないように隠していたのに。
「仕事してください」
「してるよ」
九条は笑う。
「じゃあ後で」
それだけ言い残して去っていった。
ナースステーションが一気に騒がしくなる。
「後でって、何ですか?」
「デートじゃない?」
「いいなぁ」
「先生、絶対神倉さんのこと、狙ってるでしょ」
月は聞こえないふりをしたが、耳は熱かった。
夕方、勤務を終えた頃には外はすっかり暗くなっていた。
月は職員用駐車場へ向かう。冷たい風が吹いている。吐く息は白い。病院の外ではクリスマスソングが流れていた。ロビーのガラス越しに見える白いツリーが夜空に映える。車へ向かおうとしたとき、見覚えのある黒い車のヘッドライトが点滅した。運転席の窓が下がる。
「こんばんは」
九条だった。髪型は勤務時のままだ。
「先生」
「約束通り迎えに来た」
「約束した覚えはありません」
「したよ」
「してません」
九条は楽しそうだった。
月はため息をつく。
「どこへ行くんですか?」
「君に見せたいものがある」
「景色ですか?」
「まあ、そんなところだね」
九条は少しだけ笑う。その笑顔に、何故か嫌な予感がした。
しかし、だからといって帰るつもりはなかった。月は助手席へ乗り込む。ドアが閉まり、暖房の効いた空気が身体を包んだ。車が静かに走り出す。病院を離れ、街に出る。道路沿いにはイルミネーションが続いていた。商店街のアーケード。駅前広場。大型ショッピングモール。どこもクリスマス一色だった。赤い帽子を被った子供。プレゼント袋を抱えた家族。手を繋ぐ恋人たち。信号待ちの間、月は窓の外を見ていた。
「楽しそうですね」
月は思わず呟いた。九条が横目で月を見る。
「羨ましい?」
「別に、そんなことは……」
嘘だった。少しだけ、ほんの少しだけ羨ましいと思った。
九条はそれ以上追及しない。代わりにカーオーディオの音量を少し上げた。流れてきたのはクリスマスソングだった。
月は窓の外に視線を戻す。街の灯りが流れていく。高瀬失踪のニュースから数日が経った。当初は気分が沈んだものの、今では不思議なくらい高瀬のことを考えなくなっていた。あの日から連絡もない。非通知の電話も鳴らない。高瀬など、まるで最初から存在していなかったかのようだった。
車は街の中心部を抜ける。イルミネーションの灯りが少しずつ減っていく。代わりに周囲は暗くなっていった。海沿いの道路を離れ、山へ向かう道へ入っていく。
月は窓の外を見る。街の灯りが遠ざかる。道路脇を流れていたイルミネーションも消える。代わりに現れたのは黒い森だった。車のヘッドライトだけが闇を切り裂いている。やがて車が減速する。舗装状態の悪い脇道に入り、数分後、停車した。
「着いた」
車のエンジンが切れる。周囲は静かだった。風の音しか聞こえない。月は車を降りる。冷たい空気が頬を刺した。見上げると、そこにあったのは巨大な建物だった。闇の中に沈むコンクリートの塊。割れた窓の向こうは黒く、灯りは見当たらない。色褪せた看板には『スターライトスケートセンター』の文字。初めて目にする光景なのに、どこかで見たことがあるような気がする。
月は傍らの九条に尋ねた。
「スケート場ですか?」
「昔はね。今は一般営業してない」
「閉鎖されたんですか?」
「いや、完全には。地元のスポーツクラブが使ったり、CM撮影や動画撮影に貸したりしてるそうだ」
理由も分からないまま、心臓の鼓動が早くなる。そしてその後で、古い記憶の扉が開く。長い年月を風雨に曝された外壁。閉鎖された施設。変わり果てた姿だが、それでも見間違えるはずがなかった。
「ここ……」
スターライトスケートセンター。小学生の頃に何度も来た場所だった。
大会。強化練習。合宿。母親に連れられて、嫌になるほど通った場所。そしてコーチの墨図義己(すみずよしき)──月の胸の奥が冷える。無数の記憶が蘇る。
「どうしてここを知ってるんですか?」
九条は建物を見上げる。
「高瀬が過去に動画でネタにしていた場所だった。西村の親戚が経営していたそうだ」
月は唇を噛む。
高瀬。西村。墨図。全部が繋がっているような気がした。
「帰りますか?」
改まった口調で九条が月に訊く。意外な言葉だった。月は建物を見る。今なら引き返せる。見なかったことにできる。だが、ここまで来てしまって忘れられるものだろうか。九条が自分をここに連れて来た理由も分からないままなのに。
「……帰りません」
月の返答に、九条は少しだけ笑う。
「そう言うと思った」
月は無言で九条を睨んだ。
だが九条は気にする素振(そぶ)りも見せず、建物の方へと歩き出す。
「行こう」
その声に導かれるように、月はかつての悪夢が眠る場所に足を踏み出した。
今はクリスマスイブの夜。どこかの街では恋人たちがイルミネーションを眺めている。どこかの家では家族がケーキを囲んでいる。だが月の向かう先にあるのは、色褪せた記憶と、凍り付いた過去だった。
