高瀬に返事をするまでに不自然に間が空いた。
医療ミスではないと答えれば、根拠を問われるだろう。そしてその返答は動画に使われる。視聴者の誤解を招くようなテロップを付けられて。いや、誤解ならまだいい。彼は真実を掘り当ててしまうかも知れないのだ。とっくの昔に葬ったはずの、過去の傷と共に。
内心の動揺を隠すべく、月は高瀬を睨(にら)んだ。
「……何の話ですか?」
「そのままの意味ですよ」
高瀬は笑う。
「もちろん病院だから人は死ぬ。でもさ……」
高瀬は自身のスマートフォンの画面を覗き込む。
「ちょっと面白いんだよねぇ」
面白い。その言葉に月は吐き気を覚えた。
高瀬は手にしたスマートフォンの画面の上で指を動かす。
「例えば今月、神倉さんが深夜勤だった日……死亡患者は七人。次の深夜勤は六人。その次は八人」
まるでクイズの答えを読み上げるかのような口調だった。
「偶然かも知れない。いや、もちろん偶然だろうね。他の日と比べて明らかに多いってわけじゃない。むしろ少ない日だってある。神倉さんが深夜勤の日だけ特別多いってことはない。これくらいじゃ誤差の範囲、ただの偶然だろうね」
そう言いながら、月に向ける高瀬の目にはありありと猜疑が浮かんでいる。誤差だとか偶然だとはまったく思っていない顔だ。月は高瀬を睨んだまま、呆れたふりをした。
「何が言いたいんですか?」
「いや、別に?」
高瀬は肩を竦(すく)める。
「ちょっと気になっただけですよ。看護師さんって大変だなって。疲れやら何やらで医療ミスを頻発してしまったら、ねぇ? 取り返しがつかないじゃないですか」
月の掌に爪が食い込む。
こいつは知っている。いや、正確には気付き始めている。まだ証拠はない。だからこうして探りを入れているのだろう。ただの無神経な炎上屋だと思っていた。しかしその嗅覚は、侮れないものがある。
高瀬は月に一歩近付く。
「ねぇ、神倉さん。人が死ぬ瞬間を見るってどんな気分?」
月は思わず高瀬を見た。高瀬の目には、興味や好奇心や期待がありありと見て取れる。まるで解剖前の標本を見る学生のようだった。
「あなたには関係ありません」
「いや、あるよ」
高瀬は即座に否定した。
「俺、人の死が好きだから」
月の中で何かが軋む。怒りだった。この男は本当に、何も分かっていない。
高瀬は笑いながら言葉を続ける。顔の下半分を笑いの形に保ったまま、上半分で月の様子を冷静に観察している。
「好きだから知りたい。人が死ぬ場所も、人が死ぬ理由も、人が死ぬ顔も。だから病院に取材に来てるんだよ。そういうモノが集まっていて、面白いから」
「人の死を茶化さないでください」
「茶化してないよ。俺は俺なりに真剣なんでね。医療事故の隠蔽は見過ごせないし、もしもシリアルキラーがいるなら死刑台に送らなければならない。俺はさ、人の死が好きだけど、モラルが一番大事だと思ってるからさ」
高瀬はそう言いながら、倫理観の欠如した炎上屋らしい笑い方をした。
殺してやりたい。月がそう思った瞬間──
「──高瀬さん」
二人の間に別の声が割り込んだ。
穏やかな声だった。だがその声に温度はなかった。
月は振り返る。九条零だった。白衣姿のままこちらに歩いてくる。彼は朝の日差しを背負っていた。日差しの眩しさと逆光の作る影が、彼の表情を見えづらくしていた。
高瀬は営業スマイルを浮かべ、九条に手を振った。
「おっ、九条先生じゃないですか。おはようございます」
「おはよう」
九条も笑った。しかしその目は笑っていない。
「病院の敷地内で職員を呼び止めるのは感心しないな」
「取材ですよ」
「許可は取りましたか?」
「取ってません」
「……でしょうね」
九条は月の前に立った。高瀬との間に割って入るように。
高瀬はそれを見て面白そうに眉を上げる。
「先生、今度また時間をもらえません?」
九条は少し考える素振(そぶ)りを見せた。
「何故ですか?」
「面白い話がある。先生も興味あるんじゃないですかね」
数秒の沈黙が流れた。月は二人を見比べた。奇妙な空気だった。会話をしているのに、まるで全く別のものを探り合っているかのような。
「分かった。後日、時間を作ろう」
九条の返答に、高瀬の目が細くなる。
「マジっすか?」
「ええ。以前も取材に応じたでしょう」
「あの時はなんか、俺も色々としつこく聞いちゃったからさ。二度と応じてもらえないんじゃないかなって心配してたんですよ」
「いや、それはない」
その言葉に、高瀬は満足そうに笑った。
「じゃ、また連絡しますんで」
それだけ言うと、高瀬は手を振りながら去っていく。
彼の姿が見えなくなっても、月はしばらくその場から動けなかった。
冬の朝の空気が冷たい。病院の正面玄関では患者や職員が行き交っている。いつもと変わらない朝だった。だが月の胸の奥では、嫌な予感が膨らみ続けていた。
「神倉さん」
九条が声をかける。月は我に返った。
「大丈夫?」
「……大丈夫です」
何かを考えるよりも先に、月はそう答えていた。
しかし九条は納得していない様子だった。
「あれは大丈夫な顔じゃなかった」
「先生こそ……」
月は九条を見上げる。
「どうして高瀬さんと会う約束なんてしたんですか?」
九条は少し笑った。
「ああいう手合いは断ってもしつこく来るでしょう」
「……」
「だったら話した方が早い」
もっともらしい理由だった。しかし月は納得できずにいた。
高瀬は危険だ。話が通じるような相手ではないし、一度話して納得すれば引き下がるような相手でもない。それは九条も理解しているはずだった。なのに何故、そんな相手と会おうとするのか──
二人は自動ドアをくぐって病院に入る。暖房の効いた空気が冷えきった体を包む。ロビーの中央には白いクリスマスツリー。金と銀のオーナメントに、パステルカラーのLEDライトがツリーの枝を飾っている。病院らしく控えめな装飾だが、それでもクリスマスの空気を感じるには充分だった。ツリーの前で子供が母親と写真を撮っている。
月はクリスマスツリーを見た。その背後で、九条が口を開いた。
「神倉さん。クリスマスは空いてる?」
月は思わず振り返った。
「は?」
「二十四日。日勤だったよね」
「調べたんですか?」
「いや。たまたま目に入っただけだから」
嘘だ。月は非難がましい目で九条を見た。
しかし九条は平然としたまま、再び月に問う。
「で、二十四日の夜は空いてる?」
「何でですか」
「デート」
九条は迷わずに答えた。
月は言葉を失う。ロビーを通る患者がちらちらとこちらを見る。しかし九条は気にする素振(そぶ)りを見せなかった。
「先生、ここ病院です」
「知ってる」
「そういう話をする場所じゃありません」
「じゃあ今度は外で言おうか」
そういう問題ではない。月は頭痛を覚えた。
しかし九条は楽しそうだった。
「クリスマスイブの夜、予定ある?」
「ありませんけど」
答えた瞬間、失敗したと思った。
「じゃあ決まり」
「決まってません」
「決まった」
「決まってません」
九条は笑う。その笑顔がやけに嬉しそうで、月はさらに腹が立った。だが同時に、ほんの少しだけ胸がざわつく。九条はおそらくクリスマスイブまでに高瀬に会う。デートはその後だ。何故、九条は今、デートの約束をするのだろう。言葉にならない違和感を払拭できない月の傍らで、白いツリーが静かに輝いていた。
◇
夜風が強かった。シーサイドパレス東雲(しののめ)の屋上には誰もいない。バブル期に造られた展望スペース。かつては整備が行き届き、色とりどりの花に溢れていたはずの場所は、今では錆びた手すりと色褪せたベンチが残るのみ。
月は廃墟と化した無人のデッキを歩く。眼下には東雲市の灯りが広がっている。遠くには東雲総合医療センター。そのさらに向こうでは、観覧車がゆっくりと回っている。クリスマスを控えた街は、どこも暖かな光に包まれていた。
月はフェンスにもたれ、スマートフォンを握る。画面には非通知の着信履歴。水族館でのデートの最中に、高瀬からかかってきた時のもの。指先で一度なぞる。高瀬の連絡先は知らない。自分から電話することはできない。
──次にかかってきたら。
月は高瀬の電話を待っていた。
あの男なら必ず掛けてくる。何か掴めると思っているから。まだ自分を追い詰められると思っているから。だから待つ。こちらから仕掛けるために。攻撃に転じるために。
冷たい風が髪を揺らした。自然と、遠い日の記憶が浮かぶ。小学生だった頃。冷たいスケートリンク。転べば怒鳴られ、失敗すれば責められる毎日。そして、あの日──
詳しいいきさつは、今となっては思い出せない。スケートリンクの倉庫でコーチの墨図義己(すみずよしき)が激高した。倉庫内にはコーチと月の二人しかいなかった。墨図は真っ赤な顔で罵詈雑言を吐き散らし、月の首を絞めて殺そうとした。不思議と恐怖は感じなかった。テレビの中でアナウンサーが自分の死を報じる様子を他人事のように想像しながら、一刻も早くこの苦痛から逃れたいと思った。死にたくない、とは思わなかった。それでも身体は勝手に動いた。苦しみから逃れるべく。腕を振り払い、爪を立て、必死にもがいた。
異変に気付いた大人が駆けつけ、墨図は逮捕された。月に対する殺人未遂がきっかけとなって、多くの余罪が判明した。しかし月の記憶の中でもっとも印象に残っているのは、学校で友達に言われたこと──
『死にたくなかったよね』
普通の人間が思うはずのことを自分は思わなかった。それがショックだった。『お前はマトモな人間じゃない』──母の言葉と自分自身が一直線に繋がった。
──でも、今は違う。
自分は三十歳まで生きられないだろうと思っていた。
母の言葉に反論するためだけに看護師になり、人を殺し続ける。いつかその罪悪感に耐えきれずに自殺するだろうと思った。あるいは自殺するためのエネルギーを得るために『マトモな人間』になろうとしていたのかも知れない。
そこに高瀬が現れた。他人の苦しみに目を向けない男。動画になるか、再生数になるか、それしか見ていない男。彼は他人の怒りさえコンテンツとして利用する。しかしその嗅覚は鋭い。このままではいずれ、彼は真相に辿り着く。そして九条を巻き込む。
──それは嫌。
胸の奥が静かに軋(きし)む。
ようやく手に入れた穏やかな時間だった。観覧車、水族館、そして他愛のない会話。普通の恋人なら、『マトモな人間』なら、当たり前なのかも知れない時間。その全てを、高瀬は土足で踏みにじろうとしている。
「私がマトモな人間になることを邪魔する奴は許さない」
観覧車を遠くに臨みながら、月は祈るように呟く。
不思議と迷いはなかった。患者を見送るときと同じだった。苦しみが続くくらいなら、終わらせた方がいい。法も倫理も頼りにならない。自分で決着をつけなければ。
スマートフォンをコートのポケットに仕舞う。画面は消えたままだ。しかし音量だけは最大になっていた。高瀬蒼介から電話がかかってきたときのために。
月は夜景から視線を外し、ゆっくりと屋上を後にする。
もしも高瀬から電話がかかってきたら──今度はこちらから誘い出す。人気(ひとけ)のない場所に。誰にも見られない場所に。おびき出したら躊躇しない。今までは病院の中でしか人を殺したことがなかった。何故ならそれらの殺人は、患者を苦しみから救うため、解放するための行いだったからだ。そうすることで自分は初めて『マトモな人間』になれた。しかし今は違う。個人的な怨恨で人を殺そうとしている。迷いはない。そうしなければ自分は『マトモな人間』になろうとすることすらできなくなる。
ポケットに入れたスマートフォンは静かなままだ。
月は獲物が罠にかかるのを待っていた。
医療ミスではないと答えれば、根拠を問われるだろう。そしてその返答は動画に使われる。視聴者の誤解を招くようなテロップを付けられて。いや、誤解ならまだいい。彼は真実を掘り当ててしまうかも知れないのだ。とっくの昔に葬ったはずの、過去の傷と共に。
内心の動揺を隠すべく、月は高瀬を睨(にら)んだ。
「……何の話ですか?」
「そのままの意味ですよ」
高瀬は笑う。
「もちろん病院だから人は死ぬ。でもさ……」
高瀬は自身のスマートフォンの画面を覗き込む。
「ちょっと面白いんだよねぇ」
面白い。その言葉に月は吐き気を覚えた。
高瀬は手にしたスマートフォンの画面の上で指を動かす。
「例えば今月、神倉さんが深夜勤だった日……死亡患者は七人。次の深夜勤は六人。その次は八人」
まるでクイズの答えを読み上げるかのような口調だった。
「偶然かも知れない。いや、もちろん偶然だろうね。他の日と比べて明らかに多いってわけじゃない。むしろ少ない日だってある。神倉さんが深夜勤の日だけ特別多いってことはない。これくらいじゃ誤差の範囲、ただの偶然だろうね」
そう言いながら、月に向ける高瀬の目にはありありと猜疑が浮かんでいる。誤差だとか偶然だとはまったく思っていない顔だ。月は高瀬を睨んだまま、呆れたふりをした。
「何が言いたいんですか?」
「いや、別に?」
高瀬は肩を竦(すく)める。
「ちょっと気になっただけですよ。看護師さんって大変だなって。疲れやら何やらで医療ミスを頻発してしまったら、ねぇ? 取り返しがつかないじゃないですか」
月の掌に爪が食い込む。
こいつは知っている。いや、正確には気付き始めている。まだ証拠はない。だからこうして探りを入れているのだろう。ただの無神経な炎上屋だと思っていた。しかしその嗅覚は、侮れないものがある。
高瀬は月に一歩近付く。
「ねぇ、神倉さん。人が死ぬ瞬間を見るってどんな気分?」
月は思わず高瀬を見た。高瀬の目には、興味や好奇心や期待がありありと見て取れる。まるで解剖前の標本を見る学生のようだった。
「あなたには関係ありません」
「いや、あるよ」
高瀬は即座に否定した。
「俺、人の死が好きだから」
月の中で何かが軋む。怒りだった。この男は本当に、何も分かっていない。
高瀬は笑いながら言葉を続ける。顔の下半分を笑いの形に保ったまま、上半分で月の様子を冷静に観察している。
「好きだから知りたい。人が死ぬ場所も、人が死ぬ理由も、人が死ぬ顔も。だから病院に取材に来てるんだよ。そういうモノが集まっていて、面白いから」
「人の死を茶化さないでください」
「茶化してないよ。俺は俺なりに真剣なんでね。医療事故の隠蔽は見過ごせないし、もしもシリアルキラーがいるなら死刑台に送らなければならない。俺はさ、人の死が好きだけど、モラルが一番大事だと思ってるからさ」
高瀬はそう言いながら、倫理観の欠如した炎上屋らしい笑い方をした。
殺してやりたい。月がそう思った瞬間──
「──高瀬さん」
二人の間に別の声が割り込んだ。
穏やかな声だった。だがその声に温度はなかった。
月は振り返る。九条零だった。白衣姿のままこちらに歩いてくる。彼は朝の日差しを背負っていた。日差しの眩しさと逆光の作る影が、彼の表情を見えづらくしていた。
高瀬は営業スマイルを浮かべ、九条に手を振った。
「おっ、九条先生じゃないですか。おはようございます」
「おはよう」
九条も笑った。しかしその目は笑っていない。
「病院の敷地内で職員を呼び止めるのは感心しないな」
「取材ですよ」
「許可は取りましたか?」
「取ってません」
「……でしょうね」
九条は月の前に立った。高瀬との間に割って入るように。
高瀬はそれを見て面白そうに眉を上げる。
「先生、今度また時間をもらえません?」
九条は少し考える素振(そぶ)りを見せた。
「何故ですか?」
「面白い話がある。先生も興味あるんじゃないですかね」
数秒の沈黙が流れた。月は二人を見比べた。奇妙な空気だった。会話をしているのに、まるで全く別のものを探り合っているかのような。
「分かった。後日、時間を作ろう」
九条の返答に、高瀬の目が細くなる。
「マジっすか?」
「ええ。以前も取材に応じたでしょう」
「あの時はなんか、俺も色々としつこく聞いちゃったからさ。二度と応じてもらえないんじゃないかなって心配してたんですよ」
「いや、それはない」
その言葉に、高瀬は満足そうに笑った。
「じゃ、また連絡しますんで」
それだけ言うと、高瀬は手を振りながら去っていく。
彼の姿が見えなくなっても、月はしばらくその場から動けなかった。
冬の朝の空気が冷たい。病院の正面玄関では患者や職員が行き交っている。いつもと変わらない朝だった。だが月の胸の奥では、嫌な予感が膨らみ続けていた。
「神倉さん」
九条が声をかける。月は我に返った。
「大丈夫?」
「……大丈夫です」
何かを考えるよりも先に、月はそう答えていた。
しかし九条は納得していない様子だった。
「あれは大丈夫な顔じゃなかった」
「先生こそ……」
月は九条を見上げる。
「どうして高瀬さんと会う約束なんてしたんですか?」
九条は少し笑った。
「ああいう手合いは断ってもしつこく来るでしょう」
「……」
「だったら話した方が早い」
もっともらしい理由だった。しかし月は納得できずにいた。
高瀬は危険だ。話が通じるような相手ではないし、一度話して納得すれば引き下がるような相手でもない。それは九条も理解しているはずだった。なのに何故、そんな相手と会おうとするのか──
二人は自動ドアをくぐって病院に入る。暖房の効いた空気が冷えきった体を包む。ロビーの中央には白いクリスマスツリー。金と銀のオーナメントに、パステルカラーのLEDライトがツリーの枝を飾っている。病院らしく控えめな装飾だが、それでもクリスマスの空気を感じるには充分だった。ツリーの前で子供が母親と写真を撮っている。
月はクリスマスツリーを見た。その背後で、九条が口を開いた。
「神倉さん。クリスマスは空いてる?」
月は思わず振り返った。
「は?」
「二十四日。日勤だったよね」
「調べたんですか?」
「いや。たまたま目に入っただけだから」
嘘だ。月は非難がましい目で九条を見た。
しかし九条は平然としたまま、再び月に問う。
「で、二十四日の夜は空いてる?」
「何でですか」
「デート」
九条は迷わずに答えた。
月は言葉を失う。ロビーを通る患者がちらちらとこちらを見る。しかし九条は気にする素振(そぶ)りを見せなかった。
「先生、ここ病院です」
「知ってる」
「そういう話をする場所じゃありません」
「じゃあ今度は外で言おうか」
そういう問題ではない。月は頭痛を覚えた。
しかし九条は楽しそうだった。
「クリスマスイブの夜、予定ある?」
「ありませんけど」
答えた瞬間、失敗したと思った。
「じゃあ決まり」
「決まってません」
「決まった」
「決まってません」
九条は笑う。その笑顔がやけに嬉しそうで、月はさらに腹が立った。だが同時に、ほんの少しだけ胸がざわつく。九条はおそらくクリスマスイブまでに高瀬に会う。デートはその後だ。何故、九条は今、デートの約束をするのだろう。言葉にならない違和感を払拭できない月の傍らで、白いツリーが静かに輝いていた。
◇
夜風が強かった。シーサイドパレス東雲(しののめ)の屋上には誰もいない。バブル期に造られた展望スペース。かつては整備が行き届き、色とりどりの花に溢れていたはずの場所は、今では錆びた手すりと色褪せたベンチが残るのみ。
月は廃墟と化した無人のデッキを歩く。眼下には東雲市の灯りが広がっている。遠くには東雲総合医療センター。そのさらに向こうでは、観覧車がゆっくりと回っている。クリスマスを控えた街は、どこも暖かな光に包まれていた。
月はフェンスにもたれ、スマートフォンを握る。画面には非通知の着信履歴。水族館でのデートの最中に、高瀬からかかってきた時のもの。指先で一度なぞる。高瀬の連絡先は知らない。自分から電話することはできない。
──次にかかってきたら。
月は高瀬の電話を待っていた。
あの男なら必ず掛けてくる。何か掴めると思っているから。まだ自分を追い詰められると思っているから。だから待つ。こちらから仕掛けるために。攻撃に転じるために。
冷たい風が髪を揺らした。自然と、遠い日の記憶が浮かぶ。小学生だった頃。冷たいスケートリンク。転べば怒鳴られ、失敗すれば責められる毎日。そして、あの日──
詳しいいきさつは、今となっては思い出せない。スケートリンクの倉庫でコーチの墨図義己(すみずよしき)が激高した。倉庫内にはコーチと月の二人しかいなかった。墨図は真っ赤な顔で罵詈雑言を吐き散らし、月の首を絞めて殺そうとした。不思議と恐怖は感じなかった。テレビの中でアナウンサーが自分の死を報じる様子を他人事のように想像しながら、一刻も早くこの苦痛から逃れたいと思った。死にたくない、とは思わなかった。それでも身体は勝手に動いた。苦しみから逃れるべく。腕を振り払い、爪を立て、必死にもがいた。
異変に気付いた大人が駆けつけ、墨図は逮捕された。月に対する殺人未遂がきっかけとなって、多くの余罪が判明した。しかし月の記憶の中でもっとも印象に残っているのは、学校で友達に言われたこと──
『死にたくなかったよね』
普通の人間が思うはずのことを自分は思わなかった。それがショックだった。『お前はマトモな人間じゃない』──母の言葉と自分自身が一直線に繋がった。
──でも、今は違う。
自分は三十歳まで生きられないだろうと思っていた。
母の言葉に反論するためだけに看護師になり、人を殺し続ける。いつかその罪悪感に耐えきれずに自殺するだろうと思った。あるいは自殺するためのエネルギーを得るために『マトモな人間』になろうとしていたのかも知れない。
そこに高瀬が現れた。他人の苦しみに目を向けない男。動画になるか、再生数になるか、それしか見ていない男。彼は他人の怒りさえコンテンツとして利用する。しかしその嗅覚は鋭い。このままではいずれ、彼は真相に辿り着く。そして九条を巻き込む。
──それは嫌。
胸の奥が静かに軋(きし)む。
ようやく手に入れた穏やかな時間だった。観覧車、水族館、そして他愛のない会話。普通の恋人なら、『マトモな人間』なら、当たり前なのかも知れない時間。その全てを、高瀬は土足で踏みにじろうとしている。
「私がマトモな人間になることを邪魔する奴は許さない」
観覧車を遠くに臨みながら、月は祈るように呟く。
不思議と迷いはなかった。患者を見送るときと同じだった。苦しみが続くくらいなら、終わらせた方がいい。法も倫理も頼りにならない。自分で決着をつけなければ。
スマートフォンをコートのポケットに仕舞う。画面は消えたままだ。しかし音量だけは最大になっていた。高瀬蒼介から電話がかかってきたときのために。
月は夜景から視線を外し、ゆっくりと屋上を後にする。
もしも高瀬から電話がかかってきたら──今度はこちらから誘い出す。人気(ひとけ)のない場所に。誰にも見られない場所に。おびき出したら躊躇しない。今までは病院の中でしか人を殺したことがなかった。何故ならそれらの殺人は、患者を苦しみから救うため、解放するための行いだったからだ。そうすることで自分は初めて『マトモな人間』になれた。しかし今は違う。個人的な怨恨で人を殺そうとしている。迷いはない。そうしなければ自分は『マトモな人間』になろうとすることすらできなくなる。
ポケットに入れたスマートフォンは静かなままだ。
月は獲物が罠にかかるのを待っていた。
