私だけに優しい、殺人鬼

 ショーが終わり、会場に照明が戻った。
 観客たちは満足そうな顔で席を立っていく。子供たちは興奮気味に感想を語り合い、恋人たちは写真を確認しながら出口に向かう。月も立ち上がった。その瞬間、肩に置かれていた九条の腕が離れる。ほんの僅かな解放感と、言葉にならない物足りなさが、月の胸を同時にかすめた。

「楽しかった?」

 九条が訊く。

「普通です」
「楽しかったんだ」
「違います」
「そういうことにしておくよ」

 以前も聞いた台詞だった。
 月は眉をひそめるが、九条は楽しそうだった。
 二人は人の流れに乗って会場を後にすると、再び薄暗い館内を歩いた。頭上の水槽では、エイがゆっくりと泳いでいた。翼のように広がる身体が照明を受けて銀色にきらめき、その影がガラス越しに揺れる。壁面の水槽の向こうでは、色鮮やかな魚の群れが流れるように泳ぎ、岩場を模したオブジェの隙間から小さな魚が顔を覗かせていた。水の循環音と遠くの話し声だけが響く空間は、まるで海の中に迷い込んだかのようだった。しばらく沈黙が続く。しかし不思議と居心地は悪くない。
 やがて閉館のアナウンスが流れ始めた。館内の照明が少しずつ明るくなる。夢から現実へと引き戻されるような感覚だった。二人は出口へと向かう。巨大水槽の青い光が遠ざかっていく。やがて自動ドアが開き、冷たい夜気が流れ込んできた。冬の海風は鋭い。吐く息が白くなる。
 水族館の前には、イルミネーションが輝いていた。
 高さ数メートルはあるクリスマスツリーが、青や白に光っている。ゆっくりとしたその明滅は、まるで波のようだ。大きなリースには散りばめられた金色のオーナメントが、ツリーの光を受けてきらきらと輝いていた。足元にはイルミネーションのアーチが連なり、光の回廊を作っている。スピーカーからはクリスマスソングが流れている。
 恋人たちは肩を寄せ合い、スマートフォンを掲げながら、イルミネーションを背景に写真を撮る。子どもたちは歓声を上げながら光のトンネルを駆け抜けていく。
 どこを見てもクリスマスだった。二人は並んで駐車場まで歩く。途中、何度か会話を交わしたが、月はその内容を覚えていなかった。高瀬の電話。病院のこと。九条のこと。考えなければならないことは山ほどある。それなのに、頭のどこかが妙にぼんやりとしていた。
 少し離れた場所にある駐車場に到着する。
 二人は月の車の前で立ち止まった。

「今日はありがとうございました」

 九条を見上げ、月が言う。

「こちらこそ」

 九条は穏やかに笑った。
 二人の間を海風が吹き抜ける。
 水族館のスピーカーから流れるクリスマスソングが遠く聞こえる。
 別れ際の沈黙は、思ったよりも長かった。

「神倉(かぐら)さん」

 やがて九条が口を開いた。

「高瀬から電話があった日のこと。気付かなくてごめん」
「何のことですか?」
「君のそばにいてあげられなかった」

 九条に言われて月はあの日のことを思い出す。
 今は誰にも会いたくないと思っていたこと。そう思いながらもスマホに着信があったとき、九条からかも知れないと少しだけ期待したこと。

「そばに来られても困ります」
「ひどいな」

 九条はいつものように笑った。

「あの日は一人になりたかったから」
「そうか……」
「一人で片づけなければいけない用事があったので。……おやすみなさい」
「おやすみ」

 月は車に乗り込み、エンジンをかけた。窓越しに見ると、九条はまだそこに立っていた。まるで見送りのようだった。本当に変な人だと思う。月は小さく息を吐き、車を発進させる。バックミラーに映る九条の姿が少しずつ小さくなり、やがて見えなくなる。
 海沿いの道路を走る。街はクリスマス一色だった。店のショーウィンドウには赤や金の飾りが並び、ガラス越しの照明が温かく街路を照らしている。建物の壁面には色とりどりのイルミネーションが流れるように灯っている。信号待ちをするカップルの横顔が、その光に照らされて柔らかく浮かび上がっていた。
 どこも明るい。どこも楽しそうだった。月は赤信号で車を止め、ふと自分の肩に手を触れた。何気ない動作だった。だが、そこにはもう誰の手もない。信号が青に変わる。月はアクセルを踏んだ。
 シーサイドパレス東雲(しののめ)のまばらな灯りが見えてくる。巨大な廃墟のようなマンション。人気(ひとけ)のない廊下。静かな部屋。いつもの日常が待っている場所。それなのに、今夜は少しだけ違って見える。その理由を考えたくなくて、月はラジオの音量を上げた。

          ◇

 午後九時を回った東雲総合医療センターは、昼間とは別の顔を見せていた。外来は閉まり、照明の落とされた廊下には足音だけが響く。しかしその最上階にある院長室には、まだ明かりが点いていた。
 重厚なデスクの向こうで、無言のままソファに腰を下ろす男──御堂恒一(みどうこういち)、六十三歳、東雲総合医療センターの院長だ。白髪交じりの髪をきちんと整え、仕立ての良いスーツを着ている。背筋はまっすぐで、年齢を感じさせない。外から見れば理想的な病院経営者だろう。だが今、その顔にはわずかな疲労が滲んでいた。
 御堂の向かいには、ノートパソコンを携えた秘書の朝倉(あさくら)が立っている。

「例の動画です」

 朝倉はノートパソコンを机に置き、その画面を御堂に向けると、動画の再生ボタンを押した。
 無精髭を生やした男が画面に映る。この男の顔を見るのは何度目だろう、と御堂は思う。男──高瀬蒼介(たかせそうすけ)は、いつもどおりの軽薄な笑みを浮かべながらカメラに向かって話し始めた。

『どうも、タカセ探偵局です。皆さん、お待たせしました。八年前の東雲医療センター医療事故。これ、事故じゃありません。隠蔽です。しかも、隠蔽に関与したのは一人や二人じゃない。病院ぐるみなんですねぇ。……なんて言うと『証拠は?』ってコメントがまた湧きますよね。だから今日は証言を見てもらいましょう』

 御堂は表情を変えない。動画は続く。

『証言してくれたのは、当時その場にいた人たちです。顔は出せません。でも、この証言だけでも充分にヤバさが伝わると思います!』

 画面が切り替わり、椅子に座る人物が映る。顔には濃いモザイクがかかり、声も機械的なものに変えられているが、その体型は初老の男のものだった。

『事故のあと、院内では口裏合わせが行われました。誰も真実を話そうとしなかった。話した人間から辞めていったんです』

 御堂は静かに画面を見つめる。
 朝倉が様子を窺った。

「……心当たりがおありですか?」
「ある。外科の人間だ」

 御堂は短く答えた。
 動画の証言者は続ける。

『……カルテの内容が途中から変わっていました。私は見ました。最初の記録と最後の記録は別物です』

 御堂は鼻で笑った。

「やはり柏木か」
「柏木俊介(かしわぎしゅんすけ)先生ですか?」
「十中八九な」

 御堂は腕を組む。
 柏木俊介が退職してから八年が経った。彼の当時の役職は外科医長補佐。医療事故発生当時、御堂と対立していた男だ。「病院は隠蔽している」と主張した彼は、問題児扱いを受け、自主退職。現在は地方の小さなクリニックの院長をしているという。
 御堂の中で、彼の存在はとっくに過去のものになっていた。しかしまだ終わっていなかったらしい。御堂は低く唸る。
 画面は再び切り替わり、今度は女性が現れた。こちらもモザイク越しだったが、その体型や仕草からおおよその年齢は見当がつく。

『あの頃の病棟は異常でした。何かがおかしかった。みんな怯えていたんです。何を言っても無駄だって』

 御堂は一瞬だけ目を細めた。

「……小坂由紀子(こさかゆきこ)だな」

 朝倉はメモを取る。

「訪問看護へ移った看護師ですね」
「恐らくな」

 彼女は当時の病棟責任者を務めたベテラン看護師だった。問題行動を起こしたことはなかったが、「この病院では働けない」と言い残して退職した。
 画面の女性はさらに続ける。

『事故だけじゃありません。もっと前から色々ありました。でも誰も逆らえなかった。特に看護部は』

 そこで映像が止まり、高瀬が画面に戻ってきた。

『もちろん、今回の証言だけじゃありません。まだまだあります。東雲医療総合センターの闇、全部出し切るまで終わりません』

 画面の中で高瀬が挑発的に笑う。

『病院関係者の皆さん、もしこの動画を見てるなら、今頃慌ててるんじゃないですかねぇ? でも、もう遅いですからね。それと、現役職員の皆さん。今ならまだ間に合います。知ってることがあるなら連絡ください。匿名で構いません』

 高瀬の煽りは多方面に及ぶ。

『そしてそして、ここまで見て「証拠ないじゃん」って思った人。……安心してください、次はもっと面白いのが出ます。この病院、今もいる人の方がヤバいネタ、持ってそうですからねぇ』

 そして動画は終わった。
 院長室に静寂が落ちる。朝倉がノートパソコンを閉じた。

「法務は名誉毀損で警告文を準備しています」
「無意味だな」

 御堂はにべもなく言った。
 彼には分かっていた。警告を出せば、高瀬は喜ぶ。動画のネタになるからだ。

『病院が圧力をかけてきました』

 彼ならそう騒ぐだろう。そして再生数が伸びる。だから厄介だった。
 御堂のデスクの上には、紙に印刷された苦情一覧が鎮座している。苦情はここ数週間で急増していた。電話、メール、問い合わせフォーム。経路も内容も様々だが、発生源は明らかだった。

『八年前の件は本当ですか?』
『家族を入院させても大丈夫でしょうか?』
『死亡率が高いという噂があります』
『説明責任を果たしてください』

 そして──

『シリアルキラーがいるって本当ですか?』

 御堂はその一文を横目で見た。
 馬鹿馬鹿しいにも程がある。根拠のない陰謀論だ。
 それなのに、その数は無視できない量になり始めていた。
 病院の評判は信用で成り立っている。一度疑われれば終わりだ。
 事実かどうかは関係ない。噂だけで患者は離れる。医師も看護師も離れる。
 当然だ。信用できない場所に誰が命を預けるというのか。

 御堂は椅子から立ち上がり、窓際へと歩いていく。
 眼下には夜の東雲市が広がり、街の灯りが静かに瞬いている。
 不意に、デスクの内線が院長室の沈黙を破った。
 電話に応答した秘書が、顔色を変える。

「院長……監察室からです」
「何だ」
「死亡した職員のIDを使い、院内のデータベースに外部からアクセスしている者が見つかったとのことです」
「IDの本来の所有者の名は?」
「真壁隆志(まかべたかし)……駐車場の非常階段から転落死した薬剤師です。IDは三日前から再び使用されています」
「ふむ……」

 御堂はすぐには答えなかった。
 しばらく夜景を眺めたあとで、小さく息を吐いた。

「……泳がせておけ」
「ですが……」
「IDを使用停止にすれば、相手は別の穴を探す。しかし真壁のIDを使用している限り、相手の行動は記録に残る」

 朝倉が御堂を見る。御堂は静かに言った。

「人は、見たいものを見る。だから見せてやればいい」