京都華道展まで、あと八十七日。
久遠朔が最初に直面した問題は、芸術でも才能でもなかった。
お金だった。
「……高いですね」
朔は見積書を見つめ、珍しく眉を寄せた。
「そりゃそうでしょう」
私は向かい側の椅子から答えた。
「京都まで花を運ぶんだから」
朔の部屋には、書類が山積みになっていた。
運送費。
保冷設備の使用料。
花材の仕入れ費。
現地での設営費。
そして、出展に必要な諸経費。
名門久遠流の後継者だったころ、朔は作品制作に必要な予算を自分で組んだことがなかった。
作品の構想を伝えれば、担当者が花を集め、職人が花器を運び、弟子たちが会場を整えてくれた。
それが今では、一本の枝を京都まで運ぶ費用すら、自分で考えなければならない。
「これまで、僕は随分と恵まれていたんですね」
朔が呟いた。
「そうだね」
私は電卓を叩いた。
「でも、今から覚えればいいんじゃない?」
「……はい」
彼は真剣に頷いた。
私は笑った。
「まず、予算の上限を決めましょう」
「いくら必要ですか」
「それを今から考えるの」
「なるほど」
「朔」
「はい」
「何でも私に聞かないで、自分でも考えてください」
彼は少し笑った。
「……厳しいですね」
「仕事ですから」
私は見積書を指さした。
「それに、私も花乃井の仕事があります。毎日ここに来られるわけじゃないんだから」
「わかっています」
朔は頷いた。
そして、少しだけ身を乗り出した。
「では、仕事が終わったあとだけ、来てもらえますか」
「だから、それも毎日は無理」
「……そうですか」
あからさまに残念そうな顔をする。
私はため息をついた。
「そんな顔しても駄目です」
「顔に出ていました?」
「ものすごく」
朔は少し恥ずかしそうに笑った。
昨日まで、華道界の人々が恐れるほど冷静な天才だったとは思えない。
けれど、私はこの人のそんなところが好きだった。
「それより」
私は書類を一枚取り上げた。
「まず、花材を決めよう」
朔の表情が変わった。
「はい」
その瞬間、部屋の空気が引き締まった。
彼はテーブルに大きな紙を広げた。
墨で描かれた構想図だった。
中央に太い枝。
その周囲を流れるように伸びる細い線。
足元には、小さな花々が描かれている。
「題名は、まだ決めていません」
朔は言った。
「でも、表現したいものはあります」
私は図面を見つめた。
「何?」
「居場所です」
彼は静かに答えた。
「花が、自分の場所を見つけるまでの時間」
私は顔を上げた。
朔は続けた。
「僕はずっと、花を正しい場所に置くことばかり考えていました」
「……」
「どの角度が美しいか。どの高さが最適か。どの枝を残し、どの花を捨てるか」
彼は紙に指を滑らせた。
「でも、今は違う」
「どう違うの?」
朔は私を見た。
「花が、そこにいたいと思える場所を作りたい」
私はしばらく黙っていた。
そして、正直に言った。
「……難しいね」
朔は笑った。
「はい」
「でも、好き」
彼の瞳が柔らかくなった。
「ありがとうございます」
私はもう一度図面を見た。
ただ、一つ気になることがあった。
「朔」
「はい」
「これ、完成したら何メートルになるの?」
「高さ四メートルほどです」
私は電卓を置いた。
「駄目」
朔が固まった。
「……え?」
「大きすぎる」
「でも」
「予算が足りないし、運搬も難しい。それに、今の構造だと支えが必要になる」
朔は図面を見つめた。
「……」
「前は大勢の弟子が手伝ってくれたんでしょう。でも今回は違う」
私は続けた。
「できる範囲で、最高のものを作ろう」
長い沈黙。
朔は図面を見つめたまま、何も言わなかった。
私は少し不安になった。
天才の構想に、素人が口を出してしまったのだろうか。
「……ごめん」
私が言いかけると、朔が顔を上げた。
「面白いですね」
「……え?」
「今まで、誰もそんなことを言いませんでした」
彼は微笑んだ。
「僕が四メートルと言えば、四メートルの作品ができるように、周囲が準備してくれた」
「……」
「でも、あなたは違う」
私は少し身構えた。
「怒った?」
朔は首を横に振った。
「嬉しいです」
そして、図面に新しい線を描いた。
「ならば、二メートルで考えましょう」
私は笑った。
「うん」
朔は楽しそうに筆を動かし始めた。
その横顔を見て、私は思った。
この人は、これから本当に変わっていくのかもしれない。
華道界の天才ではなく。
一人の表現者として。
誰かに守られた場所ではなく、自分で選んだ場所で花を生ける人になる。
それは、きっと簡単なことではない。
けれど、その過程を近くで見られることが、私には嬉しかった。
翌日。
私は花乃井で、京都華道展に使えそうな花材を探していた。
市場から届いた枝物を確認する。
柳。
雪柳。
野ばらの枝。
季節外れの花を無理に取り寄せるより、その時期に手に入りやすいものを中心に構成したほうがいい。
ただし、展覧会は三か月後だ。
今ある花が、京都でも手に入るとは限らない。
私は仕入れ先に電話をかけ、出荷時期を確認した。
その様子を見ていた店長が声をかけた。
「小春ちゃん」
「はい」
「京都の準備?」
私は頷いた。
「仕事の邪魔にならない時間にやっています」
店長は笑った。
「そんなこと、心配してないわ」
そして、私の手元を見た。
「楽しそうね」
私は少し照れた。
「……そうですか」
「うん」
店長は優しく微笑んだ。
「最近、花を見る目が変わった気がする」
私は驚いた。
「え?」
「前はね、花を傷つけないように、いつも慎重だったでしょう」
「……」
「でも、今は少し違う」
店長は一本の枝を手に取った。
「どう生かそうか、考えている顔をしてる」
私は枝を見つめた。
確かに、そうかもしれない。
以前の私は、花をできるだけ傷つけず、長持ちさせることばかり考えていた。
けれど、朔と一緒に作品を作るようになってから、別の視点を持つようになった。
どこに置けば、最も美しく見えるのか。
どんな枝と組み合わせれば、その花らしさが引き立つのか。
花を守ることと、花の魅力を引き出すこと。
その二つは、決して対立するものではない。
「……店長」
「何?」
「私、もっと勉強したいです」
店長は笑った。
「いいじゃない」
「華道も、花の管理も、仕入れも」
私は続けた。
「いつか、自分で大きな仕事を任せてもらえるようになりたい」
店長はしばらく私を見つめた。
そして、静かに頷いた。
「じゃあ、まずはこの店を一緒に立て直しましょう」
私は笑った。
「はい」
その日、私たちは新しいサービスを考えた。
小さな店舗や事務所向けの定期装花。
季節の枝物を使った、手頃な価格のアレンジメント。
花を長持ちさせるための管理方法も伝える。
豪華な花を一度だけ届けるのではなく、無理なく続けられる仕組みを作る。
店長は昔からの顧客に連絡し、私は新しい案内文を作った。
九条グループの件は、弁護士に任せている。
賃貸借契約の更新条件についても、法的にどこまで変更できるのか確認してもらっていた。
ただ、結果を待つだけでは何も変わらない。
私たちは、自分たちにできることから始めることにした。
夕方。
店の電話が鳴った。
店長が受話器を取った。
「はい、花乃井でございます」
私は花束を作りながら、何気なく耳を傾けていた。
「……ええ」
店長の声が変わった。
「本当ですか」
私は顔を上げた。
「ありがとうございます。ぜひ、お願いいたします」
電話が切れた。
店長は私を見た。
「小春ちゃん」
「はい」
「注文が入ったわ」
「どこから?」
「新しいレストランよ。毎週、装花をお願いしたいって」
私は思わず笑った。
「本当ですか!」
店長は頷いた。
「先日の展覧会の記事を見たんですって」
「……展覧会?」
「あなたが久遠朔さんと一緒に作品を生け直したことが、紹介されていたみたい」
私は驚いた。
「そんな記事が?」
店長は笑った。
「花乃井の名前も載っていたそうよ」
私は胸が熱くなった。
展覧会で起きた事故。
壊された作品。
それを生け直した夜。
あの出来事が、思いがけない形で店の仕事につながっていた。
「……よかった」
私は呟いた。
店長は笑った。
「まだ一件だけどね」
「一件でも、嬉しいです」
私たちは顔を見合わせた。
そして、笑った。
その夜。
私は朔の部屋を訪ねた。
インターホンを押す。
すぐに扉が開いた。
「小春」
朔が微笑んだ。
「いらっしゃい」
私は部屋に入った。
そして、足を止めた。
「……何、これ」
床一面に枝が広がっていた。
大きな花器。
針金。
水を入れたバケツ。
紙に描かれた構想図。
まるで、小さな工房だった。
朔は少し恥ずかしそうに笑った。
「試作をしていました」
「それは見ればわかるけど」
私は床を見た。
「寝る場所は?」
「あります」
「どこ?」
朔は部屋の隅を指さした。
ベッドの半分が枝で埋まっていた。
私はため息をついた。
「……朔」
「はい」
「生活する場所と、仕事する場所は分けよう」
彼は真剣に頷いた。
「そうですね」
「このままだと危ないよ」
「すみません」
私は荷物を置いた。
「片づけ、手伝う」
朔は微笑んだ。
「ありがとうございます」
私たちは枝をまとめ、道具を整理した。
その途中。
私は、朔の右手が少し不自然に動いていることに気づいた。
「……朔」
「はい」
「手、痛い?」
彼は動きを止めた。
「……少し」
私は彼の手を見た。
親指の付け根が、わずかに腫れている。
「いつから?」
「昨日の夜から」
「ずっと作業してたの?」
朔は黙った。
私は息を吐いた。
「駄目でしょう」
「……すみません」
「謝るんじゃなくて、休んで」
彼は少し困った顔をした。
「でも、時間が」
「まだ八十日以上あるよ」
「……」
「今無理して、本番で手が動かなくなったらどうするの」
朔は答えなかった。
私は彼の右手をそっと包んだ。
「病院、行こう」
「定期的に診てもらっています」
「じゃあ、予約を早めて」
朔は少し迷った。
そして、頷いた。
「……わかりました」
私は安心した。
「よし」
彼は私を見つめた。
「小春」
「何?」
「怒っていますか」
「少し」
朔は目を伏せた。
「……ごめんなさい」
私はため息をついた。
「心配してるんです」
その瞬間。
彼の表情が柔らかくなった。
「……嬉しいです」
「嬉しがるところじゃない」
「でも」
彼は私の手を握り返した。
「誰かに、こんなふうに叱られるのは初めてなので」
私は少し驚いた。
「お父さんには?」
「結果が悪ければ叱られました」
「……」
「でも、身体を心配されたことは、あまりありません」
私は胸が痛んだ。
朔は微笑んだ。
「だから、嬉しいです」
私は彼を見つめた。
そして、静かに言った。
「じゃあ、これから何度でも叱るよ」
彼は笑った。
「お願いします」
「ただし、ちゃんと聞いてね」
「はい」
私は彼の手を離した。
「今日は作業終了」
「……はい」
「ご飯、食べた?」
「まだです」
「でしょうね」
私はキッチンへ向かった。
朔が後ろからついてくる。
「小春」
「何?」
「今日、泊まっていきませんか」
私は振り返った。
「……え?」
彼は真剣だった。
「遅いので」
私は時計を見た。
午後八時半。
「まだ帰れるよ」
「……そうですね」
あからさまに残念そうな顔をする。
私は笑った。
「また今度ね」
その瞬間。
朔の顔が明るくなった。
「……今度?」
しまった。
私は顔を伏せた。
「言葉の綾です」
「覚えておきます」
「忘れて」
「無理です」
私はため息をついた。
朔は嬉しそうに笑った。
本当に、困った人だった。
食事を終えたあと、私は彼の構想図を見せてもらった。
二メートルほどの作品。
中央には、曲がった一本の枝。
その周囲を、小さな花が取り囲んでいる。
「……これ」
私は指をさした。
「何?」
朔が尋ねた。
「花が少し多い気がする」
彼は図面を見た。
「……そうですか」
「中心の枝を見せたいなら、周りをもっと減らしてもいいんじゃない?」
朔はしばらく考えた。
そして、一本の線を消した。
「……なるほど」
私は続けた。
「あと、花の種類を増やしすぎないほうがいいと思う」
「理由は?」
「花同士が競争してるみたいだから」
朔が顔を上げた。
「……競争?」
私は頷いた。
「全部が主役になろうとしてる」
彼は図面を見つめた。
そして、静かに笑った。
「面白いですね」
「……変なこと言った?」
「いいえ」
朔は筆を取った。
「僕にはない発想です」
彼は図面を描き直した。
一本。
また一本。
線が減っていく。
やがて、紙の上には、驚くほど簡潔な構成が残った。
私は息を止めた。
「……綺麗」
朔は微笑んだ。
「あなたのおかげです」
「そんなことないよ」
「本当です」
彼は私を見つめた。
「小春」
「何?」
「僕は、あなたと一緒に花を作るのが好きです」
私は胸が温かくなった。
「私も」
彼は少し笑った。
「……それから」
「何?」
「あなたと、こうして過ごす時間も」
私は顔が熱くなった。
「……うん」
朔はそっと私の手を取った。
そして、静かに言った。
「キスしてもいいですか」
私は思わず笑った。
「また?」
「はい」
「毎回聞くの?」
彼は真剣だった。
「嫌なときもあるでしょうから」
私は少し驚いた。
そして、微笑んだ。
「……ありがとう」
朔は首を傾げた。
「何がですか」
「ちゃんと聞いてくれるところ」
彼は静かに答えた。
「あなたが大切なので」
私は胸が熱くなった。
「……いいよ」
朔はゆっくり顔を近づけた。
唇が触れる。
柔らかくて、温かい。
少し長いキスだった。
離れたあと、彼は私を見つめた。
「……小春」
「何?」
「好きです」
私は笑った。
「知ってる」
「何度でも言いたい」
「……」
「毎日でも」
私は顔を伏せた。
「本当に、ずるい」
朔は小さく笑った。
「あなたにだけです」
その夜、私は帰宅した。
翌日。
朔は病院へ行った。
私は花乃井で仕事をしていた。
昼休みに、彼からメッセージが届いた。
『診察が終わりました。』
私はすぐに返信した。
『どうだった?』
少しして、返事が来た。
『腱に負担がかかっています。しばらく長時間の作業は禁止されました。』
私は息を吐いた。
やっぱり。
『ちゃんと休んでね。』
すぐに返信が来た。
『はい。』
そして、もう一通。
『ただ、少し問題があります。』
私は画面を見つめた。
『何?』
返事が来るまで、少し時間がかかった。
『細かい作業を続けると、将来的に指の動きが制限される可能性があるそうです。』
私は息を止めた。
『手術が必要になるかもしれない、と。』
胸が冷たくなった。
華道家にとって、手は命だ。
枝を切る。
花を支える。
角度を調整する。
ほんの数ミリの違いが、作品の印象を変える。
その手が、自由に動かなくなるかもしれない。
私はすぐに電話をかけた。
朔が出た。
『小春』
「……大丈夫?」
彼は少し笑った。
『はい』
「本当に?」
『まだ、詳しい検査が必要なだけです』
私は黙った。
朔は続けた。
『心配しないでください』
その言葉に、胸が痛んだ。
「……心配するよ」
電話の向こうが静かになった。
私は続けた。
「大切な人なんだから」
長い沈黙。
そして。
『……ありがとう』
朔の声が、少し震えていた。
私は目を閉じた。
「京都のことは、いったん置いておこう」
『……』
「まず、手を治そう」
朔は答えなかった。
私は続けた。
「花は逃げないよ」
長い沈黙。
やがて、彼が小さく言った。
『……小春』
「何?」
『僕は、怖いです』
私は息を止めた。
『もし、花を生けられなくなったら』
その声は、今まで聞いたことがないほど弱かった。
『僕には、何が残るんでしょう』
私は何も言えなかった。
天才華道家。
久遠流の後継者。
二十二歳にして、華道界の未来を背負うと言われた青年。
彼の人生は、花とともにあった。
花を失うことは、自分自身を失うことに等しいのかもしれない。
けれど。
私は静かに答えた。
「……朔」
『はい』
「花を生けられなくなっても、あなたはあなたでしょう」
電話の向こうが静かになった。
私は続けた。
「花が好きなところも、優しいところも、ちょっと不器用なところも」
『……』
「全部、なくならないよ」
長い沈黙。
そして。
『……会いたい』
小さな声だった。
私は目を閉じた。
「仕事が終わったら、行くね」
『……はい』
電話を切った。
私はスマートフォンを握りしめた。
胸が苦しかった。
そのとき。
店長が声をかけた。
「小春ちゃん」
私は顔を上げた。
「はい」
彼女は私の表情を見た。
「……何かあった?」
私は少し迷った。
そして、朔の手のことを話した。
店長は黙って聞いていた。
話し終えると、静かに言った。
「そう」
私は頷いた。
「……はい」
店長はしばらく考えた。
そして、私を見た。
「小春ちゃん」
「はい」
「あなた、花屋の仕事で一番大切なことって、何だと思う?」
私は少し驚いた。
「……花を綺麗に見せること?」
店長は首を横に振った。
「それも大切」
そして、一本の薔薇を手に取った。
「でもね、もっと大切なのは、花を見極めること」
私は黙った。
「今、咲かせるべき花もある」
彼女は続けた。
「まだ、咲かせないほうがいい花もある」
私は息を止めた。
店長は微笑んだ。
「朔さんも、今は休む時期なのかもしれないわね」
私は頷いた。
「……そうですね」
彼女は私の肩を叩いた。
「焦らなくていいのよ」
私は少し笑った。
「ありがとうございます」
その夜。
私は朔の部屋へ向かった。
扉を開けた彼は、いつもより元気がなかった。
「……小春」
私は笑った。
「お邪魔します」
部屋に入る。
床に広がっていた枝は、綺麗に片づけられていた。
テーブルには、京都の構想図が置かれている。
けれど、筆は動かされていなかった。
私は荷物を置いた。
「ご飯、食べた?」
朔は首を横に振った。
「……まだです」
私はため息をついた。
「まず、ご飯」
彼は少し笑った。
「はい」
私は簡単な料理を作った。
朔は椅子に座っていた。
いつもなら手伝おうとするのに、今日は動かなかった。
その姿が、少し寂しかった。
食事を終えたあと。
私は彼の隣に座った。
「……朔」
「はい」
「京都のこと、どうする?」
彼はしばらく黙っていた。
そして、静かに答えた。
「……出たいです」
私は頷いた。
「うん」
「でも」
彼は右手を見た。
「この手では、思うように作れないかもしれません」
私は少し考えた。
そして、構想図を手に取った。
「だったら、作り方を変えよう」
朔が顔を上げた。
「……え?」
「全部、自分でやらなくてもいいんじゃない?」
彼は黙った。
私は続けた。
「あなたが考えて、誰かが手を動かす」
「……」
「それも、一つの方法でしょう?」
朔は首を横に振った。
「でも、それでは僕の作品では」
私は彼を見つめた。
「どうして?」
彼は答えなかった。
「建築家だって、自分で全部建てるわけじゃない」
「……」
「映画監督だって、全部一人で撮影するわけじゃない」
私は続けた。
「華道家も、同じじゃ駄目なの?」
長い沈黙。
朔は構想図を見つめた。
そして、静かに言った。
「……考えたことがありませんでした」
私は笑った。
「じゃあ、考えてみよう」
彼は私を見た。
「……小春」
「何?」
「あなたは、本当に不思議な人ですね」
私は首を傾げた。
「そう?」
「はい」
彼は微笑んだ。
「僕が行き詰まると、いつも別の道を見つけてくれる」
私は首を横に振った。
「道を見つけるのは、朔自身だよ」
彼は黙った。
私は続けた。
「私は、隣で一緒に考えるだけ」
長い沈黙。
そして。
朔はゆっくり頷いた。
「……そうですね」
彼は構想図を見つめた。
そして、静かに笑った。
「やってみたいです」
私は胸が温かくなった。
「うん」
朔は私の手を取った。
「小春」
「何?」
「一緒に、京都へ行きましょう」
私は頷いた。
「もちろん」
その瞬間。
彼は私をそっと抱きしめた。
「……ありがとう」
私は彼の背中に腕を回した。
「こちらこそ」
しばらく、そのままでいた。
窓の外では、夜の街が静かに輝いていた。
けれど。
翌朝。
朔のもとに、一通のメールが届いた。
差出人は、京都華道展の事務局だった。
件名は、『出展資格に関する確認』。
朔は画面を開いた。
そこには、こう書かれていた。
『久遠朔様の個人出展につきまして、複数の関係者より異議が提出されております。』
彼は眉をひそめた。
続きを読む。
『つきましては、出展資格の審査を改めて実施することとなりました。』
朔は静かに息を吐いた。
その下には、異議申し立ての理由が記されていた。
『過去の事故に関する説明責任、および所属流派との関係について。』
彼は画面を見つめた。
五年前の事件。
ようやく終わったと思っていた過去。
それが、今度は彼の未来を奪おうとしていた。
朔はスマートフォンを置いた。
そして、窓際の花を見た。
小さなガラスの花器。
白い花が一輪。
小春とおそろいで買ったものだった。
彼は静かに呟いた。
「……まだ、終わらないんですね」
その声には、怒りも悲しみもなかった。
ただ、強い決意があった。
「だったら」
彼は右手を見た。
傷痕。
痛み。
五年前から背負ってきたもの。
そして、ゆっくり微笑んだ。
「今度こそ、自分の言葉で話します」
彼はパソコンを開いた。
五年前の事故について。
久遠流との関係について。
そして、これから自分が目指す華道について。
誰かに用意された説明ではなく、自分自身の言葉で書き始めた。
そのころ。
九条玲奈のもとにも、京都華道展の事務局から連絡が入っていた。
『久遠朔様の出展資格について、審査が行われます。』
玲奈は画面を見つめた。
そして、静かに呟いた。
「……また、誰かが」
彼女は電話をかけた。
相手は、久遠宗一郎だった。
「もしもし」
『玲奈さんか』
「家元」
彼女は静かに言った。
「朔の出展に、異議を出したのはあなたですか」
電話の向こうが静かになった。
そして。
『違う』
宗一郎の声が響いた。
『私は何もしていない』
玲奈は眉をひそめた。
「……本当に?」
『ああ』
長い沈黙。
そして、宗一郎が続けた。
『だが、誰が動いたのかは見当がつく』
玲奈は息を止めた。
「……誰ですか」
宗一郎は低い声で答えた。
『久遠流の内部だ』
玲奈は黙った。
宗一郎は続けた。
『朔が自由になることを、快く思わない者がいる』
電話が切れた。
玲奈はスマートフォンを見つめた。
そして、ゆっくり立ち上がった。
「……そういうこと」
彼女は窓の外を見た。
京都華道展。
朔との再会。
自分自身の花。
ようやく前へ進もうとしていた。
けれど、誰かがまた、朔の道を塞ごうとしている。
玲奈は小さく息を吐いた。
そして、静かに言った。
「……今度は、私が止める」
その目には、以前とは違う光が宿っていた。
一方。
私は花乃井で、新しい定期装花の準備をしていた。
店長が嬉しそうに言った。
「小春ちゃん、また問い合わせが来たわ」
私は顔を上げた。
「本当ですか」
「ええ」
彼女は笑った。
「今度は、ホテルから」
私は胸が温かくなった。
少しずつ。
本当に少しずつだけれど。
店は、新しい道を歩き始めていた。
そのとき。
スマートフォンが鳴った。
朔からだった。
『小春、少し相談があります。』
私はすぐに返信した。
『どうしたの?』
少しして、返事が来た。
『京都の出展資格が、再審査になりました。』
私は息を止めた。
『理由は?』
朔から、長いメッセージが届いた。
五年前の事故。
久遠流との関係。
内部からの異議申し立て。
私は画面を見つめた。
そして、ゆっくり返信した。
『大丈夫。一緒に考えよう。』
すぐに返事が来た。
『ありがとう。』
続けて、もう一通。
『あなたがいてくれて、本当によかった。』
私は微笑んだ。
そして、短く送った。
『私も。』
送信する。
窓の外では、初夏の風が吹いていた。
店先の花が揺れている。
私はその花を見つめた。
京都まで、あと七十九日。
まだ、何が起こるかわからない。
けれど。
私たちは、もう一人ではなかった。
そして、私は知らなかった。
京都華道展の出展資格を巡る異議申し立てが、単なる内部対立では終わらないことを。
その背後には、久遠流の次期家元を巡る、もっと大きな争いが隠されていた。
朔が家を出たことで、空席になった後継者の座。
そこへ、新たな人物が名乗りを上げようとしていた。
久遠宗一郎の弟。
久遠流副家元、久遠征臣。
四十八歳。
長年、兄の陰で流派を支えてきた男だった。
彼は自室で、一枚の書類を見つめていた。
京都華道展の出展者一覧。
そこには、久遠朔の名前があった。
征臣は静かに笑った。
「……朔」
そして、赤いペンでその名前に線を引いた。
「おまえの時代は、終わりだ」
窓の外では、風が木々を揺らしていた。
久遠流の内部で、静かな争いが始まろうとしていた。
