翌朝、私は花乃井の開店より一時間早く店に着いた。
雨は夜のうちにやんでいた。けれど、道路にはまだ水たまりが残り、街路樹の葉から雫が落ちていた。
店のシャッターを上げる。
冷蔵庫の温度を確認し、水揚げを始めた。
白い薔薇の茎を切り戻し、傷んだ葉を取り除く。花瓶の水を替え、店先に鉢植えを並べる。
いつもと同じ作業だった。
けれど、今日は少しだけ違った。
午後三時。
久遠家の旧温室。
玲奈から指定された場所へ行くつもりだった。
昨夜はほとんど眠れなかった。
五年前の事件。
朔の右手の傷。
玲奈の入院。
相馬の転落事故。
そして、久遠流と花乃井の契約問題。
すべてが複雑に絡み合っている。
私は何度も考えた。
本当に一人で行くべきだろうか。
けれど、玲奈が何を隠しているのか、確かめたい気持ちも強かった。
午前八時半。
店長がやって来た。
「小春ちゃん、おはよう」
「おはようございます」
彼女は店内を見回した。
「もう水揚げ、終わったの?」
「はい」
「早いわね」
私は少し笑った。
「目が覚めちゃって」
店長は私の顔を見た。
「……何か考え事?」
私は黙った。
彼女はエプロンをつけながら言った。
「昨日の書類のことなら、気にしないで」
「でも」
「弁護士さんに相談することにしたの」
私は顔を上げた。
「弁護士?」
「商店街の組合から紹介してもらったの。契約書を確認してもらうわ」
少し安心した。
「よかったです」
店長は笑った。
「七十年も商売してるとね、困ったときに助けてくれる人がいるものよ」
そして、私の肩を軽く叩いた。
「だから、小春ちゃんも一人で抱え込まないこと」
その言葉に、胸が少し痛んだ。
私は曖昧に頷いた。
「……はい」
午前中は忙しかった。
定期便の花束を作り、配達用のアレンジメントを仕上げる。
十一時を過ぎたころ、一人の男性が店に入ってきた。
相馬和彦だった。
「三崎さん」
私は驚いた。
「相馬さん」
彼は店内を見回した。
「少し、お話しできますか」
私は店長に断り、店の奥へ案内した。
相馬は椅子に座らなかった。
立ったまま、静かに言った。
「九条玲奈さんから連絡がありましたか」
私は息を止めた。
「……どうして」
「やはり」
彼は目を伏せた。
「旧温室へ呼ばれたんですね」
私は頷いた。
「はい」
相馬は小さく息を吐いた。
「行かないでください」
「どうしてですか」
「玲奈さんは、冷静ではありません」
「……」
「五年前のことを、誰かのせいにし続けています」
私は相馬を見つめた。
「相馬さん」
「はい」
「本当は、何があったんですか」
長い沈黙。
彼は窓の外を見た。
そして、静かに言った。
「私にも責任があります」
「……」
「私は、久遠家の体面を守るために、事実と違う説明をしました」
私は息を止めた。
「事故のことですか」
「はい」
相馬は頷いた。
「階段から落ちたのは事実です。朔様が腕を振り払ったことも」
「……」
「ですが、その直前に何があったのかを、私は隠しました」
私は身を乗り出した。
「何があったんですか」
相馬は答えなかった。
代わりに、一枚の名刺を差し出した。
「私の連絡先です」
「……」
「もし旧温室へ行くなら、必ず誰かに行き先を知らせてください」
私は名刺を受け取った。
「相馬さん」
「はい」
「どうして、全部話してくれないんですか」
彼は苦しそうに笑った。
「私の言葉だけでは、信じてもらえないでしょう」
「……」
「証拠を確認してから、お話しします」
私は頷いた。
相馬は深く頭を下げた。
「朔様を、お願いします」
そして、店を出ていった。
私は名刺を見つめた。
また、同じ言葉だった。
朔をお願いします。
朔を助けてください。
誰もが、私にそう言う。
けれど、私は思った。
朔を救うのは、私一人の役目ではない。
彼自身が、自分の人生を取り戻さなければならない。
そして、私にも守るべき人生がある。
花乃井。
店長。
私自身の仕事。
好きな人のために、すべてを犠牲にすることが愛情だとは思わなかった。
昼休み。
私は朔に電話をかけた。
すぐにつながった。
『小春?』
「今、話せる?」
『もちろん』
私は深呼吸した。
「今日、玲奈さんに会います」
電話の向こうが静かになった。
『……どこで?』
「久遠家の旧温室」
長い沈黙。
『何時ですか』
「午後三時」
朔は小さく息を吐いた。
『僕にも、同じ場所へ来るよう連絡がありました』
私は驚いた。
「……そうなの?」
『はい』
「だったら、一緒に行こう」
朔は黙った。
私は続けた。
「玲奈さんには一人で来るよう言われたけど、私は従うつもりはありません」
『……』
「五年前のことは、私たち二人に関係することでしょう?」
やがて、朔が答えた。
『そうですね』
その声は、少し柔らかかった。
『一緒に行きましょう』
私は安心した。
「ありがとう」
『小春』
「何?」
『一つだけ、お願いがあります』
「うん」
『何を聞いても、僕に気を遣わないでください』
私は息を止めた。
『怒りたければ怒っていい。嫌だと思ったら、そう言ってほしい』
「……」
『僕を守るために、あなたが嘘をつく必要はありません』
私は静かに頷いた。
「わかった」
そして、少し笑った。
「朔もね」
『……僕も?』
「私を守るために、隠し事をしないで」
電話の向こうで、彼が小さく笑った。
『約束します』
午後二時四十分。
私は久遠家の門の前に立っていた。
朔はすでに待っていた。
今日は濃紺の着物だった。
細い縞模様。
灰色の帯。
雨上がりの庭に、静かな美しさが際立っていた。
私を見つけると、彼は微笑んだ。
「小春」
「待った?」
「少しだけ」
私は彼の顔を見た。
目の下に薄い影がある。
「眠れなかった?」
朔は少し笑った。
「……はい」
私は彼の右手を取った。
「大丈夫」
彼は驚いたように私を見た。
「一緒に行こう」
朔はゆっくり頷いた。
「はい」
久遠家の庭は広かった。
手入れされた松。
苔むした石。
細い水路。
その奥に、古い温室があった。
ガラス張りの建物。
ところどころ金属の枠が錆びている。
周囲には背の高い木々が茂り、昼間なのに薄暗かった。
「ここ?」
私が尋ねると、朔は頷いた。
「はい」
「使われていないの?」
「五年前から、ほとんど」
私は彼を見た。
「どうして?」
朔は少し黙った。
そして、静かに言った。
「ここで、玲奈が怪我をしたからです」
私は息を止めた。
「……ここで?」
「はい」
朔は温室の扉を見つめた。
「正確には、温室と展示準備室をつなぐ通路で」
私は何も言えなかった。
彼は続けた。
「五年前、僕は公園であなたに会ったあと、ここへ戻りました」
「……」
「父の指示で、展覧会用の作品が保管されていたんです」
朔は右手を見た。
「僕は作品を生け直そうとした」
「……」
「けれど、その前に玲奈が来ました」
私は胸が苦しくなった。
「何があったの?」
朔は答えようとした。
そのとき。
温室の扉が開いた。
「二人で来たのね」
九条玲奈が立っていた。
白いブラウス。
黒いスカート。
いつもの華やかな服装とは違い、どこか疲れて見えた。
彼女は私たちを見つめた。
そして、静かに笑った。
「まあ、いいわ」
朔が口を開いた。
「玲奈」
「何?」
「もう、終わりにしましょう」
玲奈は笑った。
「その言葉、何度目かしら」
朔は黙った。
玲奈は私を見た。
「入って」
私は朔と顔を見合わせた。
そして、一緒に温室へ入った。
中は湿った土の匂いがした。
古い棚。
使われなくなった花器。
枯れた蔓。
天井のガラスには雨粒が残っている。
奥には小さな作業台があった。
その上に、古い録音機が置かれていた。
玲奈は椅子に腰を下ろした。
「五年前のこと、知りたいんでしょう」
私は頷いた。
「はい」
「だったら、聞かせてあげる」
玲奈は録音機のボタンを押した。
小さな雑音が響いた。
そして。
若い男性の声が聞こえた。
『……やめてください』
私は息を止めた。
朔の声だった。
今より少し高い。
十七歳の彼の声。
続いて、少女の声。
『どうして、あんな女の子と話してたの』
玲奈だった。
『関係ないだろ』
『関係あるわ』
録音には雨音が混じっていた。
遠くで何かが動く音。
そして、玲奈の声が続いた。
『あの子、あなたが誰かも知らないんでしょう』
『……』
『だったら、教えてあげなきゃ』
朔の声が強くなった。
『やめろ』
『どうして?』
『彼女に近づくな』
私は朔を見た。
彼は黙っていた。
録音が続く。
『私より、あの子が大事なの?』
『そういう話じゃない』
『答えて!』
大きな物音。
何かが倒れる音。
そして。
『玲奈!』
朔の叫び声。
ガラスが割れる音。
録音はそこで一度途切れた。
温室が静まり返った。
私は玲奈を見た。
「……これは?」
玲奈は微笑んだ。
「五年前の録音」
「誰が録ったんですか」
「温室の防犯設備よ。音声も残る仕組みだったの」
私は録音機を見た。
「でも、これだけじゃ何が起きたのかわかりません」
玲奈の笑顔が消えた。
「……何?」
私は続けた。
「声は聞こえました。でも、映像はないんですよね」
「……」
「それに、途中で切れています」
玲奈は私を睨んだ。
「私が嘘をついてるって言いたいの?」
「そうじゃありません」
私は静かに答えた。
「事実を知りたいだけです」
玲奈は黙った。
朔が口を開いた。
「玲奈」
「……何よ」
「全部、話してください」
彼の声は落ち着いていた。
「僕が覚えていることも、話します」
玲奈は笑った。
「あなたに何がわかるの」
朔は静かに答えた。
「少なくとも、僕は覚えています」
「……」
「あなたがガラスの花器を持ち上げたこと」
玲奈の表情が変わった。
私は息を止めた。
朔は続けた。
「あなたは、小春のことを調べると言いました」
「……」
「僕は止めようとした」
彼は右手を見た。
「そのとき、花器が割れた」
私は胸が苦しくなった。
「……それで、怪我を?」
朔は頷いた。
「はい」
玲奈は立ち上がった。
「違う!」
その声が温室に響いた。
「あなたが、私の手をつかんだからでしょう!」
朔は黙った。
玲奈は続けた。
「私は、ただ怒っていただけ」
「……」
「花器を投げるつもりなんてなかった!」
私は彼女を見つめた。
「……じゃあ、どうして」
玲奈の声が震えた。
「朔が、あの子を守ろうとするから」
私は息を止めた。
玲奈は私を指さした。
「たった一度会っただけの女の子なのに!」
その目には涙が浮かんでいた。
「私は、ずっとそばにいたのよ」
朔は静かに言った。
「玲奈」
「何よ!」
「僕は、あなたを大切な幼なじみだと思っていました」
玲奈の表情が固まった。
「……」
「でも、恋愛感情はありませんでした」
長い沈黙。
玲奈は小さく笑った。
「……知ってるわよ」
その声は震えていた。
「そんなこと、ずっと前から」
彼女は椅子に座り込んだ。
「でも、諦められなかった」
私は何も言えなかった。
玲奈は顔を覆った。
「私は、あなたの隣に立つために、何でもしてきた」
朔は黙っていた。
「華道を習って、礼儀作法を覚えて、久遠家の人たちに気に入られるようにして」
玲奈は顔を上げた。
「なのに、あなたは」
その目が私を向いた。
「たった一度会っただけの、この人を選んだ」
私は胸が苦しくなった。
けれど、同情だけで済ませるわけにはいかなかった。
「玲奈さん」
私は静かに言った。
「好きな人に選ばれないのは、つらいと思います」
彼女は私を睨んだ。
「あなたに何がわかるの」
「全部はわかりません」
私は答えた。
「でも、だからって、ほかの人を傷つけていい理由にはなりません」
玲奈は黙った。
私は続けた。
「花乃井の契約に、九条家が関わっていますよね」
彼女の表情が変わった。
「……」
「店を困らせて、私を朔から離そうとした」
玲奈は答えなかった。
「違いますか」
長い沈黙。
やがて、彼女は小さく笑った。
「……そうよ」
私は息を止めた。
「父に頼んだの」
玲奈は静かに続けた。
「建物を買って、契約を見直してほしいって」
朔の表情が冷たくなった。
「玲奈」
彼女は首を横に振った。
「でも、私だけじゃない」
「……」
「あなたのお父様も、賛成したのよ」
朔は黙った。
玲奈は笑った。
「みんな、あなたを久遠家に戻したいの」
長い沈黙。
私は玲奈を見つめた。
「……だから、店を潰そうとしたんですか」
彼女は目を逸らした。
「潰すつもりはなかった」
「でも、結果的にそうなるかもしれません」
「……」
「店長は、七十年続いた店を守ろうとしているんです」
玲奈は黙った。
私は続けた。
「私と朔のことに、関係のない人まで巻き込まないでください」
そのとき。
朔が一歩前に出た。
「玲奈」
「……何よ」
「九条家による花乃井への圧力を、やめさせてください」
玲奈は笑った。
「命令?」
「お願いではありません」
朔の声が低くなった。
「事実関係を記録して、必要なら法的な手続きを取ります」
玲奈の顔色が変わった。
「……私を訴えるつもり?」
「そうならないことを願っています」
朔は静かに答えた。
「でも、小春の仕事を人質にすることは許しません」
私は彼の横顔を見つめた。
昨日までの朔なら、どうしただろう。
父親に怒りをぶつけ、すべてを捨ててしまったかもしれない。
けれど、今の彼は違った。
感情だけで動こうとしていない。
自分の言葉で、相手に責任を求めている。
そのことが、少し嬉しかった。
玲奈はしばらく黙っていた。
そして、突然笑った。
「……本当に変わったのね」
朔は答えなかった。
玲奈は私を見た。
「この人のせい?」
私は首を横に振った。
「朔自身が変わったんです」
玲奈は何も言わなかった。
そのとき。
温室の扉が開いた。
「そこまでにしていただけませんか」
相馬だった。
彼の後ろには、もう一人男性がいた。
五十代くらい。
落ち着いた服装。
手には書類の入った封筒を持っている。
相馬は私たちを見た。
「三崎さん、朔様」
そして、玲奈に向き直った。
「九条さん」
玲奈の表情が変わった。
「……どうして、ここに」
相馬は静かに答えた。
「五年前の記録を、確認してきました」
「……」
「もう、隠す必要はありません」
玲奈は立ち上がった。
「何を言ってるの」
相馬は封筒を開いた。
中から、古い書類を取り出す。
「事故当日の診療記録です」
私は息を止めた。
相馬は続けた。
「朔様の右手の傷」
「……」
「玲奈さんの怪我」
「……」
「そして、私の転落事故」
彼は書類を並べた。
「三つの出来事は、別々に起きています」
私は驚いた。
「……別々?」
相馬は頷いた。
「はい」
玲奈の顔色が変わった。
「……やめて」
相馬は続けた。
「まず、朔様の右手の傷は、旧温室で割れた花器によるものです」
朔は黙っていた。
「そのあと、玲奈さんは温室を飛び出しました」
「……」
「階段で足を滑らせ、転倒した」
私は玲奈を見た。
彼女は唇を噛んでいた。
「朔様は玲奈さんを追いかけました」
相馬は静かに続けた。
「私は二人を止めようとした」
「……」
「そして、朔様の腕をつかんだ」
彼は目を伏せた。
「振り払われた拍子に、私も階段から落ちました」
私は息を止めた。
「じゃあ、玲奈さんの入院は」
「階段での転倒による怪我です」
相馬は頷いた。
「ただし、翌日まで正式な診察を受けなかったため、記録の日付が一日ずれています」
私は少しずつ理解した。
三つの出来事。
温室での口論。
玲奈の転倒。
相馬の転落。
それらが、一つの大きな事件として語られていたのだ。
「でも」
私は尋ねた。
「五年前の公園の写真は?」
相馬は私を見た。
「その写真についても、調べました」
彼はもう一枚、書類を取り出した。
「撮影者は、久遠家の警備担当者でした」
私は息を止めた。
「……警備?」
「当時、朔様が屋敷を飛び出したため、所在を確認していたんです」
朔の表情が変わった。
「……父の指示ですね」
相馬は頷いた。
「はい」
私は写真を思い出した。
雨の公園。
朔と私。
遠くに写る玲奈。
あの写真は、偶然撮られたものではなかった。
「じゃあ、匿名の封筒を送ったのは」
相馬は答えなかった。
代わりに、玲奈を見た。
玲奈は黙っていた。
私は彼女を見つめた。
「……玲奈さん?」
長い沈黙。
そして。
「……私よ」
彼女は小さく答えた。
私は息を止めた。
「写真も、メッセージも」
玲奈は頷いた。
「あなたが怖がって、朔から離れると思った」
私は何も言えなかった。
玲奈は笑った。
けれど、その目には涙が浮かんでいた。
「馬鹿みたいでしょう」
朔は静かに言った。
「玲奈」
彼女は顔を上げた。
「何よ」
「もう、やめてください」
その声は優しかった。
けれど、揺るぎがなかった。
「僕は、あなたを選びません」
玲奈の顔が歪んだ。
「……」
「昔も、今も」
長い沈黙。
玲奈は目を閉じた。
そして、静かに泣き始めた。
私は何も言えなかった。
誰かを好きになること。
その人に選ばれたいと思うこと。
それ自体は、悪いことではない。
けれど。
愛情が相手を支配するための理由になった瞬間、何かが壊れてしまう。
私は玲奈を見つめながら、そんなことを考えていた。
しばらくして、玲奈は涙を拭った。
「……わかったわ」
朔は黙っていた。
玲奈は私を見た。
「花乃井のことは、父に話す」
私は息を止めた。
「……本当に?」
「ええ」
彼女は小さく笑った。
「でも、すぐに元どおりになるかはわからない」
私は頷いた。
「わかっています」
玲奈は朔を見た。
「……これで、満足?」
朔は静かに答えた。
「満足かどうかではありません」
「……」
「自分がしたことに、責任を取ってください」
玲奈は何も言わなかった。
やがて、ゆっくり頷いた。
「……そうね」
相馬が封筒を閉じた。
「それから、もう一つ」
全員が彼を見た。
相馬は朔に向き直った。
「朔様」
「はい」
「五年前、私はあなたを責める証言をしました」
朔は黙っていた。
「久遠家の指示に従い、あなたが暴力的に私を突き飛ばしたように説明した」
私は息を止めた。
相馬は深く頭を下げた。
「申し訳ありませんでした」
朔は何も言わなかった。
長い沈黙。
そして。
「……顔を上げてください」
相馬が顔を上げた。
朔は静かに続けた。
「僕にも責任があります」
「……」
「腕を振り払ったのは事実です」
彼は右手を見た。
「でも、もう過去のことだけで生きたくありません」
相馬の目に涙が浮かんだ。
「……朔様」
朔は小さく笑った。
「これからは、自分の花を生けます」
その言葉が、温室に静かに響いた。
私は彼の横顔を見つめた。
少しだけ、大人になったように見えた。
温室を出るころには、夕方になっていた。
雨はやんでいた。
庭の木々が、柔らかな光を受けている。
朔は私の隣を歩いていた。
しばらく、何も話さなかった。
やがて、彼が口を開いた。
「……小春」
「はい」
「怖かったですか」
私は少し考えた。
「正直に言うと、怖かった」
朔は目を伏せた。
「……すみません」
「でも」
私は彼の手を取った。
「一緒に来てよかった」
朔が顔を上げた。
私は笑った。
「ちゃんと、話が聞けたから」
彼は静かに頷いた。
「……はい」
私たちは庭の小道を歩いた。
その途中。
朔が突然立ち止まった。
「小春」
「何?」
彼は私を見つめた。
「一つ、聞いてもいいですか」
「うん」
「僕は、もう久遠流の後継者ではありません」
私は頷いた。
「知ってる」
「財産も、肩書もありません」
「それも聞いた」
朔は少し笑った。
「それでも、僕と一緒にいてくれますか」
私は彼を見つめた。
そして、静かに答えた。
「朔」
「はい」
「私が好きになったのは、久遠流の後継者じゃないよ」
彼の瞳が揺れた。
「……」
「花を見ているとき、誰よりも優しい顔をする人」
私は続けた。
「メロンパンを食べて喜ぶ人」
「……」
「玉ねぎを切って泣く人」
朔が少し笑った。
私は微笑んだ。
「そういう朔が、好き」
その瞬間。
彼の表情が変わった。
驚いたように目を見開く。
そして、ゆっくり微笑んだ。
「……小春」
「何?」
「今の、もう一度」
私は笑った。
「嫌です」
「お願いします」
「調子に乗るから」
彼は少し笑った。
「もう、乗っています」
私は吹き出した。
朔も笑った。
そして、私をそっと抱きしめた。
「……ありがとう」
耳元で声がした。
私は彼の背中に腕を回した。
「こちらこそ」
しばらく、そのままでいた。
雨上がりの庭。
木々の匂い。
遠くで鳥が鳴いている。
私は思った。
これで、すべてが終わったわけではない。
花乃井の経営問題。
久遠家との関係。
朔の将来。
まだ、考えなければならないことはたくさんある。
けれど、少なくとも。
五年前の嘘に、これ以上振り回される必要はない。
そう思っていた。
そのとき。
屋敷のほうから声がした。
「朔」
振り返る。
久遠宗一郎が立っていた。
黒い着物。
厳しい表情。
朔は私を離し、父親に向き直った。
「……父さん」
宗一郎は静かに言った。
「話がある」
朔は頷いた。
「聞きます」
宗一郎は私を見た。
「三崎さんにも、同席してもらいたい」
私は驚いた。
「……私も?」
「そうだ」
彼は短く答えた。
「今後のことを決めなければならない」
私たちは書斎へ向かった。
大きな机。
壁一面の書棚。
庭園を見渡す窓。
宗一郎は椅子に座った。
そして、朔を見た。
「おまえが久遠家を出ると言ったことは、聞いている」
朔は頷いた。
「はい」
「本気か」
「本気です」
宗一郎はしばらく黙っていた。
そして、静かに言った。
「ならば、条件がある」
朔の表情が変わった。
「……条件?」
宗一郎は一枚の書類を差し出した。
そこには、久遠流の印が押されていた。
「三か月後、京都で大きな華道展が開かれる」
朔は黙っていた。
「全国の流派が参加する、伝統ある展覧会だ」
宗一郎は続けた。
「久遠流からは、おまえが出展する予定だった」
「……」
「だが、家を出るなら、久遠流の名前は使わせない」
朔は頷いた。
「わかっています」
宗一郎は静かに言った。
「個人として出展しろ」
私は息を止めた。
「……個人で?」
宗一郎は私を見た。
「そうだ」
そして、朔に向き直った。
「久遠流の後継者ではなく、一人の華道家として」
朔は黙っていた。
宗一郎は続けた。
「そこで、おまえの花を見せてみろ」
長い沈黙。
朔は父親を見つめた。
「……なぜ、そんなことを」
宗一郎は答えなかった。
ただ、静かに言った。
「おまえが本当に花を生けられる人間なのか、確かめたい」
朔の瞳が揺れた。
私は彼を見た。
彼はしばらく考えていた。
そして、静かに頷いた。
「……わかりました」
宗一郎の眉が動いた。
「受けるのか」
「はい」
朔はまっすぐ父親を見た。
「僕の花を、生けます」
宗一郎は小さく頷いた。
「それでいい」
私は少し安心した。
けれど。
宗一郎は続けた。
「ただし」
空気が変わった。
「出展費用、花材、運搬、会場設営。すべて自分で用意しろ」
朔は頷いた。
「当然です」
「久遠流の人間は、一切手を貸さない」
「わかりました」
宗一郎は私を見た。
「三崎さん」
「はい」
「あなたも、手を貸してはいけない」
私は息を止めた。
「……え?」
朔の表情が変わった。
「父さん」
宗一郎は静かに続けた。
「一人の華道家としての実力を見ると言ったはずだ」
私は何も言えなかった。
朔は低い声で言った。
「それは、僕が決めることです」
宗一郎の目が細くなった。
「……何だと」
朔は静かに答えた。
「誰と作品を作るかも、どんな花を使うかも」
彼は私の手を取った。
「僕自身が決めます」
長い沈黙。
宗一郎は私たちを見つめた。
そして、わずかに笑った。
「……なるほど」
彼は椅子に深く座った。
「では、好きにしろ」
朔は驚いたように父親を見た。
宗一郎は続けた。
「ただし、久遠流の名前は使うな」
「はい」
「結果がどうなっても、責任は自分で取れ」
「わかっています」
宗一郎は頷いた。
「話は以上だ」
私たちは頭を下げた。
書斎を出る。
長い廊下。
庭園を見渡す窓。
朔はしばらく黙っていた。
そして、突然笑った。
私は驚いた。
「……どうしたの?」
彼は私を見た。
「楽しみです」
「京都の展覧会?」
「はい」
彼の瞳が輝いていた。
「初めて、自分の名前だけで作品を出せます」
私は胸が温かくなった。
「……よかったね」
朔は頷いた。
「はい」
そして、私の手を握った。
「小春」
「何?」
「僕と、一緒に花を作ってくれますか」
私は驚いた。
「……私が?」
「はい」
「でも、私はただの花屋の店員で」
朔は首を横に振った。
「違います」
彼は真剣だった。
「あなたには、僕にないものがある」
「……何?」
「花を、花として見る目」
私は何も言えなかった。
朔は続けた。
「僕は、ずっと形ばかりを考えていました」
「……」
「でも、あなたは違う」
彼は微笑んだ。
「花がどんな場所で咲きたいのか、考えるでしょう」
私は少し笑った。
「そんな大げさなものじゃないよ」
「僕には、大切なことです」
朔は私の手を握り直した。
「だから、一緒に作りたい」
私はしばらく考えた。
京都の大きな展覧会。
名門流派が集まる場所。
私のような花屋の店員が関わっていいのだろうか。
けれど。
彼と一緒に作品を作ることを想像すると、胸が高鳴った。
「……条件があります」
朔が少し驚いた。
「何ですか」
「私の仕事を優先させてください」
彼は頷いた。
「もちろん」
「それから」
「はい」
「意見が違ったら、ちゃんと話し合うこと」
朔は微笑んだ。
「約束します」
私は頷いた。
「じゃあ、手伝います」
その瞬間。
朔の顔が明るくなった。
「……本当に?」
「はい」
彼は私を抱きしめた。
「ありがとう」
私は笑った。
「まだ、何もしてないよ」
「それでも」
彼は少し身体を離した。
そして、私を見つめた。
「あなたと一緒に作れることが、嬉しい」
私は胸が熱くなった。
けれど。
そのころ、書斎では宗一郎が一人、窓の外を見ていた。
机の上には、京都華道展の資料が置かれている。
彼はその一枚を手に取った。
出展者一覧。
そこには、久遠朔の名前が記されていた。
しかし。
宗一郎は、その下にある別の名前を見つめていた。
『九条玲奈』
彼は小さく息を吐いた。
「……これで、決着をつけろ」
低い声だった。
そして、机の引き出しを開けた。
中には、五年前の写真があった。
雨の公園。
白いシャツの少年。
花壇の前に立つ少女。
宗一郎は写真を見つめた。
そして、静かに呟いた。
「……あの娘が、朔を変えたのか」
その声には、怒りでも憎しみでもない感情が混じっていた。
戸惑い。
そして、わずかな後悔。
彼は写真を引き出しに戻した。
「……見せてもらおう」
窓の外では、夕日が庭を照らしていた。
一方。
私は朔と一緒に、久遠家の門を出た。
空は晴れていた。
雨上がりの道に、柔らかな光が差している。
朔は私の手を握っていた。
「小春」
「何?」
「京都、楽しみですね」
私は笑った。
「まだ三か月も先だよ」
「はい」
彼は少し考えた。
「でも、三か月なんて、すぐです」
私は頷いた。
「そうだね」
朔は微笑んだ。
「一緒に、いい作品を作りましょう」
私は彼を見た。
そして、静かに答えた。
「うん」
そのとき。
朔が少しだけ顔を近づけた。
「……小春」
「何?」
「今日は、頑張りました」
私は笑った。
「そうだね」
「だから」
彼は少し恥ずかしそうに言った。
「ご褒美が欲しいです」
私は思わず吹き出した。
「子供みたい」
朔は真剣だった。
「駄目ですか」
「……何が欲しいの?」
彼は私を見つめた。
そして、静かに言った。
「キス」
私は顔が熱くなった。
「……ここで?」
「はい」
「人が来るかもしれないよ」
朔は周囲を見た。
そして、少し考えた。
「じゃあ、誰もいないところへ」
私は笑った。
「そういう問題じゃないでしょう」
彼は少し困った顔をした。
「……難しいですね」
私は彼の手を引いた。
「帰ろう」
朔は頷いた。
「はい」
私たちは歩き始めた。
少し先に、桜の木があった。
花の季節は終わっていた。
けれど、青い葉が風に揺れている。
私は立ち止まった。
「朔」
「はい」
彼が振り返る。
私は背伸びをした。
そして、彼の頬にそっと唇を触れさせた。
一瞬だった。
朔が固まった。
私は笑った。
「ご褒美」
彼は何も言わなかった。
ただ、私を見つめていた。
「……朔?」
その瞬間。
彼は顔を覆った。
「……駄目だ」
「何が?」
「嬉しすぎる」
私は吹き出した。
朔も笑った。
そして、私の手を握り直した。
「小春」
「何?」
「大好きです」
私は少し照れながら答えた。
「……私も」
その瞬間。
彼の笑顔が、さらに明るくなった。
私は思った。
この人となら。
どんな困難があっても、きっと乗り越えられる。
そう信じたかった。
けれど。
その夜。
九条玲奈は、一人で自室に座っていた。
机の上には、京都華道展の招待状が置かれている。
彼女はそれを見つめた。
そして、静かに笑った。
「……朔」
その声は、どこか寂しそうだった。
「今度こそ、同じ舞台に立てるのね」
彼女は引き出しから一冊の古いノートを取り出した。
五年前から書き続けてきた、華道の練習記録だった。
そこには、何百枚ものスケッチが描かれている。
花の配置。
枝の角度。
色彩の組み合わせ。
すべて、朔の作品を研究したものだった。
玲奈はページをめくった。
そして、最後のページで手を止めた。
そこには、一行だけ書かれていた。
『いつか、朔に認めてもらいたい。』
彼女はその文字を見つめた。
長い沈黙。
そして。
ゆっくり、ノートを閉じた。
「……もう、やめよう」
小さな声だった。
彼女は窓の外を見た。
夜の庭。
月明かり。
静かに咲く花。
玲奈は目を閉じた。
「今度は、私の花を生ける」
その言葉は、誰にも届かなかった。
けれど。
彼女自身の中で、何かが少しずつ変わり始めていた。
そして。
京都華道展まで、あと三か月。
朔と小春にとって、本当の試練はこれからだった。
