大きな音がした。
何かが倒れ、ガラスが砕け、女性の悲鳴が展示室に響いた。
照明は完全に消えていた。
窓のない展示室には、非常口を示す緑色の明かりだけが浮かんでいる。
私は朔の胸に抱き寄せられたまま、動けずにいた。
「小春」
耳元で声がした。
「怪我はありませんか」
「……はい」
「どこも痛くない?」
「大丈夫です」
朔の腕が、少しだけ緩んだ。
「よかった」
その声を聞いて、私は初めて彼が震えていることに気づいた。
「朔?」
「はい」
「あなたは?」
「大丈夫です」
けれど、彼の呼吸は速かった。
私は暗闇の中で、彼の右手を探した。
指先に触れる。
温かい。
けれど、その手は強く握りしめられていた。
「朔」
「……」
「落ち着いて」
彼は答えなかった。
私はそっと手を握った。
「私はここにいるから」
その瞬間、彼の指が動いた。
そして、私の手を握り返した。
「……小春」
まるで、何かを確かめるような声だった。
「はい」
「絶対に、離れないで」
私は頷いた。
暗闇の向こうから、警備員の声が聞こえた。
「皆様、その場を動かないでください!」
別の場所では、誰かが泣いていた。
非常灯の明かりを頼りに、スタッフが客を誘導し始める。
朔は私を壁際へ移動させた。
「ここで待っていてください」
「どこへ行くの?」
「倒れた作品を確認します」
「危ないですよ」
「わかっています」
彼は私の顔を見た。
暗くて、表情はよく見えない。
けれど、声は落ち着いていた。
「僕の作品が倒れたなら、怪我をした人がいるかもしれない」
私は手を離した。
「気をつけて」
朔は頷いた。
「すぐ戻ります」
彼が離れていく。
その背中を見送りながら、私は胸の奥に小さな不安を感じていた。
玲奈の言葉。
『今度こそ、選んで。』
あれは、どういう意味だったのだろう。
五年前と同じことを繰り返そうとしているのだろうか。
そのとき。
背後から声がした。
「三崎小春さん」
振り返る。
暗がりに、一人の男性が立っていた。
黒いスーツ。
細い眼鏡。
久遠家の顧問弁護士、榊原だった。
「こちらへ」
「……どこへ?」
「安全な場所にご案内します」
私は朔が向かった方向を見た。
「朔さんを待っています」
「朔様からも、あなたの安全を最優先するよう言われています」
私は少し迷った。
そのとき、展示室の奥で再び大きな音がした。
誰かの叫び声。
榊原が私の前に立った。
「危険です」
私は頷いた。
「わかりました」
彼について歩き始めた。
けれど、数歩進んだところで足を止めた。
何かがおかしい。
榊原は非常口ではなく、展示室の奥へ向かっていた。
「……あの」
「何でしょう」
「出口は反対ですよね」
榊原は振り返った。
そして、静かに答えた。
「一般のお客様とは別の通路を使います」
私は周囲を見た。
薄暗い廊下。
人の気配がない。
胸の奥がざわついた。
「やっぱり、ここで待ちます」
榊原は動かなかった。
「三崎さん」
「はい」
「少しだけ、話を聞いていただけませんか」
その声が変わっていた。
丁寧な口調は同じだった。
けれど、何か冷たいものが混じっている。
「……何の話ですか」
榊原は眼鏡を外した。
「五年前のことです」
私は息を止めた。
「あなたは、何を思い出しましたか」
「……」
「公園で起きたことを、どこまで覚えていますか」
私は後ずさった。
「どうして、そんなことを」
榊原は小さく息を吐いた。
「知らないほうが幸せなこともあります」
その瞬間。
廊下の向こうから声が響いた。
「小春!」
朔だった。
彼は走ってきた。
普段の落ち着いた姿からは想像できないほど、必死な表情だった。
「そこにいたんですね」
私は頷いた。
「朔」
彼は私の前に立った。
そして、榊原を見た。
「……榊原さん」
「朔様」
「何をしているんですか」
榊原は静かに頭を下げた。
「三崎様を安全な場所へ」
「僕は、彼女を移動させるよう頼んでいません」
沈黙。
私は息を呑んだ。
榊原の表情が、わずかに変わった。
「……そうでしたか」
朔は私の手を取った。
「小春、こちらへ」
私は彼の隣へ移動した。
朔は榊原を見つめた。
「あなたには、五年前の事故について調べてもらっていましたね」
「はい」
「報告書は?」
「現在、確認中です」
「もう必要ありません」
榊原の眉が動いた。
「……どういうことでしょう」
朔は静かに答えた。
「調査は別の弁護士に引き継ぎます」
長い沈黙。
榊原は微笑んだ。
「承知しました」
そして、ゆっくり頭を下げた。
「失礼いたします」
彼が去ったあと、私は朔を見た。
「……何が起きているの?」
朔はしばらく黙っていた。
そして、私の手を握り直した。
「僕にも、まだ全部はわかりません」
「……」
「ただ、父の周囲にいる人間を、簡単に信用してはいけないようです」
私は廊下の奥を見た。
榊原の姿は、もう消えていた。
やがて非常用の照明が点灯した。
展示室には、異様な光景が広がっていた。
中央の大作『再生』が、半分ほど崩れていた。
太い枝が折れ、花器が倒れ、水が床に広がっている。
スタッフたちが破片を片づけていた。
幸い、客に大きな怪我はなかったらしい。
私は少し安心した。
けれど、朔は作品を見つめたまま動かなかった。
「……ひどい」
私が呟くと、彼は静かに頷いた。
「そうですね」
「三か月もかけて作ったんでしょう」
「はい」
「悔しくないの?」
朔は少し考えた。
そして、折れた枝を一本拾い上げた。
「悔しいです」
その声は穏やかだった。
「でも、花には罪がありません」
私は彼を見た。
朔は折れた枝を作業台に置いた。
「まだ使える花もあります」
「……」
「全部、終わったわけじゃない」
その言葉に、私は胸が熱くなった。
五年前の彼なら、どうしただろう。
怒りに任せて作品を壊したかもしれない。
すべてを投げ出したかもしれない。
けれど、今の朔は違った。
「小春」
彼が私を見た。
「手伝ってもらえますか」
私は驚いた。
「私が?」
「はい」
「でも、私なんて」
「あなたがいいんです」
まっすぐな瞳だった。
「僕一人では、作れないものがある」
私はしばらく彼を見つめた。
そして、頷いた。
「……わかりました」
朔は微笑んだ。
「ありがとうございます」
私たちは作業を始めた。
折れた枝を選別する。
傷んだ花を取り除く。
使える花を水に戻す。
スタッフたちは驚いていた。
久遠流の若き天才が、床に膝をついて花を拾っている。
しかも、見知らぬ花屋の女性と一緒に。
けれど、朔は周囲の視線を気にしなかった。
「この枝、まだ使えますね」
私が言うと、彼は頷いた。
「はい」
「少し短く切れば」
「そのままで」
「え?」
朔は枝を手に取った。
途中で折れ、曲がっている。
普通なら捨ててしまうような枝だった。
「この形がいい」
私は彼を見た。
「……そうですね」
彼は微笑んだ。
「あなたに教わりました」
胸が温かくなった。
作業は一時間以上続いた。
会場に残っていた客たちが、少しずつ集まってきた。
誰も話さなかった。
ただ、私たちの手元を見つめていた。
朔は折れた枝を中心に据えた。
そこへ白い花を添える。
赤い花を低く置く。
私は水を替え、茎を切り、花の向きを整えた。
二人で一つの作品を作っていく。
言葉は少なかった。
けれど、不思議と迷わなかった。
朔が何を考えているのか、少しずつわかるようになっていた。
そして。
最後の一本を生け終えたとき。
会場に、静かな拍手が起こった。
私は顔を上げた。
目の前には、まったく新しい作品があった。
崩れた大作とは違う。
小さく、静かで。
けれど、強い生命力を感じる作品だった。
折れた枝が、空へ向かって伸びている。
その根元には、白い花。
そして、赤い花が一輪。
まるで、傷ついたものが再び立ち上がるようだった。
「……綺麗」
私は呟いた。
朔は作品を見つめた。
そして、静かに言った。
「題名を変えましょう」
「何に?」
彼は私を見た。
「『それでも咲く』」
私は息を止めた。
その言葉が、胸の奥に深く響いた。
会場の拍手が大きくなる。
朔は私の手を取った。
そして、客たちに向かって頭を下げた。
「本日は、お騒がせしました」
落ち着いた声だった。
「作品の一部が破損しましたが、皆様のおかげで新しい形に生まれ変わりました」
彼は私を見た。
「そして、こちらの三崎小春さんに感謝します」
私は驚いた。
「……朔?」
彼は微笑んだ。
「彼女がいなければ、この作品は完成しませんでした」
周囲から再び拍手が起こった。
私は顔が熱くなった。
けれど、朔は自然に私の手を握っていた。
その姿を、会場の奥から一人の男性が見つめていた。
久遠宗一郎。
朔の父親だった。
彼は無表情のまま、私たちを見ていた。
そして、隣に立つ女性に言った。
「……あの娘か」
女性は頷いた。
「はい」
「なるほど」
宗一郎は作品を見た。
「五年前と同じだな」
その声には、複雑な感情が混じっていた。
女性が尋ねた。
「どうなさいますか」
宗一郎は少し考えた。
そして、静かに答えた。
「予定どおり進める」
私は、その会話を聞いていなかった。
ただ、朔の隣で笑っていた。
展覧会が終わったのは、午後十時を過ぎたころだった。
客たちが帰り、スタッフが片づけを始める。
私は疲れきっていた。
足が痛い。
腰も痛い。
けれど、不思議と気分はよかった。
「小春」
朔が声をかけた。
「はい」
「お疲れさまでした」
彼は温かいお茶を差し出した。
「ありがとうございます」
私は受け取った。
朔は隣に座った。
「今日は、本当に助かりました」
「私こそ」
私は笑った。
「すごく勉強になりました」
彼は首を横に振った。
「僕のほうが、教わりました」
「何を?」
「諦めないことです」
私は彼を見た。
朔は静かに続けた。
「五年前の僕なら、作品が壊れた時点で全部捨てていたと思います」
「……」
「でも、今日は違った」
彼は私の手を取った。
「あなたがいたから」
私は胸が温かくなった。
「朔」
「はい」
「あなた自身が変わったんですよ」
彼は少し驚いた顔をした。
「……」
「私がいなくても、きっと生け直せたと思います」
朔は黙っていた。
そして、ゆっくり微笑んだ。
「……そうかもしれません」
私は頷いた。
「そうです」
彼は私を見つめた。
「でも」
「はい」
「あなたと一緒に作れて、嬉しかった」
私は笑った。
「私もです」
その瞬間。
朔が少しだけ顔を近づけた。
私は息を止めた。
彼の瞳が、私を見つめている。
「……小春」
「はい」
「今、キスしたいと言ったら」
胸が大きく鳴った。
「……」
「困りますか」
私は答えられなかった。
彼はすぐに距離を取った。
「すみません」
「……」
「急ぎすぎました」
私は彼を見た。
その表情が、あまりにも真剣だった。
「……朔」
「はい」
「嫌じゃないです」
彼の動きが止まった。
「……本当に?」
私は頷いた。
「でも」
「はい」
「もう少し、待ってください」
朔は静かに微笑んだ。
「もちろん」
そして、私の手の甲にそっと唇を触れさせた。
一瞬だった。
けれど、胸が熱くなった。
「……これくらいなら?」
私は顔を伏せた。
「ずるい」
彼は小さく笑った。
「よく言われます」
「誰に?」
「あなたに」
私は吹き出した。
朔も笑った。
そのとき。
背後から声がした。
「随分、楽しそうだな」
振り返る。
久遠宗一郎が立っていた。
黒いスーツ。
厳しい表情。
朔の顔から笑みが消えた。
「……父さん」
宗一郎は私を見た。
「三崎小春さんですね」
私は立ち上がった。
「はい」
「久遠宗一郎です」
深く頭を下げる。
「初めまして」
宗一郎は軽く頷いた。
そして、朔に向き直った。
「明日の朝、話がある」
「今では駄目ですか」
「今は客人がいる」
朔は黙った。
宗一郎は私を見た。
「三崎さん」
「はい」
「今日は、息子を助けていただいたようですね」
「いえ、そんな」
「礼を言います」
意外だった。
もっと冷たい言葉を想像していた。
宗一郎は静かに続けた。
「ただし」
空気が変わった。
「久遠流には、久遠流の事情があります」
私は息を止めた。
「……」
「あなたには、理解できないことも多いでしょう」
朔が口を開いた。
「父さん」
宗一郎は手を上げた。
「話しているのは、私だ」
そして、私を見た。
「息子と関わるなら、覚悟が必要です」
私は黙っていた。
「普通の恋愛とは違う」
宗一郎の声は低かった。
「あなた自身の生活も、仕事も、家族も、無関係ではいられなくなる」
私は胸が苦しくなった。
けれど、目を逸らさなかった。
「……わかりました」
宗一郎の眉が動いた。
「本当に?」
「全部は、まだわかりません」
私は正直に答えた。
「でも、朔さんと関わるかどうかは、私が決めます」
長い沈黙。
宗一郎は私を見つめた。
そして、わずかに笑った。
「……なるほど」
朔が私の手を握った。
宗一郎はその手を見た。
「五年前と、同じだな」
私は息を止めた。
「……え?」
宗一郎は答えなかった。
ただ、静かに言った。
「明日、午前九時。書斎に来なさい」
朔にそう告げて、去っていった。
私はその背中を見送った。
「……怖い人ですね」
朔は少し笑った。
「そうですね」
「怒らせちゃったかな」
「大丈夫です」
彼は私の手を握り直した。
「あなたは、何も間違っていません」
私は頷いた。
けれど、胸の奥には不安が残っていた。
その夜。
朔は私を家まで送ってくれた。
車の中では、あまり話さなかった。
二人とも疲れていた。
けれど、沈黙は苦しくなかった。
家の前に着く。
私は車を降りた。
朔も降りてきた。
「今日は、ありがとうございました」
「こちらこそ」
彼は少し迷った。
そして、静かに言った。
「小春」
「はい」
「明日、何があっても」
彼は言葉を切った。
「僕の気持ちは変わりません」
私は彼を見た。
「……何かあるんですか」
朔は首を横に振った。
「まだ、わかりません」
私は少し笑った。
「じゃあ、何かあったら話してください」
彼は頷いた。
「約束します」
私は手を振った。
「おやすみなさい」
「おやすみなさい」
朔は車に戻った。
けれど、ドアを開ける前に振り返った。
「小春」
「はい?」
「今日のあなたは」
彼は微笑んだ。
「世界で一番、綺麗でした」
私は顔が熱くなった。
「……また、そういうこと」
彼は少し笑った。
「本当なので」
そして、車に乗り込んだ。
私はしばらく、その場に立っていた。
胸が温かかった。
けれど。
そのころ、久遠家の書斎では、宗一郎が一枚の書類を見つめていた。
九条家との婚約に関する契約書。
その横には、別の書類が置かれていた。
花乃井への業務委託契約。
そして、融資に関する資料。
宗一郎は静かに電話をかけた。
「……私だ」
電話の向こうで、男性が答えた。
『はい』
「明日の朝までに、花乃井との取引関係を整理しておけ」
『承知しました』
「それから」
宗一郎は少し間を置いた。
「九条家にも連絡を」
『婚約の件でしょうか』
「そうだ」
彼は静かに言った。
「朔に、選ばせる」
電話が切れた。
宗一郎は窓の外を見た。
夜の庭園。
月明かりに照らされた白い花。
彼は小さく呟いた。
「……おまえは、どちらを守る」
翌朝。
午前九時。
朔は父親の書斎に入った。
宗一郎は机の向こうに座っていた。
「座れ」
朔は椅子に腰を下ろした。
「話とは?」
宗一郎は一枚の書類を差し出した。
「九条家との婚約を正式に進める」
朔の表情が消えた。
「断ります」
即答だった。
宗一郎は眉を動かさなかった。
「最後まで聞け」
「聞く必要はありません」
「ならば、こちらを見ろ」
宗一郎は別の書類を差し出した。
そこには、花乃井の名前が記されていた。
朔は目を細めた。
「……何ですか」
「花乃井は、ここ数年、経営が厳しい」
「……」
「久遠流からの発注がなくなれば、さらに苦しくなるだろう」
朔の指が止まった。
宗一郎は続けた。
「加えて、主要取引先との契約更新も控えている」
「……父さん」
「私が手を引けば、どうなると思う」
朔は立ち上がった。
「彼女の仕事に手を出すな」
その声は、低かった。
宗一郎は動かなかった。
「ならば、婚約を受け入れろ」
長い沈黙。
朔の拳が震えた。
「……卑怯ですね」
宗一郎は静かに答えた。
「経営とは、そういうものだ」
朔は父親を見つめた。
その瞳には、怒りが宿っていた。
けれど。
次の瞬間。
彼はゆっくり息を吐いた。
そして、静かに笑った。
「……わかりました」
宗一郎の眉が動いた。
「受け入れるのか」
朔は首を横に振った。
「いいえ」
彼は机の上の書類を取った。
そして、静かに破った。
紙の裂ける音が響いた。
宗一郎が立ち上がった。
「何をする!」
朔は父親を見た。
「僕は、久遠流を出ます」
長い沈黙。
「……何だと」
「家元の座も、財産も、すべて要りません」
朔は静かに続けた。
「僕は、自分の花を生けます」
宗一郎の顔色が変わった。
「おまえ、自分が何を言っているかわかっているのか」
「はい」
朔は微笑んだ。
「初めて、自分で決めました」
宗一郎は机を叩いた。
「そんなことが許されると思うな!」
朔は頭を下げた。
「今まで、ありがとうございました」
そして、背を向けた。
「待て!」
宗一郎の声が響いた。
けれど、朔は振り返らなかった。
書斎を出る。
長い廊下。
庭園を見渡す窓。
幼いころから歩いてきた場所。
すべてが、いつもと同じだった。
けれど、彼の心は不思議と軽かった。
そのとき。
スマートフォンが鳴った。
小春からだった。
『おはよう。昨日の作品、ニュースになってるよ。すごいね。』
朔は画面を見つめた。
そして、微笑んだ。
『ありがとう。』
少し迷って、もう一通送った。
『今日、会えますか。』
すぐに返事が来た。
『仕事が終わってからなら。』
朔は目を閉じた。
『待っています。』
送信する。
その瞬間。
彼は、ある決意を固めていた。
今夜。
すべてを話そう。
久遠家を出ることも。
華道家としての未来も。
そして。
自分が、彼女とどんな人生を歩みたいのかも。
けれど。
その日の午後。
花乃井に一本の電話が入った。
店長が受話器を取る。
「はい、花乃井でございます」
相手の話を聞くうちに、店長の顔色が変わっていった。
「……え?」
私は花を束ねる手を止めた。
「どうしました?」
店長は電話を切った。
そして、呆然とした顔で私を見た。
「小春ちゃん」
「はい」
「久遠流からの注文が、全部キャンセルになった」
私は息を止めた。
「……全部?」
店長は頷いた。
「それだけじゃないの」
彼女の声が震えた。
「来月の大口契約も、白紙になったって」
私は何も言えなかった。
店長は椅子に座り込んだ。
「……どうしよう」
その声は、ひどく小さかった。
「このままじゃ、店を続けられないかもしれない」
私は手に持っていた花を見つめた。
白い百合。
朔と初めて出会った日の花。
その花弁が、静かに揺れていた。
そして。
私のスマートフォンに、一通のメッセージが届いた。
差出人は、九条玲奈。
『朔が家を出るそうね。』
続けて、もう一通。
『あなたのせいで、みんな不幸になる。』
私は画面を見つめた。
そして、最後の一文を読んだ。
『それでも、彼を好きでいられる?』
私は、何も答えられなかった。
