「朔って、普段は何をしているの?」
植物園の小道を歩きながら、私は尋ねた。
午後の日差しが木々の隙間から落ちている。足元には小さな白い花が咲き、風が吹くたびに細い茎が揺れた。
朔は私の手を握ったまま、少し考えた。
「花を生けています」
「それは知ってる」
「花材を選んだり、弟子の作品を見たり」
「それも仕事でしょう?」
「……そうですね」
私は笑った。
「休日は?」
朔は黙った。
「趣味とか、友達と遊ぶとか」
「ありません」
「趣味が?」
「休日が」
思わず足を止めた。
「休みがないの?」
「仕事をしていない日も、花のことを考えているので」
「それは休みじゃないでしょう」
朔は不思議そうに私を見た。
「そうなんですか」
「そうです」
私は少し呆れた。
「二十二歳なんだから、もっと遊んだほうがいいですよ」
「何をして?」
「映画とか、買い物とか、旅行とか」
「映画は仕事の資料として見ます」
「買い物は?」
「必要なものは用意してもらえます」
「旅行」
「海外の展覧会には行きます」
私はため息をついた。
「全部、仕事じゃない」
朔は少し困ったように笑った。
「……そうですね」
私は彼を見つめた。
華道界の天才。
久遠流の次期家元。
何でも持っているように見える青年。
けれど、彼の人生には、普通の二十二歳が当たり前に経験するような時間がほとんど存在しないのかもしれない。
「じゃあ、今日は私が教えてあげます」
朔が顔を上げた。
「何をですか」
「普通の休日の過ごし方」
彼は少し目を見開いた。
そして、静かに微笑んだ。
「お願いします」
その素直な返事が、妙にかわいかった。
私たちは植物園を出て、近くの商店街へ向かった。
古いパン屋。
小さな雑貨店。
昔ながらの喫茶店。
休日の午後らしく、通りには家族連れや学生たちが歩いていた。
「まずは、これ」
私はパン屋の前で立ち止まった。
店先には焼きたてのメロンパンが並んでいる。
「食べたことあります?」
朔は真剣に見つめた。
「あります」
「よかった」
「たぶん」
私は笑った。
「じゃあ、二つください」
店員から紙袋を受け取る。
朔は財布を出そうとした。
「私が払います」
「でも」
「今日は私が案内するんです」
彼は少し迷った。
そして、財布をしまった。
「……ありがとうございます」
私たちは近くのベンチに座った。
温かいメロンパンを一つ渡す。
朔は両手で受け取った。
そして、一口食べた。
「……」
「どう?」
彼はゆっくり噛んだ。
「甘い」
「そりゃそうでしょう」
「外が硬くて、中が柔らかい」
「食レポみたい」
朔はもう一口食べた。
そして、少し笑った。
「おいしいです」
私は嬉しくなった。
「でしょう?」
「はい」
彼はパンを見つめた。
「こういうものを、誰かと一緒に食べるのは初めてです」
私は何も言えなかった。
朔は小さく笑った。
「変ですよね」
「変じゃないです」
私は首を横に振った。
「初めてなら、これからたくさん経験すればいいんです」
彼は私を見た。
「……一緒に?」
胸が跳ねた。
「都合が合えば」
朔は微笑んだ。
「じゃあ、都合を合わせます」
「仕事も大事にしてください」
「あなたも大事です」
あまりにも自然に言うので、私は返事に困った。
朔は不思議そうに首を傾げた。
「何かおかしいですか」
「……何でもありません」
この人は、本当に危険だ。
本人に自覚がないところが、なおさら危険だった。
次に入ったのは、小さな雑貨店だった。
木製の棚には、文房具や食器、手作りのアクセサリーが並んでいる。
朔は店内を興味深そうに見ていた。
「これ、何ですか」
彼が手に取ったのは、小さなガラス瓶だった。
「一輪挿しですね」
「……なるほど」
彼は瓶を光にかざした。
安価な量産品だった。
けれど、彼は高価な美術品を見るときのように真剣だった。
「綺麗ですね」
「そう?」
「はい」
彼は瓶の口を指でなぞった。
「少し歪んでいる」
「不良品?」
「いいえ」
朔は微笑んだ。
「この歪みがいい」
私は彼を見つめた。
「どうして?」
「完璧な形は、時々つまらないので」
その言葉に、胸が少し温かくなった。
五年前。
完璧を求められ続けていた少年。
今は、不完全なものの美しさを理解している。
「買うんですか」
「はい」
朔は瓶を持ってレジへ向かった。
そして、もう一つ同じものを手に取った。
「二つ?」
「はい」
会計を済ませると、一つを私に差し出した。
「小春さんに」
「え?」
「おそろいです」
私は思わず笑った。
「恋人みたいですね」
その瞬間。
朔の動きが止まった。
「……嫌ですか」
「え?」
「恋人みたいなのは」
私は慌てた。
「嫌じゃないですけど」
彼の瞳が、ゆっくり柔らかくなった。
「……よかった」
私は顔を伏せた。
どうして、こうなるのだろう。
ただの雑貨店で。
ただの一輪挿しを買っただけなのに。
まるで、大切な約束を交わしたような気持ちになってしまった。
店を出ると、朔は紙袋を大事そうに持っていた。
「小春さん」
「はい」
「今日は、今までで一番楽しい休日です」
私は笑った。
「まだ終わってませんよ」
「そうですね」
彼は私を見つめた。
「終わらなければいいのに」
その声が、あまりにも静かだった。
私は胸が苦しくなった。
「また来ればいいでしょう」
「……また?」
「はい」
朔は少し笑った。
「約束ですか」
「約束です」
彼は頷いた。
「忘れません」
夕方。
私たちは商店街の外れにある小さな公園に立ち寄った。
ベンチに座り、買ったばかりの飲み物を飲む。
朔は缶コーヒーを見つめていた。
「開けられます?」
私が冗談で言うと、彼は真剣な顔で答えた。
「それくらいできます」
そして、プルタブを引いた。
小さな音がした。
彼は一口飲んだ。
「……苦い」
私は笑った。
「ブラックですから」
「小春さんは、これが好きなんですか」
「はい」
彼はもう一口飲んだ。
少し眉を寄せる。
「……慣れません」
「無理しなくていいですよ」
「でも」
彼は私を見た。
「あなたの好きなものを、好きになりたい」
私は言葉を失った。
「……朔」
「はい」
「無理して合わせなくていいんですよ」
彼は少し驚いた顔をした。
「……」
「好きなものは、人それぞれでしょう」
私は笑った。
「私だって、朔の好きなものを全部好きになるとは限らないし」
朔は黙っていた。
そして、ゆっくり頷いた。
「……そうですね」
彼は缶コーヒーを見つめた。
「じゃあ、正直に言います」
「はい」
「甘いほうが好きです」
私は吹き出した。
「知ってました」
朔も笑った。
その笑顔は、どこにでもいる普通の青年のものだった。
私は思った。
もっと、こういう顔を見たい。
華道家でもなく。
御曹司でもなく。
ただの久遠朔として笑う姿を。
そのとき。
朔のスマートフォンが鳴った。
彼は画面を見た。
そして、表情を変えた。
「……すみません」
「仕事?」
「はい」
彼は少し離れた場所で電話に出た。
私はベンチに座ったまま、彼の背中を見ていた。
話している内容は聞こえない。
けれど、何か深刻な話らしい。
朔の表情が、次第に冷たくなっていく。
数分後。
彼は電話を切った。
「小春さん」
「はい」
「申し訳ありません」
私は立ち上がった。
「何かあったんですか」
「明日の展覧会で、問題が起きました」
「展覧会?」
「はい」
彼は小さく息を吐いた。
「僕の作品が、壊されたそうです」
私は息を呑んだ。
「……え?」
「会場に展示していた花が、すべて抜かれていたと」
私は言葉を失った。
「誰が、そんなことを」
朔は首を横に振った。
「まだわかりません」
彼の顔には、怒りも悲しみも浮かんでいなかった。
ただ、静かだった。
その静けさが、かえって怖かった。
「戻らないと」
「はい」
私は頷いた。
「行ってください」
朔は私を見た。
「送ります」
「大丈夫です」
「でも」
「私は一人で帰れます」
彼は少し迷った。
そして、静かに頷いた。
「……わかりました」
私は笑った。
「明日の展覧会、頑張ってください」
朔は私を見つめた。
「……来てくれますか」
「私が?」
「はい」
「でも、招待状が」
「用意します」
即答だった。
私は思わず笑った。
「仕事が終わってからなら」
朔の表情が柔らかくなった。
「待っています」
そして、彼は私の手を取った。
「小春さん」
「はい」
「今日は、本当に楽しかった」
私は頷いた。
「私もです」
彼は少しだけ身をかがめた。
顔が近づく。
私は息を止めた。
けれど、彼はそこで止まった。
「……一つ、お願いしてもいいですか」
「何ですか」
「抱きしめても」
胸が跳ねた。
私は少し迷った。
そして、小さく頷いた。
「……はい」
その瞬間。
彼の腕が、そっと私を包んだ。
強くはない。
けれど、離れがたい温かさがあった。
彼の胸に頬が触れる。
心臓の音が聞こえた。
速かった。
私と同じくらい。
「……朔」
「はい」
「緊張してる?」
彼は少し笑った。
「しています」
「どうして」
「好きな人を抱きしめているので」
私は顔が熱くなった。
「……そういうこと、言わないで」
「どうして」
「恥ずかしいから」
彼は小さく笑った。
「じゃあ、心の中で言います」
私は思わず笑ってしまった。
しばらくして、彼はゆっくり腕を離した。
「また、明日」
「はい」
朔は私を見つめた。
そして、静かに微笑んだ。
「おやすみなさい、小春さん」
私は頷いた。
「おやすみなさい」
彼が去ったあとも、私はしばらくその場に立っていた。
胸が温かかった。
手のひらには、彼の体温が残っている。
私は紙袋を見た。
中には、小さなガラスの一輪挿し。
おそろいの品物。
たったそれだけなのに、嬉しかった。
けれど。
そのころ、久遠流の展覧会場では、異様な光景が広がっていた。
都内の美術館。
特別展示室。
中央には、朔が三か月かけて制作した大作が置かれていた。
高さ三メートル。
幅五メートル。
数百本の花と枝を使った作品。
題名は『再生』。
しかし。
その花は、すべて抜かれていた。
床には折れた枝が散乱し、花弁が踏みつけられている。
作品の中心には、一枚の紙が置かれていた。
白い和紙。
そこには、墨で一行だけ書かれていた。
『花を殺したのは、誰だ。』
警備員たちは困惑していた。
監視カメラには、不審者の姿が映っていなかった。
入館記録にも異常はない。
つまり。
犯人は、正規の権限で会場に入った人物だった。
そのころ。
久遠家の車に乗った朔は、静かに窓の外を見ていた。
運転手が声をかける。
「朔様」
「何ですか」
「警察に連絡いたしましょうか」
朔は少し考えた。
「まだ、いいです」
「ですが」
「作品を見てから判断します」
運転手は頷いた。
「承知しました」
朔はスマートフォンを取り出した。
画面には、小春からのメッセージが届いていた。
『今日はありがとう。メロンパン、また食べようね。』
彼は小さく微笑んだ。
そして、返信した。
『次は甘いコーヒーにします。』
数秒後。
『そうしてください。』
朔は画面を見つめた。
その笑顔は、誰にも見せたことのないものだった。
けれど。
次の瞬間。
別のメッセージが届いた。
差出人不明。
『三崎小春を展覧会に呼ぶな。』
朔の表情が消えた。
続けて、もう一通。
『五年前の続きを見たくなければ。』
彼は画面を見つめた。
そして、静かに電話をかけた。
「榊原さん」
『はい』
「明日の展覧会、警備を増やしてください」
『何かありましたか』
「小春さんが来ます」
電話の向こうで、榊原が息を呑んだ。
『……承知しました』
朔は続けた。
「ただし、彼女に気づかれないように」
『わかりました』
電話を切る。
朔は目を閉じた。
五年前。
雨の公園。
血に染まったハンカチ。
あの日、守れたと思っていたもの。
けれど、まだ終わっていなかった。
「……今度こそ」
彼は小さく呟いた。
「絶対に、傷つけさせない」
その声は、冷たかった。
翌日。
私は仕事を終えると、美術館へ向かった。
久遠流特別展。
会場には多くの人が集まっていた。
華道関係者。
美術評論家。
海外からの招待客。
着物姿の女性たち。
私は少し場違いな気がした。
安いワンピース。
小さなバッグ。
普段と変わらない化粧。
けれど、朔から届いた招待状を握りしめ、受付へ向かった。
「三崎小春様ですね」
受付の女性が微笑んだ。
「お待ちしておりました」
私は驚いた。
「……はい」
「こちらへどうぞ」
案内されたのは、一般客とは別の入口だった。
静かな廊下。
白い壁。
奥には大きな展示室がある。
扉が開いた。
その瞬間。
私は息を呑んだ。
そこには、見たこともないような花の世界が広がっていた。
白い枝。
青い花。
赤い葉。
光と影が交差する空間。
そして、中央。
朔が立っていた。
黒い着物。
白い帯。
髪は綺麗に整えられている。
昨日、メロンパンを食べて笑っていた青年とは別人だった。
冷たいほど美しい。
誰もが彼を見つめていた。
彼は海外の評論家と話していた。
流暢な英語。
落ち着いた声。
時折、静かに微笑む。
その姿には、圧倒的な存在感があった。
私は足を止めた。
遠い人だ。
そう思った。
昨日、手をつないで歩いた人。
一緒に安いメロンパンを食べた人。
その人が、今は別の世界にいる。
私は少しだけ寂しくなった。
そのとき。
朔がこちらを見た。
目が合った。
彼の表情が変わった。
冷たい仮面が、ふっとほどける。
そして。
「小春」
彼はそう呼んだ。
周囲の人々が驚いたように振り返った。
朔は会話を切り上げ、まっすぐ私のところへ歩いてきた。
「来てくれたんですね」
その声は、昨日と同じだった。
優しくて。
少し甘くて。
私だけに向けられた声。
「……はい」
私は頷いた。
朔は微笑んだ。
「待っていました」
周囲の視線が集まる。
私は顔が熱くなった。
「朔さん、皆さんが」
「気にしなくていいです」
彼は自然に私の手を取った。
「こちらへ」
「でも」
「見せたいものがあります」
彼は私を展示室の奥へ案内した。
そこには、一つだけ小さな作品があった。
白い百合。
細い柳。
そして、赤い薔薇。
私は息を止めた。
「……これ」
朔は頷いた。
「あなたが、僕の温室で生けた花です」
私は驚いた。
「でも、あれは練習で」
「違います」
彼は静かに言った。
「僕にとって、大切な作品です」
私は作品を見つめた。
あの日、何となく生けた花。
未熟で、不格好で。
けれど、朔はそれを丁寧に生け直し、展示していた。
「……どうして」
彼は微笑んだ。
「あなたが教えてくれたから」
「何を?」
「花は、誰かに評価されるためだけに咲くんじゃないって」
私は胸が熱くなった。
朔は続けた。
「だから、この作品には題名をつけました」
小さな札が置かれていた。
そこには、美しい墨文字で書かれていた。
『初恋』
私は息を止めた。
「……朔」
彼は私を見た。
そして、静かに微笑んだ。
「僕の、最初で最後の恋です」
その瞬間。
会場の奥から、鋭い声が響いた。
「朔!」
振り返る。
九条玲奈が立っていた。
赤いドレス。
高いヒール。
怒りを隠さない表情。
彼女はまっすぐこちらへ歩いてきた。
「どういうつもり?」
朔は私の前に立った。
「何の話ですか」
「その女を、ここに呼んだの?」
「はい」
「正気なの?」
朔は静かに答えた。
「僕が招待しました」
玲奈は私を睨んだ。
「あなた、自分が何をしているかわかっているの?」
私は言葉を失った。
そのとき。
朔が一歩前に出た。
「玲奈」
低い声だった。
「小春さんに失礼なことを言わないでください」
玲奈の顔が強張った。
「……朔」
「彼女は、僕の大切な人です」
周囲がざわついた。
私は息を止めた。
朔は続けた。
「誰にも、傷つけさせません」
玲奈は唇を噛んだ。
そして、冷たく笑った。
「……そう」
彼女はバッグから一枚の封筒を取り出した。
「だったら、これを見ても同じことが言える?」
朔の表情が変わった。
玲奈は封筒を開いた。
中から取り出したのは、一枚の写真だった。
五年前。
雨の公園。
血に染まった白いハンカチ。
そして。
そこには、朔が一人の少女の腕を強くつかんでいる姿が写っていた。
私は息を呑んだ。
「……これ」
玲奈は微笑んだ。
「小春さん」
彼女の声が、冷たく響いた。
「あなた、本当に何も覚えていないのね」
朔が低い声で言った。
「やめろ」
玲奈は笑った。
「どうして?」
「ここで話すことじゃない」
「都合が悪いから?」
朔の表情が消えた。
玲奈は写真を私に差し出した。
「見なさい」
私は震える手で受け取った。
写真の中。
朔は少女の腕をつかんでいた。
その少女は。
私だった。
けれど。
写真の端には、もう一人の人物が写っていた。
ガラス片を握った手。
白い袖。
銀色のブレスレット。
私は息を止めた。
記憶の奥で、何かが動いた。
雨。
叫び声。
割れるガラス。
そして。
「……違う」
私は呟いた。
玲奈が眉をひそめた。
「何が?」
私は写真を見つめた。
「これ、違います」
朔が私を見た。
「小春さん?」
私は顔を上げた。
「朔は、私を傷つけようとしたんじゃない」
胸の奥で、記憶がつながっていく。
「私を、引き寄せたんです」
玲奈の顔色が変わった。
「……何を言って」
私は続けた。
「あのとき、誰かが私の背後から近づいてきた」
朔の手が、私の腕をつかんだ。
そして、引き寄せた。
その直後。
ガラスが割れた。
血が飛び散った。
私は写真の端を指さした。
「この手」
玲奈は動かなかった。
「銀色のブレスレット」
私は彼女の手首を見た。
そこには。
同じ形のブレスレットが光っていた。
「……玲奈さん」
会場が静まり返った。
私は震える声で言った。
「五年前、私を傷つけようとしたのは」
玲奈の顔から血の気が引いた。
「あなた、だったんですか」
長い沈黙。
そして。
玲奈は笑った。
最初は小さく。
やがて、声を上げて。
「……あはは」
その笑い声は、どこか壊れていた。
「やっと思い出したのね」
朔が私の前に立った。
「玲奈」
彼の声は、低く冷たかった。
「もう、終わりにしましょう」
玲奈は首を横に振った。
「終わり?」
彼女は微笑んだ。
「まだ、始まったばかりよ」
その瞬間。
会場の照明が、一斉に消えた。
悲鳴が上がる。
暗闇。
誰かが走る音。
ガラスの割れる音。
私は動けなかった。
そのとき。
強い腕が、私を抱き寄せた。
「小春!」
朔の声。
耳元で響く。
「動かないで」
私は彼の胸にしがみついた。
暗闇の中。
彼の心臓が、速く打っていた。
そして。
どこかで、玲奈の声がした。
「……朔」
甘く、冷たい声。
「今度こそ、選んで」
その言葉と同時に。
展示室の奥で、何かが大きく崩れる音が響いた。
