冷たい華道家は、私だけに花を乱す


封筒の中に入っていた写真を、私は何度も見返していた。
五年前の雨の日。
白いシャツを着た少年。
その隣に立つ十九歳の私。
確かに、そこには二人が写っていた。
けれど、どうしてこの写真が存在するのだろう。
誰が撮影したのだろう。
そして、どうして今になって私に送られてきたのだろう。
花乃井の開店まで、あと三十分。
私は店の奥にある小さな休憩室で、写真をテーブルに置いた。
裏側には、赤い文字で書かれた警告。
『あなたは、彼が何をしたか知らない。』
その文字を見つめていると、胸の奥が冷たくなった。
朔は私に何かを隠している。
それは間違いない。
けれど、彼が悪い人間だとは思えなかった。
昨日、雨の中で見せた表情。
初めて二人で食事をしたときの笑顔。
私の手を取ったときの、あの震える指先。
あれが全部、演技だったとは思いたくない。
「小春ちゃん」
店長の声がした。
「はい」
「何かあった?」
私は慌てて写真をしまった。
「何でもありません」
「顔色、悪いわよ」
「ちょっと寝不足で」
店長は心配そうに私を見た。
「無理しないでね」
「ありがとうございます」
私は立ち上がった。
考えていても仕方がない。
本人に聞こう。
そう決めた。
午前中は忙しかった。
結婚祝いの花束。
開店祝いの胡蝶蘭。
病院へ届ける小さなアレンジメント。
私はいつものように花を束ね、リボンを結び、客に笑顔で手渡した。
けれど、心は落ち着かなかった。
昼休み。
スマートフォンを取り出す。
朔からメッセージが届いていた。
『お昼、食べましたか。』
私は少し笑った。
昨日まで他人だった人が、今では私の食事を心配している。
『これからです。朔さんは?』
すぐに返事が来た。
『まだです。』
『ちゃんと食べてください。』
『小春さんがそう言うなら。』
私は思わず吹き出した。
何なのだろう、この人は。
天才華道家なのに。
名門の御曹司なのに。
時々、子供みたいなことを言う。
『今夜、電話できますか。』
そう送ると、数秒後に返信が来た。
『今すぐでも。』
私は笑った。
『夜九時に。』
『わかりました。待っています。』
たったそれだけのやり取りなのに、胸が少し温かくなった。
そのとき。
店の前に一人の男性が現れた。
四十代くらい。
灰色のスーツ。
細い眼鏡。
どこか疲れたような顔をしている。
「三崎小春さんですか」
「はい」
男性は名刺を差し出した。
『久遠流 元師範 相馬和彦』
私は息を止めた。
「……久遠流の?」
「以前、所属していました」
男性は静かに言った。
「五年前、階段から落ちたのは私です」
頭の中が真っ白になった。
相馬は私の反応を見て、少しだけ微笑んだ。
「驚かせてしまいましたね」
「どうして、私のところに」
「話しておきたいことがありまして」
私は周囲を見た。
店長は接客中だった。
「少しだけなら」
相馬は頷いた。
私たちは店の裏手にある小さな公園へ移動した。
昼の公園には、ベンチに座る会社員や、子供を連れた母親がいた。
相馬は木陰のベンチに腰を下ろした。
私は少し離れて座った。
「九条玲奈さんから、話を聞いたそうですね」
いきなり言われて、私は驚いた。
「どうして知っているんですか」
「彼女から連絡がありました」
「……」
「あなたが五年前のことを知りたがっていると」
私は相馬を見つめた。
「本当に、朔さんに怪我をさせられたんですか」
相馬はしばらく黙っていた。
そして、静かに頷いた。
「事実です」
胸が重くなった。
「ただし」
相馬は続けた。
「彼が私を突き落としたわけではありません」
私は顔を上げた。
「どういうことですか」
「私が、彼の腕をつかんだんです」
相馬は遠くを見た。
「当時の朔様は、十七歳とは思えない才能を持っていました。けれど、その才能は久遠家の期待に押しつぶされかけていた」
「……」
「家元は完璧を求めました。作品の形、花材の選び方、立ち居振る舞い。すべてが管理されていた」
私は黙って聞いていた。
「朔様は、それに逆らわなかった。少なくとも、表向きは」
相馬は苦笑した。
「けれど、あの日、突然変わったんです」
「私に会った日?」
「そうです」
相馬は頷いた。
「彼は会場に戻ると、作品をすべて生け直すと言い出しました」
「……」
「家元が決めた構成を無視して、自分の作品を作ろうとした」
私は胸が苦しくなった。
「それで、止めたんですか」
「はい」
相馬は目を伏せた。
「私は彼の腕をつかんだ。無理やり作業をやめさせようとした」
「……」
「朔様は振り払った。その拍子に、私は階段から落ちました」
長い沈黙。
「それだけです」
相馬は言った。
「事故でした」
私は息を吐いた。
「でも、玲奈さんは」
「彼女は、その場にいました」
「……」
「ただ、すべてを見ていたわけではありません」
私は写真のことを思い出した。
「玲奈さんも、翌日病院に行っていますよね」
相馬の顔色が変わった。
「……どこで、それを」
「匿名の封筒が届いたんです」
私は写真と紙片を見せた。
相馬はそれを見た瞬間、明らかに動揺した。
「これは……」
「何か知っているんですか」
相馬は周囲を見回した。
そして、声を落とした。
「三崎さん」
「はい」
「この写真を送った人間を、信用してはいけません」
私は驚いた。
「どうして」
「五年前の事件には、まだ公になっていないことがあります」
「……」
「そして、それを知っている人間は限られている」
相馬は立ち上がった。
「私から話せるのは、ここまでです」
「待ってください」
私は思わず呼び止めた。
「朔さんは、本当に悪い人じゃないんですよね」
相馬は足を止めた。
振り返る。
その目には、複雑な感情が浮かんでいた。
「朔様は」
少し間を置く。
「優しすぎる人です」
「……」
「ただ、その優しさを、誰にも理解されなかった」
相馬は小さく頭を下げた。
「どうか、彼を責めないでください」
そして、公園を去っていった。
私は一人、ベンチに座っていた。
優しすぎる人。
その言葉が、胸に残った。
午後三時。
店に戻ると、見慣れない花束が届いていた。
白い薔薇。
淡い桃色のトルコキキョウ。
細い銀色の枝。
包装は薄い灰色の和紙。
派手ではない。
けれど、息を呑むほど美しい。
「小春ちゃん宛てよ」
店長が言った。
「私に?」
「そう。久遠先生から」
私は花束を受け取った。
小さなカードが添えられていた。
『今日も、あなたが笑えていますように。』
たった一行。
それだけだった。
私は思わず微笑んだ。
けれど、その裏側にはもう一行あった。
『怖いことがあったら、僕に言ってください。』
私は手を止めた。
どうして。
どうして、わかるのだろう。
まるで、私の一日を見ていたかのようだった。
その瞬間、玲奈の言葉が蘇った。
『朔は普通の男じゃない。』
『好きになったものを、手放せない人なの。』
私は花束を見つめた。
綺麗だった。
本当に、綺麗だった。
けれど、少しだけ怖くなった。
夜九時。
約束どおり、朔から電話が来た。
「こんばんは」
「こんばんは」
「今日も、お疲れさまでした」
「朔さんも」
彼の声を聞くだけで、心が落ち着く。
そのことが、少し悔しかった。
「花束、届きましたか」
「はい。ありがとうございます」
「気に入りました?」
「とても」
電話の向こうで、彼が小さく息を吐いた。
「よかった」
私は迷った。
けれど、聞かなければならない。
「朔さん」
「はい」
「今日、相馬さんに会いました」
沈黙。
「……そうですか」
「五年前のことを聞きました」
「……」
「それから、変な封筒も届きました」
私は写真のことを話した。
赤い文字。
病院の名前。
玲奈の名前。
すべて。
朔は一度も話を遮らなかった。
話し終えると、長い沈黙が流れた。
「……すみません」
彼が言った。
「どうして謝るんですか」
「あなたを巻き込んでしまった」
「それは違います」
私は思わず言った。
「私が知りたいと思ったんです」
朔は黙っていた。
「それに、朔さん」
「はい」
「花束のカードに、怖いことがあったら言ってくださいって書いてありましたよね」
「……はい」
「どうして、私が怖がっていると思ったんですか」
長い沈黙。
そして。
「相馬さんから連絡がありました」
朔が答えた。
私は息を止めた。
「あなたに会ったと」
「……」
「変な封筒を受け取ったことも聞きました」
私は少し安心した。
けれど、同時に複雑な気持ちになった。
「私のこと、何でも知ろうとしているんですか」
朔は答えなかった。
「朔さん」
「……はい」
「私、監視されるのは嫌です」
その瞬間、電話の向こうが静かになった。
やがて彼が言った。
「……ごめんなさい」
その声は、驚くほど小さかった。
「相馬さんから聞いたとき、あなたが危険な目に遭うんじゃないかと思って」
「……」
「それで、花を送りました」
「花は嬉しかったです」
私は言った。
「でも、私の知らないところで、私のことを調べたりしないでください」
朔は静かに答えた。
「わかりました」
私は息を吐いた。
「約束ですよ」
「はい」
少し間があった。
「小春さん」
「何ですか」
「嫌われましたか」
胸が、きゅっと縮まった。
その声が、あまりにも不安そうだったから。
「嫌いになってません」
私は答えた。
「ただ、ちゃんと話してほしいんです」
「……」
「心配なら、心配だって言ってください」
朔はしばらく黙っていた。
そして。
「心配です」
低い声だった。
「あなたが、僕の知らないところで傷つくのが怖い」
私は目を閉じた。
「……はい」
「誰かがあなたを泣かせるのも、怖い」
「……」
「でも、一番怖いのは」
彼は言葉を切った。
「僕自身が、あなたを傷つけることです」
私は何も言えなかった。
電話の向こうで、彼が静かに息を吐いた。
「小春さん」
「はい」
「明日、会えませんか」
「……」
「五年前のことを、全部話します」
私は頷いた。
電話だから、彼には見えない。
「わかりました」
「ありがとうございます」
「どこに行けばいいですか」
朔は少し考えた。
「五年前に、あなたと会った場所へ」
私は息を呑んだ。
「あの公園?」
「はい」
「……わかりました」
電話が切れたあと、私はしばらく動けなかった。
翌日。
午後五時。
私は五年前の公園に立っていた。
都内の小さな公園。
古い桜の木。
低い石垣。
その脇に、花壇がある。
五年前とほとんど変わっていなかった。
あの日も、雨だった。
私は大学からの帰り道、突然の雨に降られて、この公園に入った。
そこで、一人の少年を見つけた。
白いシャツ。
黒いズボン。
濡れた髪。
少年は花壇の前にしゃがみ込み、白い花を引き抜こうとしていた。
私は思わず叫んだ。
「何してるの!」
少年が振り返った。
冷たい目だった。
けれど、その奥には何かが壊れそうなほどの悲しみがあった。
「関係ないだろ」
彼はそう言った。
私は怒った。
「花がかわいそうでしょう」
「どうせ、すぐ枯れる」
「だからって、抜いていいわけじゃない」
少年は笑った。
「花なんて、人間の都合で切られて、飾られて、捨てられるだけだ」
私は言い返した。
「でも、花は誰かに見てもらえなくても咲くんだよ」
少年は黙った。
「綺麗に見せるためだけに咲いてるんじゃない」
私は花壇にしゃがみ込んだ。
引き抜かれかけたシロツメクサを、土に戻した。
そのとき、少年の手が見えた。
血がついていた。
「怪我してる」
「……別に」
「別にじゃないでしょう」
私はハンカチを取り出した。
白い布。
小さな青い花の刺繍。
母が作ってくれたものだった。
少年の手を取る。
冷たかった。
驚くほど冷たかった。
「痛い?」
「……」
「我慢しなくていいんだよ」
少年は私を見つめた。
その目が、突然揺れた。
「……痛い」
小さな声だった。
私はハンカチで血を拭いた。
「ほら、ちゃんと手当てしないと」
少年は黙っていた。
やがて、ぽつりと言った。
「僕、花が嫌いなんだ」
私は驚いた。
「どうして?」
「花のせいで、何も選べない」
「……」
「何をしても、花のことばかり」
私は少年を見つめた。
彼は泣いていた。
雨に濡れた顔。
けれど、確かに涙だった。
「もう、全部なくなればいい」
私は何も言えなかった。
そのとき、遠くから男性の声がした。
「朔様!」
少年の身体が固まった。
黒いスーツの男たちが、公園の入口に現れた。
少年は立ち上がった。
「……行かなきゃ」
「待って」
私は呼び止めた。
「ハンカチ、持っていって」
少年は私を見た。
「……いいの?」
「うん」
私は笑った。
「返さなくていいよ」
少年はハンカチを握りしめた。
そして、小さく言った。
「名前」
「え?」
「名前、教えて」
「三崎小春」
少年は何度も口の中で繰り返した。
「……小春」
その声が、妙に優しかった。
「僕は」
言いかけたとき、男たちが近づいてきた。
少年は口を閉じた。
そして、私を見た。
「……ありがとう」
それだけ言って、去っていった。
私は、その背中を見送った。
それが、五年前の記憶だった。
「小春さん」
声がした。
振り返る。
朔が立っていた。
白いシャツ。
黒いパンツ。
五年前と同じような服装だった。
けれど、もう少年ではない。
背が高くなり、顔立ちは大人びている。
それでも。
あの目だけは、変わっていなかった。
「……朔さん」
彼は静かに近づいてきた。
「思い出しました?」
私は頷いた。
「はい」
朔は少し笑った。
「よかった」
その笑顔が、五年前の少年と重なった。
「でも」
私は言った。
「まだ、わからないことがあります」
朔は頷いた。
「全部、話します」
私たちは公園のベンチに座った。
夕方の風が吹いている。
朔はしばらく黙っていた。
そして、静かに話し始めた。
「僕は十七歳のとき、久遠流の次期家元として初めて大きな展覧会を任されました」
「……」
「父は完璧を求めました。失敗は許されなかった」
彼は遠くを見た。
「僕は、それに応えようとしました」
「……」
「でも、何を作っても満足できなかった」
朔は小さく笑った。
「花を見ているはずなのに、見ているのは父の顔ばかりだった」
私は胸が苦しくなった。
「展覧会の前日、僕は作品を壊したくなりました」
「……」
「自分の才能も、久遠家の名前も、全部」
彼は花壇を見た。
「それで、ここに来たんです」
私は頷いた。
「そこで、私に会った」
「はい」
朔は微笑んだ。
「あなたに怒られました」
「……すみません」
「謝らないでください」
彼は首を横に振った。
「嬉しかったんです」
私は驚いた。
「嬉しかった?」
「誰も、僕に怒らなかったから」
朔の声が少し震えた。
「みんな、僕の才能を褒めるか、期待するか、恐れるか。そのどれかでした」
「……」
「でも、あなたは違った」
彼は私を見た。
「僕が誰なのかも知らずに、ただ花を大事にしろって怒った」
私は何も言えなかった。
「そのとき、初めて思ったんです」
朔は静かに続けた。
「僕も、自分の好きなように花を生けていいんじゃないかって」
風が吹いた。
花壇の小さな花が揺れる。
「だから、会場に戻って、作品を全部生け直そうとしました」
「……」
「でも、止められた」
朔は目を伏せた。
「父は怒りました。師範たちも反対しました」
「……」
「僕は、初めて本気で逆らった」
彼の右手が、わずかに動いた。
「相馬さんが僕の腕をつかんだとき、振り払ってしまった」
私は黙っていた。
「その拍子に、相馬さんが階段から落ちました」
長い沈黙。
「僕は、怖くなりました」
朔は小さく息を吐いた。
「自分が何をしたのか、わからなくなった」
私は彼の横顔を見つめた。
「でも」
朔は続けた。
「本当に怖かったのは、そのあとです」
「……何があったんですか」
彼は私を見た。
「父が、あなたのことを調べたんです」
私は息を止めた。
「私を?」
「はい」
「どうして」
「僕が、あなたの話をしたから」
朔は苦しそうに笑った。
「花を生け直そうと思った理由を聞かれて、あなたに会ったことを話してしまった」
「……」
「父は、あなたが僕に悪い影響を与えたと思った」
私は背筋が冷たくなった。
「それで?」
朔はしばらく黙っていた。
そして、静かに言った。
「あなたに近づくなと、命じられました」
私は息を呑んだ。
「……」
「僕は従いませんでした」
朔の声が低くなった。
「あなたに、もう一度会いたかった」
「……」
「でも、父はそれを許さなかった」
彼は目を閉じた。
「だから、僕は約束したんです」
「何を?」
「あなたには二度と近づかない。その代わり、あなたの生活には一切干渉しないでほしい、と」
私は何も言えなかった。
「父は了承しました」
朔は静かに続けた。
「僕は久遠流に残り、次期家元としての役割を果たす。その代わり、あなたには何もしない」
「……」
「それが、五年前の約束でした」
私は胸が苦しくなった。
「じゃあ、どうして今になって」
朔は私を見た。
「父が、その約束を破ったからです」
風が止まった。
「……え?」
「半年前、あなたの勤務先に久遠流から花材の発注がありましたよね」
私は思い出した。
確かに、半年前から大きな注文が増えていた。
「はい」
「父が、あなたの店を調べていたんです」
「どうして」
「僕にも、まだわかりません」
朔は静かに言った。
「ただ、父があなたに接触しようとしていることを知って、僕は先に会いに行きました」
私は息を止めた。
あの日。
花乃井に突然現れた青年。
白い百合を見て、死んでいると言った男。
あれは偶然ではなかった。
「……最初から、私だと知っていたんですね」
「はい」
朔は頷いた。
「ごめんなさい」
私は何も言えなかった。
少しだけ、裏切られた気がした。
偶然の出会いだと思っていた。
花を通じて、自然に惹かれ合ったのだと思っていた。
けれど、彼は最初から私を知っていた。
「どうして、言ってくれなかったんですか」
朔は目を伏せた。
「怖かったんです」
「何が」
「あなたに、気味が悪いと思われるのが」
彼は苦笑した。
「五年前に一度会っただけの人間が、ずっとあなたを覚えていたなんて」
私は黙っていた。
「でも、もう隠したくありません」
朔は私を見た。
「小春さん」
「はい」
「僕は、あなたが好きです」
まっすぐな声だった。
「五年前から、ずっと」
胸が苦しくなった。
「でも」
彼は続けた。
「あなたに、同じ気持ちを求めるつもりはありません」
「……」
「ただ、僕のことを知ってほしい」
私は彼を見つめた。
「朔さん」
「はい」
「一つ、聞いてもいいですか」
「何でも」
「五年間、私を探していたんですか」
朔は少し考えた。
「探そうと思えば、探せました」
「……」
「でも、約束があったので」
「じゃあ、ずっと我慢していたんですか」
彼は静かに頷いた。
「はい」
私は胸が痛くなった。
「どうして、そこまで」
朔は少し笑った。
「あなたが、僕を人間にしてくれたから」
私は息を止めた。
「それまでの僕は、久遠流の作品みたいなものでした」
彼は続けた。
「綺麗に整えられて、決められた場所に置かれて、誰かに評価されるためだけに存在していた」
「……」
「でも、あなたは違うと言ってくれた」
朔の瞳が揺れた。
「花は、誰かに見てもらえなくても咲くんだよって」
私は目を伏せた。
あの日の言葉。
何気なく言っただけだった。
けれど、彼にとっては人生を変える言葉だったのだ。
「……朔さん」
「はい」
「私、まだ全部はわかりません」
彼は頷いた。
「はい」
「でも」
私はゆっくり言った。
「あなたのことを、もっと知りたいです」
その瞬間。
朔の表情が変わった。
驚いたように目を見開き、それから、ゆっくり微笑んだ。
「……本当に?」
「はい」
彼は目を伏せた。
そして、小さく息を吐いた。
「……よかった」
その声が震えていた。
私は思わず彼の手を取った。
「朔さん」
「はい」
「泣いてます?」
彼は首を横に振った。
「泣いていません」
けれど、目元は赤かった。
私は笑った。
「嘘つき」
彼も笑った。
その笑顔は、今まで見た中で一番綺麗だった。
しばらく、二人で公園を歩いた。
夕暮れの空。
街灯が一つずつ灯り始める。
朔は私の隣を歩いていた。
少しだけ距離が近い。
けれど、手はつないでいなかった。
その距離が、心地よかった。
「小春さん」
「はい」
「明日、時間ありますか」
私は笑った。
「またですか」
「はい」
「何をするんですか」
朔は少し考えた。
「デート」
あまりにも真剣に言うので、私は吹き出した。
「……普通に言うんですね」
「違いました?」
「いえ」
私は少し照れながら答えた。
「いいですよ」
朔の顔が明るくなった。
「本当に?」
「はい」
「じゃあ、明日は僕が案内します」
「どこへ?」
彼は微笑んだ。
「秘密です」
私は笑った。
「変なところじゃないでしょうね」
「大丈夫です」
彼は少しだけ顔を近づけた。
「あなたが好きそうな場所です」
胸が跳ねた。
その夜。
私は久しぶりに、穏やかな気持ちで眠りについた。
けれど。
そのころ、久遠家では別の話が進んでいた。
宗一郎の書斎。
九条玲奈がソファに座っていた。
「朔が、あの娘に会っているそうですね」
玲奈は静かに言った。
宗一郎は書類から目を上げなかった。
「知っている」
「止めないんですか」
「止める必要がある」
玲奈は微笑んだ。
「でしたら、私に任せてください」
宗一郎は顔を上げた。
「何をするつもりだ」
玲奈はバッグから一枚の書類を取り出した。
五年前の事故に関する記録だった。
「これを公表すれば、朔は困るでしょうね」
宗一郎の表情が変わった。
「脅すつもりか」
「いいえ」
玲奈は優雅に微笑んだ。
「守ってあげたいだけです」
宗一郎は黙った。
玲奈は続けた。
「久遠流の名誉も、朔の将来も」
「……」
「そして、三崎小春さんの平穏な生活も」
その言葉に、宗一郎の目が細くなった。
「何が望みだ」
玲奈は笑った。
「簡単です」
彼女は書類をテーブルに置いた。
「朔と私の婚約を、正式に発表してください」
長い沈黙。
宗一郎は書類を見つめた。
そして、低い声で言った。
「考えておこう」
玲奈は立ち上がった。
「ありがとうございます」
部屋を出る直前、彼女は振り返った。
「それと」
「何だ」
「五年前の病院の記録」
宗一郎の顔が強張った。
「……」
「まだ残っているんですね」
玲奈は微笑んだ。
「処分したほうがいいですよ」
扉が閉まった。
宗一郎はしばらく動かなかった。
やがて、机の引き出しを開けた。
中には、一枚の古い診断書があった。
患者名。
九条玲奈。
診断日。
五年前の事故の翌日。
そして、診断内容。
宗一郎はその文字を見つめた。
「……まだ、終わっていなかったのか」
低い声が、書斎に響いた。
一方。
九条家へ向かう車の中で、玲奈はスマートフォンを操作していた。
画面には、三崎小春の写真が表示されている。
五年前の雨の日。
朔と小春が並んでいる写真。
玲奈はそれを拡大した。
そして、静かに笑った。
「……本当に、何も覚えていないのね」
写真の端。
そこには、もう一人の人物が写り込んでいた。
傘を差した女性。
顔は見えない。
けれど、手首には特徴的な銀色のブレスレットが光っていた。
玲奈はその部分を指でなぞった。
「かわいそうな小春さん」
彼女は呟いた。
「あなたが思い出したら、朔はどうするのかしら」
そして、画面を閉じた。
「だって、あの日」
玲奈は窓の外を見た。
「最初に血を流したのは、朔じゃなかったんだから」
翌朝。
私は朔から届いたメッセージで目を覚ました。
『おはようございます。今日は晴れそうです。』
私は笑った。
『おはようございます。楽しみにしています。』
すぐに返事が来た。
『僕もです。』
その下に、もう一通。
『昨日、手をつないでくれて嬉しかった。』
私は布団の中で顔を覆った。
朝から何を言っているのだろう。
『たまたまです。』
そう返すと、すぐに返信が来た。
『じゃあ、今日は僕からつないでもいいですか。』
私はしばらく画面を見つめた。
そして、ゆっくり文字を打った。
『……考えておきます。』
数秒後。
『期待しています。』
私は思わず笑ってしまった。
この人は、本当にずるい。
そのとき。
玄関のチャイムが鳴った。
私はベッドから起き上がった。
時計は午前八時。
こんな時間に誰だろう。
玄関へ向かい、扉を開ける。
そこには、見知らぬ女性が立っていた。
四十代くらい。
上品なスーツ。
落ち着いた化粧。
どこか疲れたような目。
「三崎小春さんですね」
「はい」
女性は深く頭を下げた。
「突然、申し訳ありません」
「どちら様ですか」
女性は顔を上げた。
そして、静かに言った。
「久遠朔の母です」
私は息を止めた。
「……お母様?」
「久遠美月と申します」
女性は私を見つめた。
「少し、お話しできませんか」
私は戸惑った。
けれど、断る理由もなかった。
「……どうぞ」
美月は静かに家に入った。
小さなリビング。
古いソファ。
安いテーブル。
私は慌てて茶を用意した。
美月は部屋を見渡した。
けれど、玲奈のように値踏みする目ではなかった。
むしろ、どこか懐かしそうだった。
「素敵なお部屋ですね」
「ありがとうございます」
私は向かいに座った。
「朔さんのことでしょうか」
美月は頷いた。
「はい」
長い沈黙。
やがて、美月は静かに言った。
「朔が、あなたに会えてよかった」
私は驚いた。
「……え?」
美月の目に涙が浮かんでいた。
「五年前から、ずっと」
彼女は小さく息を吐いた。
「あの子は、あなたを忘れられなかった」
私は何も言えなかった。
美月は続けた。
「でも、お願いがあります」
「何でしょうか」
彼女は私の手を取った。
その手は、少し冷たかった。
「朔を、助けてあげてください」
私は息を呑んだ。
「助ける?」
美月は頷いた。
「このままでは、あの子はまた、自分を壊してしまう」
「……」
「五年前と同じように」
私は胸が苦しくなった。
「どういうことですか」
美月はバッグから一枚の写真を取り出した。
それは、五年前の雨の日の写真だった。
私が受け取ったものと、同じ場所で撮影されている。
けれど。
写っているものが違った。
そこには、朔と私のほかに。
もう一人の少女がいた。
長い黒髪。
白いワンピース。
手首には、銀色のブレスレット。
私はその顔を見た。
九条玲奈だった。
「……玲奈さん?」
美月は頷いた。
「そうです」
「どうして、ここに」
美月は目を伏せた。
「五年前、玲奈さんは朔を追いかけていたんです」
「……」
「そして、あなたに会った」
私は写真を見つめた。
玲奈は笑っていなかった。
怒ったような顔で、こちらを見ていた。
美月は静かに続けた。
「そのあと、あることが起きました」
私は息を止めた。
「何があったんですか」
美月はしばらく黙っていた。
そして、震える声で言った。
「玲奈さんが、あなたを突き飛ばそうとしたんです」
私は言葉を失った。
「……私を?」
「はい」
「どうして」
美月は目を閉じた。
「朔が、あなたをかばったからです」
胸が大きく鳴った。
「そのとき、朔は怪我をしました」
「……」
「でも、誰にも言わなかった」
私は写真を見つめた。
五年前。
雨。
花壇。
血。
少年の右手。
記憶の断片が、少しずつつながっていく。
「……待ってください」
私は呟いた。
「私、何かを忘れている」
美月は頷いた。
「そうです」
「……」
「あなたは、あの日のすべてを覚えていない」
私は震える手で写真を持った。
その瞬間。
頭の奥で、何かが弾けた。
雨の音。
少女の叫び声。
濡れた石畳。
そして。
私の腕をつかむ手。
「……あ」
私は息を呑んだ。
あの日。
誰かが私を突き飛ばそうとした。
その瞬間。
少年が私の前に立った。
そして。
鋭い音がした。
ガラスが割れる音。
赤い血。
誰かの悲鳴。
私は頭を抱えた。
「……思い出した」
美月が身を乗り出した。
「小春さん?」
私は震える声で言った。
「朔さんは……」
言葉が続かなかった。
あの日。
朔が守ろうとしたのは。
花ではなかった。
私だった。
そして。
私は、ようやく思い出した。
五年前、雨の公園で。
朔は私をかばって、右手に深い傷を負った。
その傷が、華道家にとってどれほど重大なものだったのか。
当時の私は、何も知らなかった。
美月は涙を拭った。
「朔は、あなたを責めたことなんて一度もありません」
私は顔を上げた。
「……」
「むしろ、あの日のことを、ずっと大切にしていた」
美月は微笑んだ。
「あなたに会えたことが、あの子の救いだったから」
私は写真を胸に抱いた。
そのとき、スマートフォンが鳴った。
朔からだった。
『小春さん、今日の待ち合わせですが。』
私は画面を見つめた。
指が震えていた。
美月は静かに立ち上がった。
「私は、これで失礼します」
「待ってください」
私は呼び止めた。
「一つだけ、教えてください」
美月が振り返った。
「何でしょう」
「朔さんの右手は、今は大丈夫なんですか」
美月の表情が曇った。
長い沈黙。
そして。
「……完治していません」
私は息を止めた。
「今でも、痛みがあるんです」
美月は静かに続けた。
「特に、長時間花を生けたあとには」
私は何も言えなかった。
「でも、朔は誰にも言いません」
美月は悲しそうに微笑んだ。
「弱いところを見せるのが、苦手な子ですから」
扉が閉まった。
私は一人、リビングに立っていた。
スマートフォンを握りしめる。
朔の名前が、画面に表示されている。
私は電話をかけた。
すぐにつながった。
「小春さん?」
いつもの、穏やかな声。
「どうしました?」
私は息を吸った。
「朔さん」
「はい」
「今、会えますか」
一瞬の沈黙。
「……何かありました?」
「会いたいんです」
電話の向こうで、彼が息を止めたのがわかった。
「……今すぐ?」
「はい」
長い沈黙。
そして。
「わかりました」
彼の声が、少し震えていた。
「どこにいますか」
「家です」
「迎えに行きます」
私は目を閉じた。
「待っています」
電話が切れた。
私は窓の外を見た。
青い空。
柔らかな日差し。
五年前とは違う、晴れた朝だった。
けれど。
私の胸の中では、あの日の雨がまだ降り続いていた。
三十分後。
玄関のチャイムが鳴った。
私は扉を開けた。
朔が立っていた。
白いシャツ。
黒いパンツ。
少し乱れた髪。
急いで来たのだろう。
息が少し上がっていた。
「小春さん」
「……朔さん」
彼は私の顔を見た。
そして、表情を変えた。
「泣いたんですか」
私は首を横に振った。
けれど、涙がこぼれた。
朔は驚いたように手を伸ばしかけた。
そして、途中で止めた。
「……触れてもいいですか」
私は頷いた。
その瞬間。
彼の腕が、そっと私を包んだ。
温かかった。
五年前、雨の中で震えていた少年。
その人が、今、私を抱きしめている。
「……ごめんなさい」
私は呟いた。
朔の身体が固まった。
「何がですか」
「知らなかった」
「……」
「あなたが、私を守ってくれていたこと」
朔は何も言わなかった。
「右手の怪我も」
彼の腕に、少し力が入った。
「……母が来たんですね」
私は頷いた。
朔は小さく息を吐いた。
「余計なことを」
「余計じゃありません」
私は顔を上げた。
「どうして、言ってくれなかったんですか」
彼は私を見つめた。
そして、静かに答えた。
「あなたに、責任を感じてほしくなかったから」
私は涙を拭った。
「でも」
朔は微笑んだ。
「小春さん」
「……はい」
「僕は、あなたを守れたことを後悔していません」
その声は、驚くほど優しかった。
「むしろ、誇りに思っています」
私は何も言えなかった。
彼は続けた。
「だから、謝らないでください」
「……」
「あなたが笑っていてくれたら、それでいい」
その言葉が、胸の奥に深く刺さった。
私は彼の右手を取った。
長い指。
綺麗な手。
けれど、親指の付け根から手首にかけて、薄い傷痕が残っていた。
「……痛みますか」
朔は少し笑った。
「たまに」
「無理しないでください」
「はい」
「本当に」
彼は頷いた。
「約束します」
私は傷痕にそっと触れた。
その瞬間。
朔が小さく息を呑んだ。
「……小春さん」
「はい」
「そんなふうに触れられると」
彼は言葉を切った。
「……困ります」
私は顔を上げた。
「痛かったですか」
「違います」
彼は目を伏せた。
「嬉しすぎて」
私は何も言えなかった。
朔は少し笑った。
「僕は、本当にあなたに弱い」
そして、静かに続けた。
「あなたが泣くと、何も考えられなくなる」
私は彼を見つめた。
「……朔さん」
「はい」
「もう一度、聞いてもいいですか」
「何を?」
私は深呼吸した。
「私のこと、本当に好きなんですか」
朔は驚いた顔をした。
そして。
「……何度でも」
彼は私の手を取った。
「好きです」
まっすぐな瞳。
「誰よりも」
私は息を止めた。
「五年前から、ずっと」
彼の声が、少し低くなった。
「でも、今はもっと好きです」
胸が跳ねた。
「どうして」
朔は微笑んだ。
「あなたを知るたびに、好きになるから」
私は顔を伏せた。
ずるい。
本当に、ずるい人だ。
そのとき、彼が小さく笑った。
「小春さん」
「……はい」
「顔、赤いです」
「言わないでください」
「かわいい」
「だから!」
彼は声を出して笑った。
初めて聞く、無邪気な笑い声だった。
私は思わず顔を上げた。
その笑顔を見た瞬間。
胸の奥で、何かが静かにほどけた。
この人が好きだ。
そう思った。
まだ、すべてを知ったわけではない。
不安もある。
怖さもある。
けれど。
この人の笑顔を、もっと見たい。
そう思ってしまった。
朔は私を見つめた。
「……小春さん?」
私はゆっくり言った。
「今日のデート」
「はい」
「どこに行く予定だったんですか」
彼は少し驚いた顔をした。
そして、微笑んだ。
「秘密です」
私は笑った。
「まだ秘密?」
「はい」
彼は私の手を握り直した。
「でも、きっと気に入ります」
私は頷いた。
「じゃあ、行きましょう」
朔の顔が明るくなった。
「いいんですか」
「はい」
彼は嬉しそうに笑った。
そして、少しだけ身をかがめる。
「小春さん」
「何ですか」
「今日は」
彼の声が、甘くなった。
「手をつないだままでも、いいですか」
私は少し迷った。
けれど。
「……はい」
そう答えた。
その瞬間。
朔は、まるで世界で一番大切なものを手に入れたように微笑んだ。
私たちは手をつないで、家を出た。
けれど。
そのころ。
九条玲奈のもとには、一通の報告が届いていた。
『久遠美月が三崎小春と接触。五年前の件について説明した模様。』
玲奈は画面を見つめた。
そして、ゆっくり笑った。
「……そう」
彼女は立ち上がった。
窓の外には、東京の街並みが広がっている。
「だったら、仕方ないわね」
玲奈はスマートフォンを操作した。
ある人物に電話をかける。
数回の呼び出し音。
そして、低い男性の声がした。
『もしもし』
玲奈は微笑んだ。
「相馬さん」
『……九条さん』
「お願いがあるの」
『何でしょう』
玲奈は静かに言った。
「五年前のこと、全部話してもらえる?」
電話の向こうで、相馬が息を呑んだ。
『……何を考えているんですか』
玲奈は笑った。
「決まってるでしょう」
彼女の声が、冷たくなった。
「朔を、取り戻すのよ」
長い沈黙。
そして。
相馬が低い声で言った。
『……それは、できません』
玲奈の笑顔が消えた。
「どうして?」
『私は、もう嘘をつきたくありません』
玲奈は目を細めた。
「……後悔するわよ」
『構いません』
電話が切れた。
玲奈はしばらく画面を見つめていた。
そして、静かに呟いた。
「……みんな、裏切るのね」
彼女は机の引き出しを開けた。
中には、古い写真が何枚も入っていた。
五年前の雨の日。
公園。
花壇。
少年。
少女。
そして。
血に染まった白いハンカチ。
玲奈はその写真を一枚取り出した。
そこには、まだ誰も知らない光景が写っていた。
朔が小春をかばった直後。
地面に落ちたガラス片。
そして。
そのガラスを握っていた、もう一人の人物。
玲奈は写真を見つめた。
「……朔」
その声には、愛情とも憎しみともつかない感情が混じっていた。
「あなたは、まだ知らない」
彼女は静かに笑った。
「本当にあなたを傷つけたのが、誰なのか」
そのころ。
私は朔に連れられて、東京郊外の小さな植物園に来ていた。
観光客の少ない、静かな場所だった。
「ここですか」
「はい」
朔は微笑んだ。
「僕が、一番好きな場所です」
園内には、色とりどりの花が咲いていた。
豪華な温室ではない。
高価な花器もない。
ただ、自然のままに咲く花々。
私は思わず笑った。
「……素敵」
朔は私を見ていた。
「気に入りました?」
「はい」
彼は安心したように微笑んだ。
「よかった」
私たちは花の間を歩いた。
小さな白い花。
風に揺れる草。
陽光を浴びた木々。
朔は時々立ち止まり、花の名前を教えてくれた。
その声は、いつもより柔らかかった。
「朔さん」
「はい」
「ここには、よく来るんですか」
「一人で」
「……」
「でも、今日は二人です」
彼は微笑んだ。
「それが、嬉しい」
私は胸が温かくなった。
しばらく歩くと、小さな池があった。
水面に空が映っている。
朔は立ち止まった。
「小春さん」
「はい」
「一つ、お願いしてもいいですか」
「何ですか」
彼は少し迷った。
そして。
「僕のこと、朔って呼んでください」
私は驚いた。
「……呼び捨て?」
「はい」
「でも」
「二人のときだけでいいので」
彼の瞳が、少し不安そうに揺れた。
私は深呼吸した。
「……朔」
その瞬間。
彼の表情が変わった。
まるで、時間が止まったようだった。
「……もう一度」
私は顔が熱くなった。
「朔」
彼は目を閉じた。
そして、小さく笑った。
「……駄目だ」
「何が?」
彼は私を見つめた。
「嬉しすぎる」
私は笑った。
「大げさです」
「本当です」
彼は私の手を握った。
「もう一度、呼んでください」
「嫌です」
「どうして」
「調子に乗るから」
朔は少し笑った。
「もう、乗っています」
私は吹き出した。
彼も笑った。
その笑顔を見ながら、私は思った。
この人を、もっと知りたい。
華道家でもなく。
御曹司でもなく。
ただの、二十二歳の青年として。
そして。
その願いが、いつか大きな試練になることを。
そのときの私は、まだ知らなかった。