冷たい華道家は、私だけに花を乱す


「……私が、原因?」
自分の声が、ひどく遠くから聞こえた。
朝の青山は、いつもと変わらなかった。
通勤する人々が足早に歩き、カフェの店先では店員が椅子を並べている。花乃井の前には、今朝届いたばかりの花が並んでいた。
その平和な風景の中で、九条玲奈だけが別の世界から来た人間のように見えた。
「そう。あなたが原因」
玲奈は涼しい顔で繰り返した。
「朔が十七歳のとき、久遠家で何が起きたのか、知らないでしょう?」
「知りません」
「でしょうね。あの家は都合の悪いことを隠すのが上手だから」
私は彼女を見つめた。
整った顔立ち。艶やかな黒髪。高価そうなワンピース。耳元には小さな真珠が光っている。
美しい人だった。
けれど、その美しさは花の美しさとは違う。触れようとすると、指先を切ってしまいそうだった。
「どういうことですか」
玲奈は私の質問に答えず、店内を見渡した。
「ここで働いているの?」
「はい」
「お給料、どれくらい?」
「……それが何か」
「朔の一回の講演料より安いんでしょうね」
私は黙った。
玲奈は満足そうに微笑んだ。
「怒らないの?」
「どうしてですか」
「馬鹿にされているのよ」
「わかっています」
「だったら」
「でも、お給料の額で花の価値は決まりませんから」
玲奈の笑顔が止まった。
私は続けた。
「それに、朔さんの講演料が高いのは、それだけの仕事をしているからでしょう。私のお給料とは関係ありません」
玲奈はしばらく私を見つめていた。
そして突然、笑い出した。
「なるほど」
「何ですか」
「朔が気に入るわけだわ」
その言い方が気になった。
まるで、私という人間を以前から知っていたようだった。
「あなた、朔さんとはどういう関係なんですか」
玲奈は小さく首を傾けた。
「幼なじみ。家同士の付き合いがあるの」
「婚約者なんですか」
「そうなる予定だったわ」
過去形だった。
「予定だった?」
「朔があなたを見つけるまではね」
私は胸の奥が重くなるのを感じた。
玲奈はバッグから一枚の写真を取り出した。
古い写真だった。
そこには、まだ少年らしさの残る朔が写っていた。
十七歳。
白いシャツ。
濡れた前髪。
そして、右手には包帯が巻かれていた。
「五年前、朔は父親と大喧嘩したの」
玲奈は静かに話し始めた。
「久遠流の後継者として初めて大きな展覧会を任された日だった。国内外から有名な人たちが集まって、新聞にも載る予定だった」
「……」
「でも朔は、作品を全部壊した」
私は写真を見つめた。
「どうして」
「ある女の子に会ったから」
玲奈の視線が私に向いた。
「その子に、花がかわいそうだと言われたらしいの」
胸がざわついた。
五年前の雨の日。
確かに私は、一人の少年を叱った。
あのとき、彼は花を踏みつけようとしていた。
けれど、どうしてそんなことをしていたのかまでは覚えていない。
「朔は、その言葉を真に受けたのよ。自分が作ってきた花は、本当に花を生かしているのかって」
玲奈は写真を裏返した。
「展覧会の前夜、彼はすべての作品を解体した。数百本の花を花器から抜き、枝を切り直し、会場の構成まで変えようとした」
「……」
「当然、父親は激怒したわ」
「それで?」
「止めようとした師範の一人が怪我をした。朔が振り払った手が当たって、階段から落ちたの」
私は息を呑んだ。
「その人は」
「助かったわ。でも、しばらく入院した」
玲奈は写真をしまった。
「久遠家は事故として処理した。朔は表舞台から半年間姿を消した」
私は言葉を失った。
「つまり、あなたが彼に余計なことを言わなければ、何も起こらなかったの」
玲奈は私の目を見た。
「責任、感じる?」
私はすぐには答えられなかった。
知らなかった。
そんなことが起きていたなんて。
けれど。
「……一つ、聞いてもいいですか」
「何?」
「その人を突き落とそうとして、朔さんは手を振り払ったんですか」
玲奈の眉が動いた。
「どういう意味?」
「わざと傷つけようとしたんですか」
「結果として怪我をさせたのよ」
「それは、悪いことだと思います」
私は言った。
「でも、私が花を大切にしてほしいと言ったことと、その人が怪我をしたことは、同じではありません」
玲奈の表情が冷たくなった。
「随分、強気なのね」
「強気じゃありません。ただ、ちゃんと知りたいんです」
「何を?」
「朔さんが、どんな人なのか」
その瞬間、玲奈の顔から笑みが消えた。
「忠告しておくわ」
彼女は私に近づいた。
「朔は普通の男じゃない」
「……」
「好きになったものを、手放せない人なの」
私は黙っていた。
「花も、人も、同じ。自分の世界に閉じ込めて、ずっと眺めていたいのよ」
玲奈は私の耳元で囁いた。
「愛されることと、所有されることは違うのよ」
その言葉だけが、妙に胸に残った。
玲奈が去ったあとも、私はしばらく店の前に立っていた。
花の香りがする。
いつもの朝だった。
けれど、昨日までとは何かが違っていた。
午前十時。
店に一本の電話が入った。
「三崎小春さんをお願いします」
低く落ち着いた男性の声だった。
「私です」
「久遠家の者です。朔様からお電話をお預かりしております」
心臓が跳ねた。
少しして、聞き覚えのある声がした。
「小春さん」
「朔さん」
「おはようございます」
その声は、昨日と変わらず穏やかだった。
「ちゃんと眠れました?」
「はい」
「よかった」
一瞬、沈黙が流れた。
「……何かありました?」
朔が尋ねた。
私は驚いた。
「どうしてですか」
「声が違う」
「そんなこと」
「あります」
彼は静かに言った。
「昨日は、もっと楽しそうでした」
私は電話を握り直した。
この人は、どうしてこんな小さな変化に気づくのだろう。
「今朝、九条玲奈さんが来ました」
沈黙。
電話の向こうの空気が変わった気がした。
「……何を言われました」
「五年前のことを」
長い沈黙が続いた。
やがて朔が言った。
「今から行きます」
「待ってください。仕事中です」
「知っています」
「だから」
「十分だけ」
彼の声は静かだった。
「十分だけ、僕にください」
電話が切れた。
私は受話器を見つめた。
本当に、勝手な人だ。
そう思った。
けれど不思議と、嫌ではなかった。
二十分後。
店の前に黒い車が停まった。
朔が降りてきた。
今日は着物ではなかった。
黒いシャツ。
細身のパンツ。
上質そうなグレーのジャケット。
普段より若く見える。
というより、実際に二十二歳の青年らしい格好だった。
店に入るなり、彼は私を見た。
「小春さん」
「こんにちは」
「玲奈に何を言われました」
私は少し迷った。
けれど、隠す理由もない。
「五年前、朔さんが人を怪我させたって」
朔の表情が動かなかった。
「……事実です」
私は息を呑んだ。
「本当に?」
「はい」
彼は私から目を逸らさなかった。
「僕が手を振り払ったとき、師範の一人が階段から落ちました」
「……」
「骨折して、入院しました」
朔は淡々と続けた。
「言い訳はしません。僕の責任です」
私は彼を見つめた。
「その人は、今は?」
「元気です。今も久遠流で教えています」
「謝ったんですか」
「はい」
「許してもらえました?」
朔は少し目を伏せた。
「本人は許すと言ってくれました。でも、それでなかったことになるわけではありません」
私は何も言えなかった。
彼は少し笑った。
「失望しました?」
「……まだ、わかりません」
「正直ですね」
「朔さんは、どうして作品を壊したんですか」
彼の笑みが消えた。
「壊したつもりはありませんでした」
「え?」
「花を生け直そうとしたんです」
彼は店先の花を見た。
「それまで僕は、完璧な形を作ることだけを考えていました。枝の角度も、花の向きも、すべて計算して」
「……」
「でも、あなたに言われた」
朔の声が少し低くなった。
「花は、誰かに見てもらえなくても咲くんだよ、って」
私は息を止めた。
あの言葉。
確かに言った。
五年前の雨の日。
「僕は、花を見ていなかったんです」
朔は続けた。
「自分の才能を見せるために、花を使っていた」
彼は小さく息を吐いた。
「それが、急に恥ずかしくなった」
私は胸の奥が熱くなるのを感じた。
「だから、全部生け直そうとしたんですか」
「はい」
「でも、止められた」
「そうです」
朔は頷いた。
「僕は怒った。今思えば、未熟でした」
彼の横顔が少し寂しそうだった。
「十七歳の僕には、自分が正しいと思ったことを、誰かに理解してもらう方法がわからなかった」
私は静かに言った。
「今は、わかるんですか」
朔は私を見た。
そして、少しだけ笑った。
「まだ練習中です」
思わず笑ってしまった。
彼も笑った。
それは、とても自然な笑顔だった。
「小春さん」
「はい」
「お願いがあります」
「何ですか」
「今夜、僕と食事をしてくれませんか」
突然の誘いだった。
「食事?」
「はい」
「何かのお祝いですか」
「いいえ」
「お仕事の話?」
「違います」
彼は少し困ったように目を伏せた。
「あなたと、普通のことがしたいんです」
「普通のこと?」
「食事をして、話をして、笑って」
彼は言葉を探した。
「そういう時間を、過ごしてみたい」
胸が、きゅっと縮まった。
華道界の天才。
名門の御曹司。
何でも持っているように見える青年。
けれど彼が望んでいるのは、驚くほどささやかなことだった。
「……高いお店は苦手です」
私が言うと、彼は顔を上げた。
「じゃあ、安いお店にします」
「着物で来ないでくださいね」
「どうして?」
「目立つから」
朔は少し考えた。
「わかりました」
「それから、車もなしで」
「……電車ですか」
「はい」
彼は真剣な顔で頷いた。
「調べておきます」
私は笑った。
「電車の乗り方くらい、わかりますよね」
「もちろん」
少し間があった。
「たぶん」
私は声を出して笑ってしまった。
朔は、そんな私をじっと見つめていた。
「……何ですか」
「いえ」
彼は微笑んだ。
「やっぱり、笑っている顔が好きだなと思って」
その言葉に、私はまた何も言えなくなった。
午後七時。
待ち合わせ場所は表参道駅だった。
私は改札前で朔を待っていた。
仕事帰りの人々が行き交う。
時計を見る。
七時五分。
七時十分。
七時十五分。
来ない。
電話をしようか迷ったとき、背後から声がした。
「小春さん」
振り返った。
そこにいたのは、見慣れない青年だった。
白いシャツ。
黒いパンツ。
紺色のカーディガン。
前髪は少し無造作に下ろしている。
「……朔さん?」
「はい」
彼は小さく笑った。
「変ですか」
「いえ」
私は思わず見つめた。
着物姿のときとは、まるで違う。
華道家というより、普通の大学生に見えた。
けれど、顔立ちの美しさは隠しようがない。
周囲の女性たちが、ちらちらと彼を見ている。
「すみません。遅くなりました」
「道に迷ったんですか」
「改札を間違えました」
「……」
「出口が多すぎます」
私は笑いをこらえた。
「東京育ちですよね」
「車移動が多かったので」
彼は真剣だった。
「でも、次は間違えません」
その言い方が妙にかわいかった。
私たちは駅近くの小さな洋食店に入った。
昔ながらの店だった。
赤いチェックのテーブルクロス。
木製の椅子。
壁には古い映画のポスター。
朔はメニューを真剣に見つめていた。
「何にします?」
「小春さんは?」
「ハンバーグ」
「じゃあ、僕も」
「同じじゃなくていいですよ」
「同じものを食べてみたいので」
私は何となく照れくさくなった。
料理が運ばれてくる。
朔はナイフとフォークを手に取った。
そして、一口食べた。
「……おいしい」
その声が、あまりにも素直だった。
「でしょう?」
「はい」
彼はもう一口食べた。
「こういうお店、初めてです」
「本当に?」
「家では決まった料理が出るので」
「外食は?」
「仕事の会食が多いですね」
私は彼を見つめた。
「友達と食事したりしないんですか」
朔の手が止まった。
「……友達」
「はい」
彼は少し考えた。
「いません」
私は驚いた。
「一人も?」
「必要だと思ったことがなかったので」
彼は淡々と言った。
「人と一緒にいるより、花を生けているほうが楽でした」
「寂しくないですか」
「寂しいという感覚が、よくわかりませんでした」
過去形だった。
「今は?」
朔は私を見た。
「わかります」
「……」
「あなたと別れたあと、次に会うまでの時間が長く感じる」
私はフォークを置いた。
彼は続けた。
「これが寂しいということなら、僕は最近、ずっと寂しいです」
ずるい。
また、そう思った。
この人は、どうしてこんな言葉を平気で言えるのだろう。
「……朔さん」
「はい」
「そういうこと、誰にでも言うんですか」
彼は少し驚いた顔をした。
「言いません」
「本当に?」
「はい」
そして、静かに付け加えた。
「あなた以外には、言いたいと思わないので」
私は水を飲んだ。
顔が熱い。
朔は不思議そうに私を見ていた。
「暑いですか」
「……少し」
「冷房を強くしてもらいましょうか」
「大丈夫です!」
彼は首を傾げた。
本当に、わかっていないらしい。
食事を終えるころには、私は少しだけ彼のことを理解できた気がしていた。
朔は決して無口なわけではない。
話す必要がないと思えば黙る。
けれど、興味のあることには驚くほど素直だった。
花の話になると、目が輝く。
好きな花を聞くと、季節によって違うと真剣に説明する。
苦手なものを聞くと、甘すぎる菓子と答えた。
そして。
「小春さんの好きなものは?」
何度も、私に質問した。
好きな食べ物。
好きな季節。
休日の過ごし方。
好きな映画。
子供のころの夢。
私は笑った。
「そんなに聞いて、どうするんですか」
朔は少し考えた。
「覚えておきたいんです」
「全部?」
「はい」
「忘れちゃいますよ」
彼は首を横に振った。
「あなたのことなら、忘れません」
その言葉には、不思議な重みがあった。
食事のあと、私たちは少し歩いた。
夜の表参道。
街路樹の葉が風に揺れている。
ショーウィンドウには高価な服や宝石が並び、若い恋人たちが楽しそうに歩いていた。
朔は私の歩幅に合わせていた。
急がない。
先に行かない。
何も言わず、隣を歩いてくれる。
そのことが、何となく嬉しかった。
「今日は、ありがとうございました」
私が言うと、朔は首を振った。
「こちらこそ」
「楽しかったです」
彼は足を止めた。
「本当に?」
「はい」
その瞬間、彼の顔が柔らかくなった。
「……よかった」
心から安心したようだった。
「実は、ずっと緊張していました」
私は驚いた。
「朔さんが?」
「はい」
「全然、そう見えませんでした」
「失敗したくなかったので」
「何をですか」
彼は少し目を伏せた。
「あなたとの時間を」
胸が跳ねた。
そのとき、突然雨が降り始めた。
細かな雨だった。
人々が傘を開き、店の軒下へ駆け込んでいく。
「雨ですね」
私が空を見上げると、朔が自分のカーディガンを脱いだ。
「これを」
私の肩に掛けようとする。
「大丈夫です。少しの雨ですから」
「風邪をひきます」
「朔さんだって」
彼は一瞬、困った顔をした。
そして。
「じゃあ、一緒に」
カーディガンを私の頭上に広げた。
狭い布の下に、二人で入る。
自然と肩が触れた。
近い。
彼の体温が伝わってくる。
「……朔さん」
「はい」
「これ、余計に濡れませんか」
彼は空を見た。
「確かに」
私は笑った。
朔も笑った。
そのまま、二人で近くの建物の軒下へ走った。
雨は少し強くなっていた。
彼の髪が濡れている。
額に張りついた前髪。
頬を伝う雨粒。
私はバッグからハンカチを取り出した。
「動かないでください」
「え?」
彼の額を拭く。
その瞬間。
朔の身体が固まった。
「……どうしました?」
彼は答えなかった。
ただ、私を見つめていた。
その目が、ひどく切なかった。
「朔さん?」
「……五年前も」
彼が呟いた。
「こうしてくれました」
私は手を止めた。
記憶の奥で、何かが動いた。
雨。
花。
白いシャツ。
濡れた少年。
そして。
血。
私は息を呑んだ。
「……あ」
頭の中に、突然、光景が浮かんだ。
五年前の雨の日。
私は大学の帰り道、ある公園に立ち寄った。
そこには、白いシャツを着た少年がいた。
花壇の前にしゃがみ込み、花を引き抜こうとしていた。
私は怒った。
けれど、彼が振り返ったとき。
その右手には、血がついていた。
「……手」
私は呟いた。
朔が私を見た。
「思い出しました?」
「あなた、あのとき怪我をしていた」
「はい」
「私、ハンカチを貸した」
朔は静かに頷いた。
「返せませんでした」
私は彼の顔を見つめた。
「あのあと、どうしたんですか」
朔は答えなかった。
「何かあったんですよね」
長い沈黙。
雨音だけが響いていた。
やがて彼は言った。
「小春さん」
「はい」
「一つ、約束してください」
「何を?」
「僕のことを、怖いと思ったら」
彼はゆっくり息を吐いた。
「ちゃんと言ってください」
私は驚いた。
「どうして」
「僕は、普通の距離感がわからないことがあります」
彼の声は静かだった。
「あなたのことを考えすぎる。会いたくなりすぎる。知らなくていいことまで知りたくなる」
「……」
「それが、あなたを困らせるかもしれない」
私は黙っていた。
朔は少し笑った。
「でも、嫌われたくないんです」
その言葉が、胸に刺さった。
華道界の天才。
何でも持っている御曹司。
そんな人が、今、私の前で不安そうにしている。
私はゆっくり言った。
「じゃあ、私も約束します」
朔が顔を上げた。
「何ですか」
「嫌なことは、ちゃんと言います」
「……」
「だから、朔さんも隠し事をしないでください」
彼の瞳が揺れた。
「全部、話せますか」
「……努力します」
私は微笑んだ。
「それで十分です」
そのとき、彼が私の手を取った。
指先が、そっと重なる。
「小春さん」
「はい」
「好きです」
世界が静かになった。
雨音も。
車の音も。
街のざわめきも。
すべてが遠くなった。
朔は私を見つめていた。
「五年前から、ずっと」
私は息を止めた。
「……でも」
彼は続けた。
「返事は、まだいりません」
「え?」
「僕のことを、ちゃんと知ってからでいい」
彼の指が、ゆっくり離れた。
「その代わり」
少しだけ笑う。
「もう少し、そばにいさせてください」
私は頷いた。
それしかできなかった。
けれど、その小さな頷きだけで。
朔は、まるで世界中の花が一斉に咲いたような顔をした。
雨がやんだころ、私たちは駅へ向かった。
改札の前で別れる。
「また連絡します」
朔が言った。
「はい」
「明日も会えますか」
「明日は仕事が遅いので」
「じゃあ、明後日」
私は笑った。
「予定を確認してから」
「わかりました」
彼は少し残念そうだった。
その顔がかわいくて、私はつい言ってしまった。
「電話なら、明日でも」
朔の目が輝いた。
「本当に?」
「はい」
「何時に?」
「九時くらい」
「夜の?」
「朝九時に電話されても仕事中です」
彼は真剣に頷いた。
「夜九時ですね」
私は笑った。
「忘れないでくださいね」
朔は静かに答えた。
「絶対に忘れません」
その言葉どおり。
翌日の夜九時ちょうどに、電話が鳴ることになる。
けれど、その前に。
私のもとへ、一通の封筒が届いた。
翌朝。
花乃井の郵便受けに、差出人のない白い封筒が入っていた。
中には、一枚の写真。
五年前のものだった。
雨に濡れた少年。
白いシャツ。
右手の包帯。
そして、その隣に立つ少女。
私だった。
誰かが撮影したらしい。
写真の裏には、赤い文字で一行だけ書かれていた。
『あなたは、彼が何をしたか知らない。』
私は背筋が冷たくなるのを感じた。
さらに、封筒の底に小さな紙片があった。
そこには、ある病院の名前と日付が記されていた。
五年前。
朔が師範を怪我させたとされる日の、翌日だった。
そして、患者名。
私は目を疑った。
そこには、久遠朔の名前ではなく。
『九条玲奈』
と書かれていた。
私は何度も見直した。
なぜ、玲奈が病院にいたのだろう。
あの事故と、何か関係があるのだろうか。
そのとき、スマートフォンが震えた。
知らない番号からのメッセージだった。
『久遠朔を信じてはいけない。』
続けて、もう一通。
『あの男は、あなたのためなら何でもする。』
私は画面を見つめた。
そして、三通目。
『たとえ、人を壊してでも。』
窓の外では、白い百合が朝日を浴びていた。
あの日、朔が生け直した花。
その花弁が、一枚だけ静かに落ちた。
私は初めて思った。
もしかすると、私は。
とても危険な恋の入り口に立っているのかもしれない。
一方、久遠家では、朔が一通の報告書を読んでいた。
私服の男性が向かいに立っている。
久遠家の顧問弁護士、榊原だった。
「例の件ですが」
榊原が言った。
「五年前の記録を調べ直しました」
朔は顔を上げた。
「それで?」
「やはり、不自然な点があります」
「……」
「階段から落ちた師範の証言が、当初の記録と食い違っています」
朔の表情が変わった。
「どういうことですか」
榊原は一枚の書類を差し出した。
「事故の直前、現場にはもう一人いたようです」
朔は書類を受け取った。
そこに記された名前を見た瞬間。
彼の指が止まった。
「……玲奈」
榊原は頷いた。
「九条玲奈さんです」
長い沈黙が続いた。
やがて朔は静かに立ち上がった。
「榊原さん」
「はい」
「五年前のことを、全部調べてください」
「承知しました」
朔は窓の外を見た。
庭には、白い花が咲いていた。
「僕は、もう逃げません」
その声は静かだった。
けれど、強い決意が込められていた。
「小春さんに、嘘をついたままでいたくない」
榊原が部屋を出る。
一人になった朔は、スマートフォンを手に取った。
画面には、小春との短いメッセージのやり取りが残っている。
『今日はありがとうございました。』
『こちらこそ。楽しかったです。』
たったそれだけ。
けれど、彼にとっては何より大切な言葉だった。
朔は画面を見つめた。
そして、小さく呟いた。
「……小春」
そのとき、着信があった。
九条玲奈。
朔は数秒迷い、電話に出た。
「何ですか」
玲奈の明るい声が響いた。
『冷たいわね。幼なじみなのに』
「用件を」
『花屋の女の子、かわいいわね』
朔の瞳が冷たくなった。
「彼女に会ったんですね」
『ええ。少しお話ししただけ』
「二度と近づかないでください」
玲奈は笑った。
『怖い顔してるんでしょうね、今』
「玲奈」
『でも、朔』
彼女の声が低くなった。
『あなた、五年前のこと、本当に全部覚えている?』
朔は黙った。
『あの雨の日、あなたが花を捨てようとした理由』
「……」
『小春さんには、まだ話していないんでしょう?』
朔は目を閉じた。
玲奈は静かに続けた。
『あなたが本当に守ろうとしたのは、花じゃなかった』
電話が切れた。
朔はしばらく動かなかった。
そして、机の引き出しを開けた。
中には、古い封筒があった。
五年前のもの。
宛名は、三崎小春。
一度も投函されなかった手紙だった。
朔は封筒を取り出した。
そこには、十七歳の自分が書いた文字が残っている。
『あなたに会えて、初めて生きていてよかったと思いました。』
彼は目を閉じた。
あの日。
雨の中で泣いていたのは、自分だった。
そして。
その涙を拭いてくれた少女の手を、血で汚したのも。
自分だった。