京都華道展から三か月が過ぎた。
東京には、秋の気配が訪れていた。
朝の空気は少し冷たく、花乃井の店先には、色とりどりの秋の花が並んでいる。
深紅のダリア。
白いリンドウ。
薄紫のクジャクソウ。
そして、黄金色の小菊。
私はいつものように、店の前で花を並べていた。
「……よし」
最後の花器を置く。
少し離れて眺める。
うん。
悪くない。
私は小さく頷いた。
そのとき。
背後から声がした。
「……その枝、少し右に」
私は振り返らずに答えた。
「動かしません」
「……」
「この角度がいいんです」
短い沈黙。
そして。
「……そうですか」
私は笑った。
「そうです」
振り返る。
そこには、久遠朔が立っていた。
濃紺の着物。
白い襟。
整った黒髪。
相変わらず、どこか近寄りがたいほど美しい。
けれど、その目は優しかった。
「おはようございます、小春」
私は微笑んだ。
「おはよう、朔」
彼は店先の花を見つめた。
そして、静かに言った。
「……綺麗ですね」
私は少し笑った。
「ありがとう」
彼は頷いた。
「あなたらしいです」
私は首を傾げた。
「……どこが?」
朔は少し考えた。
そして、微笑んだ。
「少し、自由なところが」
私は吹き出した。
「それ、褒めてる?」
「もちろんです」
彼は真剣だった。
私は笑った。
「……もう」
三か月前。
私たちは京都華道展で、特別賞を受賞した。
共同作品『居場所』。
曲がった枝。
苔。
石。
そして、まだ咲いていない白い蕾。
その作品は、華道界で小さな話題になった。
『名門を離れた天才華道家、新しい表現へ』
『花屋との共同制作が示した可能性』
『華道と生命管理の融合』
そんな記事が掲載された。
けれど、私たちの生活が劇的に変わったわけではない。
私は今も、花乃井で働いている。
朝から花を仕入れ、茎を切り、水を替え、配達の準備をする。
朔は独立した華道家として、小さな仕事を積み重ねている。
企業の装花。
個人宅の花。
そして、花乃井で開く月二回の教室。
大きな収入ではない。
けれど、少しずつ仕事が増えていた。
何より、朔は以前よりよく笑うようになった。
「……小春」
彼が静かに言った。
「何?」
「今日は、教室の日ですね」
私は頷いた。
「うん」
「準備は?」
「ほとんど終わってる」
朔は微笑んだ。
「ありがとうございます」
私は笑った。
「朔も、ちゃんと働いてね」
彼は真剣に頷いた。
「もちろんです」
私は少し笑った。
「それから」
「はい」
「右手、無理しないこと」
朔は右手を持ち上げた。
以前のような大きな装具は、もうつけていない。
けれど、長時間の細かい作業や重い花器の扱いは、今も制限されている。
医師の指導のもと、リハビリを続けていた。
朔は頷いた。
「わかっています」
私は目を細めた。
「本当に?」
彼は少し笑った。
「本当です」
私は頷いた。
「なら、よし」
朔は静かに微笑んだ。
「……あなたには、かないませんね」
私は笑った。
「知ってる」
そのとき。
店長が奥から出てきた。
「小春ちゃん、朔さん」
私たちは振り返った。
「おはようございます」
店長は嬉しそうだった。
「ちょっと、いい知らせがあるの」
私は顔を上げた。
「何ですか?」
店長は一枚の書類を見せた。
「賃貸借契約の更新、正式にまとまったわ」
私は息を止めた。
「……本当ですか」
店長は頷いた。
「ええ」
私は書類を受け取った。
そこには、契約更新の条件が記されていた。
賃料は、従来の水準を基本に、双方が合意した小幅な改定。
契約期間も、これまでどおり確保されている。
私は胸が熱くなった。
「……よかった」
店長は笑った。
「本当にね」
私は書類を見つめた。
花乃井。
七十年続いてきた、小さな花屋。
私が働き始めてから四年。
毎朝、花を並べてきた場所。
泣いたこともある。
失敗したこともある。
嬉しいことも、たくさんあった。
その店を、これからも続けられる。
私は目を伏せた。
「……よかったです」
店長が私の肩を軽く叩いた。
「小春ちゃん、ありがとう」
私は首を横に振った。
「私だけじゃないです」
店長は頷いた。
「そうね」
商店街の人たち。
相談に乗ってくれた弁護士。
新しい注文をくれたお客様。
そして、毎日店を支えてきた人たち。
みんなの力だった。
朔も静かに頭を下げた。
「おめでとうございます」
店長は笑った。
「ありがとう、朔さん」
そして、少し意味ありげに私たちを見た。
「これで、二人とも安心して仕事ができるわね」
私は顔が熱くなった。
「……はい」
朔は真剣に頷いた。
「はい」
店長は小さく笑った。
「本当に、仲がいいこと」
私は慌てた。
「……店長」
朔は静かに言った。
「大切な人なので」
私は顔が熱くなった。
「……もう」
店長は声を出して笑った。
午前中。
花乃井の教室が始まった。
今日のテーマは『秋の一輪』。
参加者は八人。
以前より少し増えていた。
私は花材の説明を担当し、朔は構成の考え方を教えた。
「花をよく見てください」
彼の声は、静かだった。
「同じ種類でも、一本ずつ違います」
参加者たちは真剣に聞いていた。
朔は一本のリンドウを持ち上げた。
「茎の曲がり方」
「……」
「花の開き方」
「……」
「葉の向き」
彼はゆっくり花を回した。
「それぞれに、個性があります」
私は隣で微笑んだ。
朔は続けた。
「今日は、その個性を生かしてください」
一人の女性が手を挙げた。
「先生」
朔が振り返る。
「はい」
「うまくできなかったら、どうすればいいですか」
朔は少し考えた。
そして、微笑んだ。
「うまくできなくても、いいんです」
私は思わず顔を上げた。
以前の彼なら、絶対に言わなかった言葉だった。
朔は続けた。
「まず、自分が好きだと思う形を探してください」
女性は少し驚いた。
「……それでいいんですか」
朔は頷いた。
「はい」
そして、静かに言った。
「花は、正解を求めていませんから」
私は胸が温かくなった。
十歳のころ。
曲がった枝を捨てるように言われた少年。
その少年が今、誰かに自由を教えている。
私は静かに微笑んだ。
教室が終わると、参加者たちは嬉しそうに作品を持ち帰った。
片づけをしていると、朔が私の隣に来た。
「……小春」
「何?」
「今日も、楽しかったです」
私は笑った。
「よかった」
彼は頷いた。
「はい」
そして、少し照れたように言った。
「あなたと働くのが、好きです」
私は顔が熱くなった。
「……仕事中だよ」
朔は真剣だった。
「仕事の話です」
私は吹き出した。
「……そうですか」
彼は微笑んだ。
「はい」
その日の午後。
私たちは久遠家を訪ねた。
京都華道展が終わってから、初めてだった。
大きな門。
白い石畳。
整えられた庭。
以前は、緊張する場所だった。
けれど、今日は少し違っていた。
門をくぐると、美月が迎えてくれた。
「いらっしゃい」
私は頭を下げた。
「こんにちは」
美月は微笑んだ。
「小春さん、よく来てくださいました」
私は少し照れた。
「ありがとうございます」
朔も頭を下げた。
「母さん」
美月は彼を見た。
そして、静かに微笑んだ。
「元気そうね」
朔は頷いた。
「はい」
私たちは客間へ案内された。
そこには、宗一郎が待っていた。
濃い灰色の着物。
厳しい表情。
けれど、以前より少し痩せたように見えた。
彼は立ち上がった。
「……朔」
朔は頭を下げた。
「父さん」
宗一郎は私を見た。
「三崎さん」
私は頭を下げた。
「こんにちは」
彼は静かに頷いた。
「座ってくれ」
私たちは向かい合って座った。
しばらく、静かな時間が流れた。
やがて、宗一郎が口を開いた。
「……京都の作品、改めて見事だった」
朔は少し驚いた。
「……ありがとうございます」
宗一郎は続けた。
「私には、あのような花は生けられない」
私は顔を上げた。
宗一郎は静かに言った。
「久遠流の伝統とは、違う」
朔は黙った。
宗一郎は続けた。
「だが、美しかった」
長い沈黙。
そして。
「……認めよう」
朔の目が揺れた。
宗一郎は続けた。
「おまえは、自分の花を見つけた」
朔は何も言えなかった。
私は隣で、静かに見守っていた。
宗一郎は目を伏せた。
「私は、ずっと間違えていたのかもしれない」
朔は顔を上げた。
「……父さん」
宗一郎は続けた。
「久遠流を守ることばかり考えていた」
「……」
「おまえ自身が、何を望んでいるのか」
彼は少し言葉を切った。
「聞こうとしなかった」
長い沈黙。
そして。
「……すまなかった」
朔は息を止めた。
私は胸が熱くなった。
宗一郎が、息子に謝った。
初めてだったのかもしれない。
朔はしばらく黙っていた。
そして、静かに答えた。
「……ありがとうございます」
宗一郎は顔を上げた。
朔は続けた。
「でも、僕は久遠流には戻りません」
宗一郎は黙った。
朔は静かに言った。
「自分の花を、生け続けたいので」
長い沈黙。
そして。
宗一郎はゆっくり頷いた。
「……そうか」
朔は頷いた。
「はい」
宗一郎は少し笑った。
「……わかった」
私は胸が温かくなった。
そのとき。
宗一郎が私を見た。
「三崎さん」
私は顔を上げた。
「……はい」
「お父様のことだが」
私は息を止めた。
宗一郎は続けた。
「旧温室の調査と改修計画について、報告したい」
私は頷いた。
「お願いします」
宗一郎は資料を差し出した。
そこには、第三者による調査結果がまとめられていた。
旧温室の安全上の問題。
改修費の不適切な振替。
そして、管理体制の不備。
私は一枚ずつ読んだ。
宗一郎は静かに説明した。
「征臣は、副家元の職を退いた」
私は顔を上げた。
「……そうですか」
「会計処理については、外部の専門家と関係機関による確認が続いている」
宗一郎は続けた。
「事故当日の設備操作についても、調査中だ」
私は頷いた。
「……わかりました」
宗一郎は静かに言った。
「確定していないことを、断定するつもりはない」
私は少し安心した。
彼は続けた。
「だが、施設管理上の責任は、久遠流にある」
私は黙った。
宗一郎は目を伏せた。
「旧温室は、当面使用を停止する」
「……」
「安全性が確認されるまで、再開しない」
私は頷いた。
「……それがいいと思います」
宗一郎は続けた。
「そして、三崎さんのお父様が残した設計資料を、正式な記録として保存する」
私は胸が熱くなった。
「……ありがとうございます」
宗一郎は静かに言った。
「本来、もっと早くするべきだった」
私は目を伏せた。
父のことを思い出した。
病室で、私に笑いかけた父。
好きなことを大切にしなさい。
そう言ってくれた父。
私は静かに言った。
「……父は」
宗一郎が顔を上げた。
「何だ」
私は少し考えた。
そして、続けた。
「花が好きでした」
宗一郎は黙った。
私は続けた。
「建物を設計するときも、花のことを考えていました」
「……」
「そこにいる人が、花を見て安心できるように」
宗一郎は目を伏せた。
「……そうだったな」
私は微笑んだ。
「だから、これからも」
「……」
「そういう場所を、大切にしてください」
宗一郎は静かに頷いた。
「……約束する」
私は胸の奥で、何かが少しだけほどけるのを感じた。
すべてが終わったわけではない。
責任の問題も、調査も、まだ続いている。
けれど。
父が残した言葉は、ようやく正しい場所に届いた。
私はそう思った。
久遠家を出たあと。
私たちは駅まで歩いた。
夕方の空。
涼しい風。
街路樹の葉が、少し色づいていた。
朔は静かだった。
私は隣を歩きながら、尋ねた。
「……大丈夫?」
彼は顔を上げた。
「はい」
私は少し笑った。
「本当?」
朔は頷いた。
「本当です」
そして、静かに言った。
「少し、安心しました」
私は微笑んだ。
「……よかった」
朔は私を見た。
「小春」
「何?」
「今日は、ありがとうございました」
私は首を横に振った。
「私は、何もしてないよ」
朔は微笑んだ。
「一緒にいてくれました」
私は胸が温かくなった。
「……うん」
彼は続けた。
「それだけで、十分です」
私は少し照れた。
「……もう」
その夜。
私は久しぶりに、母の家へ帰った。
父のノートを返すためだった。
母は台所で夕食の準備をしていた。
「おかえり」
私は笑った。
「ただいま」
母は私の顔を見た。
「……何かあった?」
私は少し考えた。
そして、頷いた。
「うん」
私は久遠家での話をした。
旧温室の調査。
父の設計資料。
宗一郎の謝罪。
母は黙って聞いていた。
話し終えると、長い沈黙があった。
そして。
「……そう」
母は静かに言った。
私は頷いた。
「うん」
母は少し目を伏せた。
「お父さん、喜ぶかしら」
私は考えた。
そして、微笑んだ。
「……喜ぶと思う」
母は小さく笑った。
「そうね」
私は父のノートを差し出した。
「これ、ありがとう」
母は受け取った。
そして、静かにページをめくった。
花と建築。
曲がった枝。
小さな花。
そして、人が安心して過ごせる空間。
母は少し目を潤ませた。
「……懐かしい」
私は黙っていた。
母は続けた。
「お父さん、よく言ってたの」
私は顔を上げた。
「……何て?」
母は微笑んだ。
「建物も、花も、人がいて初めて意味があるって」
私は胸が熱くなった。
「……そうなんだ」
母は頷いた。
「うん」
そして、私を見た。
「小春」
「何?」
「幸せ?」
私は少し驚いた。
「……え?」
母は微笑んだ。
「朔さんといて」
私は顔が熱くなった。
少し考えた。
そして、静かに頷いた。
「……うん」
母は微笑んだ。
「よかった」
私は少し笑った。
「……ありがとう」
母は続けた。
「今度、連れていらっしゃい」
私は驚いた。
「……朔を?」
「ええ」
母は頷いた。
「ちゃんと、ご飯を作ってあげたいから」
私は笑った。
「……うん」
その夜。
私は朔に電話をかけた。
「朔」
『小春』
「今、何してる?」
『花の図面を描いています』
私は笑った。
「また?」
『はい』
彼は少し照れたようだった。
『新しい仕事の依頼がありまして』
私は驚いた。
「本当?」
『はい』
「おめでとう」
『ありがとうございます』
私は少し嬉しかった。
「どんな仕事?」
『小さな図書館の装花です』
私は顔を上げた。
「……図書館?」
『はい』
彼は続けた。
『子どもたちが集まる場所に、花を置きたいそうです』
私は胸が温かくなった。
「……いいね」
『はい』
朔は微笑んだようだった。
『小春』
「何?」
『また、相談に乗ってもらえますか』
私は笑った。
「もちろん」
『ありがとうございます』
私は少し考えた。
そして、言った。
「それから」
『はい』
「母が、今度ご飯を食べに来てって」
電話の向こうが静かになった。
『……僕が?』
私は笑った。
「うん」
『……本当ですか』
「本当」
長い沈黙。
そして。
『……嬉しいです』
私は胸が温かくなった。
「よかった」
彼は少し考えた。
そして、真剣に尋ねた。
『何を持っていけばいいでしょう』
私は吹き出した。
「何もいらないよ」
『でも』
「本当に」
朔は少し黙った。
そして。
『……花を持っていってもいいですか』
私は笑った。
「もちろん」
彼は嬉しそうだった。
『では、考えておきます』
私は微笑んだ。
「うん」
そして、少し迷った。
「……朔」
『はい』
「旅行のこと、覚えてる?」
電話の向こうで、彼が息を呑んだ。
『もちろんです』
私は笑った。
「海」
『はい』
「そろそろ、行こうか」
長い沈黙。
そして。
『……本当ですか』
私は吹き出した。
「何回聞くの」
朔は少し笑った。
『すみません』
私は頷いた。
「来月、休みを取れそうだから」
『……はい』
「二人で、行こう」
彼の声が柔らかくなった。
『……ありがとう』
私は微笑んだ。
「うん」
そして、静かに言った。
「楽しみにしてる」
朔は少し沈黙した。
そして。
『……僕もです』
その声は、とても幸せそうだった。
一か月後。
私たちは海へ向かった。
東京から電車で二時間ほど。
小さな海辺の町。
観光地としては、それほど有名ではない。
けれど、静かな海が広がっていた。
私は駅を出た瞬間、深呼吸した。
「……気持ちいい」
朔は隣で海を見つめていた。
「……綺麗ですね」
私は笑った。
「うん」
彼は少し目を細めた。
「花が、ありませんね」
私は吹き出した。
「そりゃ、海だから」
朔も少し笑った。
「そうですね」
私たちは海岸を歩いた。
白い砂。
青い空。
波の音。
潮の香り。
朔はしばらく黙っていた。
そして、静かに言った。
「……不思議です」
私は顔を上げた。
「何が?」
彼は海を見つめた。
「何も、生けられていないのに」
私は黙った。
「……」
「こんなに、美しい」
私は胸が温かくなった。
「……そうだね」
彼は微笑んだ。
「僕は、ずっと」
「……」
「美しさは、作るものだと思っていました」
私は頷いた。
「うん」
朔は続けた。
「でも、違うんですね」
私は彼を見た。
彼は静かに言った。
「最初から、そこにあるものも美しい」
私は微笑んだ。
「……うん」
朔は私を見た。
「小春」
「何?」
「あなたも、そうです」
私は固まった。
「……え?」
彼は真剣だった。
「何もしなくても、美しい」
私は顔が熱くなった。
「……急に何を言うの」
朔は首を傾げた。
「本当のことです」
私は思わず笑った。
「……もう」
彼は微笑んだ。
「好きです」
私は顔を覆った。
「……海に来ても、それ?」
朔は真剣だった。
「海に来たからこそ、です」
私は吹き出した。
「意味がわからない」
彼は少し考えた。
そして、静かに言った。
「あなたといると、何でも美しく見えるので」
私は何も言えなかった。
波の音。
風。
遠くの鳥の声。
そのすべてが、急に鮮やかになった気がした。
私は彼を見た。
「……朔」
「はい」
「私も、好き」
その瞬間。
彼の表情が、ゆっくり変わった。
嬉しそうで。
少し驚いていて。
そして、幸せそうだった。
私は笑った。
「何回言っても、そんな顔するね」
朔は少し照れた。
「……慣れません」
私は微笑んだ。
「慣れなくていいよ」
彼は頷いた。
「はい」
私たちは手をつないだ。
そして、海岸を歩き続けた。
夕方。
私たちは小さな宿に着いた。
窓から海が見える部屋だった。
私は荷物を置いた。
「……いい部屋」
朔は頷いた。
「はい」
そして、少し緊張した顔をしていた。
私は首を傾げた。
「……どうしたの?」
彼は少し迷った。
そして、静かに言った。
「……同じ部屋ですね」
私は顔が熱くなった。
「……そうだね」
朔は真剣だった。
「無理をさせるつもりはありません」
私は少し笑った。
「わかってる」
彼は頷いた。
「はい」
私は窓際に立った。
海が見える。
夕日が、水面を赤く染めていた。
私は静かに言った。
「……朔」
彼が近づいた。
「はい」
私は振り返った。
そして、微笑んだ。
「一緒に来られて、よかった」
朔は静かに頷いた。
「……僕もです」
私は彼の左手を取った。
「これからも、いろんなところに行こうね」
朔は微笑んだ。
「はい」
私は続けた。
「仕事もして」
「……」
「喧嘩もして」
朔が少し驚いた。
「……喧嘩も?」
私は笑った。
「することもあるでしょう」
彼は少し考えた。
そして、頷いた。
「……そうですね」
私は続けた。
「でも、ちゃんと話して」
「……」
「一緒に、暮らしていけたらいいな」
朔は息を止めた。
長い沈黙。
そして。
「……小春」
彼の声が震えた。
私は顔を上げた。
「何?」
朔は私の手を握り直した。
「僕も、そう思っています」
私は胸が温かくなった。
「……うん」
彼は少し迷った。
そして、静かに言った。
「いつか」
私は黙った。
「……」
「一緒に暮らしませんか」
私は息を止めた。
彼は続けた。
「今すぐではなくても」
「……」
「お互いの仕事が落ち着いたら」
私は彼を見つめた。
真剣な目。
少し緊張した表情。
そして、どこか不器用な優しさ。
私は微笑んだ。
「……うん」
朔の目が揺れた。
「……本当ですか」
私は笑った。
「うん」
そして、静かに続けた。
「一緒に考えよう」
朔は目を閉じた。
深く息を吐いた。
「……ありがとう」
私は少し笑った。
「まだ、何も決まってないよ」
彼は頷いた。
「はい」
そして、微笑んだ。
「それでも、嬉しいです」
私は胸が温かくなった。
そのとき。
朔が少し顔を近づけた。
「……小春」
「何?」
「キスしてもいいですか」
私は笑った。
「また?」
彼は真剣だった。
「はい」
私は少し考えた。
そして、頷いた。
「……いいよ」
朔は優しく私を抱き寄せた。
唇が触れる。
柔らかく。
温かく。
静かなキス。
私は目を閉じた。
波の音が聞こえる。
遠くで、鳥が鳴いている。
彼の腕の中は、安心できる場所だった。
やがて、唇が離れた。
朔は私を見つめた。
「……小春」
「何?」
彼は少し笑った。
「僕は、あなたの前では」
私は首を傾げた。
「……?」
「いつも、冷静でいられません」
私は吹き出した。
「知ってる」
朔は少し困った顔をした。
「……そうですか」
私は笑った。
「うん」
そして、彼の頬に触れた。
「でも、私は」
朔が顔を上げた。
私は微笑んだ。
「そんな朔が、一番好き」
その瞬間。
彼の表情が崩れた。
嬉しそうで。
少し泣きそうで。
そして、どうしようもなく幸せそうだった。
私は胸が熱くなった。
「……朔」
彼は私を抱きしめた。
「……小春」
その声は、かすかに震えていた。
「ありがとう」
私は彼の背中に手を回した。
「……うん」
しばらく、そのままでいた。
やがて。
窓の外で、夕日が海に沈んだ。
空は、淡い紫色に変わっていった。
私は彼の胸に顔を寄せたまま、静かに言った。
「……ねえ、朔」
「はい」
「最初に会った日のこと、覚えてる?」
彼は微笑んだ。
「もちろん」
私は笑った。
「雨の日」
「はい」
「公園で、花を見てた」
朔は頷いた。
「あなたに、叱られました」
私は吹き出した。
「だって、花を傷つけてたから」
彼は少し笑った。
「そうですね」
私は続けた。
「そのとき、私、言ったよね」
朔は静かに頷いた。
そして、私より先に言った。
「花は、誰かに見てもらえなくても咲くんだよ」
私は息を止めた。
彼は微笑んだ。
「一言も、忘れていません」
私は胸が熱くなった。
「……そっか」
朔は続けた。
「僕は、あの日」
私は顔を上げた。
「……うん」
「初めて、自分の花を見つけた気がしました」
私は黙った。
彼は静かに言った。
「そして」
「……」
「初めて、誰かを好きになりました」
私は胸が熱くなった。
「……朔」
彼は微笑んだ。
「五年間、忘れられませんでした」
私は何も言えなかった。
雨の日。
公園。
白い花。
傷ついた手。
そして、見知らぬ少年。
あの日の出会いが、今につながっている。
私は静かに微笑んだ。
「……私も」
朔が顔を上げた。
「……?」
私は少し笑った。
「きっと、忘れてなかったんだと思う」
彼の目が揺れた。
私は続けた。
「だから、もう一度会ったとき」
「……」
「どこか、懐かしかった」
朔は静かに息を吐いた。
そして、微笑んだ。
「……嬉しいです」
私は頷いた。
「うん」
私たちは窓の外を見た。
海。
空。
夕暮れ。
どこにも、花はなかった。
けれど。
私は思った。
花は、そこにあるだけで美しい。
誰かに選ばれなくても。
誰かに認められなくても。
自分の場所で、咲いていればいい。
そして、人もきっと同じなのだ。
久遠朔。
二十二歳。
天才華道家。
冷たく、美しく、誰にも心を開かなかった青年。
その彼が今、私の隣で笑っている。
私はそっと、彼の手を握った。
「……朔」
「はい」
「これからも、よろしくね」
彼は微笑んだ。
「こちらこそ」
そして、静かに続けた。
「一生、大切にします」
私は顔が熱くなった。
「……また、そういうこと言う」
朔は真剣だった。
「本当です」
私は笑った。
「知ってる」
彼は少し照れた。
そして、私を抱き寄せた。
「……小春」
「何?」
「愛しています」
私は目を閉じた。
そして、静かに答えた。
「……私も」
波の音が、優しく響いていた。
花は、誰かに見てもらえなくても咲く。
けれど。
もし、隣でその花を見つめてくれる人がいたなら。
世界は、少しだけ美しくなる。
私は、そう信じている。
そして。
冷たい華道家は、今日も私の前でだけ、どうしようもなく心を乱す。
それが、私の一番好きな彼の姿だった。
完
