午後六時二十五分。
私は店の壁時計を、もう何度見たかわからなかった。
普段なら、とっくに帰り支度を済ませている時間だ。
けれど今日は、なぜか落ち着かない。
鏡を見て髪を直し、エプロンを外し、また鏡を見る。
「小春ちゃん」
背後から店長の声がした。
「はい」
「今日、久遠先生と出かけるんだって?」
「どうして知ってるんですか」
「さっき、秘書の方から電話があったのよ」
「秘書?」
「久遠家の車を店の前に停めてもよいかって」
私は思わず窓の外を見た。
黒塗りの車が一台、静かに停車していた。
運転席から降りた男性が、後部座席の扉を開ける。
そして。
「……本当に来た」
濃紺の着物姿の青年が降りてきた。
久遠朔。
二十二歳。
華道界の若き天才。
テレビや雑誌では、近寄りがたいほど冷たい表情をしていることで知られている。
そんな人が、今、私を迎えに来ている。
「小春ちゃん」
店長が耳元で囁いた。
「絶対に失礼のないようにね」
「わかってます」
「それと」
「はい?」
「何かあったら、すぐ連絡するのよ」
「何かって?」
店長は妙に真剣な顔をした。
「久遠家って、普通のお金持ちじゃないから」
私は笑った。
「大丈夫ですよ。花を生けに行くだけですから」
そう答えた自分の言葉が、数時間後にはひどく頼りなく思えることになる。
店の扉が開いた。
朔が入ってきた。
「こんばんは」
その声だけで、店内の空気が変わる。
不思議な人だ。
大きな声を出すわけでもない。
威張るわけでもない。
それなのに、誰もが自然に彼を見てしまう。
「こんばんは。少し早いですね」
「待ちきれなかったので」
店長が小さく咳き込んだ。
私は慌てて言った。
「準備はできています」
「よかった」
朔は私の服装を見た。
白いブラウス。
淡いベージュのスカート。
安物のカーディガン。
仕事帰りの、何の変哲もない格好だ。
「何か変ですか」
「いいえ」
彼は首を横に振った。
「綺麗です」
「……服が?」
「あなたが」
あまりにも平然と言うので、返事に困った。
店長が背後で何か言いたそうにしている。
私は逃げるように店を出た。
車内は静かだった。
革張りの座席。
ほのかに香る木の匂い。
窓の外には、夕暮れの東京が流れていく。
朔は隣に座っていた。
姿勢が綺麗だった。
背筋を伸ばし、両手を膝の上に置いている。
横顔は彫刻のように整っている。
私は何度か話しかけようとした。
けれど、そのたびに言葉を飲み込んだ。
沈黙が苦手なのは、私だけらしい。
「緊張していますか」
突然、朔が言った。
「少し」
「どうして」
「有名な方なので」
「僕が?」
「はい」
彼は窓の外を見た。
「有名だと、話しにくいんですね」
「そういうわけでは」
「じゃあ、普通にしてください」
「普通?」
「花屋で僕に怒ったときみたいに」
私は思わず彼を見た。
朔は口元をわずかに緩めた。
「僕は、あのあなたが好きです」
心臓が跳ねた。
「……好き?」
「はい」
「それは、どういう意味で」
「どういう意味だと思います?」
ずるい。
そう思った。
この人は、きっと自分の顔がどれほど綺麗なのか知っている。
こんな目で見つめられたら、誰だって勘違いする。
「花に対する考え方が、という意味ですよね」
私はそう結論づけた。
朔はしばらく黙っていた。
そして、小さく息を吐いた。
「今は、それでいいです」
今は。
その二文字が、妙に耳に残った。
車は青山から離れ、閑静な住宅街へ入った。
やがて高い塀が続く道に出る。
大きな門が開いた。
その奥には、都内とは思えない広大な庭園が広がっていた。
「……ここ、東京ですよね」
「はい」
「京都じゃなくて?」
「東京です」
庭には池があり、石灯籠があり、松が植えられていた。
奥には大きな日本家屋が見える。
その屋根の向こうに、ガラス張りの建物があった。
温室だった。
車が停まる。
運転手が扉を開けた。
朔は先に降りると、私に手を差し出した。
「足元、気をつけて」
「ありがとうございます」
手を借りて降りる。
その瞬間、彼の指が私の手を包んだ。
温かい。
昨日、花を受け取ったときは冷たかったのに。
「……朔さん?」
彼は私の手を見ていた。
何かを確かめるように。
「どうしました?」
「いえ」
ゆっくり手を離す。
「昔も、こうだったなと思って」
「昔?」
「こちらです」
彼は答えずに歩き始めた。
私は慌てて後を追った。
温室の扉が開くと、甘い香りが流れてきた。
そこには、見たこともないような花々が咲いていた。
白い胡蝶蘭。
深紅のダリア。
青紫のデルフィニウム。
南国の珍しい植物。
天井からは細かな霧が降り注ぎ、柔らかな照明が葉を照らしている。
「すごい……」
思わず声が漏れた。
朔は私を見ていた。
「気に入りました?」
「はい。こんな温室、初めてです」
「よかった」
彼は心から安心したような顔をした。
「ここは僕の仕事場です」
「全部?」
「ええ」
「毎日ここで花を生けるんですか」
「ほとんどは」
「贅沢ですね」
「そうですか」
「花屋なんて、仕入れた花を一輪でも無駄にしないように必死なのに」
言ってから、また失礼なことを言ったと思った。
けれど朔は怒らなかった。
「その話、もっと聞きたいです」
「え?」
「あなたが普段、どんなふうに花を扱っているのか」
彼は本気だった。
私は少しずつ話し始めた。
花の仕入れ。
水揚げ。
売れ残った花の手入れ。
結婚式のブーケ。
葬儀の供花。
母の日の忙しさ。
朔は一度も話を遮らなかった。
相槌さえ少ない。
ただ、私の言葉を一つ残らず覚えようとしているようだった。
「変な話ばかりして、すみません」
「どうして謝るんですか」
「つまらなかったでしょう?」
「いいえ」
彼は即座に答えた。
「もっと聞いていたい」
静かな声だった。
「あなたの話なら、何時間でも」
私は視線を逸らした。
この人は危険だ。
そう思った。
悪い意味ではない。
ただ、心臓によくない。
温室の中央には、大きな作業台が置かれていた。
その上には白い花器が一つ。
そして、数種類の花が用意されていた。
「今日は、これを生けてください」
朔が言った。
私は花材を見た。
白い椿。
細い柳の枝。
淡い桃色の小菊。
そして、一本の赤い薔薇。
「組み合わせが難しいですね」
「そうですね」
「決まりはありますか」
「ありません」
「自由に?」
「はい」
彼は少し離れた椅子に腰を下ろした。
「あなたの好きなように」
私は深呼吸した。
相手は天才華道家。
きっと、どんな作品を作っても未熟に見えるだろう。
でも。
花の前では、誰だって同じだ。
私はそう信じている。
柳を手に取った。
枝の流れを見る。
椿を合わせる。
小菊を低く添える。
赤い薔薇は最後まで迷った。
美しすぎる花だ。
主張が強い。
けれど、ほかの花から離してしまうと、寂しそうに見える。
私は薔薇を短く切った。
そして椿の陰に挿した。
赤い花弁が、白い椿の向こうから少しだけ覗く。
まるで、誰かを隠れて見つめているように。
「できました」
振り返った。
朔は立ち上がっていた。
いつの間にか、すぐ後ろにいる。
「……」
彼は作品を見つめた。
一分。
二分。
沈黙が続く。
私は不安になった。
「やっぱり、おかしいですか」
「いいえ」
彼は小さく首を振った。
「驚いています」
「どうして?」
「薔薇を、そこに置くとは思わなかった」
「変でしょうか」
「普通なら、主役にする花です」
「そうですね」
「どうして隠したんですか」
私は少し考えた。
「寂しそうだったから」
朔が私を見た。
「寂しい?」
「薔薇って、綺麗すぎるでしょう。だから、いつも一番目立つところに置かれる。でも、たまには誰かの陰にいてもいいんじゃないかって」
自分で言って、恥ずかしくなった。
「変な理屈ですよね」
朔は答えなかった。
ただ、作品を見ていた。
そして。
「……同じだ」
かすかに呟いた。
「え?」
「五年前も、あなたはそう言った」
空気が止まった。
「五年前?」
朔は目を閉じた。
しまった、という表情だった。
「朔さん?」
「……何でもありません」
「でも、今」
「すみません」
彼は作業台から離れた。
「少し、休憩しましょう」
その声には、先ほどまでの柔らかさがなかった。
私は追及できなかった。
温室の奥には、小さな休憩室があった。
木製のテーブル。
二脚の椅子。
大きな窓。
そこからは夜の庭園が見える。
朔が茶を淹れてくれた。
「熱いので、気をつけて」
「ありがとうございます」
茶碗を受け取る。
そのとき、彼の袖が作業台の角に引っかかった。
「あ」
帯の端が少し緩んだ。
朔は片手で直そうとしたが、うまくいかない。
「大丈夫ですか」
「ええ」
「手伝いましょうか」
何気なく言ったつもりだった。
けれど、彼は動きを止めた。
「……いいんですか」
「帯を直すくらいなら」
「じゃあ、お願いします」
彼は私の前に立った。
近い。
思っていた以上に近い。
着物の生地から、ほのかな白檀の香りがした。
私は緩んだ帯の端を持った。
「ここを押さえてください」
「はい」
「少し締めますよ」
「どうぞ」
帯を整えるため、彼の腰に手を回す。
その瞬間。
「……小春さん」
耳元で声がした。
私は顔を上げた。
彼の顔が、すぐそこにあった。
切れ長の瞳。
長い睫毛。
薄い唇。
近くで見ると、彼は驚くほど若かった。
普段の落ち着いた雰囲気のせいで忘れていた。
まだ二十二歳なのだ。
「何ですか」
「そんなに近づかれると」
彼は言葉を切った。
「……困ります」
私は慌てて手を離した。
「す、すみません!」
けれど、彼が私の手首をそっとつかんだ。
強くはない。
振りほどこうと思えば、簡単にできる力だった。
「違います」
「え?」
「嫌なんじゃない」
彼の声が低くなった。
「むしろ、逆です」
胸が跳ねた。
「……逆?」
「これ以上近づかれたら、離したくなくなる」
私は息を止めた。
彼の瞳が、まっすぐ私を見つめている。
冗談ではない。
からかっているわけでもない。
そのことが、かえって怖かった。
「朔さん」
「はい」
「私たち、昨日会ったばかりですよね」
彼の指が、わずかに震えた。
そして、ゆっくり手を離した。
「……そうですね」
その声は、ひどく寂しそうだった。
「ごめんなさい。驚かせました」
私は何も言えなかった。
朔は一歩下がった。
「忘れてください」
そう言って微笑む。
けれど、その笑顔は痛々しかった。
しばらくして、私は休憩室を出た。
温室の花をもう少し見たかった。
朔は電話が入ったらしく、母屋へ戻っている。
「自由に見ていてください」
そう言われていた。
私は花の間を歩いた。
珍しい蘭。
見たことのない葉。
小さな蕾。
どれも丁寧に育てられている。
そして、温室の一番奥。
薄暗い場所に、小さな棚があった。
そこだけ、ほかとは雰囲気が違った。
豪華な花器はない。
珍しい植物もない。
古いガラス瓶が一つ。
その中に、押し花が飾られていた。
白い小さな花。
五枚の花弁。
ところどころ茶色く変色している。
私は顔を近づけた。
「……これ」
見覚えがあった。
シロツメクサ。
どこにでも咲いている、ごく普通の花だ。
けれど、なぜだろう。
胸の奥がざわついた。
棚の下には、小さな木箱があった。
蓋は開いている。
中には、古い紙片が入っていた。
私は何気なく覗き込んだ。
そこに書かれていた文字を見た瞬間、息が止まった。
『花は、誰かに見てもらえなくても咲くんだよ。』
幼い文字。
丸みを帯びた癖のある字。
私は、その字を知っていた。
「……嘘」
それは。
私の字だった。
高校生のころ、よく書いていた文字にそっくりだった。
「どうして……」
手を伸ばしかけたとき。
「触らないで」
背後から声がした。
振り返る。
朔が立っていた。
さっきまでの優しい表情は消えていた。
冷たい目。
固く結ばれた唇。
彼はゆっくり近づいてきた。
「そこは、見ないでほしかった」
「朔さん、これ……」
「お願いします」
声が震えていた。
「今は、まだ」
私は木箱から手を離した。
朔は目を伏せた。
長い沈黙。
やがて彼は、小さく言った。
「五年前」
私は息を呑んだ。
「僕は、一度だけ、花を全部捨てようと思ったことがあります」
「……」
「華道も、家も、名前も、全部」
彼は押し花を見つめた。
「そのとき、ある人に会いました」
私は黙って聞いていた。
「その人は、僕が誰なのか知らなかった」
「……」
「久遠家の跡取りだと知っても、興味を示さなかった」
彼の口元に、かすかな笑みが浮かんだ。
「ただ、花を大事にしろって怒ったんです」
心臓が大きく鳴った。
「……その人は」
朔は私を見た。
「小春さん」
初めて聞くような、甘く、苦しい声だった。
「僕は、ずっと待っていました」
「何を……」
「あなたが、僕を思い出してくれる日を」
私は何も言えなかった。
五年前。
私は十九歳だった。
短大に入学したばかり。
確かに、あのころ一度だけ、不思議な少年に会った記憶がある。
雨の日だった。
花を踏みつけようとしていた少年。
私は腹を立てて、彼を叱った。
けれど。
顔が思い出せない。
名前も聞かなかった。
ただ、ひどく寂しそうな目をしていたことだけは覚えている。
「……まさか」
朔は微笑んだ。
「やっと、少し思い出しました?」
私は口元を押さえた。
「でも、あのときの男の子は……」
「十七歳でした」
「……」
「今より、ずっと嫌な人間だったと思います」
彼は静かに笑った。
「でも、あなたが僕を変えた」
温室の照明が、彼の横顔を柔らかく照らしていた。
「だから」
朔が一歩近づく。
「今度は、僕があなたを幸せにしたい」
私は後ずさった。
「待ってください」
彼は足を止めた。
「五年前に一度会っただけですよね」
「はい」
「それなのに、どうして」
言いかけて、言葉に詰まった。
どうして、そんなに私に執着するの。
そう聞くのが怖かった。
朔は私の心を読んだように答えた。
「おかしいと思いますよね」
「……」
「僕も、そう思います」
彼は静かに続けた。
「五年間、あなたのことを忘れようとしました」
「……」
「海外にも行った。何人もの女性に会った。花に没頭した」
彼の瞳が揺れた。
「でも、駄目だった」
私の胸が苦しくなった。
「どうしても、あなたの声が忘れられなかった」
そのとき。
温室の扉が開いた。
「朔様」
年配の男性が立っていた。
黒いスーツ。
白髪交じりの髪。
厳しい顔つき。
「お客様がお見えです」
朔の表情が変わった。
「誰ですか」
「お父上です」
一瞬、空気が凍りついた。
「帰ってもらってください」
「ですが」
「今は会えません」
男性は困ったように私を見た。
「その女性の件で、お話があるそうです」
私は驚いた。
「私の?」
朔は目を細めた。
「……余計なことを」
その声には、明らかな怒りがあった。
男性は頭を下げた。
「申し訳ありません」
朔は私に向き直った。
「小春さん」
「はい」
「今日は、ここまでにしましょう」
「……わかりました」
「車を用意します」
彼は男性に指示を出した。
私は何が起きているのかわからなかった。
けれど、一つだけ確かなことがあった。
久遠家は、私の存在を知っている。
そして。
どうやら、歓迎していないらしい。
帰り際。
朔は玄関まで送ってくれた。
「今日は、ありがとうございました」
私が言うと、彼は首を振った。
「こちらこそ」
「花、楽しかったです」
「また来てください」
「……考えておきます」
朔は少し笑った。
「待っています」
私は車に乗ろうとした。
そのとき、彼が呼び止めた。
「小春さん」
振り返る。
朔は私を見つめていた。
「一つだけ、覚えておいてください」
「何ですか」
「僕があなたに近づいたのは、久遠家のためじゃありません」
「……」
「あなたを利用するつもりもない」
彼は静かに言った。
「ただ、もう一度会いたかった。それだけです」
私は頷いた。
車が走り出す。
窓の向こうで、朔が小さくなっていく。
彼はずっと立っていた。
門を抜けるまで。
姿が見えなくなるまで。
私は胸に手を当てた。
鼓動が速い。
あの人は、危険だ。
そう思う。
なのに。
また会いたいと思っている自分がいた。
そのころ。
久遠家の母屋では、一人の男が朔を待っていた。
久遠宗一郎。
久遠流の現家元であり、朔の父親。
五十代半ば。
冷徹な実業家としても知られる人物だった。
「花屋の娘を連れてきたそうだな」
宗一郎は低い声で言った。
朔は黙っていた。
「五年前の娘か」
「……そうです」
「まだ忘れていなかったのか」
朔は父親を見た。
「忘れる必要がありますか」
宗一郎はため息をついた。
「おまえには、家元としての責任がある」
「知っています」
「来月の披露会には、九条家のお嬢さんも来る」
「それが?」
「縁談の話を進めている」
朔の表情が消えた。
「断ってください」
「おまえの意思だけで決められる話ではない」
「僕の人生です」
「久遠家の人生でもある」
沈黙。
宗一郎は立ち上がった。
「花屋の娘には、こちらから話をつける」
その瞬間。
朔が笑った。
冷たい笑みだった。
「……父さん」
宗一郎が振り返る。
「何だ」
「彼女には、触れないでください」
「脅しているのか」
「お願いしています」
朔は穏やかに答えた。
けれど、その瞳には何の温度もなかった。
「僕は今まで、一度も家に逆らわなかった」
「……」
「望まれる作品を作り、望まれる場所に立ち、望まれる人間を演じてきた」
彼は父親に近づいた。
「でも、小春さんだけは違う」
「朔」
「彼女を傷つけるなら」
朔は微笑んだ。
「僕は、花を生けるのをやめます」
宗一郎の顔色が変わった。
「馬鹿なことを」
「本気です」
「久遠流を潰すつもりか」
「必要なら」
その言葉に、宗一郎は絶句した。
朔は静かに頭を下げた。
「おやすみなさい」
そして部屋を出た。
廊下を歩きながら、彼はスマートフォンを取り出した。
画面には、一枚の写真が表示されている。
五年前の写真。
雨に濡れた制服姿の少女。
手には、小さな白い花。
笑っている。
その少女の顔を、朔は指先でそっとなぞった。
「……小春」
誰にも聞こえない声で呟く。
「やっと見つけた」
彼は目を閉じた。
「もう、誰にも渡さない」
その言葉を聞く者は、誰もいなかった。
ただ一人。
廊下の暗がりに立つ女性を除いて。
長い黒髪。
赤い唇。
華やかな洋服。
九条玲奈。
二十三歳。
久遠家と並ぶ名門、九条家の令嬢。
朔の婚約者候補と噂される女性だった。
彼女は微笑んだ。
「……そう」
手にしたスマートフォンには、三崎小春の勤務先が表示されていた。
「花屋の女の子、ね」
玲奈は画面を閉じた。
「面白くなってきたじゃない」
その笑顔には、冷たいものが宿っていた。
翌朝。
小春が出勤すると、店の前に一台の赤い車が停まっていた。
運転席から、美しい女性が降りてくる。
「三崎小春さん?」
「はい」
女性は優雅に微笑んだ。
「初めまして。九条玲奈と申します」
「……はじめまして」
「少し、お話しできるかしら」
玲奈は私の顔をじっと見つめた。
そして、まるで値踏みするように微笑んだ。
「あなた、朔のことをどこまで知っているの?」
私は答えられなかった。
玲奈は一歩近づいた。
「知らないなら、教えてあげる」
赤い唇が、ゆっくり動く。
「朔はね、五年前、人を一人殺しかけているの」
私は息を呑んだ。
「……え?」
玲奈は微笑みを深くした。
「しかも、その原因になったのは」
彼女は私を指さした。
「あなたなのよ、三崎小春さん」
朝の風が、店先の花を揺らした。
私は声を失った。
昨日まで、ただ美しいと思っていた花の世界。
その奥には、私の知らない暗い秘密が眠っていた。
