京都華道展、二日目。
朝の展示室には、まだ観客が入っていなかった。
私は作品『居場所』の前にしゃがみ込み、白い蕾の状態を確かめていた。
昨日より、ほんの少し膨らんでいる。
薄い緑色だった萼の隙間から、白い花弁が見え始めていた。
私は思わず笑った。
「……咲きそう」
背後から声がした。
「本当ですね」
朔だった。
濃紺の着物。
右手には装具。
彼は私の隣にしゃがもうとして、少し動きを止めた。
私は慌てて言った。
「無理しないで」
朔は小さく笑った。
「わかっています」
そして、少し離れた位置から花を見つめた。
「……昨日より、美しくなりましたね」
私は頷いた。
「うん」
彼は静かに言った。
「完成した作品が、完成したときより美しくなる」
私は顔を上げた。
「……不思議?」
朔は微笑んだ。
「いえ」
そして、静かに続けた。
「これが、花なんですね」
私は胸が温かくなった。
かつての朔は、花を完璧な形に固定しようとしていた。
咲き方も。
向きも。
高さも。
すべてを自分の美意識に従わせようとしていた。
けれど今は、花が変化することを喜んでいる。
私はその姿が好きだった。
「……朔」
「はい」
「今日も、頑張ろうね」
彼は頷いた。
「はい」
そして、静かに微笑んだ。
「一緒に」
午前九時。
京都華道展の二日目が始まった。
会場には、昨日以上の観客が訪れていた。
作品『居場所』の前にも、多くの人が立ち止まった。
若い女性。
年配の夫婦。
外国人の観光客。
華道を学ぶ学生たち。
それぞれが、静かに作品を見つめていた。
私は少し離れた場所から、その様子を見守っていた。
すると、一人の少女が母親に尋ねた。
「ねえ、どうしてこの花、まだ咲いてないの?」
母親は少し困った顔をした。
「……どうしてかしら」
私は近づいた。
「よかったら、説明しましょうか」
少女は頷いた。
「うん」
私は作品を指さした。
「この花は、これから咲くところなんです」
少女は首を傾げた。
「まだ、咲いてないのに?」
私は頷いた。
「うん」
そして、静かに言った。
「咲く前の花も、綺麗でしょう」
少女はしばらく蕾を見つめた。
そして、笑った。
「……うん」
私は微笑んだ。
「だから、このままにしてあるんです」
少女は頷いた。
「そっか」
そして、母親の手を引いた。
「お母さん、明日も見たい」
母親は笑った。
「そうね」
私は胸が温かくなった。
花は、咲いているときだけ美しいわけではない。
これから咲く時間にも、意味がある。
私はそのことを、少しでも伝えられた気がした。
昼前。
会場の奥から、ざわめきが聞こえてきた。
私は顔を上げた。
何人かの関係者が、慌ただしく歩いている。
その中心に、久遠宗一郎の姿があった。
厳しい表情。
濃い灰色の着物。
そして、その隣には、見知らぬ男性が二人いた。
私は胸が冷たくなった。
朔も気づいたらしい。
「……父です」
私は頷いた。
「うん」
宗一郎は私たちの展示区画の前で立ち止まった。
そして、静かに頭を下げた。
「朔」
朔も頭を下げた。
「父さん」
宗一郎は私を見た。
「三崎さん」
私は頭を下げた。
「こんにちは」
宗一郎はしばらく作品を見つめた。
曲がった枝。
苔。
石。
そして、小さな白い蕾。
長い沈黙。
やがて。
「……これが、おまえの花か」
朔は静かに答えた。
「僕たちの花です」
宗一郎は顔を上げた。
朔は続けた。
「小春と、真田さんと、一緒に作りました」
宗一郎は黙った。
そして、もう一度作品を見た。
しばらくして、静かに言った。
「……そうか」
私は少し驚いた。
それ以上、否定しなかった。
宗一郎は私を見た。
「三崎さん」
「……はい」
「お父様のことで、話があります」
私は息を止めた。
朔が私を見た。
私はゆっくり頷いた。
「……わかりました」
私たちは会場内の小さな応接室へ移った。
宗一郎と、二人の男性。
一人は外部調査を担当した公認会計士。
もう一人は弁護士だった。
宗一郎は静かに言った。
「まず、謝罪させてほしい」
私は顔を上げた。
彼は深く頭を下げた。
「三崎さんのお父様に対して、私は責任を果たさなかった」
私は何も言えなかった。
宗一郎は続けた。
「六年前、旧温室の改修について、危険性を指摘されていた」
「……」
「それにもかかわらず、私は対応を先延ばしにした」
私は黙った。
彼は顔を上げた。
「理由は、久遠流の内部問題を表に出したくなかったからだ」
私は胸が苦しくなった。
「……父は」
声が震えた。
「何度も、危険だと伝えていたんですよね」
宗一郎は頷いた。
「……ああ」
私は目を伏せた。
父のノート。
丁寧な字。
何度も書かれた注意事項。
その一つひとつが、今になって重く感じられた。
私は静かに言った。
「……父は、亡くなる前まで気にしていました」
宗一郎は黙った。
私は続けた。
「自分が設計に関わった建物で、誰かが怪我をするかもしれないって」
長い沈黙。
宗一郎は静かに答えた。
「……申し訳なかった」
私は何も言えなかった。
すぐに許すことはできなかった。
けれど、話を聞くことはできた。
私は顔を上げた。
「……調査では、何がわかったんですか」
公認会計士が資料を開いた。
「現時点で確認できた事実をご説明します」
私は頷いた。
「お願いします」
彼は続けた。
「文化財修復事業の資金の一部が、承認された目的と異なる事業に振り替えられていました」
私は息を止めた。
「……」
「その処理には、久遠征臣氏が関与していたことが確認されています」
朔が静かに尋ねた。
「父の指示だったという主張は?」
会計士は首を横に振った。
「少なくとも、確認できた資料からは、その主張を裏づける記録は見つかっていません」
宗一郎は目を伏せた。
会計士は続けた。
「ただし、当時の管理体制に問題があったことは事実です」
宗一郎は頷いた。
「……私の責任だ」
私は黙って聞いていた。
弁護士が口を開いた。
「また、旧温室の設備管理記録についても確認しました」
私は息を止めた。
「……」
「事故当日、久遠征臣氏が設備室に入った記録があります」
私は頷いた。
「聞いています」
弁護士は続けた。
「その際、排水設備の一部が停止された可能性があります」
私は胸が冷たくなった。
「……可能性?」
「はい」
弁護士は慎重に答えた。
「記録だけでは、操作の目的や事故との因果関係までは断定できません」
私は頷いた。
「……わかりました」
弁護士は続けた。
「ただ、設備管理上の問題があったことは否定できません」
朔は静かに尋ねた。
「今後は?」
宗一郎が答えた。
「第三者による追加調査を行う」
そして、静かに続けた。
「必要な資料は、関係機関にも提出する」
私は顔を上げた。
宗一郎は私を見た。
「三崎さん」
「……はい」
「お父様の仕事を、正当に評価し直したい」
私は黙った。
彼は続けた。
「危険を指摘した記録を、正式な資料として残す」
私は胸が熱くなった。
「……」
「そして、旧温室の改修計画についても、再検討する」
私は静かに頷いた。
「……ありがとうございます」
けれど、私は続けた。
「ただ」
宗一郎が顔を上げた。
「父のためだけじゃなくて」
私はまっすぐ彼を見た。
「これから、その建物を使う人のために、お願いします」
長い沈黙。
宗一郎は静かに頷いた。
「……そのとおりだ」
私は胸の奥で、何かが少しだけほどけるのを感じた。
すべてが解決したわけではない。
けれど、父の言葉が、ようやく誰かに届いた。
私はそう思った。
応接室を出たあと。
朔が私の隣に立った。
「……小春」
私は顔を上げた。
「何?」
彼は静かに尋ねた。
「大丈夫ですか」
私は少し考えた。
そして、頷いた。
「……うん」
朔は黙っていた。
私は続けた。
「まだ、いろいろ考えることはあるけど」
「……」
「少し、安心した」
彼は微笑んだ。
「……よかった」
私は彼の左手を握った。
「ありがとう」
朔は首を横に振った。
「僕は、何も」
私は笑った。
「一緒にいてくれたでしょう」
彼は少し驚いた。
そして、静かに微笑んだ。
「……はい」
その日の午後。
久遠征臣の作品の前には、多くの人が集まっていた。
巨大な松。
白い菊。
黒い花器。
圧倒的な存在感。
私は少し離れた場所から、その作品を見つめていた。
朔も隣にいた。
「……綺麗だね」
私は呟いた。
朔は頷いた。
「はい」
私は少し驚いた。
「本当に、そう思う?」
彼は微笑んだ。
「もちろんです」
そして、静かに続けた。
「叔父の技術は、本物です」
私は黙った。
朔は続けた。
「だからこそ、残念です」
私は顔を上げた。
「……何が?」
彼は作品を見つめた。
「花を生けることだけで、勝負してほしかった」
私は胸が苦しくなった。
そのとき。
背後から声がした。
「……朔」
振り返る。
征臣だった。
顔色が悪かった。
けれど、背筋は伸びていた。
朔は頭を下げた。
「叔父さん」
征臣は作品を見つめた。
そして、静かに言った。
「……どうだ」
朔は答えた。
「美しいです」
征臣は少し笑った。
「……そうか」
長い沈黙。
そして。
「おまえの作品も見た」
朔は顔を上げた。
「……ありがとうございます」
征臣は目を細めた。
「花が少なすぎる」
私は息を止めた。
朔は静かに頷いた。
「そうですね」
征臣は続けた。
「技術も、見せ場もない」
朔は黙った。
征臣は低い声で言った。
「それで、華道家を名乗るつもりか」
私は思わず口を開きかけた。
けれど、朔が静かに答えた。
「はい」
征臣の表情が変わった。
朔は続けた。
「僕は、あの作品が好きです」
長い沈黙。
そして。
「小春と作った花だからです」
征臣は黙った。
朔は静かに言った。
「叔父さん」
「……何だ」
「僕は、叔父さんの花も好きです」
征臣の目が揺れた。
朔は続けた。
「子どものころ、何度も見ていました」
「……」
「松の扱い方も、枝の残し方も」
彼は少し微笑んだ。
「たくさん学びました」
征臣は何も言わなかった。
朔は続けた。
「だから、花のことで競いたかった」
長い沈黙。
征臣は目を伏せた。
そして、静かに言った。
「……おまえには、わからん」
朔は黙った。
征臣は続けた。
「私は、三十年、兄の下にいた」
「……」
「何をしても、兄の名前が先に出た」
彼の声が低くなった。
「そして、おまえが生まれた」
朔は顔を上げた。
征臣は続けた。
「天才の息子」
「……」
「久遠流の未来」
彼は笑った。
「私が積み重ねてきたものは、何だったんだろうな」
私は胸が苦しくなった。
朔は静かに言った。
「叔父さん」
征臣は首を横に振った。
「同情はいらん」
朔は黙った。
征臣は続けた。
「私は、間違えたのかもしれない」
その声は、かすかに震えていた。
けれど、すぐに顔を上げた。
「だが、花では負けん」
朔は静かに頷いた。
「はい」
征臣は背を向けた。
そして、去っていった。
私はその背中を見つめた。
朔が静かに言った。
「……叔父は、花が好きなんです」
私は頷いた。
「……うん」
「でも」
彼は少し目を伏せた。
「好きなものを、誰かに勝つためだけに使うようになってしまった」
私は何も言えなかった。
夕方。
京都華道展の公開講評が始まった。
会場中央に、審査員たちが集まっていた。
今回の展覧会では、順位を決めるだけでなく、作品の思想や技術について公開で講評する時間が設けられていた。
私は朔と並んで座った。
胸が高鳴る。
次々に作品が紹介されていく。
伝統的な大作。
現代的な造形。
大胆な色彩。
繊細な小品。
どれも素晴らしかった。
やがて、久遠征臣の作品が紹介された。
審査員の一人が言った。
「久遠流の伝統技法を高度に完成させた作品です」
別の審査員が続けた。
「松の力強さと菊の配置に、長年の経験が表れています」
会場から拍手が起きた。
征臣は静かに頭を下げた。
私はその姿を見つめた。
やがて。
「続いて、久遠朔氏、三崎小春氏による共同作品『居場所』です」
私は息を止めた。
朔が私の左手をそっと握った。
私は彼を見た。
彼は微笑んだ。
「……大丈夫です」
私は頷いた。
審査員が口を開いた。
「この作品は、非常に興味深い試みです」
私は胸が高鳴った。
「花の量は少なく、造形的な派手さもありません」
会場が静かになった。
審査員は続けた。
「しかし、余白の使い方に独自性があります」
私は息を止めた。
「中央の曲がった枝は、自然の時間を感じさせます」
「……」
「そして、足元の蕾」
審査員は少し微笑んだ。
「まだ咲いていない花を、作品の中心的な意味として扱っています」
私は胸が熱くなった。
別の審査員が続けた。
「また、展示期間中の花の変化を前提にしている点も特徴的です」
「……」
「通常、展示作品は完成時の美しさを維持することを重視します」
私は頷いた。
「しかし、この作品は、花が変化することを受け入れています」
長い沈黙。
そして。
「生命そのものを、作品の一部にしている」
私は目を伏せた。
胸が熱くなった。
審査員は続けた。
「共同制作の役割分担も明確です」
「……」
「造形設計と生命管理が、対等に機能しています」
私は息を止めた。
「今後の華道表現に、一つの可能性を示した作品と言えるでしょう」
会場から拍手が起きた。
私は何も言えなかった。
朔が私の手を握り直した。
私は彼を見た。
その目が、少し潤んでいた。
私は小さく笑った。
「……よかったね」
朔は頷いた。
「……はい」
そして、静かに言った。
「あなたと作って、よかった」
私は胸が熱くなった。
「……私も」
講評が終わったあと。
私たちは展示室へ戻った。
夕方の光が、作品『居場所』を照らしていた。
白い蕾は、朝より少し開いていた。
私はしゃがみ込んだ。
「……朔」
彼が近づいた。
「はい」
私は花を指さした。
「見て」
朔は静かに息を呑んだ。
小さな白い花弁。
その中心に、淡い黄色の光。
蕾が、咲き始めていた。
私は微笑んだ。
「……咲いたね」
朔は何も言わなかった。
ただ、花を見つめていた。
長い沈黙。
そして。
「……小春」
彼の声が震えた。
私は顔を上げた。
「何?」
朔は静かに言った。
「僕は、ずっと」
「……」
「花を咲かせようとしていました」
私は黙った。
彼は続けた。
「でも、違ったんですね」
私は彼を見つめた。
朔は微笑んだ。
「花は、自分で咲く」
私は胸が熱くなった。
「……うん」
彼は続けた。
「僕たちにできるのは、その場所を作ることだけなんですね」
私は頷いた。
「……そうだね」
朔は静かに笑った。
そして、私の手を取った。
「小春」
「何?」
「あなたに会えて、よかった」
私は少し笑った。
「……また?」
彼も笑った。
「何度でも言います」
私は胸が温かくなった。
そして、静かに答えた。
「……私も」
その夜。
京都華道展の関係者向け懇親会が開かれた。
私は朔と一緒に参加した。
会場には、多くの華道家や関係者が集まっていた。
私は少し緊張していた。
けれど、朔は私の隣に立っていた。
「……小春」
「何?」
「疲れましたか」
私は首を横に振った。
「大丈夫」
彼は微笑んだ。
「無理しないでください」
私は笑った。
「朔こそ」
彼も少し笑った。
そのとき。
一人の女性が近づいてきた。
九条玲奈だった。
淡い水色の着物。
落ち着いた表情。
彼女は私たちに頭を下げた。
「こんばんは」
私は頷いた。
「こんばんは」
玲奈は静かに言った。
「作品、見たわ」
朔が顔を上げた。
「ありがとうございます」
玲奈は微笑んだ。
「本当に、綺麗だった」
私は少し驚いた。
「……ありがとうございます」
玲奈は続けた。
「私の作品も、見てくれた?」
私は頷いた。
「はい」
彼女の作品は、小さな花器に淡い色の花を数本だけ生けたものだった。
以前の玲奈なら、もっと華やかで、朔の作品に似た構成を選んでいただろう。
けれど、今回は違った。
柔らかく、静かな花だった。
私は微笑んだ。
「……素敵でした」
玲奈は少し驚いた。
「……本当?」
私は頷いた。
「はい」
そして、静かに続けた。
「玲奈さんらしい花だと思いました」
その瞬間。
彼女の目が揺れた。
長い沈黙。
そして。
「……ありがとう」
玲奈は小さく笑った。
朔も静かに頷いた。
「僕も、そう思いました」
玲奈は彼を見た。
そして、少し目を伏せた。
「……そう」
その声は、かすかに震えていた。
けれど、彼女は微笑んだ。
「嬉しいわ」
私はその姿を見つめた。
彼女もまた、自分の花を探していたのだ。
そのとき。
玲奈が少し真剣な表情になった。
「三崎さん」
私は顔を上げた。
「……はい」
「花乃井のことだけど」
私は息を止めた。
玲奈は続けた。
「父の会社が、賃貸借契約について再検討することになったわ」
私は驚いた。
「……本当ですか」
玲奈は頷いた。
「ええ」
そして、静かに言った。
「私が関与した経緯も、正式に説明した」
私は何も言えなかった。
玲奈は続けた。
「一方的な賃料引き上げ案は、いったん撤回されたそうよ」
私は胸が熱くなった。
「……ありがとうございます」
玲奈は首を横に振った。
「お礼を言われることじゃないわ」
そして、静かに続けた。
「私が、最初に問題を起こしたんだから」
私は頷いた。
「……そうですね」
玲奈は少し笑った。
「厳しいのね」
私は微笑んだ。
「仕事のことなので」
玲奈は頷いた。
「……そうね」
そして、静かに言った。
「これからは、ちゃんと自分の花を生けるわ」
私は頷いた。
「はい」
玲奈は去っていった。
私はその背中を見つめた。
朔が静かに言った。
「……よかったですね」
私は頷いた。
「うん」
花乃井の問題が、少しずつ解決に向かっている。
それが、何より嬉しかった。
そのころ。
久遠流本部では、臨時の幹部会が開かれていた。
外部調査の最終報告を受け、文化財修復事業の会計処理について説明が行われた。
征臣が管理していた資金の一部に、不適切な振替処理が確認されたこと。
旧温室の改修費が、別の事業へ回されていたこと。
そして、宗一郎が問題を把握しながら、十分な対応を取らなかったこと。
幹部たちは、重い表情で資料を見つめていた。
宗一郎は静かに言った。
「私にも責任がある」
会議室が静かになった。
彼は続けた。
「久遠流の評判を守ることを優先し、問題を放置した」
「……」
「その結果、施設の安全対策が遅れた」
長い沈黙。
そして。
「私は、家元としての責任を取る」
幹部たちが顔を上げた。
宗一郎は静かに言った。
「一定期間、職務を停止する」
会議室がざわめいた。
彼は続けた。
「外部の専門家による監督体制を整え、会計と施設管理を見直す」
幹部たちは黙って聞いていた。
宗一郎は静かに言った。
「征臣についても、管理責任を調査し、必要な措置を取る」
そのころ。
征臣は一人で、京都のホテルの部屋にいた。
机の上には、外部調査の報告書が置かれていた。
彼は静かに笑った。
「……終わりか」
その声には、疲れが滲んでいた。
長い年月。
兄の影に隠れてきた。
自分の才能を認めてもらいたかった。
家元になりたかった。
誰よりも優れた華道家であると、証明したかった。
けれど。
気づけば、花を生けることより、誰かを負かすことに夢中になっていた。
征臣は窓の外を見た。
京都の夜。
遠くに、寺の屋根が見える。
彼は静かに呟いた。
「……朔」
その声は、以前より弱かった。
「おまえは、勝ったのか」
答える者はいなかった。
翌朝。
京都華道展の最終日。
私はいつもより早く会場へ向かった。
作品『居場所』の前に立つ。
白い蕾は、さらに開いていた。
小さな花。
柔らかな光。
そして、静かな余白。
私は微笑んだ。
「……おはよう」
そのとき。
背後から声がした。
「……小春」
振り返る。
朔が立っていた。
私は笑った。
「おはよう」
彼は微笑んだ。
「おはようございます」
私は花を指さした。
「見て」
朔は近づいた。
そして、静かに息を呑んだ。
白い花が、咲いていた。
小さく。
けれど、確かに。
朔はしばらく黙って見つめていた。
そして、静かに言った。
「……美しい」
私は頷いた。
「うん」
彼は私を見た。
「小春」
「何?」
「僕は、もう」
彼は少し言葉を切った。
「花を完璧に生けたいとは、思いません」
私は顔を上げた。
朔は続けた。
「花が、自分らしく咲ける場所を作りたい」
私は胸が熱くなった。
「……うん」
彼は微笑んだ。
「あなたと一緒に」
私は笑った。
「……もちろん」
朔は左手を差し出した。
私はその手を握った。
そして、二人で作品を見つめた。
そのとき。
会場のアナウンスが流れた。
『本年度京都華道展の特別賞について、お知らせいたします』
私は息を止めた。
朔が私を見た。
私たちは顔を見合わせた。
そして、静かに頷いた。
アナウンスが続いた。
『本年度の特別賞は、共同制作による新しい華道表現を示した作品に授与されます』
私は胸が高鳴った。
『作品名』
短い沈黙。
そして。
『居場所』
私は息を止めた。
『久遠朔氏、三崎小春氏』
その瞬間。
会場から拍手が起きた。
私は何も言えなかった。
朔が私の手を握り直した。
私は彼を見た。
彼の目が、潤んでいた。
私は小さく笑った。
「……朔」
彼は頷いた。
「……はい」
私は胸がいっぱいになった。
「……よかったね」
朔は静かに微笑んだ。
「……はい」
そして。
「あなたと作れて、本当によかった」
私は頷いた。
「……私も」
拍手が、会場に広がっていた。
けれど。
私たちが見つめていたのは、賞状でも、審査員でもなかった。
小さな白い花だった。
誰かに選ばれなくても。
誰かに許されなくても。
その花は、静かに咲いていた。
