冷たい華道家は、私だけに花を乱す


京都華道展まで、あと四十二日。
久遠朔が花を生けられなくなった。
正確には、医師から右手を使った制作を一時的に中止するよう指示された。
それを聞いたのは、六月の終わり、蒸し暑い雨の日だった。
私は花乃井で、翌朝の配達用の花を包んでいた。
白いトルコギキョウ。
青いデルフィニウム。
淡い黄色の薔薇。
梅雨の季節は、花の管理が難しい。
湿度が高く、気温も不安定で、少し油断すると花が傷んでしまう。
私は一本ずつ状態を確認しながら、茎を整えていた。
そのとき、スマートフォンが震えた。
朔からだった。
『今日、少し会えますか。』
私はすぐに返信した。
『仕事が終わってからなら。』
返事は短かった。
『待っています。』
いつもの彼なら、最後に何か一言つける。
『会えるのが楽しみです』とか。
『抱きしめてもいいですか』とか。
けれど、今日はそれがなかった。
私は胸の奥に、小さな不安を覚えた。
夕方。
店を閉めたあと、私は朔の部屋へ向かった。
古いアパートの二階。
細い階段を上る。
玄関の前で、深呼吸した。
そして、インターホンを押す。
すぐに扉が開いた。
朔が立っていた。
白いシャツ。
黒いパンツ。
いつも整っている髪が、少し乱れている。
私は顔を見た瞬間、何かあったのだとわかった。
「……朔」
彼は微笑もうとした。
けれど、うまく笑えなかった。
「いらっしゃい」
私は靴を脱いだ。
部屋に入る。
机の上には、京都の構想図が広げられていた。
けれど、その横に置かれていたのは、花鋏ではなかった。
病院の書類。
検査結果。
そして、医師からの指示書。
私は息を止めた。
「……どうしたの」
朔はしばらく黙っていた。
そして、静かに言った。
「右手の状態が、悪くなりました」
私は何も言えなかった。
彼は椅子に座った。
右手には、以前よりしっかりした装具がつけられていた。
「腱の炎症が、強くなっているそうです」
「……」
「しばらく、制作を中止するように言われました」
私は椅子を引いた。
そして、向かい側に座った。
「……どのくらい?」
朔は目を伏せた。
「少なくとも、数週間」
私は胸が苦しくなった。
京都まで、あと四十二日。
作品の準備は、まだ終わっていない。
花材も、構造も、最終決定していない。
私は静かに尋ねた。
「……痛い?」
朔は少し迷った。
そして、頷いた。
「……はい」
私は彼の右手を見た。
細く、美しい指。
これまで、何千本もの花を生けてきた手。
その手が、今は動かせない。
朔は静かに言った。
「……小春」
私は顔を上げた。
「何?」
「僕は、怖いです」
私は黙った。
彼は続けた。
「花を生けられなくなることが」
「……」
「京都に出られなくなることが」
彼の声が震えた。
「そして」
長い沈黙。
「あなたに、失望されることが」
私は息を止めた。
「……朔」
彼は目を伏せた。
「僕には、花しかありませんでした」
私は黙っていた。
「久遠流を出ても、花を生けられれば生きていけると思っていました」
「……」
「でも、その花さえ生けられなくなったら」
彼は右手を見つめた。
「僕には、何が残るんでしょう」
私は何も言えなかった。
簡単に励ますことはできなかった。
大丈夫。
きっと治る。
そんな言葉を、無責任に言いたくなかった。
私はゆっくり立ち上がった。
そして、彼の隣に座った。
「……朔」
彼が顔を上げた。
私は静かに言った。
「私、あなたの花が好き」
朔は黙った。
「すごい作品を作るところも」
「……」
「花のことになると、夢中になるところも」
私は少し笑った。
「でも、それだけじゃないよ」
朔は私を見つめた。
私は続けた。
「不器用なところも」
「……」
「普通のご飯を食べて、嬉しそうにするところも」
「……」
「私のことになると、少し変なことを言うところも」
朔が小さく笑った。
私は彼の左手を握った。
「全部、好きだよ」
その瞬間。
彼の目が揺れた。
私は続けた。
「だから、花が生けられなくなっても」
「……」
「あなたがあなたじゃなくなるわけじゃない」
長い沈黙。
朔は目を閉じた。
そして、静かに息を吐いた。
「……小春」
「何?」
「少しだけ」
彼は声を震わせた。
「……抱きしめてもいいですか」
私は頷いた。
「うん」
朔は左腕で、私をそっと抱き寄せた。
私は彼の胸に顔を埋めた。
白檀の香り。
温かい身体。
少し速い鼓動。
彼の肩が、わずかに震えていた。
私は何も言わなかった。
ただ、背中に手を回した。
しばらく、そのままでいた。
やがて、朔が小さく言った。
「……情けないですね」
私は首を横に振った。
「そんなことない」
彼は静かに続けた。
「あなたの前では、強くいたかった」
私は少し笑った。
「別に、強くなくていいよ」
朔は黙った。
私は続けた。
「私だって、弱いところあるし」
彼は顔を上げた。
「……そうですか」
私は笑った。
「あるよ」
「……」
「いっぱい」
朔は少し微笑んだ。
「……知りたいです」
私は驚いた。
「え?」
彼は真剣だった。
「あなたの弱いところも」
私は顔が熱くなった。
「……もう」
朔は静かに言った。
「全部、知りたい」
私は何も言えなかった。
彼は続けた。
「嬉しいことも、悲しいことも」
「……」
「一緒に、抱えたい」
私は胸が熱くなった。
「……うん」
そして、そっと彼の頬に触れた。
「私も」
その夜。
私たちは、京都の作品について話し合った。
ただし、朔には花を触らせなかった。
図面を見ること。
言葉で意見を出すこと。
左手で簡単なスケッチをすること。
それだけ。
私はノートを開いた。
「……まず、構造部分」
朔は頷いた。
「はい」
「職人さんには、連絡した?」
「しました」
彼は説明した。
以前、海外の展示で一緒に仕事をした舞台美術の職人。
名前は、真田透。
三十五歳。
木材や金属を使った展示構造に詳しい人物だった。
「……引き受けてくれそう?」
私は尋ねた。
朔は頷いた。
「条件が合えば」
「条件?」
「制作費と、作業日程です」
私は笑った。
「現実的」
朔も少し笑った。
「あなたに教わりました」
私は頷いた。
「じゃあ、見積もりをもらおう」
朔は頷いた。
「はい」
私は続けた。
「それから、花材」
「……」
「できるだけ、現地で調達したい」
朔は少し考えた。
「京都で?」
「うん」
私は説明した。
「東京から全部運ぶと、費用もかかるし、花も傷みやすい」
朔は頷いた。
「確かに」
私は続けた。
「京都の生産者さんや花屋さんに相談できないかな」
彼は少し考えた。
「心当たりがあります」
私は驚いた。
「本当?」
「はい」
朔は頷いた。
「以前、京都の展示でお世話になった方です」
私は笑った。
「じゃあ、連絡してみよう」
彼は微笑んだ。
「はい」
私はノートに書き込んだ。
構造。
花材。
運搬。
設営。
予算。
そして、役割分担。
少しずつ、計画が形になっていく。
朔は右手を使えない。
けれど、彼の頭の中には、まだ花が咲いている。
私はそのことが、嬉しかった。
数日後。
真田透が、花乃井を訪れた。
背が高く、日に焼けた男性だった。
作業着のような服を着て、肩には大きな鞄をかけていた。
「久遠さんから話は聞いてます」
真田は笑った。
「三崎さんですね」
私は頭を下げた。
「よろしくお願いします」
朔も頭を下げた。
「お久しぶりです」
真田は朔の右手を見た。
「……やっちまったな」
朔は少し苦笑した。
「はい」
真田は笑った。
「無理するからだ」
私は思わず頷いた。
「本当に」
朔が少し困った顔をした。
「……二人で言わなくても」
真田は声を出して笑った。
「いい彼女だな」
私は顔が熱くなった。
朔は真剣に答えた。
「はい」
私は慌てた。
「……朔」
真田はさらに笑った。
「なるほど」
私たちは作業台に図面を広げた。
真田はしばらく見つめた。
そして、静かに言った。
「……面白い」
私は少し安心した。
「本当ですか」
真田は頷いた。
「ただ、ここ」
彼は中央の枝を指さした。
「この角度だと、荷重が偏る」
朔は頷いた。
「そうですね」
真田は続けた。
「支えを入れればできるけど、見た目が悪くなる」
私は考えた。
「……支えを、隠せませんか」
真田は私を見た。
「どこに?」
私は図面を指さした。
「この石の部分」
真田は少し考えた。
「……なるほど」
朔も顔を上げた。
「……いいですね」
私は少し照れた。
「思いつきだけど」
真田は笑った。
「思いつきが、一番大事なんだよ」
そして、図面に線を引いた。
「ここに軽量の骨組みを入れる」
「……」
「外からは見えないようにする」
私は頷いた。
「はい」
真田は続けた。
「これなら、久遠さんが重いものを持つ必要もない」
朔は静かに頷いた。
「お願いします」
真田は笑った。
「任せろ」
私は胸が温かくなった。
一人ではできないこと。
二人でも難しいこと。
けれど、誰かの力を借りれば、形になる。
それは、花を生けることだけではないのかもしれない。
打ち合わせが終わるころ。
真田が突然、朔に尋ねた。
「なあ、久遠」
朔が顔を上げた。
「はい」
「おまえ、何で久遠流を出たんだ」
私は息を止めた。
朔は少し考えた。
そして、静かに答えた。
「自分の花を、生けたかったからです」
真田は頷いた。
「……そうか」
朔は続けた。
「それから」
彼は私を見た。
「大切な人と、一緒に生きたかった」
私は顔が熱くなった。
真田は少し笑った。
「……いいじゃねえか」
そして、朔の肩を軽く叩いた。
「じゃあ、ちゃんと生きろよ」
朔は驚いた。
「……はい」
真田は続けた。
「花を生けるために、身体を壊すな」
私は胸が熱くなった。
朔は静かに頷いた。
「……わかりました」
その日の夜。
私は朔と一緒に、花乃井の片づけをしていた。
店長は先に帰っていた。
朔は右手を使わず、軽いものだけを左手で運んでいた。
私は花器を洗いながら、彼を見た。
「……ねえ」
「はい」
「京都が終わったら、ちゃんと休もうね」
朔は頷いた。
「はい」
私は笑った。
「旅行の約束、覚えてる?」
彼の顔が明るくなった。
「もちろん」
「海」
「はい」
朔は微笑んだ。
「楽しみにしています」
私は頷いた。
「私も」
彼は少し考えた。
そして、静かに言った。
「小春」
「何?」
「旅行のとき」
私は顔を上げた。
「うん」
「一緒の部屋でも、いいですか」
私は固まった。
「……え?」
朔は真剣だった。
「宿泊先のことです」
私は顔が熱くなった。
「……わかってる」
彼は少し困った顔をした。
「駄目なら、別々にします」
私は彼を見つめた。
本当に、この人は真面目だ。
大胆なことを言うくせに、私の返事をちゃんと待つ。
私は少し笑った。
「……考えておく」
朔は頷いた。
「はい」
そして、静かに微笑んだ。
「楽しみにしています」
私は思わず笑った。
「まだ決めてないよ」
彼は少し考えた。
「考えてもらえるだけで、嬉しいです」
私は顔が熱くなった。
「……もう」
彼は小さく笑った。
私は花器を棚に戻した。
そして、彼の左手を取った。
「……朔」
「はい」
「キス、してもいい?」
彼が固まった。
「……え?」
私は少し笑った。
「いつも、朔から聞くでしょう」
彼は頷いた。
「……はい」
「今日は、私から」
その瞬間。
彼の表情が、ゆっくり変わった。
嬉しそうで。
少し驚いていて。
そして、どこか照れくさそうだった。
「……お願いします」
私は笑った。
「お願いされると、変な感じ」
彼も少し笑った。
私は彼の頬に触れた。
そして、唇を重ねた。
短いキス。
けれど、離れたあと。
朔はしばらく動かなかった。
私は首を傾げた。
「……どうしたの?」
彼は小さく息を吐いた。
「……幸せです」
私は笑った。
「大げさ」
彼は首を横に振った。
「本当です」
私は胸が温かくなった。
そして、もう一度、彼の手を握った。
その夜。
朔は一人で、久遠家の古い資料を見返していた。
父から正式に渡された写しだった。
文化財修復事業の会計。
旧温室の改修計画。
五年前の事故記録。
そして、施設管理記録。
その中に、一つだけ気になる記述があった。
『事故当日、設備室への入室記録あり』
入室者。
久遠征臣。
朔は眉をひそめた。
なぜ、叔父が設備室に入ったのか。
事故の直前だった。
けれど、それだけでは何も証明できない。
朔は資料を閉じた。
そして、静かに呟いた。
「……何をしたんですか」
そのころ。
久遠流本部では、征臣が一人で書斎にいた。
机の上には、京都華道展の資料が広げられていた。
彼の作品。
巨大な松。
白い菊。
黒い花器。
伝統的な久遠流の技法を極限まで高めた構成。
征臣は図面を見つめた。
そして、静かに笑った。
「……朔」
その声には、冷たいものがあった。
「右手が使えないおまえに、何ができる」
彼は立ち上がった。
そして、窓の外を見た。
京都まで、あと三十八日。
久遠流の名誉。
家元の座。
そして、三百年の歴史。
すべてを懸けた戦いが、近づいていた。
そのとき。
征臣のスマートフォンが鳴った。
画面には、榊原の名前が表示されていた。
征臣は少し眉をひそめた。
そして、電話に出た。
「……何だ」
榊原の声は、落ち着いていた。
『副家元』
「……」
『一つ、ご報告があります』
征臣は黙った。
榊原は続けた。
『旧温室の設備記録について、確認が取れました』
征臣の表情が変わった。
「……何がわかった」
短い沈黙。
そして。
『事故当日の設備操作は、通常の点検ではありませんでした』
征臣は息を止めた。
「……」
『記録上、排水設備の一部が停止されています』
征臣は何も言えなかった。
榊原は続けた。
『その結果、階段付近に水がたまりやすい状態になっていた可能性があります』
征臣は机を握りしめた。
「……何が言いたい」
榊原は静かに答えた。
『五年前の事故は、単なる不運ではなかったかもしれません』
長い沈黙。
そして。
榊原は低い声で続けた。
『副家元』
『あなたは、あの日、何を止めたのですか』
征臣は答えなかった。
窓の外では、雨が降り始めていた。
五年前。
旧温室。
濡れた階段。
割れた花器。
そして、三人の負傷者。
そのすべてをつなぐ秘密が、今、明らかになろうとしていた。