冷たい華道家は、私だけに花を乱す


京都華道展まで、あと五十二日。
久遠流の家元交代をめぐる騒動は、華道界の小さなニュースサイトに掲載された。
『名門・久遠流で内紛か。副家元が現家元の責任を追及』
記事には、文化財修復事業の会計に疑義があること、過去の施設改修が延期されていたこと、幹部会で家元の責任が議論されていることが書かれていた。
ただし、不正が確定したわけではないとも記されていた。
私は花乃井の事務室で、その記事を読んでいた。
窓の向こうでは、配送車が停まっている。
店長が新しい花材を運び込んでいた。
私はスマートフォンを伏せた。
この数週間、何度同じような気持ちになっただろう。
一つの問題が片づくと、また別の問題が現れる。
朔の右手。
京都華道展。
久遠家の秘密。
花乃井の経営。
それぞれ別の問題なのに、どこかでつながっている。
私は立ち上がった。
考えているだけでは、何も変わらない。
今は、目の前の花を整えよう。
店先へ出ると、店長が大きな段ボール箱を開けていた。
「小春ちゃん、ちょうどよかった」
「何ですか」
「新しい注文が入ったの」
私は驚いた。
「本当ですか」
「ええ。都内のレストランから」
店長は注文書を見せた。
月四回の定期装花。
入口と客席の二か所。
それほど大きな金額ではない。
けれど、私たちにとっては大切な仕事だった。
「……嬉しいですね」
私は笑った。
店長も頷いた。
「本当にね」
私は花材を確認した。
白いダリア。
淡い黄色の小花。
細い枝物。
初夏らしい組み合わせだった。
私は枝を一本手に取った。
少し曲がっている。
けれど、その曲がり方が美しかった。
「……これ、使えそう」
私は呟いた。
そのとき、店の扉が開いた。
「いらっしゃいませ」
振り返る。
朔だった。
今日は濃紺の着物ではなく、白いシャツに黒いパンツ。
右手には、薄いサポーターが巻かれていた。
「こんにちは」
彼は微笑んだ。
私は少し驚いた。
「朔、今日はリハビリじゃなかった?」
「午前中に終わりました」
「どうだった?」
「経過は悪くないそうです」
私は安心した。
「よかった」
朔は少し笑った。
「ただし、まだ長時間の作業は禁止です」
「当然」
私は頷いた。
「ちゃんと守ってね」
「はい」
彼は真剣だった。
「あなたに心配をかけたくないので」
私は少し照れた。
「……もう」
店長が奥から顔を出した。
「あら、朔さん」
朔は頭を下げた。
「こんにちは」
店長は微笑んだ。
「今日は、ちょうどいいところに来たわ」
朔は首を傾げた。
「……何でしょう」
店長は私を見た。
「小春ちゃん、話してみたら?」
私は頷いた。
「うん」
そして、朔に向き直った。
「実はね」
「はい」
「花乃井で、小さな花の教室を開こうと思ってるの」
朔の表情が変わった。
「……教室?」
私は頷いた。
「うん」
「どんな?」
「花屋ならではの、気軽な教室」
私は説明した。
「家庭で花を長持ちさせる方法とか」
「……」
「小さな花器に、一輪だけ生ける方法とか」
朔は静かに聞いていた。
私は続けた。
「華道の正式な稽古じゃなくて、日常の中で花を楽しむ教室」
朔は少し考えた。
そして、微笑んだ。
「……素敵ですね」
私は笑った。
「本当?」
「はい」
彼は頷いた。
「とても」
私は少し安心した。
そして、続けた。
「それで」
「はい」
「朔にも、講師として参加してもらえないかなって」
朔が固まった。
「……僕が?」
私は頷いた。
「うん」
彼はしばらく黙っていた。
そして、静かに言った。
「……いいんですか」
私は笑った。
「もちろん」
朔は少し考えた。
「でも、僕は」
「何?」
「人に教えると、厳しくなりすぎるかもしれません」
私は思わず笑った。
「知ってる」
彼は少し困った顔をした。
「……」
私は続けた。
「だから、私も一緒にやるの」
朔は顔を上げた。
「……一緒に?」
「うん」
私は笑った。
「朔が形の美しさを教えて、私が花の扱い方を教える」
彼はしばらく私を見つめた。
そして、静かに微笑んだ。
「……いいですね」
私は頷いた。
「でしょう?」
朔は少し考えた。
「ただ、報酬については、きちんと決めましょう」
私は驚いた。
「……報酬?」
「はい」
彼は真剣だった。
「あなたの店の仕事ですから」
私は少し笑った。
「……成長したね」
朔は首を傾げた。
「そうですか」
「うん」
以前の彼なら、きっと無料で何でも引き受けようとしただろう。
けれど今は、仕事として続けるために必要なことを考えている。
それが、少し嬉しかった。
店長が笑った。
「じゃあ、まずは一回だけ試してみましょう」
朔は頭を下げた。
「よろしくお願いします」
こうして、花乃井で初めての小さな花の教室が開かれることになった。
定員は六人。
参加費は材料費込みで三千五百円。
テーマは『一輪の居場所』。
私は案内文を作り、店のホームページとSNSに掲載した。
すると、その日のうちに四人の申し込みがあった。
翌朝には、定員が埋まった。
店長は驚いていた。
「すごいわね」
私は笑った。
「朔の名前のおかげかもしれません」
店長は首を横に振った。
「それだけじゃないわ」
「……」
「小春ちゃんが、ちゃんと内容を考えたからよ」
私は少し照れた。
「……ありがとうございます」
教室は、その週末に開かれた。
花乃井の奥にある小さな作業スペース。
普段は花材の整理や包装をする場所だった。
そこに机を並べ、六つの花器を置いた。
参加者は、年齢も職業もさまざまだった。
若い会社員。
年配の女性。
小学生の娘を連れた母親。
そして、花を飾るのが初めてだという男性。
私は少し緊張していた。
けれど、隣に立つ朔は、いつもどおり落ち着いていた。
濃い灰色の着物。
白い襟。
静かな佇まい。
参加者たちは、彼を見て少しざわめいた。
「……本当に久遠朔さん?」
「すごい」
「こんな近くで見られるなんて」
私は思わず笑った。
やっぱり、目立つ人だ。
朔は参加者たちに頭を下げた。
「本日は、よろしくお願いいたします」
低く、澄んだ声。
それだけで、場の空気が変わった。
私は少し感心した。
この人は、本当に花の前に立つと別人になる。
朔は花器を一つ手に取った。
「今日は、一輪の花を生けます」
参加者たちは静かに聞いていた。
「難しい技術は必要ありません」
彼は続けた。
「ただ、花をよく見てください」
そして、白い花を一本持ち上げた。
「花には、それぞれ向きがあります」
彼は花をゆっくり回した。
「光を受ける方向」
「……」
「茎が自然に曲がる方向」
「……」
「そして、花が一番落ち着く場所」
彼は花を小さな花器に挿した。
たった一輪。
それだけだった。
けれど、不思議なほど美しかった。
参加者たちが息を呑んだ。
私は胸が高鳴った。
やっぱり、すごい。
朔は静かに微笑んだ。
「これが、今日の基本です」
そして、私を見た。
「小春」
私は少し驚いた。
「……はい」
彼は微笑んだ。
「お願いします」
私は頷いた。
そして、参加者たちに向き直った。
「では、花を長持ちさせるための準備を説明します」
私は茎の切り方や、水の量、花器の洗い方を説明した。
花の種類によって、扱い方が違うこと。
水に浸かる葉を取り除くこと。
直射日光や冷暖房の風を避けること。
普段の仕事で当たり前にしていることだった。
けれど、参加者たちは熱心に聞いてくれた。
一人の女性が質問した。
「花って、毎日水を替えたほうがいいんですか」
私は頷いた。
「できれば、清潔な水を保ってください」
「……」
「花器も洗って、茎の状態を確認するといいですよ」
女性はメモを取った。
私は少し嬉しかった。
自分の知っていることが、誰かの役に立つ。
それが、こんなに嬉しいとは思わなかった。
実習が始まった。
参加者たちは、それぞれ花を選んだ。
白い花。
黄色い花。
淡い紫の花。
朔は一人ずつ、静かに見て回った。
「少し、花器を回してみてください」
「……はい」
「その角度が、いいですね」
「ありがとうございます」
以前の彼なら、すぐに手を伸ばして直していたかもしれない。
けれど、今日は違った。
参加者自身に考えてもらう。
そして、できるだけ本人の手で完成させる。
私はその姿を見て、胸が温かくなった。
やがて、小学生の女の子が手を挙げた。
「先生」
朔が振り返った。
「はい」
女の子は花を指さした。
「この花、曲がってる」
朔は近づいた。
「そうですね」
「まっすぐにしたほうがいい?」
朔は少し考えた。
そして、静かに答えた。
「あなたは、どう思いますか」
女の子は花を見つめた。
「……このままがいい」
朔は微笑んだ。
「では、そのままにしましょう」
女の子は嬉しそうに笑った。
「うん!」
私は思わず朔を見た。
彼は私に気づき、少し微笑んだ。
その瞬間。
私は、胸の奥が温かくなるのを感じた。
十歳のころ、父に曲がった枝を捨てるよう言われた少年。
その少年が今、曲がった花をそのまま認めている。
私は静かに思った。
人は、変われるのだ。
教室は、予定より少し長引いた。
参加者たちは完成した花を写真に撮り、嬉しそうに持ち帰った。
最後の一人が帰ると、私は椅子に座り込んだ。
「……疲れた」
朔が笑った。
「お疲れさまでした」
私は顔を上げた。
「朔も、お疲れさま」
彼は頷いた。
「楽しかったです」
私は驚いた。
「本当?」
「はい」
朔は微笑んだ。
「今までの稽古とは、違いました」
私は笑った。
「でしょう?」
彼は静かに続けた。
「誰も、正解を求めていませんでした」
私は頷いた。
「うん」
「ただ、自分の花を生けていた」
朔は少し目を伏せた。
「……美しかった」
私は胸が温かくなった。
「また、やりたい?」
彼はすぐに答えた。
「はい」
私は笑った。
「じゃあ、次も考えよう」
朔は頷いた。
「ぜひ」
そのとき。
店長が奥から出てきた。
「二人とも、お疲れさま」
私は立ち上がった。
「ありがとうございました」
店長は笑った。
「こちらこそ」
そして、朔を見た。
「朔さん」
「はい」
「とてもよかったわ」
朔は頭を下げた。
「ありがとうございます」
店長は続けた。
「また、お願いできる?」
朔は微笑んだ。
「喜んで」
私は少し嬉しかった。
花乃井に、新しい仕事が生まれた。
朔にも、新しい仕事が生まれた。
小さな一歩。
けれど、確かな一歩だった。
その夜。
私は朔の部屋へ行った。
京都の作品について、打ち合わせをするためだった。
彼の部屋には、以前より少し家具が増えていた。
小さな本棚。
折りたたみ式の机。
そして、花器を置く棚。
私は思わず笑った。
「……ちゃんと部屋らしくなってる」
朔は少し照れた。
「少しずつ、揃えています」
私は頷いた。
「いいね」
彼は微笑んだ。
「あなたが来たとき、落ち着けるように」
私は顔が熱くなった。
「……もう」
朔は小さく笑った。
「本当です」
私たちは机に図面を広げた。
京都の作品。
中央に一本の曲がった枝。
その周囲に、小さな花。
足元には苔と石。
テーマは『居場所』。
けれど、まだ問題があった。
「……これ、誰が組み立てるの?」
私は尋ねた。
朔は少し考えた。
「協力者を探しています」
「見つかった?」
「一人、心当たりがあります」
私は顔を上げた。
「誰?」
朔は微笑んだ。
「昔、一緒に仕事をした職人です」
「……職人?」
「はい」
彼は説明した。
「花器や展示台を作る人です」
私は頷いた。
「なるほど」
朔は続けた。
「僕の右手の負担を減らすため、構造部分を任せたいと思っています」
私は安心した。
「いいと思う」
彼は頷いた。
「ただ、費用がかかります」
私は笑った。
「そこは、ちゃんと計算しよう」
朔も笑った。
「はい」
私はノートを開いた。
材料費。
運搬費。
会場設営費。
宿泊費。
そして、予備費。
一つずつ確認していく。
その途中。
朔が突然、私の手を取った。
私は驚いた。
「……何?」
彼は真剣だった。
「小春」
「うん」
「今日は、ありがとうございました」
私は首を傾げた。
「教室のこと?」
「はい」
彼は頷いた。
「僕に、新しい仕事を教えてくれました」
私は笑った。
「私が教えたわけじゃないよ」
朔は首を横に振った。
「あなたが、場所を作ってくれたんです」
私は胸が温かくなった。
「……そうかな」
彼は微笑んだ。
「はい」
そして、静かに続けた。
「僕は、ずっと花を生ける場所を与えられてきました」
「……」
「でも、自分で作ったことはありませんでした」
私は黙った。
朔は続けた。
「久遠流の名前があれば、どこでも花を生けられた」
「……」
「けれど、名前がなくなったら、何もできないと思っていました」
私は彼を見つめた。
朔は微笑んだ。
「でも、違いました」
「……」
「小さな花屋でも、花を生けられる」
私は胸が熱くなった。
彼は続けた。
「六人の前でも、花を生けられる」
「……」
「誰かが喜んでくれるなら、それで十分だと思えました」
私は目を伏せた。
「……よかった」
朔は私の手を握り直した。
「小春」
「何?」
「僕は、あなたと出会えてよかった」
私は笑った。
「何回目?」
彼は少し考えた。
「数えていません」
私は吹き出した。
「……でしょうね」
朔は微笑んだ。
「何度でも言いたいので」
私は顔が熱くなった。
「……もう」
彼は少し顔を近づけた。
「キスしてもいいですか」
私は笑った。
「また?」
「はい」
彼は真剣だった。
「今日は、特別に嬉しいので」
私は少し考えた。
そして、頷いた。
「……いいよ」
朔は優しく私の頬に触れた。
右手ではなく、左手だった。
私は目を閉じた。
唇が触れる。
短く、柔らかいキス。
けれど、離れたあとも、彼は私を見つめていた。
「……小春」
「何?」
「好きです」
私は微笑んだ。
「私も」
その瞬間。
彼の表情が、少しだけ崩れた。
嬉しそうで。
少し照れくさそうで。
そして、幸せそうだった。
私はその顔が好きだった。
天才華道家でも、久遠流の元後継者でもない。
ただ、二十二歳の男の子。
私の恋人。
私はそっと彼の胸に顔を寄せた。
朔は優しく抱きしめてくれた。
しばらく、そのままでいた。
やがて。
「……小春」
彼が静かに言った。
「何?」
「一つ、お願いがあります」
私は顔を上げた。
「……何?」
朔は少し迷った。
そして、静かに言った。
「京都が終わったら」
私は黙った。
「……」
「二人で、旅行に行きませんか」
私は驚いた。
「旅行?」
「はい」
朔は頷いた。
「仕事でも、展覧会でもなく」
「……」
「ただ、二人で」
私は少し考えた。
そして、笑った。
「……いいね」
朔の顔が明るくなった。
「本当ですか」
「うん」
私は頷いた。
「どこに行きたい?」
彼は少し考えた。
そして、静かに答えた。
「海が見たいです」
私は驚いた。
「海?」
「はい」
朔は微笑んだ。
「花のない景色を、ゆっくり見てみたい」
私は笑った。
「それ、いいかも」
彼は頷いた。
「では、約束です」
私は小指を差し出した。
「約束」
朔は少し驚いた。
「……これは?」
私は笑った。
「指切り」
彼は少し考えた。
そして、小指を絡めた。
私は歌うように言った。
「指切りげんまん」
朔は真剣に聞いていた。
私は吹き出した。
「……知らないの?」
彼は少し困った顔をした。
「聞いたことはあります」
私は笑った。
「じゃあ、覚えて」
彼は頷いた。
「はい」
私たちは小指を絡めたまま、笑った。
そのとき。
朔のスマートフォンが鳴った。
彼は画面を見た。
表情が変わった。
「……父からです」
私は息を止めた。
「出て」
朔は頷いた。
そして、電話に出た。
「もしもし」
短い沈黙。
そして。
「……え?」
彼の表情が変わった。
私は不安になった。
朔は静かに尋ねた。
「……本当ですか」
電話の向こうから、低い声が響いていた。
朔はしばらく黙っていた。
そして。
「……わかりました」
電話を切った。
私は顔を上げた。
「……何があったの?」
朔は私を見つめた。
そして、静かに言った。
「文化財修復事業の会計について、外部調査の中間報告が出たそうです」
私は息を止めた。
「……どうだったの?」
朔は少し目を伏せた。
「一部の支出について、説明がつかないことが確認されたそうです」
私は何も言えなかった。
「……叔父さんは?」
朔は静かに答えた。
「管理責任者として、説明を求められています」
私は胸が冷たくなった。
朔は続けた。
「ただし」
「……」
「叔父は、すべて父の指示だったと主張しているそうです」
私は息を止めた。
「……そんな」
朔は静かに言った。
「父は、第三者の調査を続けるつもりです」
私は頷いた。
「……うん」
そして。
朔は私を見つめた。
「小春」
「何?」
「もう一つ、聞いたことがあります」
私は息を止めた。
「……何?」
彼は静かに答えた。
「榊原が、調査資料の一部を持っているそうです」
私は何も言えなかった。
久遠家の元顧問弁護士。
玲奈と手を組んでいた男。
私に、父の死について不気味な電話をかけてきた男。
朔は続けた。
「叔父が、榊原と接触していた記録もあるそうです」
私は胸が冷たくなった。
「……やっぱり」
朔は頷いた。
「はい」
そして、静かに言った。
「今度こそ、きちんと調べます」
私は彼の手を握った。
「……一緒にね」
朔は私を見つめた。
そして、微笑んだ。
「はい」
私たちは顔を見合わせた。
そして、静かに頷いた。
京都華道展まで、あと四十九日。
作品の完成まで、時間は限られている。
けれど、久遠家の秘密も、少しずつ明らかになろうとしていた。
そのころ。
都内の小さな法律事務所で、榊原は一人の男と向き合っていた。
久遠征臣。
四十八歳。
久遠流副家元。
征臣は静かに言った。
「……資料は?」
榊原は机の上に、一つの封筒を置いた。
「こちらです」
征臣は封筒を開いた。
中には、古い会計資料の写しが入っていた。
そして、もう一枚。
旧温室の改修計画書。
征臣は目を細めた。
「……これだけか」
榊原は静かに答えた。
「現時点では」
征臣は不満そうだった。
「原本は?」
榊原は微笑んだ。
「久遠宗一郎氏が保管しています」
征臣は舌打ちした。
「……厄介だな」
榊原は続けた。
「ただし」
征臣が顔を上げた。
「……何だ」
榊原は別の書類を取り出した。
「こちらの資料は、まだ誰にも見せていません」
征臣は受け取った。
そこには、五年前の事故に関する記録があった。
相馬の転落。
玲奈の怪我。
朔の右手の負傷。
そして。
『事故当日の施設管理記録』
征臣の表情が変わった。
「……これは」
榊原は静かに言った。
「旧温室の管理記録です」
征臣は読み進めた。
そして、顔色を変えた。
「……誰が、これを」
榊原は微笑んだ。
「当時の管理担当者です」
長い沈黙。
征臣は書類を握りしめた。
「……こんなものが残っていたのか」
榊原は静かに頷いた。
「はい」
そして、低い声で続けた。
「五年前の事故の前に、旧温室の一部設備が意図的に操作された可能性があります」
征臣は息を止めた。
「……何?」
榊原は書類を指さした。
「事故当日の午後、通常は施錠されている設備室に、何者かが入った記録があります」
征臣は黙った。
榊原は続けた。
「その人物の名前が、記されているのです」
長い沈黙。
征臣はゆっくり書類を見た。
そして。
その顔から、血の気が引いた。
そこには、ある名前があった。
『久遠征臣』
榊原は静かに微笑んだ。
「……さて」
その声は、冷たかった。
「これを、どう扱いましょうか」
征臣は何も言えなかった。
窓の外では、夜の雨が降り始めていた。
久遠家の秘密は、まだ終わっていなかった。
そして。
京都華道展まで、あと四十九日。
朔と小春の未来を懸けた戦いは、静かに次の段階へ進もうとしていた。