父が亡くなったのは、私が十八歳の冬だった。
病室の窓から、白い空が見えたことを覚えている。
父は最後まで、私の進路を心配していた。
「小春は、花が好きなんだろう」
私は頷いた。
「うん」
「だったら、好きなことを大切にしなさい」
それが、父と交わした最後のまともな会話だった。
父は穏やかな人だった。
声を荒らげることもなく、いつも少しだけ笑っていた。
仕事の話は、あまりしなかった。
私は父が、建築関係の仕事をしていると思っていた。
実際、家には建物の図面や模型があった。
休日には庭の手入れをし、古い花器を磨いていた。
華道とは無縁の人だと思っていた。
それなのに。
『お父様は、久遠家と関わりがありました』
榊原の言葉が、頭から離れなかった。
私は花乃井の奥で、古い取引履歴を見つめていた。
久遠流。
九条文化振興財団。
そして、榊原。
五年前から続く注文。
父が亡くなった翌年から始まった、不自然な取引。
「……小春ちゃん」
店長が声をかけた。
私は顔を上げた。
「はい」
「大丈夫?」
私は頷こうとして、やめた。
「……あまり、大丈夫じゃないです」
店長は静かに椅子を引いた。
「そう」
私は榊原からの電話について話した。
父のことを知っていると言われたこと。
久遠家との関係をほのめかされたこと。
朔には知らせるなと言われたこと。
店長は黙って聞いていた。
そして、静かに言った。
「その人には、一人で会わないほうがいいわね」
私は頷いた。
「はい」
「それに、電話の内容も記録しておきなさい」
「……はい」
私はメモ帳を開いた。
日時。
電話番号。
話した内容。
一つずつ書き残す。
店長は私の手元を見つめていた。
「小春ちゃん」
「はい」
「お父さんのことを知りたい気持ちは、わかるわ」
私は黙った。
「でも、誰かが秘密を握っているからって、その人の言うとおりに動く必要はないのよ」
私は顔を上げた。
店長は微笑んだ。
「あなたには、あなたの調べ方があるでしょう」
私はゆっくり頷いた。
「……そうですね」
その日の午後。
私は母に電話をかけた。
「お母さん」
『小春?』
「お父さんの仕事について、聞きたいことがあるの」
電話の向こうが静かになった。
私は続けた。
「久遠家と、関係があった?」
長い沈黙。
そして。
『……誰から聞いたの』
母の声が低くなった。
「榊原っていう人」
『榊原……』
母が小さく息を呑んだ。
私は胸が冷たくなった。
「知ってるの?」
『……ええ』
「どんな人?」
母はしばらく黙っていた。
そして、静かに答えた。
『お父さんが、最後まで信用しなかった人よ』
私は息を止めた。
「……どういうこと?」
母は答えなかった。
代わりに言った。
『今夜、家に来られる?』
私は頷いた。
「うん」
『お父さんの書類を、見せるわ』
電話が切れた。
私はスマートフォンを握りしめた。
胸の奥で、何かが大きく動き始めていた。
そのころ。
朔は自分の部屋で、京都華道展の構想図を見つめていた。
机には、医師から渡された診療計画が置かれている。
右手の負担を減らすため、作業時間を制限すること。
痛みが強くなった場合は、すぐに中止すること。
そして、定期的に検査を受けること。
朔は右手を開いた。
指を一本ずつ動かす。
薬指の動きが、わずかに鈍い。
五年前。
割れた花器で傷つけた手。
あの傷は、今も彼の身体に残っていた。
けれど、最近は別の痛みもあった。
小春に隠し事をしていたこと。
花乃井への注文が、父との取引の一部だったこと。
それを話したときの、小春の声。
『私、怒ってる』
その言葉が、胸に刺さっていた。
彼女は正しかった。
自分は、また同じことをしたのだ。
守るという理由で、本人に相談せずに決めてしまった。
五年前も。
今も。
朔は深く息を吐いた。
そして、スマートフォンを手に取った。
小春に電話をかけようとして、指を止める。
彼女は考える時間が欲しいと言った。
ならば、待つべきだ。
けれど。
待つだけでいいのだろうか。
朔は机の引き出しを開けた。
中には、五年前の白いハンカチがあった。
小さな青い花の刺繍。
血の染みは、もうほとんど見えない。
けれど、彼にとっては何より大切なものだった。
あの日。
雨の公園で、小春は言った。
『花は、誰かに見てもらえなくても咲くんだよ』
その言葉が、自分を救った。
けれど、今思えば。
彼女自身も、誰かに守られるためだけに生きているわけではなかった。
朔はハンカチをそっと畳んだ。
そして、静かに呟いた。
「……今度こそ」
彼は立ち上がった。
「ちゃんと、向き合おう」
夕方。
私は母の家へ向かった。
駅から歩く道は、少し蒸し暑かった。
紫陽花が咲いている。
青い花。
紫の花。
雨を待つように、葉が揺れていた。
家に着くと、母は居間で待っていた。
テーブルには、大きな段ボール箱が置かれていた。
「……これ?」
私が尋ねると、母は頷いた。
「お父さんの仕事の書類」
私は箱を見つめた。
中には、古い図面が何枚も入っていた。
建物の設計図。
温室の構造図。
展示施設の改修計画。
そして。
『久遠流本部 旧温室改修工事』
私は息を止めた。
「……お父さんが?」
母は頷いた。
「そう」
私は図面を広げた。
そこには、久遠家の旧温室が描かれていた。
ガラス張りの建物。
細い通路。
展示準備室。
そして、階段。
五年前、朔と玲奈、相馬が事故を起こした場所だった。
「……どうして」
私は呟いた。
母は静かに言った。
「お父さんは、久遠家の建物を何度も手がけていたの」
「……」
「古い温室の改修も、その一つだった」
私は図面を見つめた。
母は続けた。
「でも、六年前に問題が起きた」
私は顔を上げた。
「……問題?」
母は箱から、一冊のファイルを取り出した。
表紙には、父の字でこう書かれていた。
『旧温室改修工事 安全上の懸念事項』
私は息を止めた。
ページを開く。
古い金属枠の腐食。
ガラスの固定部分の劣化。
通路の排水不良。
そして、階段の手すりの強度不足。
いくつもの問題が、細かく記されていた。
「……危ない建物だったんだ」
母は頷いた。
「そう」
私は読み進めた。
父は改修工事を提案していた。
けれど、その提案は受け入れられなかったらしい。
書類には、赤い文字でこう書かれていた。
『予算上の理由により、改修延期』
私は眉をひそめた。
「……誰が決めたの?」
母は静かに答えた。
「久遠流の管理部門」
「……」
「当時、その責任者だったのが」
母は少し言葉を切った。
「久遠征臣さん」
私は息を止めた。
朔の叔父。
副家元。
京都華道展で、朔と競うことになった男。
私は書類を見つめた。
「……じゃあ」
母は頷いた。
「お父さんは、危険だと何度も伝えていたの」
私は何も言えなかった。
母は続けた。
「でも、工事は延期された」
「……」
「そのあと、お父さんは久遠家との仕事を減らしていった」
私は胸が苦しくなった。
「……どうして?」
母は少し迷った。
そして、静かに答えた。
「責任を押しつけられそうになったから」
私は息を止めた。
母は続けた。
「もし事故が起きたら、設計者の責任にするという話があったらしいの」
私は書類を握りしめた。
「……ひどい」
母は頷いた。
「お父さんも、怒っていたわ」
私は父の顔を思い出した。
穏やかな人。
声を荒らげることのない人。
その父が、怒っていた。
私はファイルをめくった。
最後のページに、手書きのメモがあった。
『安全より体面を優先する組織に、建物を任せることはできない。』
父の字だった。
私は胸が熱くなった。
「……お父さんらしい」
母は微笑んだ。
「そうね」
私は顔を上げた。
「でも、榊原さんは、お父さんが亡くなった理由に関係があるようなことを言ってた」
母の表情が変わった。
「……何て?」
私は電話の内容を説明した。
母は黙って聞いていた。
そして、静かに首を横に振った。
「……違うわ」
私は息を止めた。
「……違う?」
「お父さんは、病気で亡くなったの」
母の声は、はっきりしていた。
「長く治療を受けていたでしょう」
私は頷いた。
「……うん」
「久遠家のことが負担になった時期はあったかもしれない。でも、病気の原因だと決めつけられるものじゃない」
私は何も言えなかった。
母は続けた。
「榊原さんは、昔からそういう言い方をする人だった」
「……」
「本当のことを少し混ぜて、相手が怖くなるように話すの」
私は胸が冷たくなった。
そうかもしれない。
彼は、私の知らないことを知っている。
けれど、それがすべて真実とは限らない。
私は深呼吸した。
「……ありがとう」
母は微笑んだ。
「うん」
私はファイルを閉じようとした。
そのとき。
一枚の紙が、間から落ちた。
私は拾い上げた。
古い写真だった。
そこには、三人の男性が写っていた。
若いころの久遠宗一郎。
久遠征臣。
そして、父。
三人は旧温室の前に立っていた。
父は笑っていた。
宗一郎も、少しだけ微笑んでいる。
けれど。
征臣だけは、カメラを見ていなかった。
彼の視線は、父の持つ書類に向けられていた。
私は写真を見つめた。
「……お母さん」
「何?」
「お父さん、久遠宗一郎さんとは仲がよかったの?」
母は少し考えた。
「最初はね」
「……」
「仕事だけじゃなくて、花の話もしていたみたい」
私は驚いた。
「花?」
母は頷いた。
「お父さん、昔から花器が好きだったでしょう」
「……うん」
「久遠家の展示施設を設計するときも、花が一番美しく見える空間を考えていたの」
私は胸が温かくなった。
父と朔。
二人は、会ったことがあったのだろうか。
私は尋ねた。
「朔のこと、お父さんは知ってた?」
母は少し考えた。
「名前は聞いたことがあったと思う」
「……」
「天才の息子さんがいるって、宗一郎さんが自慢していたから」
私は驚いた。
「……自慢?」
母は頷いた。
「そう」
私は写真を見つめた。
久遠宗一郎。
厳格な家元。
息子を支配しようとする父親。
けれど、かつては朔を自慢していた。
そのことが、少し意外だった。
私は静かに呟いた。
「……複雑だね」
母は頷いた。
「人間って、そういうものよ」
その夜。
私は母の家から帰る途中、朔にメッセージを送った。
『話したいことがあります。』
すぐに返信が来た。
『僕もです。』
私は少し迷った。
そして、送った。
『今から会える?』
返事はすぐだった。
『迎えに行きます。』
私は慌てて返信した。
『駅で待ち合わせよう。無理しないで。』
少しして、返事が来た。
『わかりました。』
そして、もう一通。
『会えるのが嬉しいです。』
私は画面を見つめた。
胸が少し温かくなった。
けれど、まだ完全に許せたわけではなかった。
五年前の約束。
花乃井への注文。
隠されていた取引。
そのことを、ちゃんと話さなければならない。
駅前の小さな広場。
朔は、私より先に来ていた。
濃紺の着物。
白い足袋。
静かに立つ姿は、街灯の下でも目を引いた。
私は近づいた。
「……朔」
彼が振り返る。
その表情が、少しだけ緩んだ。
「小春」
私は立ち止まった。
しばらく、どちらも話さなかった。
やがて、朔が口を開いた。
「……来てくれて、ありがとうございます」
私は頷いた。
「うん」
彼は少し迷った。
そして、静かに言った。
「先日のこと」
私は顔を上げた。
「……」
「本当に、申し訳ありませんでした」
朔は深く頭を下げた。
私は何も言えなかった。
彼は続けた。
「あなたの生活に関わることを、僕が勝手に決めてしまった」
「……」
「それが間違いだったと、今はわかっています」
私は黙っていた。
朔は顔を上げた。
「でも、五年前の僕は」
彼は少し言葉を切った。
「あなたに何か起きることが、怖かった」
私は胸が苦しくなった。
「……うん」
「父に逆らえば、あなたが傷つくと思った」
「……」
「だから、黙って従いました」
私は目を伏せた。
朔は続けた。
「それが、あなたのためだと思っていました」
長い沈黙。
そして。
「……でも、違いました」
彼の声が震えた。
「あなたの意思を、何も聞いていなかった」
私はゆっくり息を吐いた。
「……朔」
「はい」
「私、あなたが私を守ろうとしてくれたことは、嬉しい」
彼は顔を上げた。
私は続けた。
「でも、これからは、一人で決めないで」
「……」
「私に関係することは、私にも話して」
朔はゆっくり頷いた。
「……はい」
私は彼を見つめた。
「約束できる?」
彼はまっすぐ答えた。
「約束します」
私は少し笑った。
「……じゃあ、仲直り」
その瞬間。
朔の表情が変わった。
「……本当ですか」
私は頷いた。
「うん」
彼は目を閉じた。
そして、深く息を吐いた。
「……よかった」
私は少し笑った。
「そんなに心配だった?」
朔は頷いた。
「はい」
「……」
「嫌われたと思いました」
私は胸が痛んだ。
「嫌いになったわけじゃないって言ったでしょう」
「……はい」
彼は少し笑った。
「でも、怖かった」
私は一歩近づいた。
そして、彼の手を取った。
「……朔」
「はい」
「好きだよ」
その瞬間。
彼の瞳が揺れた。
私は微笑んだ。
「だから、ちゃんと話し合いたいの」
朔は静かに頷いた。
「……はい」
そして、私をそっと抱きしめた。
私は彼の背中に腕を回した。
白檀の香り。
温かい胸。
少し速い鼓動。
私は目を閉じた。
しばらく、そのままでいた。
やがて、朔が小さく言った。
「……小春」
「何?」
「キスしてもいいですか」
私は少し笑った。
「……今日は、いいよ」
彼はゆっくり顔を近づけた。
唇が触れる。
短く、優しいキスだった。
離れたあと、彼は私を見つめた。
「……ありがとう」
私は笑った。
「こちらこそ」
そのあと、私は母から聞いたことを話した。
父が久遠家の旧温室の設計に関わっていたこと。
安全上の問題を指摘していたこと。
改修工事が延期されたこと。
その責任者が、久遠征臣だったこと。
朔は黙って聞いていた。
そして、静かに言った。
「……叔父が」
私は頷いた。
「うん」
朔は少し考えた。
「五年前の事故が起きた階段も、改修対象だったんですね」
「そうみたい」
彼は右手を見た。
「……」
私は続けた。
「お父さんのことを、榊原さんが妙な言い方で話してきたの」
朔の表情が変わった。
「……榊原が?」
私は頷いた。
そして、電話の内容を説明した。
朔は静かに聞いていた。
話し終えると、低い声で言った。
「……また、あの男が」
私は彼の手を握った。
「一人では会わないよ」
朔は私を見た。
「……はい」
私は続けた。
「それに、ちゃんと記録も残してある」
彼は少し安心したようだった。
「よかった」
私は笑った。
「私だって、少しは学習するよ」
朔は微笑んだ。
「……そうですね」
そして、静かに言った。
「小春」
「何?」
「お父様の書類、専門家に確認してもらいませんか」
私は頷いた。
「私も、そう思ってた」
朔は続けた。
「事故の責任と、建物の管理は、別の問題です」
「……」
「感情だけで、誰かを責めることはしたくありません」
私は胸が温かくなった。
「うん」
私たちは、資料の写しを整理し、母の許可を得たうえで専門家に相談することにした。
その夜。
私は帰宅してから、父の古いノートを開いた。
母が持たせてくれたものだった。
表紙には、父の字でこう書かれていた。
『花と建築』
私はページをめくった。
庭園の設計。
花器の配置。
光の入り方。
風の流れ。
さまざまな図が描かれていた。
その中に、一枚のスケッチがあった。
古い温室。
中央に一本の木。
その周囲に、小さな花が咲いている。
私は息を止めた。
朔が京都で作ろうとしている作品と、どこか似ていた。
もちろん、偶然かもしれない。
けれど、私は不思議な気持ちになった。
父も、同じことを考えていたのだろうか。
花が自然に生きられる場所。
人が花を支配するのではなく、花と空間が調和する場所。
私はスケッチを見つめた。
そして、静かに呟いた。
「……お父さん」
そのとき。
スマートフォンが鳴った。
知らない番号だった。
私は少し迷った。
そして、出ずに留守番電話へ切り替えた。
しばらくして、メッセージが残された。
再生する。
低い男性の声だった。
『三崎小春さん』
榊原。
私は息を止めた。
『お父様の資料を、見つけたそうですね』
胸が冷たくなった。
『それなら、もうお気づきでしょう』
私はスマートフォンを握りしめた。
『五年前の事故は、偶然ではありません』
私は息を止めた。
『あの階段は、事故が起きる前から危険だとわかっていた』
そこまでは、父の資料にも書かれていた。
けれど。
榊原は続けた。
『そして、その危険を放置した理由も』
長い沈黙。
『あなたのお父様は、知っていました』
録音が終わった。
私は画面を見つめた。
父のノート。
久遠家の旧温室。
改修されなかった階段。
そして、征臣。
私は深く息を吐いた。
榊原の言葉を、そのまま信じるつもりはない。
けれど。
父が残した資料には、まだ何かが隠されている。
私はもう一度ノートを開いた。
最後のページ。
そこには、細い文字で一行だけ書かれていた。
『温室の改修を止めた本当の理由は、予算ではない。』
私は息を止めた。
その下には、日付と名前があった。
『久遠征臣』
そして、さらに小さな文字。
『地下保管室を確認すること。』
私はノートを見つめた。
地下保管室。
旧温室の図面には、そんな場所は描かれていなかった。
私はページをめくった。
何度も。
けれど、地下室の図面は見つからなかった。
私は静かに呟いた。
「……何を隠してるの」
そのころ。
久遠征臣は、旧温室の前に立っていた。
夜の庭。
薄い月明かり。
彼は鍵を取り出した。
そして、古い扉を開けた。
温室の奥へ進む。
使われなくなった棚。
錆びた金属枠。
枯れた蔓。
その奥に、小さな床板があった。
征臣はしゃがみ込んだ。
床板を持ち上げる。
暗い空間が現れた。
地下へ続く階段だった。
征臣は静かに呟いた。
「……三崎」
その声には、憎しみが混じっていた。
「死んでまで、邪魔をするのか」
彼は懐中電灯をつけた。
そして、暗い階段を下りていった。
地下には、古い保管室があった。
棚には、花器や展示用の道具が並んでいる。
その奥。
金属製の扉。
征臣は鍵を差し込んだ。
扉が開く。
中には、一つの木箱が置かれていた。
彼は蓋を開けた。
そして、静かに笑った。
「……まだ、あったか」
箱の中には、古い帳簿が入っていた。
久遠流の資金管理記録。
そして、もう一つ。
『文化財修復事業 特別会計』
征臣はその表紙を見つめた。
「……これさえなければ」
彼は帳簿を取り出した。
そのとき。
背後から声がした。
「何をしている」
征臣の身体が固まった。
ゆっくり振り返る。
そこには、久遠宗一郎が立っていた。
二人は、しばらく黙って見つめ合った。
やがて、宗一郎が静かに言った。
「……征臣」
その声は低かった。
「もう、終わりにしろ」
征臣は笑った。
「兄さん」
そして、帳簿を抱え直した。
「終わりにするのは、そっちだ」
地下室に、冷たい沈黙が落ちた。
六年前から隠されていた秘密。
それは、朔と小春の恋だけでなく、久遠流そのものを揺るがすものだった。
