翌朝、母から電話があった。
「小春、今度の日曜日、帰ってこられる?」
私は花乃井の開店準備をしながら、スマートフォンを肩と耳の間に挟んでいた。
「日曜日? どうして?」
「別に用事があるわけじゃないけど。最近、顔を見てないでしょう」
母の声は、いつもと変わらなかった。
少しせっかちで、何でもないことを心配する声。
「京都の準備があるから、まだわからない」
「京都?」
「あれ、言ってなかったっけ。華道展に出ることになったの」
電話の向こうが静かになった。
「……華道展?」
「うん。京都で開かれる大きな展覧会」
「誰と?」
私は少し笑った。
「久遠朔っていう華道家の人」
その瞬間、電話が切れた。
私はスマートフォンを見つめた。
「……え?」
電波が悪かったのだろうか。
かけ直そうとすると、母からメッセージが届いた。
『ごめん。急用ができた。また連絡する。』
私は首を傾げた。
母らしくない。
普段なら、急用があっても一言くらい説明する。
それに、久遠朔という名前を口にした途端、電話が切れたような気がした。
私はしばらく画面を見つめた。
けれど、開店時間が近づいていた。
スマートフォンをしまい、店先へ向かう。
白い百合が咲いていた。
私は花の向きを整えながら、五年前のことを思い出した。
雨の公園。
泣いていた少年。
血に染まった白いハンカチ。
あの日、私は十九歳だった。
短大に通いながら、花屋でアルバイトをしていた。
母には、公園で怪我をした人に会ったことを話しただろうか。
記憶をたどる。
確か、話していない。
あの日の出来事は、あまりにも不思議で、誰にも説明できなかったから。
それなのに。
母が、あの場所にいたとしたら。
私は手を止めた。
「……まさか」
そのとき、店の扉が開いた。
「おはようございます」
朔だった。
私は驚いた。
「朔?」
彼はいつものように微笑んだ。
けれど、目の下に薄い影があった。
「少し、お話しできますか」
私は彼の表情を見た。
「……何かあった?」
朔は黙った。
そして、スマートフォンを取り出した。
「これを見てください」
画面には、一枚の写真が映っていた。
雨の公園。
白いシャツの少年。
花壇の前に立つ少女。
私は息を止めた。
五年前の写真だった。
けれど。
そこには、見覚えのある女性が写っていた。
傘を差した女性。
薄いベージュのコート。
そして、手に持った封筒。
「……お母さん?」
私は思わず呟いた。
朔は頷いた。
「昨夜、匿名で送られてきました」
私は画面を見つめた。
間違いない。
母だった。
「……どうして」
朔は静かに言った。
「僕にも、わかりません」
私は写真を拡大した。
母の顔は少し横を向いている。
けれど、見間違えるはずがなかった。
「……朔」
「はい」
「この封筒」
私は指さした。
「久遠流の家紋が入ってる」
彼は頷いた。
「はい」
「どうして母が、こんなものを」
朔はしばらく黙っていた。
そして、静かに言った。
「小春」
「……何?」
「お母様に、直接聞いてみませんか」
私は顔を上げた。
「……」
「僕も、知りたいです」
私は写真を見つめた。
胸の奥が、冷たくなっていった。
母が何かを隠している。
それだけは、確かな気がした。
昼休み。
私は母に電話をかけた。
今度は、すぐにつながった。
『小春?』
「お母さん」
『何?』
「聞きたいことがある」
母は黙った。
私は続けた。
「五年前のこと」
電話の向こうが静かになった。
「私が、公園で男の子に会った日」
長い沈黙。
そして。
『……何の話?』
母の声が変わった。
私は息を止めた。
「お母さん、あの日、公園にいたでしょう」
『……』
「写真があるの」
長い沈黙。
私は続けた。
「久遠流の封筒を持ってた」
その瞬間。
母が小さく息を呑む音がした。
『……小春』
「何?」
『その写真、誰からもらったの』
私は答えた。
「朔に届いたの」
『……』
「匿名のメールで」
母は何も言わなかった。
私は静かに尋ねた。
「お母さん、何を隠してるの?」
長い沈黙。
そして。
『……帰ってきなさい』
母は低い声で言った。
『今日、話すから』
電話が切れた。
私はスマートフォンを見つめた。
胸が苦しかった。
夕方。
私は店長に事情を説明し、少し早く仕事を上がらせてもらった。
母の家は、東京の郊外にある。
小さな一戸建て。
父が亡くなってから、母は一人で暮らしていた。
駅から歩いて十分ほど。
懐かしい住宅街。
夕暮れの道。
私は門の前で立ち止まった。
深呼吸する。
そして、インターホンを押した。
すぐに扉が開いた。
母が立っていた。
「……おかえり」
私は頭を下げた。
「ただいま」
母は少し疲れて見えた。
目元に影がある。
私は靴を脱ぎ、居間へ入った。
テーブルには、お茶が用意されていた。
母は向かい側に座った。
しばらく、どちらも話さなかった。
やがて、母が口を開いた。
「……久遠朔さんと、付き合ってるの?」
私は驚いた。
「どうして知ってるの」
母は小さく笑った。
「記事を見たの」
私は黙った。
母は続けた。
「華道展に出るっていう記事」
私は頷いた。
「……うん」
母は目を伏せた。
「そう」
長い沈黙。
そして。
「……ごめんね」
私は顔を上げた。
「何が?」
母は何も言わなかった。
ただ、ゆっくり立ち上がり、古い戸棚へ向かった。
引き出しを開ける。
中から、小さな箱を取り出した。
木製の箱だった。
母はそれをテーブルに置いた。
そして、蓋を開けた。
中には、古い書類が入っていた。
封筒。
手紙。
写真。
私は息を止めた。
その一番上に、久遠流の家紋が入った封筒があった。
五年前の写真と同じものだった。
「……これ」
母は頷いた。
「そう」
私は封筒を手に取った。
中には、一枚の手紙が入っていた。
差出人は、久遠宗一郎。
日付は、五年前の六月。
私はゆっくり読み始めた。
『三崎様』
『先日の件につきましては、当家としても遺憾に存じます。』
『今後、久遠朔がご令嬢に接触することのないよう、厳重に指導いたします。』
私は息を止めた。
続きを読む。
『なお、本件に関する情報の取り扱いにつきましては、慎重なご配慮をお願いいたします。』
最後に、久遠宗一郎の署名があった。
私は顔を上げた。
「……どういうこと?」
母は目を伏せた。
「五年前、久遠家から連絡があったの」
「……」
「あなたが、公園で男の子に会った日のこと」
私は黙った。
母は続けた。
「最初は、何のことかわからなかった」
「……」
「でも、久遠家の人が来て、事情を説明したの」
私は胸が苦しくなった。
「何て?」
母は少し迷った。
そして、静かに答えた。
「あなたが、久遠家の息子さんに関わったことで、問題が起きたって」
私は息を止めた。
「……問題?」
「怪我人が出たって」
私は朔の右手を思い出した。
傷痕。
痛み。
五年前の事故。
母は続けた。
「久遠家の人は、あなたが事件に巻き込まれないよう、今後は接触しないでほしいと言ったの」
私は黙った。
「それから」
母は小さく息を吐いた。
「あなたのことを、調べていた」
私は顔を上げた。
「……調べてた?」
「学校も、アルバイト先も」
胸が冷たくなった。
母は頷いた。
「だから、怖くなったの」
「……」
「あなたに何かあったら、どうしようって」
私は何も言えなかった。
母は目を伏せた。
「それで、久遠家の人に会いに行ったの」
「……どこで?」
「公園よ」
私は息を止めた。
「……あの日?」
母は頷いた。
「そう」
私は写真を思い出した。
雨の公園。
傘を差した母。
久遠流の封筒。
「でも」
私は尋ねた。
「どうして、私が朔に会うことを知ってたの?」
母は首を横に振った。
「知らなかった」
「……え?」
「久遠家の人に呼ばれて、公園へ行ったの」
私は黙った。
母は続けた。
「あなたがそこにいるとは思わなかった」
「……」
「でも、遠くにあなたが見えた」
私は息を止めた。
「男の子と話していたでしょう」
私は頷いた。
「……うん」
母は静かに言った。
「そのとき、久遠家の人に止められたの」
「……止められた?」
「近づかないでくださいって」
私は何も言えなかった。
母は目を伏せた。
「私は、あなたに何が起きているのかわからなかった」
「……」
「ただ、怖かった」
長い沈黙。
そして。
「だから、あの日のことを、聞かなかったの」
私は母を見つめた。
「……」
「あなたが何も話さなかったから、私も何も聞かなかった」
母の声が震えた。
「それが、あなたを守ることだと思った」
私は何も言えなかった。
母は顔を上げた。
「……ごめんね」
私は首を横に振った。
「お母さん」
「……」
「私、怒ってないよ」
母の目に涙が浮かんだ。
「……小春」
私は続けた。
「でも、もっと早く知りたかった」
母は頷いた。
「……そうね」
私は手紙を見つめた。
久遠宗一郎。
五年前。
朔と私。
すべてを引き離した人。
けれど、まだ疑問が残っていた。
「……お母さん」
「何?」
「久遠家から、お金をもらった?」
母の表情が変わった。
長い沈黙。
そして。
「……いいえ」
私は少し安心した。
けれど、母は続けた。
「受け取らなかったの」
私は息を止めた。
「……どういうこと?」
母は箱の中から、もう一枚の書類を取り出した。
そこには、金額が記されていた。
三百万円。
私は目を見開いた。
「……これ」
母は頷いた。
「口止め料のようなものだったと思う」
私は胸が冷たくなった。
「でも、断ったの」
母は静かに言った。
「あなたが悪いことをしたわけじゃないと思ったから」
私は何も言えなかった。
母は続けた。
「ただ、久遠家には関わらないほうがいいと思った」
「……」
「だから、手紙も隠していたの」
私はゆっくり息を吐いた。
五年前。
母は私を守ろうとした。
朔も、私を守ろうとした。
そして、久遠宗一郎も、息子と家を守ろうとした。
けれど、その結果。
誰もが何かを失った。
私は手紙を封筒に戻した。
「……お母さん」
「何?」
「私、朔が好き」
母は黙った。
私は続けた。
「五年前のことも、今のことも、全部知ったうえで」
「……」
「それでも、好きなの」
母はしばらく私を見つめた。
そして、静かに尋ねた。
「……幸せ?」
私は少し考えた。
そして、頷いた。
「うん」
母の目に涙が浮かんだ。
「……そう」
私は微笑んだ。
「すごく」
母はゆっくり頷いた。
「だったら」
そして、静かに言った。
「大切にしなさい」
私は胸が熱くなった。
「……うん」
母は微笑んだ。
「ただし、無理はしないこと」
私は笑った。
「わかってる」
「仕事も、大切にすること」
「うん」
「それから」
母は少し笑った。
「今度、連れてきなさい」
私は驚いた。
「……朔を?」
「そう」
母は頷いた。
「どんな人なのか、ちゃんと会ってみたい」
私は胸が温かくなった。
「……わかった」
その夜。
私は朔に電話をかけた。
母から聞いたことを、すべて話した。
彼は黙って聞いていた。
話し終えると、長い沈黙があった。
そして。
『……そうでしたか』
朔の声は低かった。
私は静かに言った。
「お母さんは、私を守ろうとしてたんだと思う」
『……はい』
「だから、責めないでほしい」
朔はすぐに答えた。
『もちろんです』
私は安心した。
「ありがとう」
少し沈黙。
そして、朔が言った。
『小春』
「何?」
『僕も、話さなければならないことがあります』
私は息を止めた。
「……何?」
朔は少し迷った。
そして、静かに言った。
『五年前、父と約束したことです』
私は黙った。
以前、彼は話してくれた。
久遠流に残り、私に近づかない。
その代わり、父親は私を放っておく。
けれど。
『あの約束には、もう一つ条件がありました』
私は息を止めた。
「……条件?」
朔は静かに答えた。
『僕が、あなたに会いたいと言い出したら』
長い沈黙。
『久遠家は、あなたの生活に必要な支援を打ち切ると』
私は眉をひそめた。
「……支援?」
『はい』
「何のこと?」
朔は答えなかった。
私は胸が冷たくなった。
「……朔?」
長い沈黙。
そして。
『花乃井です』
私は息を止めた。
『あなたが働いていた花屋』
「……」
『久遠流からの注文は、五年前から増えていました』
私は何も言えなかった。
朔は続けた。
『父は、あなたの生活を間接的に支えることで、僕を黙らせようとしたんです』
私は胸が苦しくなった。
「……じゃあ」
『はい』
朔の声が震えた。
『僕は、それを知っていました』
私は何も言えなかった。
五年間。
久遠流から花乃井へ注文が入っていた。
その一部は、私と朔を引き離すための条件だった。
そして、彼はそれを知っていた。
私は目を閉じた。
「……どうして」
声が震えた。
「どうして、もっと早く話してくれなかったの」
電話の向こうが静かになった。
『……怖かったんです』
朔は小さく答えた。
『あなたが、僕を嫌いになるのが』
私は何も言えなかった。
『僕が黙っていたことで、あなたの仕事まで父の支配に組み込まれていた』
「……」
『そのことを、どう説明すればいいかわかりませんでした』
私は深く息を吐いた。
「……朔」
『はい』
「私、怒ってる」
長い沈黙。
そして。
『……はい』
私は続けた。
「五年前のことじゃない」
『……』
「今まで、黙っていたことに」
朔は答えなかった。
私は目を閉じた。
「私の人生に関係することなのに」
『……』
「あなたが一人で抱え込んで、勝手に決めていたことに」
長い沈黙。
朔は静かに言った。
『……ごめんなさい』
私は何も言えなかった。
『言い訳はしません』
その声は震えていた。
私は深呼吸した。
「……少し、考える時間をください」
『……はい』
「嫌いになったわけじゃない」
『……』
「でも、今すぐ笑って許せない」
長い沈黙。
そして。
『……わかりました』
朔は静かに答えた。
『待っています』
電話を切った。
私はスマートフォンを置いた。
胸が苦しかった。
朔が好きだった。
その気持ちは変わらない。
けれど、好きだからこそ。
隠し事をしてほしくなかった。
私を守るためだと言って、私の人生を勝手に決めてほしくなかった。
私は窓の外を見た。
夜の街。
静かな雨。
五年前と同じような雨だった。
その夜は、ほとんど眠れなかった。
翌朝。
花乃井に出勤すると、店長が困った顔をしていた。
「小春ちゃん」
「はい」
「少し、話があるの」
私は胸が冷たくなった。
「……何ですか」
店長は一枚の書類を差し出した。
そこには、久遠流の取引履歴が記されていた。
五年前から現在まで。
毎月の注文。
年間契約。
特別な装花依頼。
私は書類を見つめた。
「……これ」
店長は頷いた。
「昨日、弁護士さんと確認していたの」
私は顔を上げた。
「……」
「五年前から、注文が急に増えているの」
私は息を止めた。
やっぱり。
朔の話は本当だった。
店長は続けた。
「でも、もっと気になることがあるの」
私は彼女を見た。
「……何ですか」
店長は別の書類を取り出した。
そこには、久遠流とは別の会社名が記されていた。
『九条文化振興財団』
私は眉をひそめた。
「……九条?」
店長は頷いた。
「この財団からも、五年前から定期的に注文が入っていたの」
私は何も言えなかった。
店長は続けた。
「しかも」
彼女は書類を指さした。
「注文の担当者が、同じ人なの」
私は息を止めた。
そこには、一人の名前があった。
『榊原』
久遠家の元顧問弁護士。
展覧会の停電中、私を人気のない廊下へ連れ出した男。
私は書類を見つめた。
「……どうして」
店長は首を横に振った。
「わからない」
私は胸が冷たくなった。
五年前。
久遠家。
九条家。
花乃井。
そして、榊原。
すべてが、つながっていた。
そのとき。
店の電話が鳴った。
店長が受話器を取った。
「はい、花乃井でございます」
私は書類を見つめていた。
「……え?」
店長の声が変わった。
「少々、お待ちください」
彼女は私を見た。
「小春ちゃん」
「はい」
「あなたに」
私は受話器を受け取った。
「もしもし」
電話の向こうから、低い男性の声がした。
『三崎小春さんですね』
私は息を止めた。
榊原だった。
「……何のご用ですか」
彼は静かに言った。
『五年前のことについて、お話ししたいことがあります』
私は黙った。
『久遠朔様には、まだ伝えないでください』
胸が冷たくなった。
「どうしてですか」
榊原は少し笑った。
『彼が知れば、取り返しのつかないことになるからです』
私は拳を握りしめた。
「……何を言ってるんですか」
長い沈黙。
そして。
『三崎さん』
榊原は静かに言った。
『あなたのお父様が亡くなった本当の理由を、ご存じですか』
私は息を止めた。
父が亡くなったのは、六年前。
病気だった。
少なくとも、私はそう聞いていた。
「……どういう意味ですか」
榊原は答えなかった。
ただ、静かに続けた。
『お父様は、久遠家と関わりがありました』
私は何も言えなかった。
『そして、そのことが』
彼は一度、言葉を切った。
『あなたと朔様が出会う前から、すべてを動かしていたのです』
電話が切れた。
私は受話器を握りしめた。
胸が苦しかった。
父。
母。
朔。
久遠家。
五年前の出会い。
偶然だと思っていたことが、少しずつ別の形を見せ始めていた。
私は窓の外を見た。
白い百合が、静かに咲いていた。
あの日。
朔と初めて出会った雨の公園。
もし、あの出会いが偶然ではなかったとしたら。
私は、何を信じればいいのだろう。
そのころ。
久遠宗一郎は、書斎で一枚の古い写真を見つめていた。
そこには、三人の男性が写っていた。
若いころの宗一郎。
その弟、征臣。
そして、もう一人。
三崎小春の父親だった。
宗一郎は写真を見つめた。
そして、静かに呟いた。
「……三崎君」
その声には、深い後悔が混じっていた。
「君との約束を、私は守れなかった」
窓の外では、雨が降り続いていた。
六年前に始まった秘密。
それが今、朔と小春の未来を再び揺るがそうとしていた。
