冷たい華道家は、私だけに花を乱す


京都華道展まで、あと七十五日。
久遠朔の出展資格を審査する会議は、都内の小さな会議室で開かれた。
出席者は七人。
華道展の運営委員が五人と、朔、それから彼の代理人として同席する弁護士だった。
私はその場にいなかった。
花乃井の仕事があったからだ。
それに、朔自身が言ったのだ。
「これは、僕の問題です。自分で説明したい」
私はその言葉を尊重することにした。
ただ、朝、彼に一本だけ電話をかけた。
「緊張してる?」
『少し』
「珍しいね」
『人前で花を生けるのは平気なんですが』
「うん」
『自分のことを説明するのは、苦手です』
私は少し笑った。
「だったら、花を生けるつもりで話せば?」
『……どういう意味ですか』
「余計な言葉を増やさずに、大切なことだけ残すの」
電話の向こうで、朔が小さく笑った。
『なるほど』
「それ、あなたの得意なことでしょう」
『はい』
少し沈黙があった。
そして、朔が言った。
『小春』
「何?」
『終わったら、会いに行ってもいいですか』
「いいよ」
『抱きしめても?』
私は思わず笑った。
「まだ始まってもいないでしょう」
『予約です』
「抱きしめるのに予約が必要なの?」
『あなたの予定を尊重したいので』
私は吹き出した。
「……じゃあ、予約を受け付けます」
『ありがとうございます』
その声があまりにも嬉しそうだったので、私まで笑ってしまった。
電話を切ったあと、私は店先の花を並べた。
初夏の光がガラス越しに差し込んでいる。
花乃井には、少しずつ活気が戻り始めていた。
新しい定期装花の注文が三件増えた。
先日の展覧会を見たという客も訪れるようになった。
ただ、経営が安定したわけではない。
九条グループの関連会社が所有する建物の賃貸借契約は、まだ協議中だった。
店長は弁護士に相談し、契約更新を拒絶するには法律上の要件があることや、賃料の変更も一方的な通知だけで決まるものではないことを確認していた。
それでも、争いが長引けば費用も時間もかかる。
私たちは、売上を増やしながら、交渉を続けるしかなかった。
午前十時。
一人の男性が店に入ってきた。
年齢は四十代後半くらい。
薄い灰色の着物に、黒い羽織。
背筋が伸び、物腰は柔らかい。
けれど、目だけが妙に鋭かった。
「いらっしゃいませ」
私が声をかけると、男性は店内を見回した。
「ここが花乃井ですか」
「はい」
「三崎小春さんはいらっしゃいますか」
私は少し驚いた。
「私ですが」
男性は微笑んだ。
「初めまして」
そして、名刺を差し出した。
『久遠流副家元 久遠征臣』
私は息を止めた。
朔の叔父。
久遠宗一郎の弟。
名前だけは聞いていた。
「……初めまして」
私は頭を下げた。
征臣は店内の花を眺めた。
「いい店ですね」
「ありがとうございます」
「特に、あの百合」
彼は店先を指さした。
「少し傾いているでしょう」
私は頷いた。
「はい」
「直さないんですか」
「自然な向きなので」
征臣は笑った。
「なるほど」
そして、私を見た。
「朔が気に入るわけだ」
私は黙った。
征臣はゆっくり歩き、白い百合の前で立ち止まった。
「朔は昔から、完璧な花を求める子でした」
「……」
「少しでも曲がった枝は使わない。傷んだ葉は残さない」
彼は花弁に触れないよう、手を近づけた。
「美しいものだけを選び続けてきた」
私は静かに答えた。
「今は、少し違うと思います」
征臣が振り返った。
「ほう」
「曲がった枝も、傷んだ花も、使い方によっては魅力になります」
彼はしばらく私を見つめた。
そして、微笑んだ。
「面白いことを言いますね」
私は何も言わなかった。
征臣は名刺入れをしまった。
「実は、お願いがあって来ました」
「何でしょう」
「朔の京都出展を、辞退するよう説得していただきたい」
私は息を止めた。
「……どうしてですか」
征臣は穏やかに答えた。
「彼のためです」
私はその言葉を聞いて、胸の奥が冷たくなった。
まただ。
朔のため。
久遠流のため。
将来のため。
そう言いながら、誰もが彼の意思を無視しようとする。
「朔さんは、出展を希望しています」
私は答えた。
征臣は頷いた。
「知っています」
「だったら、私から辞退を勧める理由はありません」
彼は少し笑った。
「若いですね」
私は黙った。
「気持ちだけで、物事が動くと思っている」
「そうは思いません」
私は静かに答えた。
「だから、予算も運搬方法も、現実的に考えています」
征臣の笑顔が、わずかに薄くなった。
「……なるほど」
彼は私を見つめた。
「では、もう一つだけ」
「はい」
「朔の右手のことは、ご存じですね」
私は息を止めた。
「……はい」
「彼の手は、長時間の制作に耐えられない」
「医師と相談しながら、方法を考えています」
征臣は小さく息を吐いた。
「無理をすれば、華道家としての将来を失うかもしれない」
私は何も言えなかった。
「あなたが本当に朔を愛しているなら」
彼は静かに続けた。
「身を引く勇気も必要ではありませんか」
私は征臣を見つめた。
そして、ゆっくり答えた。
「朔さんの身体を大切にしたいと思っています」
「……」
「でも、何をするかは、本人が決めることです」
征臣の目が細くなった。
私は続けた。
「私は、医師の指示を守るよう勧めます。必要なら制作を中止することにも賛成します」
「……」
「でも、叔父様の都合で諦めさせるつもりはありません」
長い沈黙。
征臣は私を見つめた。
そして、ゆっくり微笑んだ。
「……朔が惚れるわけですね」
私は少し顔が熱くなった。
けれど、目を逸らさなかった。
征臣は頭を下げた。
「失礼しました」
そして、店を出ていった。
私はしばらく動けなかった。
背中に冷たい汗が流れていた。
店長が奥から出てきた。
「……今の人、誰?」
私は答えた。
「朔のおじさんです」
店長は少し眉を寄せた。
「何だか、怖い人ね」
私は頷いた。
「……はい」
店長は私の肩を軽く叩いた。
「小春ちゃん」
「はい」
「あなた、よく言ったわ」
私は驚いた。
「聞こえてました?」
「途中からね」
店長は笑った。
「でも、気をつけなさい」
私は頷いた。
「……はい」
そのころ。
朔は会議室で、運営委員たちと向き合っていた。
「久遠さん」
委員長が口を開いた。
「五年前の事故について、説明してください」
朔は静かに頷いた。
「はい」
彼は用意した資料を机に置いた。
「まず、相馬和彦氏の転落事故について」
落ち着いた声だった。
「当時、私は十七歳でした。展覧会の準備中に口論となり、腕をつかまれた際、振り払いました」
委員たちは黙って聞いていた。
「その結果、相馬氏が階段から転落し、怪我を負いました」
朔は頭を下げた。
「故意に突き飛ばしたわけではありませんが、私の行動が事故につながったことは事実です」
そして、顔を上げた。
「その責任は、今も感じています」
委員長は資料を見た。
「相馬氏からは、すでに訂正の説明書が提出されています」
朔は頷いた。
「はい」
「では、なぜ今になって、この問題が再び持ち上がったのでしょう」
朔は少し黙った。
そして、静かに答えた。
「久遠流の後継者を辞退したことが、関係していると思います」
会議室が静かになった。
委員の一人が尋ねた。
「内部対立ということですか」
「断定はできません」
朔は答えた。
「ただ、私が個人で活動することを快く思わない人がいるのは事実です」
委員長は頷いた。
「わかりました」
そして、別の資料を取り上げた。
「もう一点、確認します」
「はい」
「あなたは今回、共同制作者を予定しているそうですね」
朔は頷いた。
「はい」
「三崎小春さんという方ですか」
「はい」
委員の一人が眉を寄せた。
「彼女は、久遠流の門下生ではないと聞いています」
「そうです」
「華道の正式な資格もない」
「はい」
「それで、共同制作が可能だと?」
朔は静かに答えた。
「可能です」
委員は少し笑った。
「理由を聞かせてください」
朔は一枚の写真を取り出した。
先日の展覧会で、生け直した作品だった。
『それでも咲く』。
折れた枝。
白い花。
赤い花が一輪。
委員たちは写真を見つめた。
朔は続けた。
「この作品は、三崎さんと一緒に制作しました」
「……」
「私は長い間、花を技術として捉えていました」
彼は写真を見た。
「しかし、彼女は違います」
委員長が尋ねた。
「どう違うのですか」
朔は静かに微笑んだ。
「花を、命として見ています」
会議室が静かになった。
「傷ついた枝を捨てるのではなく、そこにある美しさを探す」
彼は続けた。
「私が持っていない感性です」
委員の一人が尋ねた。
「つまり、彼女から学んでいると?」
朔は頷いた。
「はい」
「久遠流の天才と呼ばれたあなたが?」
朔は少し笑った。
「天才かどうかは、わかりません」
そして、まっすぐ答えた。
「ただ、学ぶことをやめたら、華道家として終わりだと思っています」
長い沈黙。
委員長は資料を閉じた。
「……よくわかりました」
朔は頭を下げた。
「ありがとうございます」
審査は二時間近く続いた。
結果は後日通知されることになった。
会議室を出ると、朔は深く息を吐いた。
右手が少し痛んでいた。
緊張すると、無意識に拳を握りしめてしまう。
彼は手を開き、ゆっくり指を動かした。
そのとき。
背後から声がした。
「立派だったな」
振り返る。
久遠征臣が立っていた。
朔の表情が変わった。
「……叔父さん」
征臣は微笑んだ。
「久しぶりだ」
朔は頭を下げた。
「ご無沙汰しています」
征臣は彼の右手を見た。
「痛むのか」
「……少し」
「無理はするな」
朔は黙った。
征臣は続けた。
「おまえには、才能がある」
「……」
「だからこそ、惜しい」
朔は顔を上げた。
「何がですか」
征臣は静かに答えた。
「一人の女性のために、すべてを失おうとしていることだ」
朔の目が細くなった。
「……小春のことですか」
「そうだ」
征臣は頷いた。
「彼女にも、今日会ってきた」
朔の表情が消えた。
「……何を話したんですか」
「少し、忠告を」
長い沈黙。
朔は静かに言った。
「彼女には、関わらないでください」
征臣は笑った。
「怖い顔をするな」
「叔父さん」
朔の声が低くなった。
「僕のことなら、何を言われても構いません」
「……」
「でも、彼女を利用することは許しません」
征臣はしばらく朔を見つめた。
そして、静かに笑った。
「……やはり、変わったな」
朔は答えなかった。
征臣は続けた。
「昔のおまえは、誰にも逆らわなかった」
「……」
「父親の言うとおりに花を生け、与えられた仕事をこなしていた」
彼は一歩近づいた。
「それが今では、恋人のために家を捨てる」
朔は静かに答えた。
「家を出たのは、僕自身の意思です」
征臣の眉が動いた。
「……ほう」
「小春のためだけではありません」
朔は続けた。
「自分の花を生けたいからです」
長い沈黙。
征臣は微笑んだ。
「ならば、証明してみせろ」
朔は黙った。
征臣は静かに言った。
「京都で、おまえの花を見せてもらおう」
そして、背を向けた。
「ただし」
彼は振り返らずに続けた。
「出展できれば、の話だが」
朔はその背中を見つめた。
胸の奥に、冷たいものが広がっていった。
夕方。
私は花乃井の前で、朔を待っていた。
彼は約束の時間より少し早く現れた。
濃紺の着物。
白い足袋。
落ち着いた足取り。
道行く人が、思わず振り返る。
私は小さく手を振った。
「朔」
彼は私を見つけると、微笑んだ。
「小春」
近づいてきた彼は、少し疲れていた。
「お疲れさま」
「ありがとうございます」
私は彼の顔を見た。
「どうだった?」
「話せることは、全部話しました」
「うん」
「結果は、まだです」
私は頷いた。
「そっか」
朔は少し笑った。
「でも、後悔はありません」
私は安心した。
「よかった」
その瞬間。
朔が少しだけ身を乗り出した。
「……小春」
「何?」
「予約していた件ですが」
私は首を傾げた。
「予約?」
彼は真剣だった。
「抱きしめてもいいですか」
私は思わず笑った。
「……覚えてたの?」
「もちろん」
「ここ、店の前だよ」
朔は周囲を見た。
そして、少し考えた。
「では、場所を変えましょう」
私は吹き出した。
「そういうところ、真面目すぎる」
彼は少し困った顔をした。
「……駄目ですか」
私は彼の手を取った。
「少しだけなら」
朔の顔が明るくなった。
そして、私をそっと抱きしめた。
通りの向こうで、誰かが小さく笑った。
私は顔が熱くなった。
けれど、不思議と嫌ではなかった。
朔の胸は温かかった。
白檀の香りがした。
彼は耳元で囁いた。
「……会いたかった」
私は小さく答えた。
「朝、電話したでしょう」
「声だけでは足りません」
「欲張り」
「はい」
彼は少し笑った。
「あなたのことになると、そうみたいです」
私は胸が熱くなった。
そして、そっと彼の背中に腕を回した。
「……私も、会いたかった」
朔の腕に、少し力が入った。
「……小春」
「何?」
「もう一度」
私は笑った。
「言わない」
「お願いします」
「調子に乗るから」
彼は小さく笑った。
「もう、十分乗っています」
私たちは顔を見合わせて笑った。
その夜。
朔は私を、ある場所へ連れていった。
都内の古い建物だった。
大きな窓。
高い天井。
使われなくなった倉庫を改装したような空間。
「……ここ?」
私が尋ねると、朔は頷いた。
「はい」
「何の場所?」
「貸しアトリエです」
私は驚いた。
「借りたの?」
「まだ契約していません」
彼は少し笑った。
「見学だけです」
中に入る。
床はコンクリート。
壁は白く塗られている。
奥には水道設備があった。
大きな作品を作るには、十分な広さだった。
私は思わず声を上げた。
「……すごい」
朔は微笑んだ。
「ここなら、花を生けられます」
「うん」
「ただ」
彼は少し困った顔をした。
「家賃が高いんです」
私は笑った。
「でしょうね」
朔は頷いた。
「だから、考えています」
「何を?」
「作品を作るだけでなく、仕事として成り立たせる方法です」
私は彼を見た。
「……仕事?」
「はい」
朔は窓際へ歩いた。
「今までは、久遠流の仕事をしていました」
「……」
「でも、これからは、自分で仕事を探さなければなりません」
彼は振り返った。
「個人の依頼も受けたいと思っています」
私は頷いた。
「いいと思う」
「それから」
「うん」
「小さな教室も」
私は驚いた。
「華道教室?」
「はい」
朔は少し笑った。
「ただ、今までのような厳しい教室ではなく」
「……」
「誰でも花を楽しめる場所にしたい」
私は胸が温かくなった。
「素敵だね」
朔は微笑んだ。
「あなたが、そう言ってくれると思いました」
私は少し考えた。
そして、部屋を見回した。
「でも、ここはまだ広すぎるかも」
朔は頷いた。
「僕もそう思っています」
「最初は、もっと小さく始めてもいいんじゃない?」
「……」
「花乃井の定休日に、店の一角を使うとか」
朔が顔を上げた。
「……いいんですか」
「店長に相談してみないとわからないけど」
私は笑った。
「いきなり大きなアトリエを借りるより、現実的でしょう」
朔はしばらく考えた。
そして、微笑んだ。
「……そうですね」
私は頷いた。
「まず、続けられる形を作ろう」
彼は私を見つめた。
「小春」
「何?」
「あなたは、本当に頼りになりますね」
私は笑った。
「花屋の店員ですから」
朔は首を横に振った。
「それだけではありません」
「……」
「僕の知らない世界を、たくさん知っている」
私は少し照れた。
「そんなことないよ」
彼は静かに言った。
「あなたを、尊敬しています」
私は何も言えなかった。
好きだと言われることには、少しずつ慣れてきた。
けれど。
尊敬している。
その言葉は、思いがけず胸に深く響いた。
私は彼を見つめた。
「……ありがとう」
朔は微笑んだ。
「本当です」
私たちは建物を出た。
外は、すっかり暗くなっていた。
街灯が道を照らしている。
私は朔の手を取った。
「ねえ」
「はい」
「もし、京都に出られなくても」
彼は私を見た。
「……」
「花を生ける場所は、きっとあるよ」
朔はしばらく黙っていた。
そして、静かに頷いた。
「……はい」
私は笑った。
「だから、焦らないで」
彼は微笑んだ。
「あなたといると、不思議ですね」
「何が?」
「未来が、怖くなくなる」
私は胸が熱くなった。
「……私も」
朔は私の手を握り直した。
そして、少しだけ顔を近づけた。
「小春」
「何?」
「キスしてもいいですか」
私は周囲を見た。
人通りは少なかった。
「……少しだけ」
朔は微笑んだ。
そして、私の唇にそっと触れた。
短いキス。
けれど、離れたあとも、彼は私を見つめていた。
「……小春」
「何?」
「もう一度」
私は笑った。
「欲張り」
「はい」
彼は真剣だった。
「あなたに関しては、際限がないようです」
私は顔が熱くなった。
「……困った人」
朔は微笑んだ。
「知っています」
私は彼の胸を軽く押した。
「帰ろう」
「はい」
私たちは歩き始めた。
そのとき。
朔のスマートフォンが鳴った。
彼は画面を見た。
表情が変わった。
「……事務局からです」
私は足を止めた。
「京都の?」
「はい」
朔はメールを開いた。
私は彼の横顔を見つめた。
長い沈黙。
そして。
彼は静かに息を吐いた。
「……出展が認められました」
私は目を見開いた。
「本当?」
朔は頷いた。
「はい」
私は思わず彼の腕をつかんだ。
「よかった!」
彼は少し驚いた顔をした。
そして、ゆっくり微笑んだ。
「……はい」
私は嬉しくて、思わず彼に抱きついた。
朔の身体が一瞬固まる。
そして、優しく抱きしめ返してくれた。
「……小春」
「おめでとう」
彼は目を閉じた。
「ありがとうございます」
その声は、少し震えていた。
私は彼の胸に顔を埋めた。
よかった。
本当によかった。
けれど。
メールには、もう一つ重要な条件が記されていた。
『なお、共同制作者の参加については、正式な登録手続きおよび制作体制の申告が必要となります。』
私は顔を上げた。
「……どういうこと?」
朔は画面を見つめた。
「僕だけでなく、あなたも正式に登録する必要があるようです」
私は息を止めた。
「……私も?」
「はい」
朔は私を見た。
「共同制作者として」
私は何も言えなかった。
京都華道展。
全国の流派が集まる舞台。
そこに、自分の名前が載る。
考えただけで、胸が高鳴った。
けれど、同時に不安もあった。
私は華道家ではない。
花屋の店員だ。
正式な資格も、実績もない。
そんな私が、朔と同じ場所に立っていいのだろうか。
「……朔」
「はい」
「私で、本当にいいの?」
彼は少し驚いた顔をした。
そして、静かに微笑んだ。
「あなたがいいんです」
「……」
「僕は、あなたと一緒に作品を作りたい」
その声は、揺るぎなかった。
私は胸が熱くなった。
そして、ゆっくり頷いた。
「……わかった」
朔の顔が明るくなった。
「本当に?」
「うん」
私は笑った。
「やるからには、ちゃんと勉強する」
朔は微笑んだ。
「僕もです」
私たちは顔を見合わせた。
そして、笑った。
その夜。
私は家に帰ると、京都華道展について調べ始めた。
過去の作品。
出展者。
会場の広さ。
審査基準。
どれも、想像以上に本格的だった。
私はノートを開いた。
花材の種類。
水揚げ方法。
温度管理。
運搬時の注意点。
一つずつ書き出していく。
気づけば、深夜になっていた。
スマートフォンが鳴った。
朔からだった。
『まだ起きていますか。』
私は返信した。
『京都の勉強中。』
すぐに返事が来た。
『無理しないでください。』
私は思わず笑った。
『それ、朔に言われたくない。』
少しして、返信が来た。
『反省しています。』
私は笑った。
そして、もう一通届いた。
『小春。』
『何?』
『今日、出展が決まったとき、最初にあなたの顔が浮かびました。』
私は画面を見つめた。
続けて、メッセージが届いた。
『これから先、嬉しいことがあったら、最初にあなたに伝えたい。』
胸が温かくなった。
私は少し考えた。
そして、返信した。
『私も。』
すぐに返事が来た。
『大好きです。』
私は顔が熱くなった。
しばらく迷ってから、送信した。
『私も大好き。』
その瞬間。
電話が鳴った。
朔だった。
私は驚いて出た。
「……もしもし」
『小春』
声が弾んでいた。
「どうしたの?」
『今の、もう一度言ってください』
私は吹き出した。
「……電話までして?」
『はい』
「嫌です」
『お願いします』
私は笑った。
「おやすみなさい」
『小春』
「何?」
『……幸せです』
その声が、あまりにも優しかった。
私は目を閉じた。
「……私も」
電話を切った。
窓の外には、月が浮かんでいた。
京都まで、あと七十四日。
私はノートを閉じた。
そして、静かに呟いた。
「……頑張ろう」
けれど。
そのころ、久遠流の本部では、別の動きが始まっていた。
久遠征臣は、数人の幹部を集めていた。
「朔の出展が認められたそうですね」
一人が言った。
征臣は頷いた。
「ええ」
「どうなさいますか」
征臣は静かに笑った。
「何もしません」
幹部たちは顔を見合わせた。
「……何も?」
「はい」
征臣は窓の外を見た。
「京都で、実力を見せてもらえばいい」
そして、ゆっくり振り返った。
「ただし」
彼の声が低くなった。
「久遠流としても、最高の作品を出します」
幹部の一人が尋ねた。
「誰が制作を?」
征臣は微笑んだ。
「私です」
会議室が静まり返った。
久遠流副家元。
久遠征臣。
四十八歳。
長年、表舞台に立つことの少なかった男。
その彼が、自ら出展するという。
征臣は静かに続けた。
「朔が天才なら、私は三十年の経験を見せましょう」
幹部たちは頷いた。
征臣は机の上に、一枚の構想図を広げた。
巨大な松。
白い菊。
黒い花器。
伝統的な久遠流の技法を極限まで高めた、壮大な作品だった。
征臣は静かに笑った。
「京都で、決着をつけます」
その目には、冷たい光が宿っていた。
そして。
彼は、机の引き出しから一通の封筒を取り出した。
差出人は、京都華道展の運営事務局。
中には、別の書類が入っていた。
『特別審査員候補者一覧』
征臣はその中の一人の名前を指でなぞった。
そして、静かに呟いた。
「……これでいい」
窓の外では、夜風が木々を揺らしていた。
京都華道展。
それは、単なる作品の競演では終わらない。
久遠流の未来を懸けた、静かな戦いになろうとしていた。