「その花、もう死んでいますよ」
背後から聞こえた声は、驚くほど静かだった。
私は手にしていた白い百合を見つめた。
花弁には傷ひとつない。茎も瑞々しい。今朝、市場から届いたばかりの花だ。
「え?」
振り返ると、黒い着物をまとった青年が立っていた。
背が高い。
細身なのに、不思議と存在感がある。
襟元から覗く首筋は白く、すっと通った鼻筋の下には、感情を読み取れない薄い唇。
そして何より、目が綺麗だった。
切れ長の瞳は、夜明け前の湖みたいに冷たく澄んでいる。
「聞こえませんでした?」
青年は首をわずかに傾けた。
「その花は、もう死んでいると言ったんです」
「でも、まだ綺麗です」
私が言い返すと、彼は初めてこちらをまともに見た。
「綺麗なら、生きているんですか」
その問いに、私は答えられなかった。
東京・青山。
創業七十年の老舗生花店『花乃井』。
私はそこで働く二十四歳の店員、三崎小春。
短大を卒業してから四年間、花に囲まれて生きてきた。
花が好きだった。
それだけで、この仕事を選んだ。
毎朝五時に起き、市場で花を仕入れ、店先に並べる。
冬は指先が割れ、夏は冷房の効いた作業場と炎天下の配達を行き来する。
給料は決して高くない。
それでも、花束を受け取った人が笑ってくれる瞬間が好きだった。
だからこそ、目の前の青年の言葉には腹が立った。
「花は、枯れるまで生きています」
青年は黙っていた。
「最後まで綺麗に咲こうとしているんです。死んでいるなんて、簡単に言わないでください」
言ってしまってから、しまったと思った。
相手は客だ。
しかも、どう見ても普通の客ではない。
黒い着物は上質な絹で、帯には銀糸の細い模様が走っている。
腕時計はしていない。
装飾品もない。
けれど、身につけているものすべてが、恐ろしく高価そうだった。
青年は私の手元を見た。
「貸して」
「え?」
「その百合」
差し出すと、彼は細長い指で茎を受け取った。
指先が一瞬触れた。
冷たい。
そう思った次の瞬間、彼は百合の茎を大胆に切り落とした。
「ちょっと!」
青年は構わず、店先のガラス花器から数本の枝を抜いた。
百合を短く挿し、枝を一本だけ斜めに添える。
それだけだった。
けれど。
「……綺麗」
思わず声が漏れた。
さっきまで単なる一輪の百合だったものが、まるで風の吹く場所に咲いているように見えた。
花の向き。
茎の角度。
枝との距離。
そのすべてが、恐ろしく自然だった。
青年は百合から手を離した。
「花を長持ちさせることと、生かすことは違います」
「……」
「この花は、今朝からずっと下を向いていた。光のある方向に顔を向けたがっていたのに」
私は息を呑んだ。
確かに、彼が花器に挿し直した百合は、窓から差し込む朝日を受けていた。
「花の言うことを聞いてあげてください」
青年はそう言って、店を出ようとした。
「あの!」
思わず呼び止める。
彼が振り返った。
「お名前は?」
青年は少しだけ目を細めた。
「知ってどうするんですか」
「また来ていただけたら、今度は私がもっと綺麗に生けてみせます」
自分でも驚くほど負けず嫌いな言葉だった。
青年は数秒、私を見つめた。
そして、ほんのわずかに笑った。
本当に、ほんのわずか。
それなのに。
胸が妙な音を立てた。
「久遠、朔」
「くおん……さく?」
「二十二歳。職業は華道家」
それだけ言って、彼は店を出ていった。
残された私は、しばらく動けなかった。
久遠朔。
その名前を、私は知っていた。
華道界の名門『久遠流』。
三百年以上続く流派の次期家元。
十六歳で史上最年少の師範となり、十八歳でパリの国際芸術展に招待された天才。
国内外の美術館で作品を発表し、その才能を『百年に一人』と評された青年。
そして、もう一つ。
彼には有名な噂があった。
他人を愛さない。
誰にも執着しない。
どんなに美しい女性から告白されても、まったく興味を示さない。
花以外には心を動かされない男。
その人物が、どうして小さな花屋に現れたのだろう。
「小春ちゃん!」
奥から店長が飛び出してきた。
「い、今の人、久遠朔先生じゃない?」
「そうみたいです」
「何を話してたの?」
「花が死んでいるって……」
店長の顔色が変わった。
「まさか、失礼なこと言ってないでしょうね」
私は目を逸らした。
「ちょっとだけ」
「何を言ったの!」
「簡単に死んでるなんて言わないでくださいって」
店長は両手で頭を抱えた。
「終わった……」
「え?」
「うち、久遠流の展覧会に花材を納める契約を取ろうとしてたのよ!」
「……え」
「三年越しの話だったのに!」
私は百合を見つめた。
朝日を浴びて咲くその花は、さっきよりずっと美しく見えた。
まさか、その青年が翌日も現れるとは思わなかった。
ましてや、彼が私の人生を根底から変えることになるなんて。
そのときの私は、まだ何も知らなかった。
翌朝。
開店準備をしていると、店の前に黒い車が止まった。
運転手が後部座席の扉を開ける。
降りてきたのは、昨日の青年だった。
今日は濃紺の着物。
帯は白。
長い前髪が少しだけ目にかかっている。
彼は店に入るなり、私を見た。
「昨日の花」
「はい?」
「どうなりました?」
「元気ですよ」
私は百合を指さした。
彼は近づき、花をじっと見つめた。
そして小さく頷いた。
「よかった」
昨日とは違う、柔らかい声だった。
「今日は何をお探しですか?」
「あなた」
私は固まった。
「……はい?」
「あなたを探しに来ました」
彼は当たり前のように言った。
「今日、時間あります?」
「仕事がありますけど」
「何時に終わります?」
「六時です」
「じゃあ、六時に迎えに来ます」
「待ってください。どういうことですか?」
青年は私の目を見た。
「花を生けてほしいんです」
「私が?」
「はい」
「久遠先生に?」
「先生はやめてください。朔でいい」
あまりにも自然に言うので、一瞬、友人同士の会話のような気がした。
「でも、私はただの花屋の店員です」
「知っています」
「あなたは天才華道家でしょう?」
「そう呼ばれていますね」
「だったら、どうして私に?」
彼は少し考えるように目を伏せた。
長い睫毛が影を落とす。
「昨日、あなたが怒ったから」
「怒った?」
「花のために、あんなに本気で怒る人を初めて見ました」
彼の瞳が、ゆっくり私を捉えた。
「だから、もっと見たくなった」
「何をですか」
「あなたが、何を綺麗だと思うのか」
胸が不意に苦しくなった。
彼は続けた。
「断ってもいいです」
その言葉に、私は少し安心した。
けれど次の瞬間。
「ただ、断られたら、明日も来ます」
「……え?」
「明後日も。その次の日も」
冗談を言っている顔ではなかった。
「迷惑ですか」
静かな声。
真剣な瞳。
私は思わず笑ってしまった。
「少しだけ」
彼は目を伏せた。
「そうですか」
なぜだろう。
ひどく寂しそうに見えた。
「でも、今日だけなら」
そう言うと、彼が顔を上げた。
「いいんですか」
「はい。ただし六時半にしてください。片づけがありますから」
その瞬間。
彼は笑った。
昨日とは違う。
誰が見てもわかる、綺麗な笑顔だった。
「わかりました」
そして、少しだけ身をかがめる。
私と視線の高さを合わせるように。
「小春さん」
「……はい」
「約束ですよ」
どうして私の名前を知っているのか。
聞こうとしたときには、彼はもう背を向けていた。
店を出る直前、彼が振り返る。
「それと」
「はい?」
「昨日の百合」
「百合がどうかしました?」
「花言葉、知っていますか」
「白い百合は、純潔とか威厳とか……」
「それだけじゃない」
彼は薄く笑った。
「あなたに会うまで、僕は花を綺麗に生けることしか考えていなかった」
「……」
「でも昨日、初めて思ったんです」
彼の視線が、私の手元に落ちた。
「花を誰かに贈りたいって」
胸の奥が、きゅっと縮まった。
「じゃあ、また六時半に」
彼は去っていった。
私はしばらく、その場から動けなかった。
そのとき、レジの横に一枚の封筒が置かれていることに気づいた。
白い和紙。
封はされていない。
中には一枚のカードが入っていた。
墨で書かれた美しい文字。
『三崎小春様』
その下には、たった一行。
『あなたのために、花を生けたい。』
そして、裏側。
そこには、もう一つの言葉があった。
『今度こそ、見失わないように。』
私は首を傾げた。
今度こそ?
どういう意味だろう。
昨日、初めて会ったはずなのに。
けれど、私には知る由もなかった。
久遠朔が私の名前を知っていた理由。
彼がこの花屋に現れた本当の目的。
そして。
彼が五年間、たった一人の女性を探し続けていたことを。
