「おじいちゃん、お客様だよー」
少年は事務所のドアを無遠慮に開け、中に声をかけた。
事務所は先日の応接室と別の部屋にあり、デスクやキャビネットが並んでいる。
「ヒカル。砂のついたボールは置いてきなさい」
「いいやないの、どうせ掃除は私がするんやけ」
低いだみ声に応じたのは、昨日聞いた秘書の山口さんの声だ。
「お客様って、どなた?」
部屋の中から、山口さんの顔がひょっこりと顔を出す。
「ーーあら、まあ」
山口さんは、上品な顔に笑顔を浮かべた。笑うのを堪えているような笑顔だ。
「神崎さんってば、お上手ねぇ。先にヒカルを懐かせたんね」
「懐いてなんかないよ」
ヒカルと呼ばれた少年は、頬をやや赤くして唇を尖らせた。
「お兄さん、バスケ上手いんだ。口先だけの誰かとは大違い」
「あら、あなたのお父さんも、中高生のときにはそこそこ上手だったんよ」
「だって、フリースローもろくに入らないじゃない。練習相手にもなってくれないし」
ヒカルは言って、きびすを返した。
「じゃ、後はよろしくね。僕、もう少し練習するから。ーーねぇ、お兄さん」
ヒカルは俺の顔を見て、にこりと笑った。吊り上がり気味の目が少し愛嬌を帯びる。
「おじいちゃんとの話が終わったら、1on1しようよ。勝負してみたい」
俺は苦笑した。
「ーーそうだなぁ」
事務所の中で、社長の山口さんが、秘書である妻から耳打ちを受けて顔を強張らせるのが見える。
「おじいちゃんと話ができたら、な」
ヒカルは首を傾げながら、靴を乱暴に履いて外へ出て行った。
事務所の入口前に、山口社長ーー福岡織物組合の会長が歩み出る。
「ーー福岡織物組合会長の山口です」
山口会長は、全く歓迎する色もなく名乗った。
じろりと俺を睨むように見据える。
「あんたが、人たらしの神崎とかいう男かね」
俺の後ろで江原さんが噴き出した。俺は小さく睨みつける。ーーお前が笑ってどうする。
「どうでしょう。そのつもりはないんですがーーそれはそれとして、山口会長と仲良くなれればいいなとは思っています」
俺は笑顔を浮かべて応じた。
山口会長は、不機嫌そうな表情をますます引き締めた。
「ヒカルは、昨年に東京から越してきたばかりで」
昨日と同じ応接室に通され、椅子に座るなり山口会長が始めたのは、孫についての話だった。
「どおりで、訛りがないんですね」
俺が納得すると、じろりと大きな目がこちらを見やる。威圧感があるが、もともとそういう力のある目なのかもしれない。
「中学生になるなり、バスケをやるち言い始めてな。東京では母親の意向でバイオリンを習っとったけん、球技はさせんかったんよ。指を痛めるけ。ーーあの子の父親も、学生時代やりよったけん、憧れよったっちゃろ」
ぽつりぽつりと話す。
「なかなか学校に馴染めんようでな」
「お父さん、そんなことお聞かせしたって」
「花子。横から口出しすな」
「はぁい、すみませんね。ーー神崎さんも」
花子さんは苦笑しながら俺に湯呑みをひと押し差し出した。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
俺は微笑んで湯呑みを手にした。先程の北九州織物組合で出されたそれとは、香りも温度も全然違う。
「美味しい」
一口啜ってしみじみ呟くと、花子さんはふふ、と笑った。
「神崎さんて、時々若年寄みたいやね」
「そうですか?初めて言われました。光栄です」
俺が笑うと花子さんも笑い、山口会長の横顔を見やる。
「ね、お父さん。今までの人とはちょっと違うやろ」
山口会長は、ふんと鼻で答えて目を逸らした。
「だからって、気を許して痛い思いをするのは俺たちたい。同じ轍は踏まん」
「おっしゃる気持ちもごもっともです」
江原さんが口を開いた。山口会長がちらりと目を江原さんに向ける。
「……女がでしゃばってすみません」
江原さんが視線に負けて小さくなったが、山口会長は構わず言った。
「知っとうと?昔のこと」
「僭越ながらーー聞きました。北九州織物組合の松島会長に」
山口会長はまたふんと鼻を鳴らし、
「糸治くんは長いものに巻かれるたちやけ」
呟いてから俺に目をやる。
「ーーでも、聞かれもしないことを話すたちでもなかろ」
その強い視線を受け止めて、俺は頷いた。
「はい。ご推察の通り、こちらからお聞きしました。ーー弊社の者の不勉強で、不愉快な思いをさせてしまい、申し訳ありませんでした」
俺が頭を下げると、江原さんも慌ててそれに倣う。
山口会長は何も言わす、頭を下げている俺たちを見ていたが、不意に視線を逸らして嘆息した。
「……もう、11年も前の話だ。それこそ、ヒカルが産まれて、まだ小さかった頃やけ。会社には何も残っとらんかったろう」
俺は頭をますます下げる。
「お恥ずかしい話です。自社のことが分からないなど」
「それが分かっただけでも、あんたは偉い。大きい会社でも、そういうことがあるんぞ、いうことが」
山口会長は目線を外したまま続けた。
「虎の威を借りず、肩書きに囚われず、相手に教えを乞うことは……男には、できるようで、案外できん。その点、女の方が素直に聞いたりするな」
「だって、聞いて分かるなら聞けばいいじゃないですか。ねぇ」
「ふふ、そうですね。私もそうしちゃうかも」
花子さんと江原さんが顔を見合わせて笑う。その二人の笑い声で場が和む。山口会長の目の鋭さも、わずかに和らいだ。
「ーーなるほどな、人たらしか」
山口会長がふ、と笑った。
「まさか、ヒカルを懐かせるとは思わなんだ」
「あの子と会ったのは偶然ですよ。一応、言っておきますけど」
「そうやろうな。ヒカルも、意図を持って近づけば警戒もしたろう」
山口会長は立ち上がった。
「明日の14時。話を聞こう。あんたと、阿久津っちゅう奴は必ず来い。他は好きにせい」
「ありがとうございます」
江原さんと二人で頭を下げると、ただし、と付けたしてにやりと笑う。
「今日はヒカルが満足するまでつき合ってもらおう。それが条件っちゃ」
俺は思わず苦笑した。
「革靴もスーツも砂だらけになりそうですね。ーー分かりました」
山口会長は満足げに笑って頷くと、部屋を出て行った。
「神崎さん。私は一度会社に戻りますね」
「え?なんで」
「だって用があるの、神崎さんだけですもん。先に帰って報告してます」
江原さんは淡々と身支度を整えた。俺はコートと鞄を手にしたままその後ろに続く。
「でも……いいのかなぁ」
江原さんがぼやくのを聞いて、何が、と問うと、呆れたような顔で振り返った。
「なんでもありませーん」
江原さんは不真面目な生徒のように言うと、車へ向かって歩きはじめた。

