「神崎って、何でもできるのね」
俺はコーヒーを入れながら橘の横顔を伺った。
自ら洗い物をすると願い出た橘と二人、台所に立っていると、初めて橘の部屋に泊まった日の翌朝を思い出す。
「そう思ったことはないけどな」
姉も弟も俺より器用で、俺よりいい大学を出た。そう言うと、
「神崎だって、悪い大学じゃないでしょ」
「でも国立じゃねぇし」
周りが国立大卒ばかりなので、普通のレベルがよく分からない。
「大学が一体何だっていうんだろうね」
橘は食器を洗いながら呟いた。
「元カレ、同じ大学だったんだけどね。付き合って別れて付き合って別れてーー何度繰り返したかなぁ」
その手元でかちゃかちゃと食器が音を立てる。
「別れると他の人を探そうと思うんだけど、いっつも大学とか年収とか会社名とか、出すともう連絡が途絶えちゃうの。で、やっぱりダメかーって思ったときに、彼から連絡が来てーー」
「この人じゃないと駄目なんだ、って?」
「うーん、まあ、そんな感じ」
捨てられないパジャマの理由が少し分かって、俺はふぅんと相槌を打った。
「でも、逆に、女側にはないの?自分より劣った男は嫌だ、とか」
「劣ってるって、何を以て量るか、よね」
橘は言いながら考えていた。
「私はたまたま受験に強いだけ。過去問から傾向掴んで問題を解く、そういうことが得意なだけ。生きてくときに必要なスキルはそれだけじゃないでしょ」
ふと俺は思い出した。こういう話しぶりが、隼人の婚約者、香子ちゃんと重なるところだ。
「例えば、神崎みたいに周りを見て盛り上げる力とか、美味しいご飯を作る力とか、誰にでも好かれる力とか……私は十分、尊敬に足ると思ってる」
俺は首を傾げながら、
「それはつまり、俺のことが好きだってこと?」
橘は何も言わずに俺の足を蹴った。
「暴力反対」
「うるさい」
橘の横顔は真っ赤だ。俺は笑って、ドリッパーを引き上げる。
「失礼」
シンクにドリッパーを置くと、コーヒーの匂いが湯気と共に漂った。
「いい匂い」
橘がほっとした顔をする。
「もう終わる?」
「うん。これゆすぐだけ」
橘が最後の一枚をすすぎおわり、水切りカゴに並べた。
俺はコーヒーを二つのコップに注ぎながら、控えめに口を開いた。
「……最初に貸してくれたパジャマさ」
「もう捨てたよ」
即座に返ってきた答えに、俺は驚いて目を上げる。
橘が気の弱そうな笑顔を浮かべて俺の顔を見ていた。
「新しいの買う前に、全部捨てた」
「……下着も?」
俺は橘の顔を覗き込みながら、いたずらっぽく問う。橘は気恥ずかしそうに頷いた。
「下着も」
俺は笑った。
「そっか」
顔を赤らめた橘の頭に軽く手を置くと、コーヒーを注ぎ終えたカップの一つを渡した。
「はい。お疲れ」
「ありがとう」
俺と橘は立ったまま、静かにコーヒーに口をつけた。香ばしい苦みが口の中に広がる。
「……神崎」
不意に、橘が言った。カップの縁に口をつけたままだが、目の端が赤い。
「好きーー」
一瞬の間の後、
「かもしれない。あんたのこと」
俺は噴き出した。
「かもしれない、じゃねぇだろ。断定しろよ、意地っ張り」
「あ、あんたこそ、はっきり言いなさいよ。私のことーー」
弾かれたように顔を上げ、文句を言う橘の唇を、俺のそれで塞いだ。
「好きだ。ーーこれで文句ないか?」
橘の顔は、これ以上ないくらい真っ赤になった。

