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その日、伊久間くんが事務所へ戻ってきたのは夕方を過ぎてからだった。
「ただいま」
いつもと変わらない声だったけれど、コートの裾が少し汚れている。靴にも乾きかけた泥がついていた。
「おかえり。現場、遠かったの?」
「まあ、ちょっとね」
伊久間くんはそれだけ答えて、自分の机へ向かいながらコートを脱いだ。そして机の上に置かれた書類へ手を伸ばしたとき、指先が赤くなっているのが見えた。
「外寒かった? 手、冷たいでしょ。赤くなってる」
「……今日、やばい。風花舞ってるよ」
「何の調査で遠くまで行ってたの?」
冷たそうな赤い手が気になって、いつもはあまり気にならなかった伊久間くんの仕事を尋ねた。
「浮気男待ち」
けれど、軽い調子で返されてしまった。探偵の仕事なら、外で何時間も待つことくらいあるのだろう。
私はそれ以上聞かず、手元の数字へ視線を戻した。
