『勿応草は僕を忘れない』

毎日欠かさずメッセージを交わすわけではない。
けれど、一週間に一度か二度、ふと思い出したように送られてくる写真や、たった一行の言葉。
『今日の模試、最悪だった』
『そっちは?』
『まあまあ。英語だけちょっと上がった』
そんな、取るに足らないやり取り。
教室の隅で一人スマホを眺めているとき、その画面の向こうに同じように誰にも言えない溜め息を吐いている花音がいるのだと思うと、胸の奥の冷たい塊が少しずつ溶けていく気がした。
一方で、僕の心には焦りに似た感情も芽生えていた。
花音は、部活動の過酷な練習に耐えながら、自分の足で前へ進もうとしている。
それに引き換え、僕の毎日は相変わらず平坦で、変化を恐れて自分の殻に閉じこもったままだ。
「……このままでいいわけないよな」
ある日の放課後、誰もいなくなった教室で、僕は一人呟いた。
昔の僕は、花音の後ろをただついていくだけの子供だった。
でも、もしこれから先も彼女の隣にいたいと願うなら――今の「何もしない自分」から脱却しなければならない。彼女に恥ずかしくない自分、彼女の苦しみを少しでも受け止められる自分になりたかった。
僕は、ずっと避けていた進路希望調査の用紙を取り出し、ペンを走らせた。
ただやり過ごすだけだった授業に意識を向け、ノートを丁寧に取るようにした。一人で過ごす時間は変わらないけれど、その時間は「逃避」ではなく、「自分を磨く時間」へと意味を変えていった。
そんなある週末の夕方、花音から短くメッセージが届いた。
『今日、久しぶりに部活休みだった』
『公園の近くの図書館にいるんだけど、悠ちゃんってこのへん通ったりする?』
心臓が跳ねた。
僕は上着を羽織ると、行き先も告げずに家を出た。
夕暮れ時の図書館のロビー。
自動ドアをくぐると、窓際の閲覧席に彼女の姿があった。
机の上に参考書を広げ、真剣な眼差しでペンを走らせている。
コートの上の真直ぐな姿とはまた違う、静かでひたむきな横顔。
「……花音」
声をかけると、彼女はハッとしたように顔を上げ、僕を認めてパッと表情を緩めた。
「あ、悠ちゃん。本当に来てくれたんだ」
僕たちは図書館を出て、近くの公園へと歩いた。
かつて幼い僕たちが砂場で遊んでいた場所。遊具の配置は少し変わっていたけれど、風のにおいはどこか懐かしかった。
ベンチに並んで座り、温かい缶コーヒーを分け合う。
「最近、悠ちゃん変わったよね」
缶を両手で包み込みながら、花音が出した言葉に僕は驚いて振り返った。
「え、僕が?」
「うん。LINEの返事とかもそうだし……なんていうか、前よりちゃんと前を見てる感じがする」
花音は遠くの街灯を見つめながら、静かに続けた。
「私ね、中学でいろいろあってから、ずっと『自分は一人だ』って思ってたの。でも、悠ちゃんとまた繋がって、たわいもない話をしてるうちに、なんか……一人で抱え込まなくてもいいのかなって思えるようになったんだ」
彼女の言葉が、秋の澄んだ空気に染み込んでいく。
「私も頑張らなきゃって思えるの。悠ちゃんが、ちゃんと自分の時間を生きてるのを感じるから」
それは、僕が彼女に対して抱いていた感情そのものだった。
僕が彼女の姿に影響を受けて一歩を踏み出したように、彼女もまた、僕の存在を支えにして前を向こうとしてくれていた。
一方通行の憧れや、過去への執着じゃない。
今、この場所でお互いが互いの光になって、それぞれの足を動かしている。
「僕もだよ」
僕は缶コーヒーを握りしめ、まっすぐに彼女の横顔を見つめた。
「花音が頑張ってるから、僕も変わろうと思えたんだ。……昔みたいに助けてあげることはできないけど、隣で一緒に歩くことなら、できるかもしれないから」
花音は少し目を見開き、それから静かに微笑んだ。
その笑顔には、もうあの気まずさや遠慮はなかった。
「……うん。一緒に行こう、悠ちゃん」
沈んでいく夕日の中で、二人の影がアスファルトの上に長く伸びていた。
距離はまだ、少しだけある。
けれど僕たちはもう、お互いの成長を確かめ合いながら、同じ未来に向かって歩き始めていた。