その日の夜、ベッドに横になってからも、脳裏から花音の存在が消えることはなかった。
普段なら、幼い頃の記憶などすぐにどこかへ吹き飛んでしまう。なのに今夜は違った。目を閉じるたびに、昔の光景が鮮明に浮かんでくる。花音の笑顔、一緒に遊んだ公園、夕暮れの時間。どれも遥か遠くのことなのに、まるで昨日の出来事のように記憶が色鮮やかだった。
そして、そのあたたかな記憶の隙間に、昼間聞いた言葉が突き刺さる。
部活で、いじめられていた。
「……本当なのかな」
静まり返った部屋の中で、ぽつりと呟いた。
親から聞いた噂話に過ぎない。実際に何があったのか、誰に何をされたのかも分からない。それどころか、今の花音がどんな少女になっているのかさえ、僕には分からないのだ。
最後に会ったのは何年も前。
考えてみれば、僕は「現在の彼女」を何も知らない。好きなものも、嫌いなものも、どんな友達と笑い合い、どんな毎日を送っているのかも。
僕の中に生きている花音は、幼い頃の姿で止まったままだ。
いつも笑っていて、僕の隣にいてくれた女の子。
けれど、当然ながら彼女にも僕と同じだけの時間が流れている。僕の知らない場所で、僕の知らない誰かと、僕の知らない時間を重ねてきたのだ。
「……今は、どんな感じなんだろう」
気づけば、吸い寄せるようにスマートフォンを手に取っていた。
画面を点滅させ、Instagramのアプリを開く。
検索欄に、記憶の底から引っぱり出した名前を入力した。
小川花音。
指がぴたりと止まる。
ここで検索すれば、何かが見えてしまうかもしれない。
けれど、知らなくてもよかった現実に直面してしまう怖さもあった。
一瞬の迷いの後、僕は意を決して検索ボタンをタップした。
画面に並ぶアカウントの情報を、一つひとつ目で追っていく。
そして、見覚えのある学校名が目に入った。
花音が通っていると噂に聞いていた高校だ。
僕は息を呑み、その画面を見つめた。
そこには、僕の知らない花音の時間が確かに存在していた。
僕と離れてから彼女が歩んできた、何年もの時間。
今の彼女は、どんな人になったのだろう。
昔と同じように無邪気に笑っているのだろうか。それとも、僕の知らない傷を抱えているのだろうか。
知りたい、と強く思った。
花音が今、どんな毎日を過ごしているのか。
あの日、彼女の身に何があったのか。
そして……今も、笑えているのか。
画面に光る彼女のプロフィールの前で、僕はスマートフォンを握りしめたまま動けずにいた。
このときの僕はまだ知らなかった。
花音を思い出したことが、単なる過去への懐かしさなどでは終わらないことを。
結局、その夜はそれ以上何もできず、ただアカウントを見つめるだけで終わった。
花音を心配している。それは偽りのない本心だった。
けれど、何年も会っていない僕に何ができるというのだろう。連絡先すら知らず、今の彼女の居場所も分からない。突然昔の幼なじみから連絡が来たところで、彼女を戸惑わせるだけかもしれない。
だから僕は、ただ一人で勝手に心配するしかできなかった。
翌日になっても、胸のつかえは消えなかった。
学校へ向かう電車の中、揺られながらぼんやりと窓の外を眺める。
いつもなら通り過ぎていくだけの風景が、その日は違って見えた。街を歩く人影や、車内で楽しそうに笑う同年代の学生たちを見るたび、ふっと彼女の姿が重なる。
今頃、花音は何をしているのだろう。
朝練で汗を流しているのだろうか。学校では、ちゃんと笑えているのだろうか。
何年も会っていなかったのに。
何年も思い出そうともしなかったのに。
どうしてこれほどまでに、胸を締め付けられるのだろう。
教室に着いてからも、頭の中は彼女のことでいっぱいだった。
授業が始まれば意識が逸れるかと思っていたが、黒板を見つめる視線の端に、昔の花音の笑顔がちらついた。休み時間になれば二人で遊んだ記憶が蘇り、帰り道には昨日訪れた公園の寂しげな風景が脳裏をよぎる。
仕舞い込んでいた過去の欠片が、怒涛のように僕のもとへ押し寄せてきているようだった。
けれど、その思い出のどこを探しても「今の花音」はいない。
僕が知っているのは、あの頃の小さな花音だけだ。
だからこそ、余計に不安だった。僕の知らない場所で傷ついているかもしれない彼女に対し、差し出せる手も、かける言葉すら持たない自分が歯がゆかった。
「……元気だといいな」
帰り道、誰に届くでもない呟きが口からこぼれた。
もちろん、空からの返事はない。
それでも、言葉にして吐き出すと、胸の痛みがほんの少しだけ和らぐ気がした。
今の僕には何もできない。
それでも――花音がどこかで、昔と同じように笑っていてくれたら。
そう願うことだけが、今の僕にできる唯一のことだった。
そして、あの夜に戻る。
僕はベッドの上でスマートフォンを眺めていた。
頭から離れないのは、やはり花音のことだった。
今も、あの頃みたいに笑っているのだろうか。
そんな思いを抱えたまま、僕は再びInstagramの検索画面を開いた。
検索欄に打った名前。
結果の中に表示された、見覚えのあるアカウント。
「……花音?」
胸が大きく脈打った。
アイコンの写真は、僕の記憶にある少女とは違っていた。当たり前だ、幼稚園の頃から何年も経っているのだから。
僕の知っている花音は、小さな背中にランドセルを背負い、いつも無邪気に笑っていた。
けれど画面の向こうにいるのは、すっかり大人びた「今の花音」だった。
吸い込まれるようにプロフィールを開く。
そこには、僕の知らない時間がぎっしりと並んでいた。
友達と肩を並べた写真、部活動の風景、見覚えのない街並み、僕の知らない高校生活。
スクロールする指が、ゆっくりと止まる。
「……大きくなったな」
ぽつりと溢れた言葉が、暗い部屋に溶けていく。
それなのに。
投稿の中にある彼女の笑顔を見た瞬間だけは、あの頃の面影が鮮やかに蘇った。
僕の隣で笑っていた花音。僕がずっと胸の奥に抱いていた、あの笑顔だ。
僕はしばらくの間、動かなくなった画面を見つめていた。
「フォローする」のボタンを押せば、きっと何かが変わり始める。
メッセージを送ることだってできる。
『久しぶり』
たったそれだけの言葉でいい。
なのに、僕の指先は石のように固まったまま動かなかった。
何年も話していない。突然連絡したら、彼女はどう思うだろう。覚えているだろうか、それとも僕のことなんてすっかり忘れているだろうか。
ぐるぐると巡る不安に押し潰されそうになり、僕は逃げるように画面を閉じた。
結局、僕は何もできなかった。
ただ一つ、「今の花音」がこの世界のどこかで確かに生きているという事実を知っただけだった。
暗闇に包まれた部屋。画面が消えたスマートフォンの冷たさだけが手に残る。
さっきまで見ていた鮮やかな投稿と、彼女の笑顔の残像が瞼の裏に焼きついて離れない。
「……忘れてる、よな」
ぽつりと呟いた声は、天井に吸い込まれて消えた。
布団に潜り込み、目を閉じる。
脳裏に浮かぶのは、あの頃の幼稚園のグラウンドだ。砂埃の匂い、擦りむいた膝、そして「見て見て!」と走って寄ってきた花音の顔。
あの頃の僕たちは、名前を呼ぶことに何の迷いもなかった。
「花音」と呼べば、彼女は当たり前のように振り返って笑ってくれたのだ。
それなのに、今の僕と彼女の間には、「何年も連絡を取っていない」という途方もなく分厚い透明なガラスが立ちはだかっている気がした。
メッセージを送る。フォローリクエストを送る。
文字にすれば一瞬の操作だ。指先をほんの数ミリ動かすだけでいい。
それだけで、そのガラスを割ることができたのかもしれない。
……いや。割るどころか、突然の不躾な連絡で彼女を困らせ、遠ざけてしまうだけかもしれない。
「『久しぶり』なんて……急に届いたら怖いよな、普通」
自分に言い聞かせるように呟き、僕は横を向いた。
画面を開く直前までは、ただの懐かしさや好奇心だったはずだ。
それなのに、一度「今の花音」の姿を目にしてしまったことで、胸の奥深くに眠っていた熱い感情が、静かに体温を持ち始めていた。
彼女は僕を覚えているだろうか。それとも、もうすっかり過去の遺物になっているのだろうか。
答えの出ない問いが、暗闇の中でぐるぐると巡る。
スマートフォンの通知音が鳴ることはない。僕が何も踏み出していないのだから、当たり前だ。
もう一度本体を手に取り、画面を点灯させる。
ロック画面に表示された時刻は、すでに深夜の二時を回っていた。
暗いディスプレイにうっすらと映る自分の顔が、なんだかすごく情けなく見えた。
明日も学校がある。早く寝なければいけない。
そう思いながらも、僕は結局、東の空が白むまで何度も電源ボタンを押しては消す動作を繰り返していた。
普段なら、幼い頃の記憶などすぐにどこかへ吹き飛んでしまう。なのに今夜は違った。目を閉じるたびに、昔の光景が鮮明に浮かんでくる。花音の笑顔、一緒に遊んだ公園、夕暮れの時間。どれも遥か遠くのことなのに、まるで昨日の出来事のように記憶が色鮮やかだった。
そして、そのあたたかな記憶の隙間に、昼間聞いた言葉が突き刺さる。
部活で、いじめられていた。
「……本当なのかな」
静まり返った部屋の中で、ぽつりと呟いた。
親から聞いた噂話に過ぎない。実際に何があったのか、誰に何をされたのかも分からない。それどころか、今の花音がどんな少女になっているのかさえ、僕には分からないのだ。
最後に会ったのは何年も前。
考えてみれば、僕は「現在の彼女」を何も知らない。好きなものも、嫌いなものも、どんな友達と笑い合い、どんな毎日を送っているのかも。
僕の中に生きている花音は、幼い頃の姿で止まったままだ。
いつも笑っていて、僕の隣にいてくれた女の子。
けれど、当然ながら彼女にも僕と同じだけの時間が流れている。僕の知らない場所で、僕の知らない誰かと、僕の知らない時間を重ねてきたのだ。
「……今は、どんな感じなんだろう」
気づけば、吸い寄せるようにスマートフォンを手に取っていた。
画面を点滅させ、Instagramのアプリを開く。
検索欄に、記憶の底から引っぱり出した名前を入力した。
小川花音。
指がぴたりと止まる。
ここで検索すれば、何かが見えてしまうかもしれない。
けれど、知らなくてもよかった現実に直面してしまう怖さもあった。
一瞬の迷いの後、僕は意を決して検索ボタンをタップした。
画面に並ぶアカウントの情報を、一つひとつ目で追っていく。
そして、見覚えのある学校名が目に入った。
花音が通っていると噂に聞いていた高校だ。
僕は息を呑み、その画面を見つめた。
そこには、僕の知らない花音の時間が確かに存在していた。
僕と離れてから彼女が歩んできた、何年もの時間。
今の彼女は、どんな人になったのだろう。
昔と同じように無邪気に笑っているのだろうか。それとも、僕の知らない傷を抱えているのだろうか。
知りたい、と強く思った。
花音が今、どんな毎日を過ごしているのか。
あの日、彼女の身に何があったのか。
そして……今も、笑えているのか。
画面に光る彼女のプロフィールの前で、僕はスマートフォンを握りしめたまま動けずにいた。
このときの僕はまだ知らなかった。
花音を思い出したことが、単なる過去への懐かしさなどでは終わらないことを。
結局、その夜はそれ以上何もできず、ただアカウントを見つめるだけで終わった。
花音を心配している。それは偽りのない本心だった。
けれど、何年も会っていない僕に何ができるというのだろう。連絡先すら知らず、今の彼女の居場所も分からない。突然昔の幼なじみから連絡が来たところで、彼女を戸惑わせるだけかもしれない。
だから僕は、ただ一人で勝手に心配するしかできなかった。
翌日になっても、胸のつかえは消えなかった。
学校へ向かう電車の中、揺られながらぼんやりと窓の外を眺める。
いつもなら通り過ぎていくだけの風景が、その日は違って見えた。街を歩く人影や、車内で楽しそうに笑う同年代の学生たちを見るたび、ふっと彼女の姿が重なる。
今頃、花音は何をしているのだろう。
朝練で汗を流しているのだろうか。学校では、ちゃんと笑えているのだろうか。
何年も会っていなかったのに。
何年も思い出そうともしなかったのに。
どうしてこれほどまでに、胸を締め付けられるのだろう。
教室に着いてからも、頭の中は彼女のことでいっぱいだった。
授業が始まれば意識が逸れるかと思っていたが、黒板を見つめる視線の端に、昔の花音の笑顔がちらついた。休み時間になれば二人で遊んだ記憶が蘇り、帰り道には昨日訪れた公園の寂しげな風景が脳裏をよぎる。
仕舞い込んでいた過去の欠片が、怒涛のように僕のもとへ押し寄せてきているようだった。
けれど、その思い出のどこを探しても「今の花音」はいない。
僕が知っているのは、あの頃の小さな花音だけだ。
だからこそ、余計に不安だった。僕の知らない場所で傷ついているかもしれない彼女に対し、差し出せる手も、かける言葉すら持たない自分が歯がゆかった。
「……元気だといいな」
帰り道、誰に届くでもない呟きが口からこぼれた。
もちろん、空からの返事はない。
それでも、言葉にして吐き出すと、胸の痛みがほんの少しだけ和らぐ気がした。
今の僕には何もできない。
それでも――花音がどこかで、昔と同じように笑っていてくれたら。
そう願うことだけが、今の僕にできる唯一のことだった。
そして、あの夜に戻る。
僕はベッドの上でスマートフォンを眺めていた。
頭から離れないのは、やはり花音のことだった。
今も、あの頃みたいに笑っているのだろうか。
そんな思いを抱えたまま、僕は再びInstagramの検索画面を開いた。
検索欄に打った名前。
結果の中に表示された、見覚えのあるアカウント。
「……花音?」
胸が大きく脈打った。
アイコンの写真は、僕の記憶にある少女とは違っていた。当たり前だ、幼稚園の頃から何年も経っているのだから。
僕の知っている花音は、小さな背中にランドセルを背負い、いつも無邪気に笑っていた。
けれど画面の向こうにいるのは、すっかり大人びた「今の花音」だった。
吸い込まれるようにプロフィールを開く。
そこには、僕の知らない時間がぎっしりと並んでいた。
友達と肩を並べた写真、部活動の風景、見覚えのない街並み、僕の知らない高校生活。
スクロールする指が、ゆっくりと止まる。
「……大きくなったな」
ぽつりと溢れた言葉が、暗い部屋に溶けていく。
それなのに。
投稿の中にある彼女の笑顔を見た瞬間だけは、あの頃の面影が鮮やかに蘇った。
僕の隣で笑っていた花音。僕がずっと胸の奥に抱いていた、あの笑顔だ。
僕はしばらくの間、動かなくなった画面を見つめていた。
「フォローする」のボタンを押せば、きっと何かが変わり始める。
メッセージを送ることだってできる。
『久しぶり』
たったそれだけの言葉でいい。
なのに、僕の指先は石のように固まったまま動かなかった。
何年も話していない。突然連絡したら、彼女はどう思うだろう。覚えているだろうか、それとも僕のことなんてすっかり忘れているだろうか。
ぐるぐると巡る不安に押し潰されそうになり、僕は逃げるように画面を閉じた。
結局、僕は何もできなかった。
ただ一つ、「今の花音」がこの世界のどこかで確かに生きているという事実を知っただけだった。
暗闇に包まれた部屋。画面が消えたスマートフォンの冷たさだけが手に残る。
さっきまで見ていた鮮やかな投稿と、彼女の笑顔の残像が瞼の裏に焼きついて離れない。
「……忘れてる、よな」
ぽつりと呟いた声は、天井に吸い込まれて消えた。
布団に潜り込み、目を閉じる。
脳裏に浮かぶのは、あの頃の幼稚園のグラウンドだ。砂埃の匂い、擦りむいた膝、そして「見て見て!」と走って寄ってきた花音の顔。
あの頃の僕たちは、名前を呼ぶことに何の迷いもなかった。
「花音」と呼べば、彼女は当たり前のように振り返って笑ってくれたのだ。
それなのに、今の僕と彼女の間には、「何年も連絡を取っていない」という途方もなく分厚い透明なガラスが立ちはだかっている気がした。
メッセージを送る。フォローリクエストを送る。
文字にすれば一瞬の操作だ。指先をほんの数ミリ動かすだけでいい。
それだけで、そのガラスを割ることができたのかもしれない。
……いや。割るどころか、突然の不躾な連絡で彼女を困らせ、遠ざけてしまうだけかもしれない。
「『久しぶり』なんて……急に届いたら怖いよな、普通」
自分に言い聞かせるように呟き、僕は横を向いた。
画面を開く直前までは、ただの懐かしさや好奇心だったはずだ。
それなのに、一度「今の花音」の姿を目にしてしまったことで、胸の奥深くに眠っていた熱い感情が、静かに体温を持ち始めていた。
彼女は僕を覚えているだろうか。それとも、もうすっかり過去の遺物になっているのだろうか。
答えの出ない問いが、暗闇の中でぐるぐると巡る。
スマートフォンの通知音が鳴ることはない。僕が何も踏み出していないのだから、当たり前だ。
もう一度本体を手に取り、画面を点灯させる。
ロック画面に表示された時刻は、すでに深夜の二時を回っていた。
暗いディスプレイにうっすらと映る自分の顔が、なんだかすごく情けなく見えた。
明日も学校がある。早く寝なければいけない。
そう思いながらも、僕は結局、東の空が白むまで何度も電源ボタンを押しては消す動作を繰り返していた。
