そうして気づけば、僕は高校生になっていた。
高校に入ってからの僕は、思い描いていたような理想の毎日を送れていたわけではない。
周りの空気にうまく馴染めず、教室では一人で過ごすことが多かった。誰かの弾けたような笑い声が聞こえてきても、その輪の中に自分が交ざることはない。
そんな、どこかくすんだ日々を送っていたある日のことだった。
家で何気なく親と話していると、不意にその名前が会話の中に紛れ込んできた。
「そういえば、花音ちゃんって今もバレーボール続けてるんだってね」
その名を聞いた瞬間、胸の奥深くにしまっていた何かが、小さく揺れた。
花音は中学生の頃からバレー部に入っていた。昔から身体を動かすことが好きで、背も高かったから、バレーボールをする姿はきっとよく似合っているのだろう。強い強豪校で頑張っていると聞いたときも、「やっぱりな」と素直に納得がいった。
「そっか。花音、まだバレーやってるんだ」
口から漏れたのは、それだけの言葉だった。
けれど、親は静かに言葉を続けた。
「でもね……部活でいじめられてたらしいのよ」
その瞬間、僕の周囲の時間だけがぴたりと止まったような気がした。
「……え?」
聞き返した自分の声が、驚くほど小さく震えていた。
花音が?
あの、花音が……?
僕の記憶にある花音は、いつだって眩しいくらいに笑っていた。嫌なことがあっても吹き飛ばしてしまうような明るさを持っていた。幼い記憶の中の彼女は、どこを切っても笑顔なのだ。
だからこそ、誰かに傷つけられ、追い詰められている彼女の姿など、どうしても想像することができなかった。
大丈夫なのだろうか。
その思いが、一度生まれると頭から離れなくなった。
何年も思い出していなかったはずなのに。
その日を境に、僕は少しずつ、けれど確実に花音の残像を追うようになっていった。
通学路を一人で歩いていると、昔の景色が記憶の底からふっと顔を出す。
幼稚園へ向かう黄色いバス。昔住んでいた街の匂い。二人で泥だらけになって遊んだ公園。
そして、あの頃の僕が何よりも大切にしていた、花音との時間。
忘れていたつもりだった。
けれど本当は違ったのだ。忘れていたのではなく、ただ思い出すきっかけを失っていただけだった。
その時の僕は、まだ知らなかった。
この先に、もう一度花音と出会う未来が待っていることを。
そしてその再会が、僕自身すら忘れていた「あの日」の記憶を鮮やかによみがえらせることになるなんて。
それからの僕は、何かにつけて花音のことを思い出すようになった。
授業中、ふと窓の外の雲を眺めているとき。
一人きりの帰り道を歩いているとき。
家で古いアルバムを引っ張り出したとき。
意識して探しているわけではないのに、気づけば思考の片隅に彼女がいる。
今、何をしているのだろう。
ちゃんと、笑えているのだろうか。
そんなことを考えている自分自身が、少し不器用で不思議だった。
もう何年も会っていない。連絡先すら知らない。別々の高校に通い、今の僕たちを繋ぐ接点なんて、探してもどこにも残っていないというのに。
一度あふれ出した記憶は、簡単には収まってくれなかった。
ある日の帰り道。
いつもと同じように一人で歩いていた僕は、ふと足を止めた。
見覚えのある景色が、夕暮れの中に佇んでいた。
古びた建物の影。その向こうへと続く細い道。
そして、その先にある小さな公園。
「……ここ」
思わず声がこぼれた。
幼い頃、花音と何度も遊んだ場所だった。
ブランコを漕いだり、鬼ごっこをして走り回ったり、意味もなく砂場で城を作ったり。今思えばたわいもない遊びばかりだったけれど、あの頃の僕にとっては、それが世界の一番中心にあるすべてだった。
僕はしばらく、その場から動くことができなかった。
風が吹き抜け、木の葉がカサカサと音を立てて揺れる。
その音に耳を澄ませていると、ふと昔の声が聞こえてくるような錯覚に囚われた。
甲高くて楽しそうな笑い声。弾むような足音。
そして
『悠、早く!』
あの頃の花音の声だ。
もちろん、そこに彼女がいるはずもない。
分かっている。分かっているのに、僕は堪らず振り返ってしまった。
誰もいない。
ただ、オレンジ色に染まった夕方の道がまっすぐに伸びているだけだった。
「……なに出してんだ、僕」
苦笑いを浮かべ、再び歩き出す。
けれど、その日を境に、僕は特定の道を意識して歩くようになった。
昔、花音と一緒に歩いた道。二人で手をつないで帰った道。幼稚園から家へと続いていた、あの思い出の道たちを。
忘れ去ったつもりになっていたものは、僕の思っていた以上にずっと近くに留まっていたのだ。
公園をあとにし、家へ向かう道すがら、僕は幼い頃のささやかな思い出を辿っていた。
あの頃の僕は、花音と一緒なら何をしていても楽しかった。
くだらない遊びの中でも、妙に鮮明に覚えているものがある。
おままごとだ。
『悠はこれね』
花音にそう言われて、小さな掌に何かを押し付けられた。
それが何だったのか、今となっては思い出せない。たぶん、プラスチックでできたおもちゃの食べ物だったのだろう。
『はい』
僕は言われるがまま、それを受け取った。
当時の僕には役柄の意味なんてよく分かっていなかったけれど、花音が楽しそうに目を輝かせているから、僕も一緒になってその世界に飛び込んでいたのだ。
花音は嬉しそうに笑い、僕はその隣にいた。
男の子の僕がおままごとに付き合っているのを誰かに見られたら、少し気恥ずかしかったかもしれない。でも、花音といるときはそんなことすらどうでもよかった。
『悠、これ持ってて』
『うん』
『じゃあ、次はこっちね』
『うん』
今にして思えば、僕はかなりの勢いで花音に振り回されていた気がする。
けれど、嫌だった記憶は一つもない。むしろ、胸がくすぐったくなるほど楽しかった。
「……懐かしいな」
誰もいない通学路で小さく呟くと、胸の奥がじんわりと温かくなった。
昔の僕は、花音と遊ぶことも、隣に彼女がいることも、二人で帰ることも、すべてが永遠に続く「当たり前」だと思っていた。
けれど時間は、容赦なく僕たちを別々の場所へと運んでいった。
気づけば僕は一人で歩くことに慣れ、花音のいない毎日に馴染んでいた。
……本当に、慣れていたのだろうか。
僕は少しだけ顔を上げ、空を見上げた。
夕焼け空は、あの頃見上げていた色と変わらない綺麗な茜色をしていた。
なのに、隣には誰もいない。
その事実が、今になって胸の奥を静かに締め付けた。
高校に入ってからの僕は、思い描いていたような理想の毎日を送れていたわけではない。
周りの空気にうまく馴染めず、教室では一人で過ごすことが多かった。誰かの弾けたような笑い声が聞こえてきても、その輪の中に自分が交ざることはない。
そんな、どこかくすんだ日々を送っていたある日のことだった。
家で何気なく親と話していると、不意にその名前が会話の中に紛れ込んできた。
「そういえば、花音ちゃんって今もバレーボール続けてるんだってね」
その名を聞いた瞬間、胸の奥深くにしまっていた何かが、小さく揺れた。
花音は中学生の頃からバレー部に入っていた。昔から身体を動かすことが好きで、背も高かったから、バレーボールをする姿はきっとよく似合っているのだろう。強い強豪校で頑張っていると聞いたときも、「やっぱりな」と素直に納得がいった。
「そっか。花音、まだバレーやってるんだ」
口から漏れたのは、それだけの言葉だった。
けれど、親は静かに言葉を続けた。
「でもね……部活でいじめられてたらしいのよ」
その瞬間、僕の周囲の時間だけがぴたりと止まったような気がした。
「……え?」
聞き返した自分の声が、驚くほど小さく震えていた。
花音が?
あの、花音が……?
僕の記憶にある花音は、いつだって眩しいくらいに笑っていた。嫌なことがあっても吹き飛ばしてしまうような明るさを持っていた。幼い記憶の中の彼女は、どこを切っても笑顔なのだ。
だからこそ、誰かに傷つけられ、追い詰められている彼女の姿など、どうしても想像することができなかった。
大丈夫なのだろうか。
その思いが、一度生まれると頭から離れなくなった。
何年も思い出していなかったはずなのに。
その日を境に、僕は少しずつ、けれど確実に花音の残像を追うようになっていった。
通学路を一人で歩いていると、昔の景色が記憶の底からふっと顔を出す。
幼稚園へ向かう黄色いバス。昔住んでいた街の匂い。二人で泥だらけになって遊んだ公園。
そして、あの頃の僕が何よりも大切にしていた、花音との時間。
忘れていたつもりだった。
けれど本当は違ったのだ。忘れていたのではなく、ただ思い出すきっかけを失っていただけだった。
その時の僕は、まだ知らなかった。
この先に、もう一度花音と出会う未来が待っていることを。
そしてその再会が、僕自身すら忘れていた「あの日」の記憶を鮮やかによみがえらせることになるなんて。
それからの僕は、何かにつけて花音のことを思い出すようになった。
授業中、ふと窓の外の雲を眺めているとき。
一人きりの帰り道を歩いているとき。
家で古いアルバムを引っ張り出したとき。
意識して探しているわけではないのに、気づけば思考の片隅に彼女がいる。
今、何をしているのだろう。
ちゃんと、笑えているのだろうか。
そんなことを考えている自分自身が、少し不器用で不思議だった。
もう何年も会っていない。連絡先すら知らない。別々の高校に通い、今の僕たちを繋ぐ接点なんて、探してもどこにも残っていないというのに。
一度あふれ出した記憶は、簡単には収まってくれなかった。
ある日の帰り道。
いつもと同じように一人で歩いていた僕は、ふと足を止めた。
見覚えのある景色が、夕暮れの中に佇んでいた。
古びた建物の影。その向こうへと続く細い道。
そして、その先にある小さな公園。
「……ここ」
思わず声がこぼれた。
幼い頃、花音と何度も遊んだ場所だった。
ブランコを漕いだり、鬼ごっこをして走り回ったり、意味もなく砂場で城を作ったり。今思えばたわいもない遊びばかりだったけれど、あの頃の僕にとっては、それが世界の一番中心にあるすべてだった。
僕はしばらく、その場から動くことができなかった。
風が吹き抜け、木の葉がカサカサと音を立てて揺れる。
その音に耳を澄ませていると、ふと昔の声が聞こえてくるような錯覚に囚われた。
甲高くて楽しそうな笑い声。弾むような足音。
そして
『悠、早く!』
あの頃の花音の声だ。
もちろん、そこに彼女がいるはずもない。
分かっている。分かっているのに、僕は堪らず振り返ってしまった。
誰もいない。
ただ、オレンジ色に染まった夕方の道がまっすぐに伸びているだけだった。
「……なに出してんだ、僕」
苦笑いを浮かべ、再び歩き出す。
けれど、その日を境に、僕は特定の道を意識して歩くようになった。
昔、花音と一緒に歩いた道。二人で手をつないで帰った道。幼稚園から家へと続いていた、あの思い出の道たちを。
忘れ去ったつもりになっていたものは、僕の思っていた以上にずっと近くに留まっていたのだ。
公園をあとにし、家へ向かう道すがら、僕は幼い頃のささやかな思い出を辿っていた。
あの頃の僕は、花音と一緒なら何をしていても楽しかった。
くだらない遊びの中でも、妙に鮮明に覚えているものがある。
おままごとだ。
『悠はこれね』
花音にそう言われて、小さな掌に何かを押し付けられた。
それが何だったのか、今となっては思い出せない。たぶん、プラスチックでできたおもちゃの食べ物だったのだろう。
『はい』
僕は言われるがまま、それを受け取った。
当時の僕には役柄の意味なんてよく分かっていなかったけれど、花音が楽しそうに目を輝かせているから、僕も一緒になってその世界に飛び込んでいたのだ。
花音は嬉しそうに笑い、僕はその隣にいた。
男の子の僕がおままごとに付き合っているのを誰かに見られたら、少し気恥ずかしかったかもしれない。でも、花音といるときはそんなことすらどうでもよかった。
『悠、これ持ってて』
『うん』
『じゃあ、次はこっちね』
『うん』
今にして思えば、僕はかなりの勢いで花音に振り回されていた気がする。
けれど、嫌だった記憶は一つもない。むしろ、胸がくすぐったくなるほど楽しかった。
「……懐かしいな」
誰もいない通学路で小さく呟くと、胸の奥がじんわりと温かくなった。
昔の僕は、花音と遊ぶことも、隣に彼女がいることも、二人で帰ることも、すべてが永遠に続く「当たり前」だと思っていた。
けれど時間は、容赦なく僕たちを別々の場所へと運んでいった。
気づけば僕は一人で歩くことに慣れ、花音のいない毎日に馴染んでいた。
……本当に、慣れていたのだろうか。
僕は少しだけ顔を上げ、空を見上げた。
夕焼け空は、あの頃見上げていた色と変わらない綺麗な茜色をしていた。
なのに、隣には誰もいない。
その事実が、今になって胸の奥を静かに締め付けた。
