暗くなり始めた公園で、僕たちはどちらからともなく立ち上がり、同じ歩幅で歩き始めた。
秋の深まりとともに、放課後の街は少しずつ茜色から濃い群青色へと染まるのが早くなっていた。
「悠ちゃん、今週末って何か予定ある?」
木曜日の夜、いつものように届いた一文。
画面を見つめたまま、僕はしばらく指を止めた。
LINEのやり取りが日常に溶け込んでからというもの、僕たちは「過去を懐かしむ幼なじみ」という位置から、静かに、けれど確実に新しい場所へ移動しつつあった。
それでも、放課後に少し公園で話すのとは違って、「休日に二人で出かける」というのは、どこか明確な一線を越えるような緊張感があった。
『特にないよ。何かあるの?』
送信ボタンを押すと、すぐに既読がつき、吹き出しが返ってきた。
『隣町の大きな本屋に行きたくて。バレーの専門書も欲しいし……もし良かったら、付き合ってくれない?』
隣町。電車でふたつ先の、僕たちの日常から少しだけ離れた場所。
断る理由なんて、どこにもなかった。
土曜日の午後、駅の改札前。
私服姿の花音は、制服やジャージのときとはまるで違う雰囲気を纏っていた。
薄手のニットに、落ち着いた色のスカート。
髪を少しだけ後ろで結んだ彼女が人混みの中から僕を見つけて手を振ったとき、胸の奥がぎゅっと締め付けられるような感覚があった。
「ごめん、待たせた?」
「ううん、僕もいま着いたところ」
使い古されたような定型句を交わしながら、僕たちは並んで歩き出す。
電車に揺られている間、ドアの窓に映る二人の姿を盗み見た。そこに映っているのは、幼稚園の頃に手をつないで走っていた子供たちではない。
どこかぎこちなく、お互いの肩が触れないように絶妙な距離感を保っている、一人の男と女だった。
目的の本屋につき、静かな書棚の間を歩く。
花音はスポーツ科学やメンタルトレーニングの棚の前で足を止め、真剣な眼差しで背表紙を追っていた。
「こういうのも読むんだね」
僕が小さく声をかけると、花音は本を手にとったまま、少し照れくさそうに笑った。
「うん。……体幹のトレーニングとか、メンタルの保ち方とか。コートに立つとさ、最後は自分の頭で考えなきゃいけないから」
言葉の端々に、彼女が自分の足で立とうとしている強さが滲んでいた。
僕はその横顔を見つめながら、自分の好きな文庫本の棚へ向かう彼女の後ろ姿を追った。
本を選び終えたあと、僕たちは駅の裏手にある小さな喫茶店に入った。
ジャズが静かに流れる店内で、テーブルを挟んで向かい合う。
「悠ちゃんは、どんな本買ったの?」
「これ。海外の短編小説集。……静かな話が好きで」
「へえ、悠ちゃんらしいね」
花音は運ばれてきたカフェオレのカップを両手で包み込み、ふーっと息を吹きかけた。
湯気の向こうで見つめてくる瞳と、まっすぐに視線がぶつかる。
(……昔は、こんな風に顔を見るだけで緊張するなんて、なかったのに)
会話が途切れると、店の静けさとカップが皿に当たるカチャという音だけが響いた。
かつての「気まずい沈黙」とは違う。
言葉がなくても居心地は悪くない。けれど、胸の鼓動だけがやけにうるさくて、自分の呼吸の浅さに焦ってしまうような、甘い緊張感。
「悠ちゃん」
「ん?」
「今日、誘って良かった」
花音はカップを置き、テーブルの上に置かれた僕の手のすぐ近くに、自分の手を置いた。
触れそうで触れない、数センチの距離。
「部活と家との往復だとさ、たまに息が詰まりそうになるんだよね。でも……今日、悠ちゃんとこうやって過ごせて、なんかすごく気持ちが軽くなった」
「……そっか。僕も、楽しかったよ」
彼女の指先が、ほんの少しだけ動いて、僕の袖口に触れた。
ほんの一瞬、電気でも走ったかのように皮膚が熱くなる。
お互いに視線を落とし、それ以上は何も言わなかった。
けれど、その数センチの隙間には、もう「幼なじみ」という安全な言葉では誤魔化しきれない感情が、たしかに満ちていた。
帰り道の電車の中、夕暮れの光が車内に差し込む。
揺れる車内で、僕たちの肩が一度だけ、トンと小さくぶつかった。
離れようとした僕の気配を感じたのか、花音は逃げずに、そのままそっと肩を寄せてきた。
窓の外に流れる街並みを眺めながら、僕は握りしめた拳の中で、自分の内側にある想いがもう後戻りできないところまで来ていることを悟っていた。
隣町へ出かけたあの週末から、僕たちの距離は確実に変わっていた。
LINEで交わす言葉の端々に、放課後の帰り道で見交わす視線に、もう「幼なじみ」という安全な言い訳は通用しなくなっていた。
けれど、順調に見える時間の裏側で、現実は容赦なく僕たちに小さな陰を落とす。
11月の半ば、季節外れの冷たい雨が終日降り続いていた木曜日。
部活が終わる時間を見計らってスマホを開くと、花音からのメッセージは届いていなかった。いつもなら『今日の練習終わった』と短く入っているはずの時間だった。
胸の中に嫌な胸騒ぎが広がった。
僕は傘を手に取り、気づけば彼女の通う高校の方向へ足を向けていた。
体育館の裏手にある小さな駐輪場。
雨音に紛れるように、そこに花音がぽつんと立っていた。
雨具を着るでもなく、傘を差すでもなく、濡れたエナメルバッグを足元に置いて、ただ暗い地面を見つめている。
「……花音?」
濡れたアスファルトを蹴って駆け寄ると、彼女はハッとして顔を上げた。
街灯の光に照らし出されたその顔は、頬が涙で濡れていた。雨のしずくか、涙なのか、分からなくなっている。
「悠ちゃん……? どうして、ここに……」
「なんとなく……胸騒ぎがして。どうしたの? 何かあったの?」
僕が差しかけた傘の下に彼女を招き入れる。
花音は唇をぎゅっと噛み締め、肩を細かく震わせながら、ポツリポツリと溢すように話し始めた。
「……また、なんだ。中学のときと、同じ……」
声が震えていた。
練習のメニューを巡って、部活の同級生と意見が衝突したこと。一生懸命やればやるほど「一人で先走っている」「いい格好したいだけ」と浮いてしまうこと。頑張れば頑張るほど、周囲との間に見えない壁ができていく恐怖。
「私……ただ、みんなで勝ちたいだけなのに。やっぱり私、どこに行ってもダメなのかな……」
膝から崩れ落ちそうになる彼女の肩を、僕は思わず抱きかかえた。
小さな肩が、激しく震えている。
コートの上で誰よりも気高くスパイクを打ち込んでいた彼女が、本当はこんなにも脆く、傷つきながら立っていたのだと知る。
あの日、体育館の影で「自分なんて」と諦めていた過去の自分が思い出された。
でも、今の僕は違う。
「ダメなわけないだろ」
力強い自分の声が、雨音を突き抜けて響いた。
「花音がどれだけ真剣にバレーに向き合ってるか、どれだけ陰で努力してるか、僕は知ってる。周りが何と言おうと、花音の熱さは絶対に間違ってない」
「悠ちゃん……」
「僕だけは絶対に花音の味方でいる。……昔も、今も、これからもずっとだ」
昔は言葉にできなかった想いが、今度は躊躇なく溢れ出してきた。
花音は僕の制服の胸元に顔をうずめ、子供のように声を上げて泣いた。
冷たい雨のなか、僕の腕の中に残る彼女の体温だけが、やけに熱く、愛おしかった。
傘を差し伸ばしながら、僕は固く心に誓っていた。
慰めるためでも、昔の情に流されたからでもない。
傷つきながらも前を向こうとする彼女の姿に憧れ、支えたいと願い、そして心から愛している。
この人を、絶対に渡さない。僕の手で守り抜くんだと。
胸の奥にあった迷いや不安は、雨の夜の暗がりの中で完全に消えていた。
残ったのは、引き返せないほど深く実った、ひとつの確信だけだった
秋の深まりとともに、放課後の街は少しずつ茜色から濃い群青色へと染まるのが早くなっていた。
「悠ちゃん、今週末って何か予定ある?」
木曜日の夜、いつものように届いた一文。
画面を見つめたまま、僕はしばらく指を止めた。
LINEのやり取りが日常に溶け込んでからというもの、僕たちは「過去を懐かしむ幼なじみ」という位置から、静かに、けれど確実に新しい場所へ移動しつつあった。
それでも、放課後に少し公園で話すのとは違って、「休日に二人で出かける」というのは、どこか明確な一線を越えるような緊張感があった。
『特にないよ。何かあるの?』
送信ボタンを押すと、すぐに既読がつき、吹き出しが返ってきた。
『隣町の大きな本屋に行きたくて。バレーの専門書も欲しいし……もし良かったら、付き合ってくれない?』
隣町。電車でふたつ先の、僕たちの日常から少しだけ離れた場所。
断る理由なんて、どこにもなかった。
土曜日の午後、駅の改札前。
私服姿の花音は、制服やジャージのときとはまるで違う雰囲気を纏っていた。
薄手のニットに、落ち着いた色のスカート。
髪を少しだけ後ろで結んだ彼女が人混みの中から僕を見つけて手を振ったとき、胸の奥がぎゅっと締め付けられるような感覚があった。
「ごめん、待たせた?」
「ううん、僕もいま着いたところ」
使い古されたような定型句を交わしながら、僕たちは並んで歩き出す。
電車に揺られている間、ドアの窓に映る二人の姿を盗み見た。そこに映っているのは、幼稚園の頃に手をつないで走っていた子供たちではない。
どこかぎこちなく、お互いの肩が触れないように絶妙な距離感を保っている、一人の男と女だった。
目的の本屋につき、静かな書棚の間を歩く。
花音はスポーツ科学やメンタルトレーニングの棚の前で足を止め、真剣な眼差しで背表紙を追っていた。
「こういうのも読むんだね」
僕が小さく声をかけると、花音は本を手にとったまま、少し照れくさそうに笑った。
「うん。……体幹のトレーニングとか、メンタルの保ち方とか。コートに立つとさ、最後は自分の頭で考えなきゃいけないから」
言葉の端々に、彼女が自分の足で立とうとしている強さが滲んでいた。
僕はその横顔を見つめながら、自分の好きな文庫本の棚へ向かう彼女の後ろ姿を追った。
本を選び終えたあと、僕たちは駅の裏手にある小さな喫茶店に入った。
ジャズが静かに流れる店内で、テーブルを挟んで向かい合う。
「悠ちゃんは、どんな本買ったの?」
「これ。海外の短編小説集。……静かな話が好きで」
「へえ、悠ちゃんらしいね」
花音は運ばれてきたカフェオレのカップを両手で包み込み、ふーっと息を吹きかけた。
湯気の向こうで見つめてくる瞳と、まっすぐに視線がぶつかる。
(……昔は、こんな風に顔を見るだけで緊張するなんて、なかったのに)
会話が途切れると、店の静けさとカップが皿に当たるカチャという音だけが響いた。
かつての「気まずい沈黙」とは違う。
言葉がなくても居心地は悪くない。けれど、胸の鼓動だけがやけにうるさくて、自分の呼吸の浅さに焦ってしまうような、甘い緊張感。
「悠ちゃん」
「ん?」
「今日、誘って良かった」
花音はカップを置き、テーブルの上に置かれた僕の手のすぐ近くに、自分の手を置いた。
触れそうで触れない、数センチの距離。
「部活と家との往復だとさ、たまに息が詰まりそうになるんだよね。でも……今日、悠ちゃんとこうやって過ごせて、なんかすごく気持ちが軽くなった」
「……そっか。僕も、楽しかったよ」
彼女の指先が、ほんの少しだけ動いて、僕の袖口に触れた。
ほんの一瞬、電気でも走ったかのように皮膚が熱くなる。
お互いに視線を落とし、それ以上は何も言わなかった。
けれど、その数センチの隙間には、もう「幼なじみ」という安全な言葉では誤魔化しきれない感情が、たしかに満ちていた。
帰り道の電車の中、夕暮れの光が車内に差し込む。
揺れる車内で、僕たちの肩が一度だけ、トンと小さくぶつかった。
離れようとした僕の気配を感じたのか、花音は逃げずに、そのままそっと肩を寄せてきた。
窓の外に流れる街並みを眺めながら、僕は握りしめた拳の中で、自分の内側にある想いがもう後戻りできないところまで来ていることを悟っていた。
隣町へ出かけたあの週末から、僕たちの距離は確実に変わっていた。
LINEで交わす言葉の端々に、放課後の帰り道で見交わす視線に、もう「幼なじみ」という安全な言い訳は通用しなくなっていた。
けれど、順調に見える時間の裏側で、現実は容赦なく僕たちに小さな陰を落とす。
11月の半ば、季節外れの冷たい雨が終日降り続いていた木曜日。
部活が終わる時間を見計らってスマホを開くと、花音からのメッセージは届いていなかった。いつもなら『今日の練習終わった』と短く入っているはずの時間だった。
胸の中に嫌な胸騒ぎが広がった。
僕は傘を手に取り、気づけば彼女の通う高校の方向へ足を向けていた。
体育館の裏手にある小さな駐輪場。
雨音に紛れるように、そこに花音がぽつんと立っていた。
雨具を着るでもなく、傘を差すでもなく、濡れたエナメルバッグを足元に置いて、ただ暗い地面を見つめている。
「……花音?」
濡れたアスファルトを蹴って駆け寄ると、彼女はハッとして顔を上げた。
街灯の光に照らし出されたその顔は、頬が涙で濡れていた。雨のしずくか、涙なのか、分からなくなっている。
「悠ちゃん……? どうして、ここに……」
「なんとなく……胸騒ぎがして。どうしたの? 何かあったの?」
僕が差しかけた傘の下に彼女を招き入れる。
花音は唇をぎゅっと噛み締め、肩を細かく震わせながら、ポツリポツリと溢すように話し始めた。
「……また、なんだ。中学のときと、同じ……」
声が震えていた。
練習のメニューを巡って、部活の同級生と意見が衝突したこと。一生懸命やればやるほど「一人で先走っている」「いい格好したいだけ」と浮いてしまうこと。頑張れば頑張るほど、周囲との間に見えない壁ができていく恐怖。
「私……ただ、みんなで勝ちたいだけなのに。やっぱり私、どこに行ってもダメなのかな……」
膝から崩れ落ちそうになる彼女の肩を、僕は思わず抱きかかえた。
小さな肩が、激しく震えている。
コートの上で誰よりも気高くスパイクを打ち込んでいた彼女が、本当はこんなにも脆く、傷つきながら立っていたのだと知る。
あの日、体育館の影で「自分なんて」と諦めていた過去の自分が思い出された。
でも、今の僕は違う。
「ダメなわけないだろ」
力強い自分の声が、雨音を突き抜けて響いた。
「花音がどれだけ真剣にバレーに向き合ってるか、どれだけ陰で努力してるか、僕は知ってる。周りが何と言おうと、花音の熱さは絶対に間違ってない」
「悠ちゃん……」
「僕だけは絶対に花音の味方でいる。……昔も、今も、これからもずっとだ」
昔は言葉にできなかった想いが、今度は躊躇なく溢れ出してきた。
花音は僕の制服の胸元に顔をうずめ、子供のように声を上げて泣いた。
冷たい雨のなか、僕の腕の中に残る彼女の体温だけが、やけに熱く、愛おしかった。
傘を差し伸ばしながら、僕は固く心に誓っていた。
慰めるためでも、昔の情に流されたからでもない。
傷つきながらも前を向こうとする彼女の姿に憧れ、支えたいと願い、そして心から愛している。
この人を、絶対に渡さない。僕の手で守り抜くんだと。
胸の奥にあった迷いや不安は、雨の夜の暗がりの中で完全に消えていた。
残ったのは、引き返せないほど深く実った、ひとつの確信だけだった
