歌声だけ知っている


末山愛斗——その胸には、幼い頃からいつも演歌の調べが流れていた。
物心ついたときから、ラジオから流れる演歌のメロディに心惹かれ、口ずさむ日々。そんな彼が初めて大勢の前で歌ったのは、高校の学校祭のこと。ステージの上に立ち、石田あゆみの『ブルーライト・ヨコハマ』を歌い上げた。観覧席には全校生徒と保護者の方々が詰めかけ、歌声が体育館いっぱいに響き渡った。あの瞬間、心の奥底から湧き上がる想いがあった——「俺は歌手になりたい。演歌で人の心に届く歌を歌いたい」。そう決意した日から、愛斗の道は定まった。
卒業後、彼が選んだのは「虹色舎」。社長でありボーカルトレーナーの翼さん、そして作詩家であり同じくボーカルトレーナーの円香乃さんが立ち上げたこの教室には、老若男女、さまざまな人が歌を学ぶために通っていた。愛斗もここで基礎から歌の技術を学び、努力を重ね、ついに演歌歌手としての一歩を踏み出した。
同じ虹色舎から巣立った歌手は他にもいる。デビュー曲が大ヒットし、テレビ番組にひっぱりだこの亜蘭さん、北海道を拠点に活躍する島あきのさん——それぞれの輝き方がある。そんな中、愛斗はまだテレビ出演も少なく、これからの自分をじっくりと育てているところだ。
そんな愛斗が今、心から憧れ、夢中になっている歌手がいる。それは「サーカス」の卯月節子さんだ。
サーカスは、家族の絆を歌に乗せて歩んできたグループ。初代は叶正子さん、叶高さん、卯月節子さん、それに高さんの妻・原淳子さん、弟の叶央介さん——温かな顔ぶれで始まった。時は流れ、淳子さん、央介さん、そして厚子さんがグループを去った今は、正子さん、高さん、高さんの娘である叶ありささん、オーディションから選ばれた吉村勇一さんの四人が、新たなサーカスとして輝いている。
高校時代からサーカスの歌が大好きだった愛斗は、節子さんがグループを去ったとき、本当に悲しくてしばらく胸が痛んだ。だから今、自分が歌手として、そしてボーカルトレーナーとして歩み始め、さらにはサーカスのYouTube配信に時々出演させもらえるようになったことは、夢のような幸せなのだ。
そんなある日、事務所の翼さんから呼び出しがかかった。
「愛斗、カラオケスタジオでミニコンサートを開くことになったんだ。そこに卯月節子さんがいらっしゃるって」
その言葉を聞いた瞬間、愛斗の胸は躍った。
「本当ですか!」
「ああ。ぜひ会いに来て、歌ってほしい」
嬉しさがこみ上げ、その日から待ち遠しくてたまらなかった。そして約束の日、昼過ぎにカラオケスタジオへと足を運ぶ。扉を開けると、そこには憧れの卯月節子さんがいた。
「はじめまして、卯月節子です」
柔らかな笑顔で挨拶され、愛斗は緊張しながらも深く頭を下げた。
「末山愛斗です。ずっとファンでした。お会いできて本当に嬉しいです」
「そうなの? ありがとう」
節子さんが手を差し伸べてくれ、そっと握手を交わす。その瞬間、温かなぬくもりが伝わってきて、憧れの人が目の前にいることを実感し、胸がいっぱいになった。
その後、ミニコンサートが始まった。愛斗は自分の選んだ歌を、心を込めて歌う。節子さんが聴いてくださっている——その想いが、いつも以上に歌声に力を与えてくれた。
歌い終え、最後の拍手が鳴りやむ頃、帰り際に節子さんが愛斗のそばに来てくれた。
「とても素敵な歌声だったわ。これからも応援してるね
そう言って笑顔を向けられ、愛斗は目に涙を浮かべてお礼を言った。
「本当にありがとうございます。一生忘れません」
憧れの人に認められた喜びを胸に、愛斗は新たな一歩を踏み出す。この日の出会いが、彼の歌をもっと輝かせてくれるに違いない——。