リノ・イーシア ―知ってほしい でも理解できない―

 まだリアリティがない。
 昨日の地獄みたいな夜、あれは本当に起きたことなんだろうか?

 陽の当たらない暗い路地から見上げる青空は、なんだかいつも以上に明るくて眩しい。

 ドミトリーの前まで来たところで、4番街の方から歩いてくるヤマナシ君と出くわした。

 何やらビニール袋を持っているヤマナシ君は、俺を見つけるとビシッと背筋を伸ばして挨拶した。

「エザキさん! お疲れ様です!」
「やあ、ヤマナシ君」
「散歩ついでに一杯やりませんか?」
 持ち上げられたビニール袋に缶ジュースが入ってるのを見て、即座に行くと答えた。

 ヤマナシ君が元気よく歩くので、ついていくのに苦労する。
 きっとあの倉庫を目指してるんだろう。

「ヤマナシ君、昨日の今日であの倉庫行くの?」
「大丈夫ですよ。それに、あそこの裏って風がいい感じで吹き込むから、好きなんですよ」

 背が高くて歩幅が広いヤマナシ君と張り合うように歩いていたら、あっという間に着いてしまった。
 昨日の帰りはすごく遠く感じたのに。

 しかし改めて見ると、本当にボロい倉庫だな。
 ヤマナシ君は倉庫の左脇から裏に回る。
 ついていくと、海の前に出た。

 2人で岸壁のへりに腰掛けると、ヤマナシ君に缶のアップルタイザーをもらった。
 眠くて疲れてても、これは嬉しい。

「ありがとう!」
 ヤマナシ君は俺が喜んでるのを見て、嬉しそうに笑いながら、缶を掲げた。

「乾杯しましょう」
「あ、うん。乾杯」
 ヤマナシ君がグビグビ飲むのを見て、俺も少し飲んだ。

 感謝してるから乾杯したけど、乾杯ってなんなんだろう? いただきますと同じくらい謎の儀式だ。

 急に真面目な顔で聞かれた。

「エザキさん。聞いてもいいですか?」
「何を?」
「エザキさん、なにかすごい修羅場をくぐった経験があるんじゃないですか?」

 確かにくぐった。

 殺されかけた。
 この街に来る前に。

「俺も同じだから気持ちがわかるような気がして」
「ヤマナシ君の修羅場?」
「小学校入りたてぐらいのころに、親父とおふくろが殺されたんです。俺が見てる前で」

 突然のことで、驚いた。
 自分と同じだったので、びっくりした。

「なんで殺されたの?」
「親父がケンカで誰かを死なせたらしくて、相手の仲間が集団で仕返しに来たんです」
「なんでお母さんまで殺したの?」

 ヤマナシ君は虫歯の痛みでもこらえてるような顔をして、しばらく黙った。
 遠くで電車の音がする。

「おふくろが殺された理由。それ、本当にわかんないんですよね。抵抗したのかもしれないですけど……」

 なんとなくヤマナシ君を見ないようにしていると、また話し始めた。

「家で寝てたらいきなりドカドカ乗り込んできて、親父が棒とかでボコボコにされて、顔とか頭の形もめちゃくちゃになって……。
 気がついたら、おふくろも死んでました。でも、おふくろがどう殺されたのかが、記憶から抜けてるんすよね……」
「相手の集団て、川倉?」
「いや、まだ川倉はいないころで……あの、あれです。港湾労働者組合ですね」
 クミアイ。
 もしかしたらナカサワダさんも?

 いや、あの人はそんなことしないかな。
 わからないけど。

 特に話す言葉も見つからないので、黙っていた。
 遠くに見える海上高架の線路を、貨物列車が港湾地区へと走っている。

 ようやく口を開いたヤマナシ君は、俺の目を見て言った。

「そういう修羅場を見てるから、正直そんなに怖いものがないんです。無駄に痛い目に遭うとかは嫌ですけど、別にオウガさんとかにも、普通に文句とか言えちゃったりするんです」
「なるほどなぁ」

 俺もそうなのかな? いや、違うか。

「でも、エザキさんは俺よりもっと凄いですよ。ケンカ売られてもイライラもしないし、基本的に防御と回避じゃないですか。それがマジかっこいいなぁと思って」

 いつも俺にやたらと腰が低いのは、尊敬されてるってことなのかな?

「でも強いわけでもないし、頭も悪いし――」
「いや、それでも俺はエドさんよりタガさんより、エザキさんを尊敬してますよ。ケンカのやり方も、話し方も、全部エザキさんが一番好きですよ」

 こういうときはお礼を言えばいいのか?
 でも、ありがたくはないし……。

「エザキさん。いったい、どんな修羅場をくぐったら、そんな風に落ち着けるんですか? まさか、たまたまそうなったってことはないですよね?」

 自分が殺されかけたときのことは、エド以外の人に話したことがない。
 でもヤマナシ君は俺に話してくれた。

 俺を知ってくれるなら、それは友達になってくれるってことかもしれない。
 ホベタンのように、俺にとって大事な1人になるのかもしれない。

 でも、それは心配しなきゃいけない人が増えるってことでもある。

 アップルタイザーをグビグビして、缶をおろして、しばらくどうしようか迷った。
 けど話すことにした。

「俺の父さんと母さんも、俺が小3の時に殺されたんだ」

 ヤマナシ君の目が大きくなった。

「マジすか……?」

「俺の親がどこで恨まれたのかは知らないけどね」

 真剣なヤマナシ君を見て、話してみようと思った。