リノ・イーシア ―知ってほしい でも理解できない―

 クリスマス前の筆記試験。
 本当に危なかったけど、どうにか港湾工学校への進学ができそうということで、ホッとした。
 と言うか、採点をした担任が後からぶっちゃけたのは「今年の3年生は出来が悪すぎるから、授業を聞いていたと分かる人は全員合格にした」ということだった。
 本当にホッとした。

 ちなみに一番成績が良かったのは、なんとエドではなくホベタンだった。
 人は見かけにも振る舞いにもよらない。

 とはいえ、まだ安心はできない。

 この街でまともな仕事につきたければ、高校を出ておかないといけないし、もし就職できなければ、ギャングのパシリにされて、違法なお店とかで働くはめになる。

 川倉の下っ端がどんなに大変かは散々聞かされている。
 ヘマをすれば暴力。
 ときには命令に従って、誰かに暴力を振るわないと、自分が痛めつけられることさえある。

 だけど女の人はもっと大変だと、この日知った。

 土曜の朝。
 すっかり通い慣れていた俺は、いつものように椅子に座って絵を眺めていた。

「この街で若い女ができる仕事って言ったら、結局は男のための仕事ばっかりなのよ」
「なんとなく、そうなのかなって思ってた」
「この街で男に逆らうと、襲われるだけだしね。女にとっては最悪の街」
「襲われる?」
「意味わかるでしょ」

 よくわからなかった。

 ユキは自分が飲み終えたアイスティーのグラスを流しに置くと、こっちに来て俺の手を引いた。
 そして2人で一緒に、床の上に寝転がる。

「テレビとか大っ嫌い。愛とか恋とか、そんなんでイチャイチャするなんて、絶対にありえないから」
 同じ話をもう何回も聞かされている。なんでだろう?

「でも、チカちゃんのことはいつも可愛いって嬉しそうに話すじゃない?」

 チカちゃんというのは、ユキのまだ小さい娘だ。
 普段はドミトリーに預けられてるけど、一時帰宅のとき、たまたま会ったことがある。
 小学校低学年ぐらいかな? ユキの目を大きくしたような顔の、人懐っこい子だった。

「そりゃ、子どもは可愛いよ。でも、ちょっとそういうのとは違う話なの」
「でも、子どもを作る本能なんじゃないの? そういう、イチャイチャするのは」
 てっきりそう思ってた。

「昔、水路に赤ちゃんを捨てる女達がいたって聞いたことない?」
 思わずユキの方を見ると、無表情で天井を見ていた。

「好き放題する男と、欲しくない子供を捨てる女。子供が捨てられなくなったのは、保護施設とドミトリーが出来たおかげ。ひどい話でしょ」
 シリウス区では捨て子なんて見たこともないし、水路に捨てられたりすれば大変なニュースになったと思う。

「女の人には産みたいって本能はあるの?」
「産みたいって思ったことはないよ。ただ産んでみたら、かわいくてしょうがないけどね」
「そっか……」

 よくわからないけど、気を付けた方がいいことがいろいろありそうだ。

「キューはしなさそうだけど、女遊びって本当に残酷だよ」
「うん。でも、ユキといるとムズムズする」

 天井を見ながら、ムズムズをどうしたらいいか考えた。

「初めて見たときもそう。キューは、いつも興味とか好奇心ばっかり」

「ユキの……全部が見てみたい」
 言ってから、まずいことを言ったかもしれないと思った。

 ユキが驚いた顔でパッとこっちを見た。
 けど、2人で目を合わせていると、その顔は笑顔になった。
 戸惑った。

「な、なに?」
「まだムズムズしてる?」

 無意識に、ユキの手を握った。
 なんでそんなことをしたのか、わからない。

 そのまま目を合わせていたら、突然ユキが俺の首にキスをした。

「い、いたた!」

 吸血鬼みたいに強く吸われて痛かったけど、そんなに嫌でもなかった。

「ママ、いるの?」

 チカちゃんの声がして、ユキが飛び起きた。
 そうか、子どもには見つかりたくないのか。

 チカちゃんは、眠そうに奥の部屋から出て来た。

「キュー、座ってて」
 そういうと、ユキは何事もなかったように冷蔵庫に向かった。

 近くに来たチカちゃんに、なんとなく笑いかけた。
「寝てたんだ? おはよう」
「キューお兄ちゃん。おはよう。アップルジュース飲みたい」

 見越していたように、ユキがジュースの入ったコップをテーブルに置いた。
 それから俺の前にはアイスティーが置かれ、ユキは何やらご飯をこしらえ始めた。

 チカちゃんは椅子に座ると、背筋を伸ばす。
 そして手と顔だけをテーブルの上に出して、両手でコップを掴んで飲み始めた。

「キューお兄ちゃんは、ママの彼氏なの?」
「え? いや、どうだろう……?」
 違うとも言えず、横で卵をといているユキを見ると、笑うだけで何も答えない。

「首に何かついてるよ?」
「え?」

 チカちゃんは椅子から降りると、俺の首に触った。

「ほらここ。チョウチョさんみたいになってる」
「え? あれ?」
 ユキに吸い付かれたところだ!
 それと同時にユキが吹き出した。

「これなに?」
「こ、子どもは気にしなくていいよ」
 これがキスマークってやつか? 馬に焼き印するような感じなのかな。

「中坊だって子どもじゃん」
「うん。まあ、そう言われればそうだけど」
 でも君には俺のムズムズはわからない。

「食べな」
 ユキがご飯を並べ始めたので、椅子から立ち上がって、ユキに椅子を譲りながら言った。

「そろそろ行くよ。チカちゃん、またね」

 いつもそうしているように、ユキと目を合わせてから玄関に向かった。
 いつも通りなんだけど、今日はなんとなく恥ずかしかった。

 玄関のドアを開けると、強烈な日差しが目に入る。エアコンに慣れた首筋がぼわっと熱くなる。
 さて、どこに行こう?

 外に出ようとすると、ユキが俺の手を掴んだ。
「どこ行くの?」
「え、ああ、たまにはコロッケでも食べに行こうかななんて」
 出まかせだ。別にお腹はすいてない。

「今度ね」
「え?」

 何の話?

「いつかね」
「え?」

 何を?

 一度、顔を引いて呆れたという目で俺を見たユキだったけど、急にまた両手で俺の顔を持ってキスした。

「もっと大人になったらね」
 そう言うと、ドアを閉めてしまった。

 閉まったドアの前で、しばらく考えていた。

 何を考えていたのかは、うまく言い表せない。