リノ・イーシア ―知ってほしい でも理解できない―

 土曜の午後。
 生ぬるい雨の中、約束通り3番街の公営住宅の下に行くとユキが待っていた。

 騎炉区ではみんなずぶ濡れに慣れている。傘をさす人はせいぜい半分ぐらいだろうか。
 ユキも傘は持たず、公営住宅の通路で雨を避けていた。
 ヒビだらけでボロボロの壁の前に立つ、赤いタンクトップに黒いショートパンツのユキは、かなり目を引いた。

「待たせてごめん」
 時間よりは早く着いたつもりだったけど、一応そう言っておく。
「待ってないよ。じゃあ行こっか」
 そっけなく早口で言って、さっさと歩きだしたユキと、雨の中を歩く。
 この感じだとすぐに土砂降りになりそうだ。ユキもそれを感じているのか、徐々に早足になる。同じくらいの身長なのに、歩くのがかなり速い。
 しばらくの間、2人で砂利を踏む音だけを聞きながら、北側にある機動隊の前を通り過ぎる。
 そして2番街の公営住宅まで来ると、ユキは階段を上り始めた。

「あれ? ここに住んでるの?」
「そうだよ」

 なるほど、昨日言っていた絵は家に置いてあるのか。
 1番街、2番街は特に治安がいい。生ごみ臭さもないし、今登っている階段もきれいで、砂っぽくもない。建物自体はやっぱりボロボロのコンクリむき出しだけど。
 でも、この清潔さは昔住んでいた街を少し思い出させる。

「反対向いてて」
 3階の通路を少し進んだところで、ユキに突然そう言われ、俺は手すりの向こうの景色を眺めた。
 機動隊の基地を挟んだ向こう側に、我らが3番街の公営住宅やらドミトリーやらが見える。なんだかくすんだ色合い。いかにも貧民の街だ。
「おいで」
 玄関のダイヤル錠を外し、カギも開けたユキに言われて、一緒に部屋に入った。
 ドミトリーみたいな守られた場所に住んでない、普通の人達はカギを2個掛けるのが基本だ。

 部屋に入ってびっくりした。狭い部屋ではない。
 けど、絵が大量に置かれていて狭い。
 奥にロフトがあって、ユキはそこで寝ているんだろうと思ったけど、ロフト以外はテーブルと椅子と絵で埋められている感じだ。

「座って待ってて」
 言われた通りに、テーブルの前の椅子に座って、絵を見る。

 飛んでいるアジサシの絵、ボロボロの倉庫と海、広場で遊ぶ子供たち。
 絵というものをちゃんと見ようと思ったことはなかったけど、実際に見る大きな絵は教科書で見るようなそれとは完全に別物だった。

 今度は反対の壁に並べられた絵を見る。
 塀と門の前で、はしゃぐ女の子と、それを見て手を叩いている女性の絵。これはソンファさんか?
 椅子から立ってその絵の前にしゃがみ込んだ。
 絵の中の女の子は、どこかユキに似ているように見える。女性は俺が知っているソンファさんと、凄く似ている。

「女の子かわいい?」
 振り向くと、ユキが飲み物をテーブルに置いていた。
「この女の人って、ソンファさん?」
 ユキが来て、隣にしゃがんだ。
「そだよ」
「この女の子は?」
「娘だよ」

「娘!?」
 びっくりした。
 絵の中の女の子は幼稚園児ぐらいに見えるけど、ユキは結婚してたのか?

「娘だよ。誰が父親かわかんないけど、あたしに似てるし、大事にかわいがってるよ」
「そうか……」
 それ以上、何を言ったらいいかわからなかった。

「ショック受けてる?」
「いや……。娘さんはどこにいるの?」
「ドミトリーだよ。預けた方が安く済むって言うのもあるけど、ここで暮らすよりドミトリーにいる方が安全だからね」
 たしかにドミトリーは職員さんもいるから安心かもしれない。

「ユキは絵で稼いでるの?」
「ペンキ絵専門だからね。頼まれて看板を描くこともあるよ。でも普段は港で検品とか荷役の補助とか。荷積みもやるしね」

 ピンときた。
「なるほど、それで筋肉質なんだ」

 ユキは立ち上がって、伸ばした足を自慢げに見せながら、俺に聞いた。
「筋肉質な足が好きなの?」
 しゃがんでいる俺の目の前にその足がある。

 足を見ないように我慢しながら、立ち上がって答えた。
「いやいや……」
 でも顔が赤くなるのは止めようがなかった。

 それから2人で椅子に座って、テーブルの上のアイスティーを飲んでいたけど、凄いことに気付いてむせた。

「ユキ、この壁って」
「今頃気付いたの?」

 リビングの窓とは反対の壁。その壁一面が絵になっている。
 大量に置かれた絵で下の方は隠れているけど、その絵はリビングの窓から見たのと同じ景色だった。
 違いと言えば、外は雨が降っていて、絵は晴nれ。それだけだ。

「こ、これ!」
「すごいでしょ?」

 俺が驚いていることが嬉しいみたいだ。
 しかし、これは本当にすごい。

 驚いて見つめていると、外が土砂降りになりだした。

 窓の前は滝のようになっているけど、反対を見ると快晴の街、海、空。

 そうか、一番残したい瞬間が残せるんだ。
 カメラで撮っても、残せないような瞬間を。

 女の子が遊んでいる所を写真に収めても、その時ソンファさんが最高の笑顔とは限らない。

 でも絵に残すときは、自分にとっての本当の世界が描けるんだ。