「ちょっと桐谷! 走るの早すぎるってばー!」
階段の手すりをすり抜けながら、私は必死で足を動かした。
つないだ手からダイレクトに伝わってくる桐谷の力強い体温と速さに引きずられるように、廊下の景色が飛ぶように後ろへ去っていく。
「声を出してる余裕があるなら、もっと足に力を入れろ冴島! 予熱が終わるまでに調理実習室に飛び込むぞ!」
「だから『冴島』に戻ってるじゃない! さっき屋上でドサクサに紛れて『詩織』って言ったのはなんなのよー!?」
「っ……! 余計なことを思い出してパニックになるな! ほら、角を曲がるぞ!」
桐谷の耳の先が、走っているせいだけじゃない理由でほんのり赤くなっているのを、私は見逃さなかった。
(なんなのよ、もう……! 照れるくらいなら最初から名前で呼ばないでよ! こっちの心臓がいくつあっても足りないじゃん!)
4階の屋上から2階の調理実習室まで、私たちはすれ違う生徒たちが驚いて振り返るのも構わず、風のように駆け抜けた。
――カチ、カチ、カチ。
調理実習室の前に差し掛かった瞬間、室内からボウルと泡立て器がぶつかる金属音と、タイマーの規則正しい電子音が聞こえてきた。
(まずい……! もう材料の仕込みが始まっちゃってる!?)
「待って――!!」
私は勢いよく調理実習室の重い引き戸をガラガラッと開け放ち、室内に飛び込んだ。
「え……!?」
中にいたフェス実行委員の生徒たちと山田先生が、息を切らして汗だくになっている私と桐谷を、目を丸くして見つめた。
調理台の上には、すでに小麦粉や砂糖が測り取られ、大きなボウルの中でバターと混ぜ合わされているところだった。
「冴島さん!? 桐谷くん!? 急に大きな声を出してどうしたの? 今、創立記念フェスで配る『黄金のハニーキャンディ・タルト』の生地の試作を始めるところなのよ」
山田先生が驚いた様子で手を止める。
その横で、実行委員の女の子が泡立て器を手に持ったまま首を傾げた。
「そうだよ。今、生徒会経由で届いた『伝統の公式レシピ』の通りに材料を混ぜて、これからオーブンで焼こうとしていたんだけど……」
「ダメです、そのレシピで焼いちゃダメ!!」
私は叫びながら調理台へ駆け寄り、そこに置かれていた『偽のレシピ用紙』をバッと取り上げた。
「これ……仕込みの段階で、重曹(炭酸水素ナトリウム)の分量が本物の10倍以上になってる! さらに、仕上げのソースに『強酸性のレモン汁』を大量に混ぜるように指示されてるわ!」
実行委員たちが顔を見合わせる。
「え……? 重曹が多いと、ふっくら膨らんで美味しいんじゃないの?」
「ううん、全然違うの!」
私は胸を張って、急いで製菓科学の雑学を解説し始めた。
「重曹はお菓子を膨らませる優れた膨張剤だけど、熱が加わると分解されて『炭酸ナトリウム』という強いアルカリ性物質に変わるの! 適量なら問題ないけれど、こんなに大量に入れたら、焼き上がったタルトは舌が痺れるほどの苦味と、石けんみたいな嫌な臭いがして、とても食べられたものじゃなくなっちゃうのよ!」
「ええっ!? 石けんの臭い!?」
「それだけじゃないわ!」
桐谷が横から追撃するように、クールな声で言った。
「この偽レシピの指示通り、アルカリ性が残った生地に、仕上げで大量のレモン汁(酸性)をかけるとどうなると思う? 中和反応が一気に起きて、二酸化炭素のガスが爆発的に発生する。焼き上がったタルトの表面が泡立ち、崩壊してしまうんだ」
「そんな……! じゃあ、このまま焼いていたら、せっかくの伝統スイーツが大失敗作になるところだったの!?」
山田先生が青ざめて手帳を落としそうになる。
「そうです。ですが……ご安心ください」
私は抱えていた本物の『秘伝のゴールド・レシピブック』と、屋上から持ち帰った『和蜜の結晶が入った瓶』を、ポンと調理台の上に置いた。
「本物のレシピと、初代校長先生が遺した“本当の隠し味”は、ここにあります!」
「「「ええええっ!?」」」
実習室の中に、歓声と驚きの声が上がった。
その直後、廊下から息を切らした神楽坂先輩が山田先生に付き添われて現れ、事の顛末とこれまでの非をすべて告白した。
山田先生は驚きつつも、生徒たちの情熱と、何より私と桐谷が一致協力して学校の危機を救ったことに深く感動していた。
「神楽坂くん……あなたのしたことは許されることではないけれど、まずはフェスを無事に成功させることが先決ね。放課後、じっくり話を聞きます。……さあみんな! 冴島さんと桐谷くんが取り戻してくれた本物のレシピで、最高のタルトを作りましょう!」
「「「はい!!」」」
実習室が一気に活気あふれる熱気に包まれた。
本物のレシピに従い、正しい分量で小麦粉とバターが練られていく。
そして仕上げに、私と桐谷が二人の体温で温めて手に入れた「和蜜」が、黄金色のソースとしてトロリと回しかけられた。
――15分後。
チーン!
オーブンから心地よい電子音が響き、扉が開かれた瞬間、実習室全体に香ばしいバターと甘く豊かなハチミツの香りが広がった。
「うわあぁぁ……! すごい! ピカピカに輝いてる!」
焼き上がった『黄金のハニーキャンディ・タルト』は、まるで太陽の光を閉じ込めた宝石のように美しく、クッキー生地はサクサク、中のキャラメルソースはトロトロに仕上がっていた。
「大成功ね、冴島さん! 桐谷くん!」
山田先生や実行委員のみんなが拍手を送ってくれる。
出来立てのタルトの甘い香りに包まれながら、私は思わず桐谷と顔を見合わせた。
桐谷の瞳も、いつもよりずっと柔らかく、誇らしげに輝いていた。
「見たか桐谷! 私たちのお菓子雑学とチームワークの勝利よ!」
「ああ。……認めざるを得ないな。お前のその知識と情熱がなかったら、今日という日は救えなかった」
桐谷がふっと口元をゆるめ、私の頭の上にそっと手を置いた。
今度は乱暴に撫でるんじゃなく、宝物を愛おしむように、優しく撫でてくれる。
(あ……また胸がキュンってなってる……。テストで勝った時より、何百倍も嬉しいかも……)
私の顔がポッと赤くなるのを、焼き立てのタルトの熱気のせいにして誤魔化す。
夕暮れ時の放課後。
窓から差し込む茜色の光が、実習室をオレンジ色に染め上げていた。
フェスの準備は完璧に整い、学校を揺るがした「レシピ消失事件」は、これ以上ないハッピーエンドで幕を閉じたのだ。
……だが、私と桐谷の「秘密の放課後」は、まだこれで終わりではなかった。
階段の手すりをすり抜けながら、私は必死で足を動かした。
つないだ手からダイレクトに伝わってくる桐谷の力強い体温と速さに引きずられるように、廊下の景色が飛ぶように後ろへ去っていく。
「声を出してる余裕があるなら、もっと足に力を入れろ冴島! 予熱が終わるまでに調理実習室に飛び込むぞ!」
「だから『冴島』に戻ってるじゃない! さっき屋上でドサクサに紛れて『詩織』って言ったのはなんなのよー!?」
「っ……! 余計なことを思い出してパニックになるな! ほら、角を曲がるぞ!」
桐谷の耳の先が、走っているせいだけじゃない理由でほんのり赤くなっているのを、私は見逃さなかった。
(なんなのよ、もう……! 照れるくらいなら最初から名前で呼ばないでよ! こっちの心臓がいくつあっても足りないじゃん!)
4階の屋上から2階の調理実習室まで、私たちはすれ違う生徒たちが驚いて振り返るのも構わず、風のように駆け抜けた。
――カチ、カチ、カチ。
調理実習室の前に差し掛かった瞬間、室内からボウルと泡立て器がぶつかる金属音と、タイマーの規則正しい電子音が聞こえてきた。
(まずい……! もう材料の仕込みが始まっちゃってる!?)
「待って――!!」
私は勢いよく調理実習室の重い引き戸をガラガラッと開け放ち、室内に飛び込んだ。
「え……!?」
中にいたフェス実行委員の生徒たちと山田先生が、息を切らして汗だくになっている私と桐谷を、目を丸くして見つめた。
調理台の上には、すでに小麦粉や砂糖が測り取られ、大きなボウルの中でバターと混ぜ合わされているところだった。
「冴島さん!? 桐谷くん!? 急に大きな声を出してどうしたの? 今、創立記念フェスで配る『黄金のハニーキャンディ・タルト』の生地の試作を始めるところなのよ」
山田先生が驚いた様子で手を止める。
その横で、実行委員の女の子が泡立て器を手に持ったまま首を傾げた。
「そうだよ。今、生徒会経由で届いた『伝統の公式レシピ』の通りに材料を混ぜて、これからオーブンで焼こうとしていたんだけど……」
「ダメです、そのレシピで焼いちゃダメ!!」
私は叫びながら調理台へ駆け寄り、そこに置かれていた『偽のレシピ用紙』をバッと取り上げた。
「これ……仕込みの段階で、重曹(炭酸水素ナトリウム)の分量が本物の10倍以上になってる! さらに、仕上げのソースに『強酸性のレモン汁』を大量に混ぜるように指示されてるわ!」
実行委員たちが顔を見合わせる。
「え……? 重曹が多いと、ふっくら膨らんで美味しいんじゃないの?」
「ううん、全然違うの!」
私は胸を張って、急いで製菓科学の雑学を解説し始めた。
「重曹はお菓子を膨らませる優れた膨張剤だけど、熱が加わると分解されて『炭酸ナトリウム』という強いアルカリ性物質に変わるの! 適量なら問題ないけれど、こんなに大量に入れたら、焼き上がったタルトは舌が痺れるほどの苦味と、石けんみたいな嫌な臭いがして、とても食べられたものじゃなくなっちゃうのよ!」
「ええっ!? 石けんの臭い!?」
「それだけじゃないわ!」
桐谷が横から追撃するように、クールな声で言った。
「この偽レシピの指示通り、アルカリ性が残った生地に、仕上げで大量のレモン汁(酸性)をかけるとどうなると思う? 中和反応が一気に起きて、二酸化炭素のガスが爆発的に発生する。焼き上がったタルトの表面が泡立ち、崩壊してしまうんだ」
「そんな……! じゃあ、このまま焼いていたら、せっかくの伝統スイーツが大失敗作になるところだったの!?」
山田先生が青ざめて手帳を落としそうになる。
「そうです。ですが……ご安心ください」
私は抱えていた本物の『秘伝のゴールド・レシピブック』と、屋上から持ち帰った『和蜜の結晶が入った瓶』を、ポンと調理台の上に置いた。
「本物のレシピと、初代校長先生が遺した“本当の隠し味”は、ここにあります!」
「「「ええええっ!?」」」
実習室の中に、歓声と驚きの声が上がった。
その直後、廊下から息を切らした神楽坂先輩が山田先生に付き添われて現れ、事の顛末とこれまでの非をすべて告白した。
山田先生は驚きつつも、生徒たちの情熱と、何より私と桐谷が一致協力して学校の危機を救ったことに深く感動していた。
「神楽坂くん……あなたのしたことは許されることではないけれど、まずはフェスを無事に成功させることが先決ね。放課後、じっくり話を聞きます。……さあみんな! 冴島さんと桐谷くんが取り戻してくれた本物のレシピで、最高のタルトを作りましょう!」
「「「はい!!」」」
実習室が一気に活気あふれる熱気に包まれた。
本物のレシピに従い、正しい分量で小麦粉とバターが練られていく。
そして仕上げに、私と桐谷が二人の体温で温めて手に入れた「和蜜」が、黄金色のソースとしてトロリと回しかけられた。
――15分後。
チーン!
オーブンから心地よい電子音が響き、扉が開かれた瞬間、実習室全体に香ばしいバターと甘く豊かなハチミツの香りが広がった。
「うわあぁぁ……! すごい! ピカピカに輝いてる!」
焼き上がった『黄金のハニーキャンディ・タルト』は、まるで太陽の光を閉じ込めた宝石のように美しく、クッキー生地はサクサク、中のキャラメルソースはトロトロに仕上がっていた。
「大成功ね、冴島さん! 桐谷くん!」
山田先生や実行委員のみんなが拍手を送ってくれる。
出来立てのタルトの甘い香りに包まれながら、私は思わず桐谷と顔を見合わせた。
桐谷の瞳も、いつもよりずっと柔らかく、誇らしげに輝いていた。
「見たか桐谷! 私たちのお菓子雑学とチームワークの勝利よ!」
「ああ。……認めざるを得ないな。お前のその知識と情熱がなかったら、今日という日は救えなかった」
桐谷がふっと口元をゆるめ、私の頭の上にそっと手を置いた。
今度は乱暴に撫でるんじゃなく、宝物を愛おしむように、優しく撫でてくれる。
(あ……また胸がキュンってなってる……。テストで勝った時より、何百倍も嬉しいかも……)
私の顔がポッと赤くなるのを、焼き立てのタルトの熱気のせいにして誤魔化す。
夕暮れ時の放課後。
窓から差し込む茜色の光が、実習室をオレンジ色に染め上げていた。
フェスの準備は完璧に整い、学校を揺るがした「レシピ消失事件」は、これ以上ないハッピーエンドで幕を閉じたのだ。
……だが、私と桐谷の「秘密の放課後」は、まだこれで終わりではなかった。


