「律ーーーーーっ!!」
伸ばした手は、何重にも重なる煙と真っ赤な炎の壁に阻まれ、虚しく空を切った。
ズシンッ……!
地響きのような低音とともに、床の一部が二階へと完全に落ちていく。
吹き抜ける熱風が、わたしの前髪を激しく煽った。
その暗闇の底へ、律の体が消えていく。
最後に見せた、あの哀しそうで、けれど愛おしさで胸が潰れそうになっているような、切ない笑顔。
『また、次の放課後で合おうな。紬』
その声が、耳から、頭から、心臓から離れない。
「嘘……でしょ……?」
わたしは膝から崩れ落ち、熱を帯びた床に両手をついた。
爪から滲んだ血がアスファルトならぬ焦げた木板に染み込んでいく。
頭の中で、今まで彼と過ごした無数の「10月15日」の記憶が、濁流となって押し寄せてきた。
——『うわっ、紬? なんで泣いてんの?』
——『また……お前に……泣き顔……させちゃった……』
——『バカ言んじゃねえ! お前が死んでどうすんだよ! 意味ねえだろ……!』
(どうして……どうしてわたし、気づかなかったんだろう……)
涙で視界がぐしゃぐしゃに歪む。
一回目のあの日。
二回目のあの日。
十回目も、五十回目も、百回目も。
わたしは「わたしだけがタイムリープして、律を救おうとしている」と思い込んでいた。
律を事故から遠ざけることだけに必死で、彼の瞳の奥にあった「違和感」から目を背けていたのだ。
転校してきたばかりなのに、なぜ律は最初からわたしに心を開いてくれたのか。
なぜわたしが「今日、付き合って」と言ったとき、呆れながらも絶対に断らなかったのか。
なぜ危険が迫るたび、自分の命なんて投げ打つみたいにわたしを庇ったのか。
……全部、そうだったんだ。
(律も……時間を戻していたんだ……!)
わたしが「律の死」を阻止しようとしていた裏で、律もまた「わたしの死」を防ごうと、何度も、何度も、今日という日をやり直していた。
トラックの事故も。落下物も。崩落も。
本当は、わたしが律を庇って死ぬ運命だったのかもしれない。あるいは、ふたりで事故に巻き込まれる運命だったのかもしれない。
わたしが「律を救おう」と動けば動くほど、運命の歪みが律に襲いかかり、律が「わたしを救おう」と動けば動くほど、危険がわたし達を取り囲んでいたのだ。
『君が泣かない未来を探して、俺も何回も今日をやり直してたんだよ』
律の幻声が聞こえた気がした。
ふたりの想いは、最初から同じだった。
お互いに相手を死なせたくなくて、相手のいない未来が怖くて、絶望のループを互いに繰り返していたなんて——。
「うああぁぁぁぁぁっ……!」
押し寄せる感情に耐えきれず、わたしは叫んだ。
喉が灼けるほど熱い。煙のせいじゃない。胸の奥が、愛おしさと切なさと悔しさで破裂しそうだった。
ふたりのタイムリープが重なり合っていたからこそ、運命はこんなにも歪み、どんな回避策をとっても残酷な形で牙を剥いてきたのだ。
(一人で背負ってるつもりになってた……。律に何にも話さないで、一人で勝手に助けようとしてた……!)
カチャリ、と音がした。
胸のポケットで、真鍮の懐中時計が今までで一番強く、激しい光を放ち始める。
黄金色の光が、黒煙を吹き飛ばし、崩れ落ちた図書室の空間を包み込んでいく。
熱い。けれど、さっきまでの炎の熱さとは違う。
温かくて、切なくて、悲しいほど眩しい光。
(律……ごめんね。わたし、知らなかった……)
光の渦の中で、わたしは時計をギュッと胸に抱きしめた。
(きみがどれだけの思いで、わたしを守ろうとしてくれていたのか……全然分かってなかった)
世界が反転していく。
時間という概念が巻き戻り、崩れ落ちた鉄骨も、燃え上がる炎も、散らばった本も、すべてが光の粒子となって過去へと戻っていく。
(でも……もう逃げない。一人で抱え込まない)
暗闇の底で、わたしは自分自身に誓った。
(きみがわたしのために時間を戻してくれていたなら、今度こそ二人で……この残酷な運命を終わらせる!)
102回目の、さよならを書き換えるために。
◇
「……紬?」
ハッと息を呑んで目を覚ました。
頬に触れる、夕暮れ色の柔らかい光。
目に飛び込んできたのは、見慣れた木目の天板と、隅っこに刻まれた小さな傷跡。
キーンコーンカーンコーン……。
放課後を告げるチャイムの音が、遠くで静かに響き渡っていた。
壁の丸時計の針は——午後四時三十分。
黒板の横の日めくりカレンダーには、赤字で大きく「10月15日」と書かれている。
102回目の、10月15日。
「うわっ、紬? なんで泣いてんの?」
頭上から降ってきた、少し生意気で、でも世界で一番愛おしい声。
ゆっくりと顔を上げると、そこにはスクールバッグを肩にかけた律が立っていた。
少しクセのある黒髪。夕日に透ける茶色い瞳。
その瞳の奥には、ほんのわずかな疲労と、隠しきれない深い切なさが宿っている。
今までなら「嫌な夢を見ただけ」と笑って誤魔化していた。
けれど、もう違う。わたしは知っているのだ。彼もまた、この四時三十分という絶望のスタートラインに、傷つきながら戻ってきたのだということを。
「律」
わたしは立ち上がり、まっすぐに彼の目を見つめた。
「な、なんだよ……そんな真剣な顔して……」
律が一瞬、戸惑ったように眉をひそめる。
わたしは零れ落ちそうな涙をぐっと堪え、ポケットから自分の真鍮の懐中時計を取り出し、机の上にポンと置いた。
そして、彼の目を一度も逸らさずに言った。
「わたしね、101回やり直したの」
「……は?」
律の顔から、すっと余裕が消えた。茶色い瞳が揺れ、息を呑む音が聞こえた。
「101回やり直して、きみを救おうとした。でもダメだった。……そしてさっき、知ったの」
わたしは一歩、彼へと足を踏み出す。
「律も……タイムリープしてるんでしょ? わたしを救うために」
静寂が、誰もいない教室を支配した。
夕暮れの光の中で、律は固まったように動きを止め、それからあきらめたように、力なくふっと笑った。
伸ばした手は、何重にも重なる煙と真っ赤な炎の壁に阻まれ、虚しく空を切った。
ズシンッ……!
地響きのような低音とともに、床の一部が二階へと完全に落ちていく。
吹き抜ける熱風が、わたしの前髪を激しく煽った。
その暗闇の底へ、律の体が消えていく。
最後に見せた、あの哀しそうで、けれど愛おしさで胸が潰れそうになっているような、切ない笑顔。
『また、次の放課後で合おうな。紬』
その声が、耳から、頭から、心臓から離れない。
「嘘……でしょ……?」
わたしは膝から崩れ落ち、熱を帯びた床に両手をついた。
爪から滲んだ血がアスファルトならぬ焦げた木板に染み込んでいく。
頭の中で、今まで彼と過ごした無数の「10月15日」の記憶が、濁流となって押し寄せてきた。
——『うわっ、紬? なんで泣いてんの?』
——『また……お前に……泣き顔……させちゃった……』
——『バカ言んじゃねえ! お前が死んでどうすんだよ! 意味ねえだろ……!』
(どうして……どうしてわたし、気づかなかったんだろう……)
涙で視界がぐしゃぐしゃに歪む。
一回目のあの日。
二回目のあの日。
十回目も、五十回目も、百回目も。
わたしは「わたしだけがタイムリープして、律を救おうとしている」と思い込んでいた。
律を事故から遠ざけることだけに必死で、彼の瞳の奥にあった「違和感」から目を背けていたのだ。
転校してきたばかりなのに、なぜ律は最初からわたしに心を開いてくれたのか。
なぜわたしが「今日、付き合って」と言ったとき、呆れながらも絶対に断らなかったのか。
なぜ危険が迫るたび、自分の命なんて投げ打つみたいにわたしを庇ったのか。
……全部、そうだったんだ。
(律も……時間を戻していたんだ……!)
わたしが「律の死」を阻止しようとしていた裏で、律もまた「わたしの死」を防ごうと、何度も、何度も、今日という日をやり直していた。
トラックの事故も。落下物も。崩落も。
本当は、わたしが律を庇って死ぬ運命だったのかもしれない。あるいは、ふたりで事故に巻き込まれる運命だったのかもしれない。
わたしが「律を救おう」と動けば動くほど、運命の歪みが律に襲いかかり、律が「わたしを救おう」と動けば動くほど、危険がわたし達を取り囲んでいたのだ。
『君が泣かない未来を探して、俺も何回も今日をやり直してたんだよ』
律の幻声が聞こえた気がした。
ふたりの想いは、最初から同じだった。
お互いに相手を死なせたくなくて、相手のいない未来が怖くて、絶望のループを互いに繰り返していたなんて——。
「うああぁぁぁぁぁっ……!」
押し寄せる感情に耐えきれず、わたしは叫んだ。
喉が灼けるほど熱い。煙のせいじゃない。胸の奥が、愛おしさと切なさと悔しさで破裂しそうだった。
ふたりのタイムリープが重なり合っていたからこそ、運命はこんなにも歪み、どんな回避策をとっても残酷な形で牙を剥いてきたのだ。
(一人で背負ってるつもりになってた……。律に何にも話さないで、一人で勝手に助けようとしてた……!)
カチャリ、と音がした。
胸のポケットで、真鍮の懐中時計が今までで一番強く、激しい光を放ち始める。
黄金色の光が、黒煙を吹き飛ばし、崩れ落ちた図書室の空間を包み込んでいく。
熱い。けれど、さっきまでの炎の熱さとは違う。
温かくて、切なくて、悲しいほど眩しい光。
(律……ごめんね。わたし、知らなかった……)
光の渦の中で、わたしは時計をギュッと胸に抱きしめた。
(きみがどれだけの思いで、わたしを守ろうとしてくれていたのか……全然分かってなかった)
世界が反転していく。
時間という概念が巻き戻り、崩れ落ちた鉄骨も、燃え上がる炎も、散らばった本も、すべてが光の粒子となって過去へと戻っていく。
(でも……もう逃げない。一人で抱え込まない)
暗闇の底で、わたしは自分自身に誓った。
(きみがわたしのために時間を戻してくれていたなら、今度こそ二人で……この残酷な運命を終わらせる!)
102回目の、さよならを書き換えるために。
◇
「……紬?」
ハッと息を呑んで目を覚ました。
頬に触れる、夕暮れ色の柔らかい光。
目に飛び込んできたのは、見慣れた木目の天板と、隅っこに刻まれた小さな傷跡。
キーンコーンカーンコーン……。
放課後を告げるチャイムの音が、遠くで静かに響き渡っていた。
壁の丸時計の針は——午後四時三十分。
黒板の横の日めくりカレンダーには、赤字で大きく「10月15日」と書かれている。
102回目の、10月15日。
「うわっ、紬? なんで泣いてんの?」
頭上から降ってきた、少し生意気で、でも世界で一番愛おしい声。
ゆっくりと顔を上げると、そこにはスクールバッグを肩にかけた律が立っていた。
少しクセのある黒髪。夕日に透ける茶色い瞳。
その瞳の奥には、ほんのわずかな疲労と、隠しきれない深い切なさが宿っている。
今までなら「嫌な夢を見ただけ」と笑って誤魔化していた。
けれど、もう違う。わたしは知っているのだ。彼もまた、この四時三十分という絶望のスタートラインに、傷つきながら戻ってきたのだということを。
「律」
わたしは立ち上がり、まっすぐに彼の目を見つめた。
「な、なんだよ……そんな真剣な顔して……」
律が一瞬、戸惑ったように眉をひそめる。
わたしは零れ落ちそうな涙をぐっと堪え、ポケットから自分の真鍮の懐中時計を取り出し、机の上にポンと置いた。
そして、彼の目を一度も逸らさずに言った。
「わたしね、101回やり直したの」
「……は?」
律の顔から、すっと余裕が消えた。茶色い瞳が揺れ、息を呑む音が聞こえた。
「101回やり直して、きみを救おうとした。でもダメだった。……そしてさっき、知ったの」
わたしは一歩、彼へと足を踏み出す。
「律も……タイムリープしてるんでしょ? わたしを救うために」
静寂が、誰もいない教室を支配した。
夕暮れの光の中で、律は固まったように動きを止め、それからあきらめたように、力なくふっと笑った。



