さよならを繰り返す100回目の放課後

風車公園の丘の上、風がふたりの髪を優しく揺らしていた。

手首に巻かれた新品の腕時計。
その規則正しい『チクタク』という小さな針の音が、律の腕の中で静かに響いている。

「……なぁ、紬」

律がわたしの背中を撫でながら、ふと静かな声で囁いた。

「ん……?」

「俺たち、これからいろんなところへ行こうな」

律はわたしをそっと腕の中から抱き起こすと、まっすぐにこちらの目を見つめた。その茶色い瞳には、雲ひとつない春の青空が映り込んでいた。

「三年生になったら受験もあるし、きっと今より忙しくなる。だけど……夏休みには海へ行こう。秋には紅葉を見に行って、冬には初詣に行ってさ。二人で、普通の高校生がやるようなこと、全部やろう」

「律……」

「102回分のやり直しの中で、俺たちは『10月15日』の狭間に閉じ込められて、季節が変わる描写なんて一回も見られなかっただろ? 春が来て、夏が来て、秋が過ぎて冬が来る……そんな当たり前の時間の流れを、二人で全部噛み締めたいんだ」

律の言葉ひとつひとつが、温かい雫となって胸の奥に染み込んでいく。

そうだ。あの日々は、ただひたすらに同じ季節、同じ日付を繰り返すだけの閉じた牢獄だった。
でも今、わたし達の前には四季が巡り、どこまでも続く『未来』が広がっている。

「うん! 行こう、律……! 海も、紅葉も、初詣も……二人で全部行こうね!」

わたしが涙を拭いながら笑顔で答えると、律は満足そうに目を細め、照れくさそうに自分の腕時計に視線を落とした。

「よし……じゃあ、そろそろ行くか」

「え? どこへ?」

「帰る前に、もう一箇所だけ寄っておきたい場所があるんだ」

◇

バスと電車を乗り継いで辿り着いたのは、夕暮れに包まれ始めた街の静かな住宅街だった。

坂道を少し上ったところにある、小高い丘の上の神社。
朱色の鳥居が、落ちていく夕日の光を浴びて、深い茜色に染まっている。

「ここ……わたし達が102回目に向かおうとしてた神社……?」

わたしが息を呑むと、律はゆっくりと頷いた。

102回目のあの日。
『ここで二人で手を合わせれば、何か変わるかもしれない』と、最後に目指そうとしていた場所。
けれど、そこに辿り着く前に四本の巨大な照明塔が倒れ込み、わたし達はグラウンドで運命の決戦を迎えることになったのだ。

「あの時は……結局、ここに辿り着けなかったからな」

律は鳥居を見上げながら、感慨深そうに呟いた。

「行こう、紬。一回目から102回目まで……そして今日までのお礼と、これからの報告をしにさ」

わたし達は固く手を繋ぎ、鳥居をくぐって石段を一つずつ上って行った。

境内の静けさの中に、風鈴のかすかな音がカラリンと響く。
手水舎で手を清め、拝殿の前へと進む。

お賽銭箱に二つの小銭を投げ入れ、鈴の紐を引く。

カララーン、と澄んだ金属音が夕暮れの境内に渡っていった。

二礼、二拍手。

わたしは静かに目を閉じ、胸の前で両手を合わせた。

(神様……ううん、この世界を見守ってくれたすべての時間の神様。わたし達に『明日』をくれて、本当にありがとうございました)

頭の中で、これまでの日々が走馬灯のように駆け巡る。

暴走トラックの悲鳴。図書室の炎。崩れ落ちる鉄骨。
102回の死闘の末に手に入れた、記憶の消滅と再会。
そして、クオンと一緒に駆け抜けた「時間の残滓」の回収作業。

苦しくて、切なくて、何度も死にそうになった。
けれど、そのすべての道のりがあったからこそ——わたしは今、世界で一番大好きな人の隣で、こうして手を合わせることができている。

(わたし達はもう、過去を巻き戻したりしません。手に入れた『今日』を大切に、二人で笑って、明日へ歩いていきます。どうか、わたし達の未来を見守っていてください)

隣を見ると、律もまた、固く目を閉じて真剣な表情で祈りを捧げていた。

彼が何を祈っているのか、聞かなくても分かった。
きっとわたしと同じように、これまでの感謝と、これから二人で歩んでいく未来への決まり文句(決意)を伝えているのだ。

一礼をして、わたし達は手を放した。

「……なんて祈った?」

律が少し悪戯っぽい笑みを浮かべて覗き込んできた。

「ひーみつ。律は?」

「俺も秘密」

律はそう言ってフッと笑うと、境内を囲む大きな楠の木の木陰へと歩いて行った。

「……なぁ、紬」

「ん?」

「俺さ……102回のやり直しの間、ずっと考えてたことがあったんだ」

律は楠の幹に背中を預け、茜色に染まる空を見上げた。

「もし……もし奇跡が起きて、二人の事故を回避して明日に行けたとしてさ。紬が俺のことを好きになってくれなかったらどうしよう、って」

「え……?」

意外な言葉に、わたしは目を見開いた。

「だってそうだろ? 一回目の俺なんて、お前に冷たく接して、ろくに会話もしてなかった。タイムリープを繰り返す中で俺だけがお前を好きになって……お前を救うために必死になってただけだったかもしれない」

律の茶色い瞳が、少しだけ切なさそうに揺れる。

「お前にとって俺は、ただの『命の恩人』であって、恋愛感情なんて抱いてもらえないんじゃないかって……本当は、ずっと不安だったんだ」

「律……」

わたしは胸がキュッと絞めつけられるのを感じた。

律は102回もの間、死の恐怖だけでなく、そんな切ない不安とも戦い続けていたのだ。
自分の命を削ってわたしを救おうとしながら、『救われた後のわたし』に拒絶されるかもしれない恐怖を抱えていたなんて。

わたしは一歩、律へと歩み寄った。

「バカだなぁ、律は」

「……バカって言うな」

「バカだよ。だってね……」

わたしは律の目の前に立ち、彼の制服の胸元を優しく両手で掴んだ。

「わたしが律を好きになったのはね……命を救ってくれたからじゃないよ」

「……え?」

「どんなに不器用でも、わたしのために一生懸命になってくれて……素直になれないのに耳を赤くして……わたしが泣いてたら、自分のことみたいに苦しい顔をしてくれる……そんな律の優しさに触れたから、わたしは律のことを好きになったんだよ」

わたしはまっすぐに律の瞳を見つめた。

「102回の記憶を失って、名前すら忘れてたあの日……教室で律を見た瞬間、わたしね、心臓が破れるくらいドキドキしたの。『この人がわたしの一番大切な人だ』って、魂が叫んでたの」

「紬……」

「だからね、たとえタイムリープがなかったとしても……わたしがこの街に転校してきて、律と出会ってたら……わたしは絶対に、何度だって律に恋をしてたよ」

溢れ出る想いを、ありったけの言葉にして伝えた。

律は目を見開き、息を呑むようにわたしを見つめていた。
やがて、その茶色い瞳に大きな涙が溜まり、ぽろりと彼の頬を伝って落ちた。

「……お前……本当にズルいよ……」

律は掠れた声で呟くと、わたしの身体を強く、強く抱きしめた。

「俺だって……俺だって、何回生まれ変わったって……お前以外の奴なんて好きになれねえよ……っ!」

律の腕の力が強くなる。わたしも彼の背中に手を回し、爪が立つほど強く抱き返した。

風車公園の風。境内の夕日。手首の時計の音。
ふたりの心が、過去も、現在も、未来もすべて溶け合って、完璧なひとつになっていく感覚。

わたし達はもう、「事故を回避するために一緒にいる二人」ではなかった。
互いを心から愛し合い、これからの人生を共に歩んでいく「永遠のパートナー」になったのだ。

境内の大きな楠の葉が、春の風を受けてサワサワと優しく揺れていた。