さよならを繰り返す100回目の放課後

10月16日という「明日」を迎えてから、二週間が過ぎた。

秋の深まりとともに、街路樹のイチョウは黄金色に染まり、朝晩の風には冬の匂いが混じり始めていた。
放課後の教室。夕日の光が長く差し込む窓辺で、わたしと律は隣り合って座り、二人で一つのノートを広げていた。

「へえ……これが、わたし達が作ってきた新しい思い出リストなんだ」

わたしがノートのページをめくると、そこには手書きの小さな記録がたくさん並んでいた。

『10月17日:放課後、駅前の公園で肉まんを食べた』
『10月20日:律が数学のテストで学年10位になって自慢してきた』
『10月24日:二人で図書室の整理をして、古い小説を見つけた』
『10月28日:雨が降って、一つの傘で帰った』

「バカ言え。自慢なんかしてねえよ」

隣で律が照れくさそうに顔を背けながら、ペンをクルクルと指先で回した。
その耳の先端が、夕日を受けてほのかに赤い。

頭の記憶(102回のやり直し)を失ってから、わたし達は意識して「日記」をつけ始めていた。
失われた記憶の穴を埋めるためではない。
今日という一日が、明日という未来へ確かに繋がっていることを、自分たちの手で確かめるための絆の記録だった。

「でもさ、律。ほんとに不思議だよね」

わたしはノートから顔を上げ、窓の外の校庭を見つめた。

「前は、放課後になるのがあんなに怖かったのに。四時五十分になると胸が苦しくなって……五時が来るのが恐怖でたまらなかったのに。今はこんなに、夕焼けが綺麗に見えるんだもん」

「……ああ」

律も静かに頷き、自分のスクールバッグの底を指先で撫でた。

「壊れた時計の破片……あのあと、跡形もなく消えちまったな」

「うん。時空の狭間で砕け散ったもんね」

ふたつの真鍮の懐中時計。
102回のタイムリープを支え、そして最後には二人の記憶と引き換えに破壊された、あの呪いであり救いでもあった骨董品。
それらはもう、この世界のどこにも存在しない。わたし達はもう時間を戻すことも、過去をやり直すこともできない「ただの高校生」に戻ったのだ。

……そのはずだった。

「ねえ、律。ちょっとこれ見て」

わたしはスクールバッグの奥から、今朝、下駄箱に入っていた一枚の『封筒』を取り出した。

「下駄箱……? 手紙か?」

律が不審そうに眉をひそめる。

封筒は、古びた羊皮紙のような厚手の紙で作られており、封蝋(シーリングワックス)には不思議な「歯車と鳥の羽」を組み合わせた紋章が刻印されていた。差出人の名前はない。

「朝、靴を履き替えようとしたら入ってたの。最初はイタズラかなって思ったんだけど……宛名を見て」

わたしが封筒の表側を律に見せると、彼の茶色い瞳が息を呑むように見開かれた。

そこには、流れるような美しい毛筆体でこう書かれていた。

『102回の航海を終えし、ふたりの時の織り手へ —— 桐生紬 様、藤代律 様』

「……なっ……!?」

律の顔から一瞬で血の気が引いた。

102回。
その数字を知っている人間は、この世界に二人しかいないはずだった。
いや、タイムリープの記憶を完全に失った今のわたし達にとっても、その数字は「魂の感覚」でしか理解できていないはずの秘密だったのだ。

「誰だ……!? 誰がこんなものを……」

「開けてみよう、律」

わたし達は息を潜め、ゆっくりと封蝋を剥がし、中の手紙を取り出した。

中から現れたのは、羊皮紙の便箋と——黒い金属でできた、小さな「鍵」だった。

手紙には、こう記されていた。

『二人が勝ち取った「10月16日」は、美しく、そして奇跡的な均衡の上に成り立っている。
しかし、時を巻き戻し続けた歪みは、二人だけのものではない。
あの日、砕け散った懐中時計の「残滓(ざんし)」が、この街の至る所に「時間の澱(よどみ)」となって残留している。

もしそれを放置すれば、遠くない未来、この街の時間そのものが破綻し、二人を含むすべての人間が「存在しない過去」へ飲み込まれるだろう。

時を終わらせた者たちよ。
今日の放課後、午後五時三十分。
旧校舎の地下倉庫へ来られよ。
残された「鍵」が、次の扉を開く。

—— 時の調律者(クロノス)より 』

「……時間の……澱……?」

読み終えたわたし達は、顔を見合わせた。

言葉の意味が、半分も理解できなかった。
でも、手紙から漂う異様な圧迫感と、机の上に落ちた黒い鍵が発するかすかな振動が、これが単なる悪質なイタズラではないことを物語っていた。

「冗談じゃねえぞ……!」

律が激しい怒りを露わにし、手紙を机の上に叩きつけた。

「せっかく……せっかく二人で死ぬ気で運命を変えて、明日を手に入れたんだぞ!? なのに、まだ何か残ってんのかよ! これ以上、紬に手を出すな!!」

「律、落ち着いて……!」

わたしは律の震える腕を強く抱きしめた。
律の背中が、激しい恐怖と怒りで固くなっている。102回もの間、一人で「運命」という不条理な敵と戦い続けてきた彼だからこそ、再びその影が忍び寄ってきたことに対する恐怖は想像を絶するものだった。

「わたしも怖いよ、律。でも……逃げたらダメな気がするの」

わたしは黒い金属の鍵を拾い上げ、手のひらで強く握りしめた。

「もし本当に、この街やわたし達の『明日』が危ないなら……確認しに行こう。二人で手をつないで、確かめに行こうよ」

律は歯を食いしばり、悔しそうに目を閉じた。
そして、ゆっくりと息を吐き出すと、わたしの手を力強く握り返してくれた。

「……ああ。そうだな。逃げたって始まらねえ。……お前は俺が守る。何が来ようが、絶対にだ」

◇

午後五時二十分。

秋の日は落ちるのが早く、校舎の周囲はすっかり濃紺の闇に包まれていた。
わたし達は、校舎の北側にひっそりと佇む「旧校舎」へと向かった。

現在は使われておらず、立ち入り禁止のロープが張られた木造の建物。
割れた窓ガラス、軋む廊下、静まり返った暗闇。

「ここか……」

律がスマートフォンで足元を照らしながら、旧校舎の奥にある「地下倉庫」へと続く鉄の扉の前に立った。

鉄扉には、太いチェーンと古びた南京錠が固く巻き付けられていた。
南京錠の鍵穴を見る。それは、下駄箱に入っていた黒い金属の鍵の形と、完璧に一致していた。

カチャリ。

鍵を差し込み、回す。
カチリと重い金属音が響き、チェーンが音を立てて床に落ちた。

ギィィィィィィ……ッ。

重い鉄扉を開けると、そこから冷やりとした、時代から取り残されたようなカビと金属の匂いが立ち込めてきた。

地下へ続く、暗い石造りの階段。

わたし達は固く手を繋ぎ、一歩一歩、慎重に階段を下りて行った。

階段を降り切った先に広ろがっていたのは、予想だにしない光景だった。

そこは単なる学校の倉庫ではなかった。
壁一面に敷き詰められた、無数の古い大きな「柱時計」や「掛け時計」。
チクタク、チクタク、チクタク……。
何百もの時計の針が、それぞれ微妙に異なるリズムで刻む音が、ドーム状の部屋全体に反響していた。

そして、部屋の中央。
そこに、一人の人物が立っていた。

黒いロングコートを身に纏い、顔を深いフードで覆った人物。
その胸元には、あの日砕け散ったはずの真鍮の時計と同じ、鈍い金色の光が揺られていた。

「……よく来てくれたね。102回の航海を生き延びた、時の子供たち」

フードの奥から聞こえてきたのは、鈴を鳴らしたような、透き通った若い女性の声だった。

「お前は誰だ!?」

律がすかさず前に出、わたしを背中に庇うようにして叫んだ。

「手紙の『時の調律者』ってお前か!? 俺たちに何の本気だ! もうタイムリープなんて終わったはずだろ!!」

フードの人物は、ゆっくりとフードを外した。

そこに現れたのは——驚くほど整った顔立ちをした、白い肌と深い銀色の髪を持つ、同年代ほどの少女だった。

「私の名はクオン。『時の調律者』の末裔……そして、かつてあなたたちと同じように、失われた時間を求めて世界を旅した者のひとりよ」

クオンと名乗った少女は、哀しげな、けれどどこか温かい瞳でわたしと律を見つめた。

「藤代律。桐生紬。あなたたちの奇跡的な生還に、まずは敬意を。……けれど、手紙に書いたことはすべて事実よ。見てみなさい」

クオンが手を一筋振ると、地下室の天井に、ゆらゆらと水面のような「光の映像」が映し出された。

そこに映っていたのは——わたし達が通うこの街の、現在の夜景だった。

しかし、よく見ると異常が起きていた。
街灯の光が、チカチカと不自然な周期で点滅している。
走る車のライトが、時折、巻き戻るように一瞬だけ後ろへスライドする。
歩道を歩く人々の一動作が、コンマ数秒だけ重複して繰り返されている。

「これは……!?」

わたしは息を呑んだ。

「これが『時間の澱』よ」

クオンは静かに語り始めた。

「あなたたちが102回ものタイムリープを重ね、最後にはその世界そのものを破壊して『10月16日』へ強行突入した。その結果、本来消滅するはずだった102回分の『捨て去られた時間』が、行き場を失ってこの街の境界線に滞留しているの」

クオンは部屋の壁にかけられた、割れた巨大な掛け時計を指差した。

「この澱(よどみ)を放置すれば、あと三日で街全体の時間の流れが壊壊する。人々は過去の同じ瞬間を永遠に繰り返す『時間麻痺』に陥り……この街は世界地図から完全に消失するわ」

「そんな……っ!」

わたしは言葉を失った。

わたしと律が助かりたい一心で、二人で明日へ逃げ延びた結果——その代償が、街全体へ広がろうとしているなんて。

「ふざけるな……!」

律が絞り出すような声で言った。

「じゃあなにか!? 俺たちが生き残ったことが間違いだったって言いたいのか!? 誰かが死ななきゃいけないのが『正しい世界のルール』だって言うのかよ!!」

怒りに打ち震える律に向かって、クオンは首を横に振った。

「いいえ。私はあなたたちの選択を否定しないわ。愛する人のために運命と戦ったあなたたちの強さを、私は誰よりも理解している」

クオンは一歩、わたし達へ歩み寄った。

「だからこそ、私はあなたたちに『選択肢』を与えに来たの」

「選択肢……?」

わたしが尋ねると、クオンはポケットから、二つの新しい「小さな銀色の羅針盤(コンパス)」を取り出した。

「街のあちこちに散らばった『102回分の時間の残滓』を集め、本来の因果の巡りへと還元する仕事(調律)。……それを、私と一緒にやってほしいの」

「俺たちが……残滓を集める……?」

「ええ。あなたたちふたりは、すでに時間の狭間を潜り抜け、時空の歪みに適応した『時の航海者(タイム・ナビゲーター)』となっている。あなたたちの手でなければ、その残滓に触れることすらできないわ」

クオンはまっすぐにわたし達の目を見つめた。

「すべての残滓を集め終えた時……この街は完全に救われ、あなたたちの手に入れた『明日』は、永遠に揺るぎないものとなる。……ただし」

クオンの言葉が途切れた。

「ただし……何なんだよ?」

律が鋭く問い詰める。

「時間の残滓を集める過程で……あなたたちは、102回のやり直しの中で『捨ててきた自分たちの記憶』や『起きていた惨劇の真実』と、直接向き合うことになるわ。……記憶の封印が解け、あの地獄のような恐怖を、もう一度脳裏に鮮明に思い出すことになるかもしれない」

クオンの言葉が、重く部屋に響いた。

記憶の再来。
102回分の死の恐怖、絶望、血の匂い、そして二人で苦しみ抜いた地獄の記録。

せっかく忘れ、穏やかな「今日」を手に入れたのに——それを再び引きずり出し、抱えて生きねばならないかもしれないのだ。

地下室に、重苦しい静寂が降り積もる。
壁の時計たちが刻むチクタクという音が、まるでわたし達の決断を急かすように大きく響いていた。