キーンコーンカーンコーン……。
放課後を告げる終わりのチャイムが、校舎中に心地よく響き渡った。
オレンジ色に染まり始めた教室で、わたしはゆっくりとノートを閉じ、スクールバッグに教科書を仕舞い込んだ。
周りでは、部活動へ向かう生徒や、笑い合いながら下校の準備をするクラスメイトたちの賑やかな声が溢れている。
そのどれもが、昨日までの102回の中では、午後五時という絶望のカウントダウンに押し潰されそうな「恐怖の音」でしかなかった。
けれど、今のわたしには、その騒がしさのひとつひとつが、世界で一番美しく愛おしい音楽のように胸に染み渡っていく。
「……おい」
低く、少しぶっきらぼうな声が頭上から降ってきた。
振り返ると、スクールバッグを片手でひっかけた律が、そこに立っていた。
夕日を背にしたそのシルエットは、記憶の奥底にある姿と寸分違わず重なる。けれど、その茶色い瞳に宿る陰りは消え、ただ照れくさそうに耳を赤く染めていた。
「なにボサッとしてんだよ。行くんだろ、カフェ」
「……! うん!」
わたしは跳ね起きるように立ち上がり、カバンを固く握りしめた。
二人で並んで教室を出る。
廊下を歩き、階段を下り、昇降口でスニーカーに履き替える。
そのすべての工程が、わたし達にとって初めて歩む「10月16日の放課後」だった。
校門を出ると、秋の涼やかな風がふたりの頬を撫でて吹き抜けていった。
「ねえ、律くん」
通学路を歩きながら、わたしはとなりの彼を見上げた。
「……なんだよ」
「……なんでもない。名前、呼んでみただけ」
「ハァ? バカじゃねえの」
律は呆れたように息を吐いたけれど、その口元は隠しきれない笑みでかすかに綻んでいた。
いつも通る、駅前の大きな交差点。
赤信号の点滅が始まり、わたし達は歩道の手前で足を止めた。
かつて、102回の悪夢の始まりの場所。
あの猛スピードで突っ込んできた暴走トラックも、冷たいアスファルトの上で流した血も、今はどこにも存在しない。
交差点の向こう側では、新しいカフェのカラフルな看板が、夕暮れの街の中に温かい明かりを灯していた。
ピポー、ピポー、と歩行者用信号が青に変わる。
「行くぞ」
律が自然な動作で歩き出した。
その時——彼の手が、ほんの少しだけ迷うように泳ぎ、それから躊躇いがちにわたしの右手へと伸ばされた。
そっと触れ合う指先。
(……あっ)
律がハッとしたように足を止め、自分の手元を見つめた。
頭の記憶にはないはずなのに、彼の指はまるで吸い寄せられるようにわたし指と交差し、自然と「恋人繋ぎ」の形を作っていた。
「あ……すまん、俺、無意識に……」
律が慌てて手を引こうとする。
でも、わたしはその手を逃がさなかった。ギュッと力一杯、彼の温かい手のひらを握り返した。
「離さないで」
「紬……」
「絶対に、離さないで」
わたしがまっすぐに見つめると、律は目を見開き、やがて降参したように破顔した。
「……最初から離す気なんてねえよ」
握りしめた手のひらから、熱い体温がダイレクトに伝わってくる。
骨が折れそうなほど強く、けれど世界で一番優しいその握り方に、胸の奥から熱いものがこみ上げてきた。
わたし達は固く手を繋いだまま、青信号の交差点を渡り切った。
102回のやり直しの中で、一度だって越えることの出来なかった「運命の境界線」を、わたし達はついに二人の足で踏み越えたのだ。
◇
「いらっしゃいませ!」
カランコロン、と涼やかなベルの音が出迎えてくれた。
駅前の新しいカフェは、木の温もりに満ちた落ち着いた雰囲気の店だった。
窓際のテーブル席に二人で向かい合って座る。
ガラス越しに見える街並みは、ゆっくりと濃紺の夜空へと包まれようとしていた。
「ご注文はお決まりですか?」
やってきた店員さんに、わたしは目を輝かせながらメニューを指差した。
「この、一番大きい特製イチゴパフェをお願いします!」
「かしこまりました。お連れ様は?」
「……ブレンドコーヒー、ブラックで」
律が気恥ずかしそうに注文を済ませると、店員さんはお辞儀をして奥へと下がっていった。
「本当に頼みやがった……あんなデカいの、一人で食えるのかよ」
律が頬杖をつきながら、呆れたように笑う。
「ふふん、甘いものは別腹だもん。それに……約束だったから」
「約束?」
律が首をひねる。
「……俺、お前にそんな約束したっけ?」
「うん。……頭では覚えてないかもしれないけど、わたし達、ずっと前から約束してたんだよ。今日、二人でここに来るって」
わたしが静かに微笑むと、律は不思議そうな顔で自分の手元を見つめた。
テーブルの上に置かれた、彼の素朴な真鍮のキーホルダー。
そこには何もついていないけれど、夕日の光を受けて鈍い金色に輝いていた。
「……不思議なんだ」
律がぽつりと呟いた。
「今日、学校でお前に会った瞬間から……頭の中で、知らないはずの光景がずっとチラついてるんだ」
「知らないはずの光景……?」
「ああ。真っ赤な夕空と……壊れかけた図書室。激しい炎の匂い。それと……泣きながら俺の名前を呼ぶ、お前の声」
律の茶色い瞳が、切なく揺れる。
「俺……お前をずっと探してた気がするんだ。何十回も、何百回も……お前が死んじまう夢を見て、そのたびに絶望して……お前を救うために、何でもしようとしてたような……そんな気がしてならないんだよ」
律の手が、かすかに震えていた。
頭の記憶は消されても、彼が102回のやり直しの中で背負い続けた「孤独な闘い」の痕跡は、魂の深い場所に傷痕として刻み込まれていたのだ。
わたしはテーブル越しに手を伸ばし、律の手を優しく包み込んだ。
「もう大丈夫だよ、律」
「紬……」
「夢じゃないよ。わたしは今、ここにいる。生きてて、律のとなりにいるよ」
その時、店員さんが「お待たせいたしました」と大きなイチゴパフェとコーヒーを運んできた。
背の高いグラスにうずたかく盛られた生クリームと、真っ赤なイチゴ。
その圧倒的な存在感に、律は思わず目を丸くした。
「うわ……マジでデカいな……」
「でしょ? ほら、律もひとくち食べてみて!」
わたしは長いスプーンでイチゴとクリームをすくい、律の口元へと差し出した。
「ハァ!? 俺は甘いもん嫌いだって——」
「いいから! ほら、あーん!」
「……っ、たく……」
律は顔を真っ赤にしながら、諦めたように口を開け、パフェをパクリと咥えた。
「……どう?」
わたしが覗き込むと、律はモグモグと噛み締め、それから——何とも言えない微妙な顔で眉をひそめた。
「……甘すぎる」
「ふふっ、でしょうね!」
「でも……」
律はコーヒーカップを手に取り、一口飲んでから、照れくさそうに窓の外へ目を逸らした。
「……悪くねえよ。悪くねえ……最高の味だ」
その言葉に、胸がぎゅっと温かくなった。
窓の外では、街灯がポツポツと灯り始め、街はすっかり夜の装いを見せていた。
かつて、午後五時で途切れてしまっていた世界。
でも今、わたし達の前には、午後六時も、午後七時も、そしてその先に続く「明日」も、無限に広がっているのだ。
「律くん」
わたしはパフェを食べ進めながら、静かに口を開いた。
「わたし達、たくさんのものを失っちゃったかもしれない。大事な思い出も、時間を戻す時計も……全部なくなっちゃった」
「……ああ」
「でもね、わたし、全然悲しくないよ。だって……今日からまた、新しい思い出を二人で作っていけるから」
わたしが微笑むと、律はコーヒーカップを置き、まっすぐにわたしを見つめ返した。
その茶色い瞳には、もう過去の絶望の影はなかった。
あるのは、これからの未来を見つめる、強くて優しい光だけだった。
「作り直すんじゃねえよ」
律が力強く言った。
「新しく作るんだ。過去のやり直しなんかじゃない……俺たちの本当の『一回目』の毎日をな」
「うん……!」
わたしは強く、深く頷いた。
102回の絶望を超えて。
記憶を失い、世界の理を壊してまで、わたし達が手に入れたかったもの。
それは、特別な奇跡でも、魔法の力でもない。
ただ、大好きな人と一緒に笑い合い、明日を夢見ることができる——どこにでもある、愛おしい「日常」だったのだ。
「ごちそうさまでした!」
パフェをきれいに平らげたわたし達は、店を出た。
夜の秋風が心地よく頬を撫でる。
駅前のロータリーには、家路につく人々や、待ち合わせをする恋人たちの姿があった。
「帰ろう、紬」
律がわたしに向かって手を差し出す。
「うん! 帰ろう!」
わたしはその手をしっかりと握りしめた。
指先から伝わってくる温もりが、これが夢ではないことを、何よりも強く教えてくれていた。
ふたりの時計は、もう巻き戻らない。
けれど、ふたりの針は今、確かに同じ未来に向かって、新しい音を刻み始めていた。
放課後を告げる終わりのチャイムが、校舎中に心地よく響き渡った。
オレンジ色に染まり始めた教室で、わたしはゆっくりとノートを閉じ、スクールバッグに教科書を仕舞い込んだ。
周りでは、部活動へ向かう生徒や、笑い合いながら下校の準備をするクラスメイトたちの賑やかな声が溢れている。
そのどれもが、昨日までの102回の中では、午後五時という絶望のカウントダウンに押し潰されそうな「恐怖の音」でしかなかった。
けれど、今のわたしには、その騒がしさのひとつひとつが、世界で一番美しく愛おしい音楽のように胸に染み渡っていく。
「……おい」
低く、少しぶっきらぼうな声が頭上から降ってきた。
振り返ると、スクールバッグを片手でひっかけた律が、そこに立っていた。
夕日を背にしたそのシルエットは、記憶の奥底にある姿と寸分違わず重なる。けれど、その茶色い瞳に宿る陰りは消え、ただ照れくさそうに耳を赤く染めていた。
「なにボサッとしてんだよ。行くんだろ、カフェ」
「……! うん!」
わたしは跳ね起きるように立ち上がり、カバンを固く握りしめた。
二人で並んで教室を出る。
廊下を歩き、階段を下り、昇降口でスニーカーに履き替える。
そのすべての工程が、わたし達にとって初めて歩む「10月16日の放課後」だった。
校門を出ると、秋の涼やかな風がふたりの頬を撫でて吹き抜けていった。
「ねえ、律くん」
通学路を歩きながら、わたしはとなりの彼を見上げた。
「……なんだよ」
「……なんでもない。名前、呼んでみただけ」
「ハァ? バカじゃねえの」
律は呆れたように息を吐いたけれど、その口元は隠しきれない笑みでかすかに綻んでいた。
いつも通る、駅前の大きな交差点。
赤信号の点滅が始まり、わたし達は歩道の手前で足を止めた。
かつて、102回の悪夢の始まりの場所。
あの猛スピードで突っ込んできた暴走トラックも、冷たいアスファルトの上で流した血も、今はどこにも存在しない。
交差点の向こう側では、新しいカフェのカラフルな看板が、夕暮れの街の中に温かい明かりを灯していた。
ピポー、ピポー、と歩行者用信号が青に変わる。
「行くぞ」
律が自然な動作で歩き出した。
その時——彼の手が、ほんの少しだけ迷うように泳ぎ、それから躊躇いがちにわたしの右手へと伸ばされた。
そっと触れ合う指先。
(……あっ)
律がハッとしたように足を止め、自分の手元を見つめた。
頭の記憶にはないはずなのに、彼の指はまるで吸い寄せられるようにわたし指と交差し、自然と「恋人繋ぎ」の形を作っていた。
「あ……すまん、俺、無意識に……」
律が慌てて手を引こうとする。
でも、わたしはその手を逃がさなかった。ギュッと力一杯、彼の温かい手のひらを握り返した。
「離さないで」
「紬……」
「絶対に、離さないで」
わたしがまっすぐに見つめると、律は目を見開き、やがて降参したように破顔した。
「……最初から離す気なんてねえよ」
握りしめた手のひらから、熱い体温がダイレクトに伝わってくる。
骨が折れそうなほど強く、けれど世界で一番優しいその握り方に、胸の奥から熱いものがこみ上げてきた。
わたし達は固く手を繋いだまま、青信号の交差点を渡り切った。
102回のやり直しの中で、一度だって越えることの出来なかった「運命の境界線」を、わたし達はついに二人の足で踏み越えたのだ。
◇
「いらっしゃいませ!」
カランコロン、と涼やかなベルの音が出迎えてくれた。
駅前の新しいカフェは、木の温もりに満ちた落ち着いた雰囲気の店だった。
窓際のテーブル席に二人で向かい合って座る。
ガラス越しに見える街並みは、ゆっくりと濃紺の夜空へと包まれようとしていた。
「ご注文はお決まりですか?」
やってきた店員さんに、わたしは目を輝かせながらメニューを指差した。
「この、一番大きい特製イチゴパフェをお願いします!」
「かしこまりました。お連れ様は?」
「……ブレンドコーヒー、ブラックで」
律が気恥ずかしそうに注文を済ませると、店員さんはお辞儀をして奥へと下がっていった。
「本当に頼みやがった……あんなデカいの、一人で食えるのかよ」
律が頬杖をつきながら、呆れたように笑う。
「ふふん、甘いものは別腹だもん。それに……約束だったから」
「約束?」
律が首をひねる。
「……俺、お前にそんな約束したっけ?」
「うん。……頭では覚えてないかもしれないけど、わたし達、ずっと前から約束してたんだよ。今日、二人でここに来るって」
わたしが静かに微笑むと、律は不思議そうな顔で自分の手元を見つめた。
テーブルの上に置かれた、彼の素朴な真鍮のキーホルダー。
そこには何もついていないけれど、夕日の光を受けて鈍い金色に輝いていた。
「……不思議なんだ」
律がぽつりと呟いた。
「今日、学校でお前に会った瞬間から……頭の中で、知らないはずの光景がずっとチラついてるんだ」
「知らないはずの光景……?」
「ああ。真っ赤な夕空と……壊れかけた図書室。激しい炎の匂い。それと……泣きながら俺の名前を呼ぶ、お前の声」
律の茶色い瞳が、切なく揺れる。
「俺……お前をずっと探してた気がするんだ。何十回も、何百回も……お前が死んじまう夢を見て、そのたびに絶望して……お前を救うために、何でもしようとしてたような……そんな気がしてならないんだよ」
律の手が、かすかに震えていた。
頭の記憶は消されても、彼が102回のやり直しの中で背負い続けた「孤独な闘い」の痕跡は、魂の深い場所に傷痕として刻み込まれていたのだ。
わたしはテーブル越しに手を伸ばし、律の手を優しく包み込んだ。
「もう大丈夫だよ、律」
「紬……」
「夢じゃないよ。わたしは今、ここにいる。生きてて、律のとなりにいるよ」
その時、店員さんが「お待たせいたしました」と大きなイチゴパフェとコーヒーを運んできた。
背の高いグラスにうずたかく盛られた生クリームと、真っ赤なイチゴ。
その圧倒的な存在感に、律は思わず目を丸くした。
「うわ……マジでデカいな……」
「でしょ? ほら、律もひとくち食べてみて!」
わたしは長いスプーンでイチゴとクリームをすくい、律の口元へと差し出した。
「ハァ!? 俺は甘いもん嫌いだって——」
「いいから! ほら、あーん!」
「……っ、たく……」
律は顔を真っ赤にしながら、諦めたように口を開け、パフェをパクリと咥えた。
「……どう?」
わたしが覗き込むと、律はモグモグと噛み締め、それから——何とも言えない微妙な顔で眉をひそめた。
「……甘すぎる」
「ふふっ、でしょうね!」
「でも……」
律はコーヒーカップを手に取り、一口飲んでから、照れくさそうに窓の外へ目を逸らした。
「……悪くねえよ。悪くねえ……最高の味だ」
その言葉に、胸がぎゅっと温かくなった。
窓の外では、街灯がポツポツと灯り始め、街はすっかり夜の装いを見せていた。
かつて、午後五時で途切れてしまっていた世界。
でも今、わたし達の前には、午後六時も、午後七時も、そしてその先に続く「明日」も、無限に広がっているのだ。
「律くん」
わたしはパフェを食べ進めながら、静かに口を開いた。
「わたし達、たくさんのものを失っちゃったかもしれない。大事な思い出も、時間を戻す時計も……全部なくなっちゃった」
「……ああ」
「でもね、わたし、全然悲しくないよ。だって……今日からまた、新しい思い出を二人で作っていけるから」
わたしが微笑むと、律はコーヒーカップを置き、まっすぐにわたしを見つめ返した。
その茶色い瞳には、もう過去の絶望の影はなかった。
あるのは、これからの未来を見つめる、強くて優しい光だけだった。
「作り直すんじゃねえよ」
律が力強く言った。
「新しく作るんだ。過去のやり直しなんかじゃない……俺たちの本当の『一回目』の毎日をな」
「うん……!」
わたしは強く、深く頷いた。
102回の絶望を超えて。
記憶を失い、世界の理を壊してまで、わたし達が手に入れたかったもの。
それは、特別な奇跡でも、魔法の力でもない。
ただ、大好きな人と一緒に笑い合い、明日を夢見ることができる——どこにでもある、愛おしい「日常」だったのだ。
「ごちそうさまでした!」
パフェをきれいに平らげたわたし達は、店を出た。
夜の秋風が心地よく頬を撫でる。
駅前のロータリーには、家路につく人々や、待ち合わせをする恋人たちの姿があった。
「帰ろう、紬」
律がわたしに向かって手を差し出す。
「うん! 帰ろう!」
わたしはその手をしっかりと握りしめた。
指先から伝わってくる温もりが、これが夢ではないことを、何よりも強く教えてくれていた。
ふたりの時計は、もう巻き戻らない。
けれど、ふたりの針は今、確かに同じ未来に向かって、新しい音を刻み始めていた。



