ある日、綾美のLINEのプロフィール写真が変わっていることに気がついた。高級ホテルの一室と花束。見覚えのない場所だったが、誰と行ったのかは予想がついた。
僕は綾美の連絡先をブロックすると、大学時代に友人がマッチングアプリのTinderを使っていたことを思い出し、Tinderのアイコンをタップした。
初めて登録するマッチングアプリでは、手当たり次第にいいねを送り続けた。
何人かの女性とマッチングし、食事にも出かけたが、誰と会っても心は動かなかった。
そんなとき、1人の女性とマッチングした。
彼女は台湾から来日し、日本の大学院に通う年下の留学生だった。半年後には台湾へ帰る予定だという。
メッセージを何度か交わしたのち、彼女の好物だという火鍋の店で食事をした。
会話を重ねるうちに、彼女が僕に好意を抱いてくれていることが伝わってくる。食事を終えたあとホテルに誘うと、彼女は照れくさそうに笑いながら頷いた。
それから僕たちは、週末に一緒に出かけるようになった。美術館に行ったり、街を歩いたり、食事をしたり、ときには一夜を共に過ごすこともあった。
ただ、僕が既婚者であることは明かさなかった。
壊れた結婚も、先の見えない未来も、何も考えずにいられる時間が欲しかった。
今思えば、僕は彼女に誠実ではなかったことは事実である。
綾美に対する罪悪感は不思議なくらい湧いてこなかった。
こうして綾美の連絡先をブロックしたまま、ひたすら現実から逃げ続けた。
しかし、新しい出会いで刹那的に気持ちを紛らわせても、ふとした瞬間に我に返る。
こうしているあいだにも、問題は何一つ解決されない。その現実に絶望した。
思い立った僕は綾美の連絡先のブロックを解除すると、数ヶ月ぶりに連絡を取った。
『離婚届を送るから、書いてほしい』
そうLINEを送ったが、相変わらず『嫌だ』という返信が届くだけだった。
『離婚しないなら綾美が今付き合っている人たちと別れて、別れたことを俺に分かるように証明してほしい。もらった鞄やアクセサリーも全部手放してほしい』
わずかな望みにかけて渾身のメッセージを送ったが、綾美は連絡を無視し、行動を起こすことはなかった。
その頃から新型コロナウイルスの流行によって、地元へ帰ることができなくなっていた。
離婚の話は進まないままだったが、綾美からはたびたび連絡が来た。内容は僕が彼女に貸している車のことだった。
『車をぶつけてしまった』
『ETC使えないけど、どうなってるの?』
そんな用件ばかりで、離婚について触れられることはなかった。
そうしているうちに、台湾人の彼女が帰国する時期が近づいてきた。
彼女からは「一緒に台湾へ来てほしい」と言われたが、最初からそのつもりはなかったので、申し出を断った。
どうやら僕との未来を本気で考えていたらしい。
罪悪感はあった。
既婚者であることを最後まで打ち明けられなかったことは、今でも申し訳なく思っている。
月日は流れ、2年間の地方勤務を終えた僕は地元へ戻った。
会社の福利厚生を利用して新たに一人暮らし用のマンションを借りた。必要最低限の家具しか置かなかった。
いつまでここで暮らすことになるのか、自分でも分からなかったからだ。
そうして何も変わらないまま、気づけば29歳になっていた。
久しぶりに実家に帰ったときに、母親にこれまでの経緯を話した。
「離婚するかもしれない」
僕がそう口にすると、母はなんとも言えない表情を浮かべしばらく何も言わなかった。
結婚を報告したとき、母はあまりいい顔をしなかったので「だから言ったでしょう」と責められても仕方がないと思っていた。
だが、母の口から出た言葉は意外なものだった。
「あのとき、あなたが決めたことだから最後まで自分で考えなさい」
そう穏やかな口調で続けた。
「実はね、家に挨拶に来たとき、少し気になっていたの。ピンヒールにミニスカートで、ちょっと遼とは雰囲気が違うかもって。綾美ちゃんが悪いと思ったわけじゃないのよ。ただ、遼が無理をしているんじゃないかって」
僕は黙ってしまった。
あの頃は、自分が苦しくても綾美を支え続けなければいけないと思っていた。
「幸せならそれでいいと思ってたのよ。でも、遼が苦しいなら話は別だから」
話を終えて自分の部屋に戻ると、張り詰めていたものが一気に崩れた。
僕は静かに泣いた。
綾美からは「別れたくない」といった内容のLINEが定期的に届いていた。
しかし、何度同じやり取りを繰り返しても、状況が進展することはなかった。
次第に僕は疲れ果て、返信する気力も失っていった。
ある日、会社で仕事をしていると、後輩から呼び止められた。
「遼さん、電話来てますよ」
「誰から?」
「妻って言ってます。『遼くんいますか?』って」
その瞬間、思考が止まった。
なぜ会社に電話をかけてきたのか。
職場の人間に夫婦関係のことを知られる恐怖と、積み重なった疲労が一気に込み上げた。
電話を受けると、感情のまま声を荒げた。
「会社に電話をかけてくるなんておかしいだろ!」
「だって、遼がLINEを返してくれないから……」
「だからって、会社に電話するのは違うだろ!もういいから、二度と会社に電話しないでくれ!」
怒鳴って通話を切った。
電話を切ったあと、手の震えが止まらなかった。
怒りだったのか、不安だったのか、それとも恐怖だったのか、自分でも分からない。
ただ、一刻も早くこの状況を変えたい。
これ以上、自分をすり減らしながら生きていくことには耐えられなかった。
僕は離婚の話を進めるため、綾美と会う約束をした。
当日、彼女は僕が貸している車に乗ってきた。黒のセダン。
社会人になって初めて自分の力で買った新車だった。久しぶりに見るその車は傷やへこみだらけで、見るに堪えない痛々しい姿になっていた。
一体、どんな乗り方をしていたらこんなことになるのか。
言いようのない疲労感を覚える。
数ヶ月ぶりに会う綾美は、相変わらず見覚えのない高級ブランドのピアスやネックレスを身につけていた。
不倫相手から贈られたものなのか、店の客からもらったものなのか、今はもうそんなことはどうでもよくなっていた。
僕たちは近所のカフェに入った。
外では蝉が鳴き、真夏の陽射しが容赦なく照りつけていた。店内に入ると、冷房の冷たい空気が身体を包んだ。
窓際の席に向かい合って座ると、綾美はかき氷を注文した。
ほどなくして、かき氷がテーブルに運ばれてくる。綾美はスマホを取り出すと、インスタ用なのか写真を撮り始めた。
夫婦関係を終わらせるために必死で話をしようとしているのに、まるで他人事のような態度に苛立ちを覚えた。
「写真なんか撮っている場合じゃないだろ」
気づけば、手にしていたスプーンで彼女のかき氷を崩していた。自分でも驚くほど衝動的な行動だった。
「やめてよ!なんてことするの!」
綾美は声を荒らげ、崩れたかき氷を見つめた。
そんな彼女の悲しそうな顔を見ても、罪悪感は少しも湧いてこなかった。
「お前、今まで俺がどんな気持ちだったか知っているのか」
抑えていた感情が一気に溢れ出した。
「好き勝手やって、挙げ句の果てには離婚したくないなんて……ふざけてるだろ!」
綾美は俯いたまま、しばらく黙っていた。
やがて小さな声で答えた。
「……ごめん。でも、離婚したくない」
「自分が何をしたのか分かってるのか?」
「うん。ごめんね。反省してる」
「本当に?」
「うん。遼のこと好きだから本当に離婚したくない」
離婚のことでいっぱいだった脳裏に、ふと別の考えが浮かぶ。
もう一度、やり直せるのだろうか。
散々裏切られてきたのに、そんなことを考えるなんて自分でも馬鹿げていると思った。
それでも、昔の彼女の姿が浮かんだ。
いつも優しく、惜しみなく愛情を示してくれていた頃の綾美だった。
短い沈黙が流れる。
綾美の視線が僕の左手に移った。
「結婚指輪は?」
「……なくした」
僕が冷たく答えると、綾美は悲しげな表情を浮かべる。
「なんで?」
「もういらないと思った」
「…また買えばいいじゃん」
その言葉を聞いて酷く呆れた。
何十万円もする指輪を「また買えばいいじゃん」の一言で済ませる。
キャバクラやパパ活を繰り返すうちに、彼女の金銭感覚はすっかり狂ってしまったのだろう。
結局、その日も離婚の話がまとまることはなかった。カフェを出ると、外の空気がやけに冷たく感じられた。
後日、再び彼女と会ったときのことだ。LINEの通知から、また他の男からのメッセージを目にしてしまった。
スマホの画面に表示された名前を見た瞬間、またか、と思った。
何も変わっていない。
驚きすらしなかった。
裏切られることに慣れすぎてしまったのだろう。
それに、以前、誕生日にプレゼントした数万円子高級ブランドのピアスを、綾美は「なくした」とあっさり口にした。その言い方には、申し訳なさも、悲しさも感じられなかった。
さらに、綾美の部屋には、僕には覚えのない真新しいラブホテルのアメニティがいくつも置かれていた。
順風満帆で穏やかな人生を送ってきた自分にとって、綾美との関わりは衝撃だった。
世の中にはドラマや映画でしか見ないような破天荒な人間が現実にもいる。
そう思わされるほどだ。
もちろん、綾美の人格形成には、幼少期に両親から育児放棄を受けた経験も少なからず影響しているのかもしれない。
それに、まだ若かった綾美を、結婚という形で縛り付けてしまった自分にも非がなかったとは言えない。
それでも、綾美の行為を受け入れることはできなかった。
人はそう簡単には変わらない。
そんなことを改めて思い知った僕は、わずかに残っていた望みを捨て、再構築への道を諦めた。
何も変わらない現実からまた逃げ場所を探した。再びマッチングアプリを利用して、一夜限りの関係をもつようになった。
自暴自棄になっていた。
あるとき、マッチングした女性から、彼女がよく行くというバーに誘われた。
店に入ると、薄暗い照明の下でカウンターに酒のボトルが並んでいる。席に着くと、彼女は僕に確認することなく次々と酒を注文していった。
「これも飲もうよ」
そう言って、また別の酒を注文した。
その後、会話はほとんど弾まず居心地の悪い時間が続いた。このままここにいても仕方がない。1時間ほどで店を出ることにした。会計のために伝票を手に取った瞬間、目を疑った。金額は3万円だった。
後から考えれば、店と彼女が最初から仕組んでいたのかもしれない。
店を出ると、そのまま解散して帰路についた。歩いているうちに、急に虚しさが込み上げてくる。
自分は何をしているのだろう。
同級生たちは家を買ったり、子どもが生まれたり、家族と穏やかに暮らしている。
それなのに自分は、夜な夜な見知らぬ女性と酒を飲み、現実から逃げるような日々を過ごしている。
周りが当たり前のように前へ進んでいく中で、離婚したくても離婚できない自分だけが、永遠に同じ場所に取り残されているような気がした。
時間もお金も精神も、ただ無意味に浪費する。そんな毎日だった。
月日が流れ、年末が近づいた頃、1つ年上の朱音と名乗る女性とマッチングした。いつものように一夜限りの関係をもつつもりだった。
年の瀬で慌ただしい夜の街を眺めながら、待ち合わせのバーへと向かった。店の前に着くと彼女はすでに到着していた。
胸まで伸びたストレートの黒髪に、凛とした表情。少し派手なピアスをつけ、すっと背筋が伸びた姿が印象的だった。
僕に気づくと、朱音は軽く笑った。
「遼くん?」
「はい、初めまして」
直感的にこの人ならくだらない冗談や下ネタを言っても許してくれるだろうと思った。
薄暗い店内に入ると、カウンター席に並んで座った。初めはセオリー通り、これまでの恋愛遍歴や仕事のことなど真面目な話をした。
綾美のことも話したが、数年前に別れたことにしておいた。
グラスを重ねるうちに酒が回ってくる。
気分も次第に高揚していき、いつものように口説いた。
「可愛いね」
「いい匂いがする」
時々、きつめの下ネタも交えて会話を続けたが、朱音は嫌がる様子もなく笑いながら話を聞いていた。少しずつ距離も縮まり、今日もいい流れだと思った。
一通り飲み終えると、僕はすっかり手応えを感じていた。酒の勢いもあってそのまま切り出した。
「このあと、ホテル行かない?」
数秒の沈黙のあと、彼女は口を開いた。
「絶対やらないけど。それでもいいなら、いいよ」
「じゃあ、俺の家行こう」
僕は間髪入れずに答えた。
朱音は驚いたような顔をして、それから念を押すように言った。
「いいけど、絶対に、絶対に、100パーセントやらないよ?本当にいいの?」
「いいよ」
もちろん、その言葉をそのまま受け止めていたわけではない。
家に来てくれるなら、そこから流れが変わるはずだ。そんな都合のいい期待を抱いていた。
家に招くと、朱音は少し驚いた様子だった。
「物、全然ないね。ミニマリスト?」
「…まあ」
転勤が終わり、離婚協議中で未来が不透明の中、いつまでこの家にいることになるのか分からないから。
そんなことは当然言えるはずもない。
お互いソファに座ったところで、距離を縮めようと僕は朱音を押し倒したが、彼女は僕を拒んだ。
「絶対やらないって言ったよね?」
「えー」
「結婚を前提に付き合わない限りしないよ」
「…け、け、け、け、結婚?!」
思わず声が裏返った。
今、一番聞きたくない言葉だった。
まだ既婚者だったし、それにTinderで出会った女性から、まさか「結婚」という言葉が飛び出してくるとは想像もしていなかった。
Tinderは真剣な婚活を目的としたアプリとは違い、遊び目的で男女が出会う場所だったからだ。
Tinderで婚活なんてできるわけがないだろ。
僕は内心、そんなふうに呆れていた。
結局、その日は何もせず、布団の中でしりとりをしながら一晩を過ごした。
最初は気まずさを紛らわせるための思いつきだった。
「3文字縛りで」
「りんご」
僕が言い終わるか終わらないかのうちに、朱音が食い気味に答えた。
「早っ」
思わず吹き出した。
「ごりら」
「らっぱ」
「ぱんだ」
くだらない遊びだった。
深夜の外は静まり返り、殺風景な部屋には僕たちの声だけが響いていた。
久しぶりに、何かを得るためでも現実から逃げるためでもなく、ただ誰かと一緒にいる時間を楽しんだ。

