圭介とは身体だけの関係ではあったが、普通に食事にも行った。そんな関係を続けるうちに、彼の幼稚な一面が目につくようになった。
タバコは買うのに、「金がない」と愚痴をこぼす。私が料理を作っても、後片付けすら手伝わない。本業の収入が少ないからと怪しい副業に手を出す。
女性関係もだらしなかった。知り合って間もない女性と関係を持つ。
ある日、こんなことがあった。
「あれ? 朱音の腰に傷ってなかった?」
「いや、ないけど」
「あ、間違えた」
「……誰と?」
「先週、副業のパーティーで出会った女」
一時期は、圭介とデキ婚をすることも、選択肢の一つだと考えていた。けれど、そんな打算もいつの間にか薄れていった。
恋愛に夢中になれた10代や20代であれば、細かいことなど気にせず「好き」という気持ちだけで付き合うことができた。だが、30歳になった今、自分は結婚相手を探している。
恋愛の過程を省略して、一刻も早く結婚したいほど切羽詰まっていた。お金もなく、家事もせず、女性関係にだらしない圭介は人生のパートナーとしては、明らかにふさわしい相手ではなかった。
あるとき、圭介がこんなことを言い出した。
「今までの彼女も中に出さなければ妊娠しなかったし、生でしてもいい?」
冷静に考えれば、到底受け入れられる話ではない。だが、圭介に何度もしつこく迫られ、婚活のストレスで疲弊していた私は、その提案に一度だけ応じてしまった。
その後、我に返ると、妊娠の恐怖に怯える毎日が始まった。生理予定日前、トイレで赤く染まった下着を目にした瞬間、血の気が引いた。慌てて圭介に電話をかけた。
「不正出血してた。妊娠してたらどうしよう」
「俺の子?結婚しちゃう?(笑)」
結婚に執着していたはずなのに、その言葉を聞いてもなぜか全く嬉しくはなかった。軽々しく放たれたその一言を聞いた瞬間、彼への想いが急速に冷めていくのを感じた。
圭介は容姿こそよかったものの、内面は軽率で、配慮も倫理観も欠けていた。知れば知るほど、あまりに未熟な人間だった。
冷静に考えれば、圭介が特別魅力的だったわけではない。婚活という地獄の中で、他にいいと思える相手が見つからず、消去法で残っただけだった。
後日、予定日を少し過ぎて無事に生理が来た。安堵すると同時に、二度と同じ過ちを繰り返さないと固く誓った。
そんな頃、マッチングアプリで出会ったのが、2つ年上の直哉だった。
初めて彼を見たとき、なんとなく違和感を覚えた。身長は180センチほどで、ぱっちりとした二重瞼。だが、髪はところどころ茶色く染まり、ごつめのピアスをつけ、服装も少し地雷系。32歳のホワイトカラーの会社員だというのに、まるで学生のような風貌だった。
初めての食事は無難に終わり、まだ直哉をありともなしとも判断できなかった。
2回目のデートでは、映画を観たあと、近くのデパートで買い物をした。
「このちいかわの顔、朱音ちゃんに似てない?」
「どこが?」
「この表情とか」
「全然似てない!」
時間を共にするうちに、飾らない雰囲気や、少年のようにくだらない冗談を言う直哉に少しずつ惹かれていった。ところが、買い物の途中で直哉は突然「帰る」と言い出した。
帰宅後、お礼のLINEを送ったが、半日以上既読にならなかった。何か気に障ることを言ってしまったのだろうか、と悩んでいると、ようやく返信が届いた。
『買い物していた時、朱音と距離があったから辛かった』
『そっか。ごめんね。気づかなくて』
そう返信したが、再び違和感を覚える。
まだ2回しか会っていない上、交際もしていないのに、そこまで気にするものだろうか。
それでも、自分を気にしてくれていた彼の不器用さをどこか可愛いと感じてしまった。
後日、直哉の部屋へ遊びに行ったときのことだ。初夏の頃だった。部屋は冷房がかなり効いており、寒がりの私は何気なく尋ねた。
「部屋、寒くない?」
すると直哉は突然、大声で怒鳴った。
「……文句ばっかりだな!」
驚きと恐怖で固まった。その一言以外に、文句と受け取られるようなことは言っていない。ただ唖然とした。
その後、恋愛遍歴の話題になったときのことだ。
「朱音は今まで何人と付き合ったの?」
「3人だけど、直哉は?」
「俺、12」
「へぇ、多いね」
軽く流したものの、内心では引っかかった。12人って多すぎないか。
これまで感じていた違和感が、徐々に確信へと変わっていく。
別の日は、映画を観たり漫画を読んだりしながら他愛もない時間を過ごした。
一緒にいるだけで楽しかった。
圭介よりはいいと思う。
お金もきちんと稼いでいるし、女性関係がだらしないわけでもない。
それでも、直哉は確実に何かがおかしい。
分かっているのに、私は彼を手放せず、束の間の幸せにしがみついていた。
婚活市場に戻りたくない。
自分はもう若くはないのに。
時間がないことは分かっている。
だが、彼を逃したら二度と好きになれる人に出会えないかもしれない。
そんな恐怖がこの関係をつなぎ止めていた。
直哉の家までは、電車で30分近くかかる。
いつも私が彼の家へ行き、彼が私の家に来ることはなかった。
あるとき、直哉の家に行くことになり、普通電車に乗り換える前のターミナル駅まで迎えに来てほしいと頼んだ。だが、直哉は「部屋を片付けたいから」と断った。
自分のことばかりを優先する直哉を見ていると、軽く扱われているような気がした。
こんな関係が長く続くはずがない。
終わりは、そう遠くない未来に訪れる気がした。
その日は、直哉と夜から合流することになっていた。昼間は買い物で一日中歩き回っていた私はくたくたに疲れ切っていた。
直哉が「買いたいものがある」とコンビニに車を停めたので、私は「疲れているから待ってる」と伝えると、彼は明らかに不機嫌になり店へ入っていった。
直哉が車に戻ってくると、終始無言のまま彼の家へ向かった。様子がおかしいことには気づいていたが、何が気に障ったのか思い当たる節がなかった。
その後、家に着いた途端、直哉は大声で怒鳴り散らかした。
「コンビニについてこない女は初めてだ」
「悪いことしたんだから謝れ!」
その怒り方は尋常ではなく、今にも暴力を振るわれるのではないかという恐怖を覚えた。
何故これほど怒られているのか理解できず混乱した。あまりの激昂ぶりに、一瞬、自分が悪いと錯覚してしまうほどだった。
疲れて車で待つことがそんなに怒られるようなことなのだろうか。
彼の勢いに圧倒され、つい謝ってもおかしくない状況だった。しかし、私は「自分は悪くない」という思いをどうしても譲れなかった。黙り続ける私に、直哉はさらに怒りを募らせる。
「どう思ってんの? 黙ってないで、なんとか言え!」
部屋に響き渡る怒声に怯えながら、私は恐る恐る声を絞り出した。
「…直哉とは、価値観違うなって」
「へぇ、価値観違うなら俺ら終わりだな」
彼は馬鹿にしたように口元を歪めた。
「今日で会うの最後な」
恐怖で心臓が激しく鳴ったが、頭の中では不思議なくらい冷静に考えていた。
いくら好きでも、さすがにこの人と家庭を築くのは無理だ。
これを機にようやく直哉から離れる決心がついた。
以前、直哉は交際人数が12人と話していたが、この性格が原因で短い交際を繰り返してきたのだろうと察した。
その日は既に終電がなく、直哉の家に泊まらざるをえなかった。仕方なく寝る支度をしていると、コンタクトレンズの洗浄液を持参していないことに気がつく。
「ごめん、コンタクトの洗浄液忘れちゃって。近くのコンビニまで車出してくれない?」
時刻はすでに午前1時近く。コンビニまで徒歩10分程度ではあったが、周囲は街灯がほとんどない住宅街で、女性が1人で出歩くには心細かった。案の定、直哉の反応は悪かった。
「おまえ、コンビニについてこないくせに俺に車を出させるんだな」
それとこれとは話が違う。
そう反論したかったが、言葉を飲み込んだ。
これ以上機嫌を損ねたくない。
「外真っ暗だし、怖いからお願いします」
私が頼み込むと、彼は乱暴に車のキーを手に取り嫌々玄関へ向かった。
その後、コンビニから帰宅すると、直哉は無言でコンドームを取り出した。
え?この空気で?
理解が追いつかなかった。
「私、性交痛ひどいしこんな雰囲気じゃ無理」
そう伝えると、露骨に呆れた表情を浮かべて大きなため息をつく。
「俺、子どもほしいし、朱音と一緒にいても前に進めん」
彼の一言一言がグサグサと胸に突き刺さる中、黙って布団に潜り込んだ。彼も隣で無言のまま布団に入った。とにかく感情を押し殺して、無理矢理にでも寝ようとした。
長い沈黙が続く。
すると、隣にいる直哉がゆっくりと私に近づいてくる気配がした。
殴られるのではないか。
そう思った瞬間、反射的に体がこわばった。
「気まずいのやーめた♡」
突然直哉がそう言って、甘える声で後ろから抱きついてきた。頭の中は恐怖と戸惑いが入り混じり、軽くパニックが起こった。
何が何だか分からない。
数分前まで怒り狂い、自分を激しく責め立てていた人が、今は何事もなかったかのように甘えている。どう反応すればいいのか分からず、ただじっとすることしかできなかった。
優しさなのか、機嫌が直っただけなのか、それともまた突然怒り出すのか。
不安でほとんど眠れなかった。
早朝に目が覚めると、私は隣で眠る直哉を起こさないよう静かに荷物をまとめ始めた。
できるだけ物音を立てないようにしていたつもりだった。だが、どうやらそばで眠る彼を起こしてしまったらしい。それまで聞こえていた寝息がふと止まった。
起こしてしまった、と思った。
しかし、直哉は寝たふりをしているのか起きてこなかった。次に私がどう行動するのかを、監視しているような気がした。
そうやってなんとか荷物をまとめ終えると、まだ外が薄暗いうちに部屋を出た。
外に出た瞬間、ひんやりとした乾いた風が吹き抜けた。
帰宅後、LINEを開いて直哉の連絡先を確認する。予想通り、彼は私の連絡先をブロックしていた。今ごろ激怒していることだろう。
望んだ結末だったが、涙が止まらなかった。
失恋の痛み。
そして、また婚活地獄に放り出された絶望。
いくつもの感情が、一気に押し寄せてきた。
涙を拭うと、圭介宛てに短いメッセージを送る。
『会いたい』
誰かに孤独を埋めてもらおうとしている。
誰かに縋り付きながら生きている。
そんな自分の弱さに気づいているのに、そこから抜け出せなかった。
タバコは買うのに、「金がない」と愚痴をこぼす。私が料理を作っても、後片付けすら手伝わない。本業の収入が少ないからと怪しい副業に手を出す。
女性関係もだらしなかった。知り合って間もない女性と関係を持つ。
ある日、こんなことがあった。
「あれ? 朱音の腰に傷ってなかった?」
「いや、ないけど」
「あ、間違えた」
「……誰と?」
「先週、副業のパーティーで出会った女」
一時期は、圭介とデキ婚をすることも、選択肢の一つだと考えていた。けれど、そんな打算もいつの間にか薄れていった。
恋愛に夢中になれた10代や20代であれば、細かいことなど気にせず「好き」という気持ちだけで付き合うことができた。だが、30歳になった今、自分は結婚相手を探している。
恋愛の過程を省略して、一刻も早く結婚したいほど切羽詰まっていた。お金もなく、家事もせず、女性関係にだらしない圭介は人生のパートナーとしては、明らかにふさわしい相手ではなかった。
あるとき、圭介がこんなことを言い出した。
「今までの彼女も中に出さなければ妊娠しなかったし、生でしてもいい?」
冷静に考えれば、到底受け入れられる話ではない。だが、圭介に何度もしつこく迫られ、婚活のストレスで疲弊していた私は、その提案に一度だけ応じてしまった。
その後、我に返ると、妊娠の恐怖に怯える毎日が始まった。生理予定日前、トイレで赤く染まった下着を目にした瞬間、血の気が引いた。慌てて圭介に電話をかけた。
「不正出血してた。妊娠してたらどうしよう」
「俺の子?結婚しちゃう?(笑)」
結婚に執着していたはずなのに、その言葉を聞いてもなぜか全く嬉しくはなかった。軽々しく放たれたその一言を聞いた瞬間、彼への想いが急速に冷めていくのを感じた。
圭介は容姿こそよかったものの、内面は軽率で、配慮も倫理観も欠けていた。知れば知るほど、あまりに未熟な人間だった。
冷静に考えれば、圭介が特別魅力的だったわけではない。婚活という地獄の中で、他にいいと思える相手が見つからず、消去法で残っただけだった。
後日、予定日を少し過ぎて無事に生理が来た。安堵すると同時に、二度と同じ過ちを繰り返さないと固く誓った。
そんな頃、マッチングアプリで出会ったのが、2つ年上の直哉だった。
初めて彼を見たとき、なんとなく違和感を覚えた。身長は180センチほどで、ぱっちりとした二重瞼。だが、髪はところどころ茶色く染まり、ごつめのピアスをつけ、服装も少し地雷系。32歳のホワイトカラーの会社員だというのに、まるで学生のような風貌だった。
初めての食事は無難に終わり、まだ直哉をありともなしとも判断できなかった。
2回目のデートでは、映画を観たあと、近くのデパートで買い物をした。
「このちいかわの顔、朱音ちゃんに似てない?」
「どこが?」
「この表情とか」
「全然似てない!」
時間を共にするうちに、飾らない雰囲気や、少年のようにくだらない冗談を言う直哉に少しずつ惹かれていった。ところが、買い物の途中で直哉は突然「帰る」と言い出した。
帰宅後、お礼のLINEを送ったが、半日以上既読にならなかった。何か気に障ることを言ってしまったのだろうか、と悩んでいると、ようやく返信が届いた。
『買い物していた時、朱音と距離があったから辛かった』
『そっか。ごめんね。気づかなくて』
そう返信したが、再び違和感を覚える。
まだ2回しか会っていない上、交際もしていないのに、そこまで気にするものだろうか。
それでも、自分を気にしてくれていた彼の不器用さをどこか可愛いと感じてしまった。
後日、直哉の部屋へ遊びに行ったときのことだ。初夏の頃だった。部屋は冷房がかなり効いており、寒がりの私は何気なく尋ねた。
「部屋、寒くない?」
すると直哉は突然、大声で怒鳴った。
「……文句ばっかりだな!」
驚きと恐怖で固まった。その一言以外に、文句と受け取られるようなことは言っていない。ただ唖然とした。
その後、恋愛遍歴の話題になったときのことだ。
「朱音は今まで何人と付き合ったの?」
「3人だけど、直哉は?」
「俺、12」
「へぇ、多いね」
軽く流したものの、内心では引っかかった。12人って多すぎないか。
これまで感じていた違和感が、徐々に確信へと変わっていく。
別の日は、映画を観たり漫画を読んだりしながら他愛もない時間を過ごした。
一緒にいるだけで楽しかった。
圭介よりはいいと思う。
お金もきちんと稼いでいるし、女性関係がだらしないわけでもない。
それでも、直哉は確実に何かがおかしい。
分かっているのに、私は彼を手放せず、束の間の幸せにしがみついていた。
婚活市場に戻りたくない。
自分はもう若くはないのに。
時間がないことは分かっている。
だが、彼を逃したら二度と好きになれる人に出会えないかもしれない。
そんな恐怖がこの関係をつなぎ止めていた。
直哉の家までは、電車で30分近くかかる。
いつも私が彼の家へ行き、彼が私の家に来ることはなかった。
あるとき、直哉の家に行くことになり、普通電車に乗り換える前のターミナル駅まで迎えに来てほしいと頼んだ。だが、直哉は「部屋を片付けたいから」と断った。
自分のことばかりを優先する直哉を見ていると、軽く扱われているような気がした。
こんな関係が長く続くはずがない。
終わりは、そう遠くない未来に訪れる気がした。
その日は、直哉と夜から合流することになっていた。昼間は買い物で一日中歩き回っていた私はくたくたに疲れ切っていた。
直哉が「買いたいものがある」とコンビニに車を停めたので、私は「疲れているから待ってる」と伝えると、彼は明らかに不機嫌になり店へ入っていった。
直哉が車に戻ってくると、終始無言のまま彼の家へ向かった。様子がおかしいことには気づいていたが、何が気に障ったのか思い当たる節がなかった。
その後、家に着いた途端、直哉は大声で怒鳴り散らかした。
「コンビニについてこない女は初めてだ」
「悪いことしたんだから謝れ!」
その怒り方は尋常ではなく、今にも暴力を振るわれるのではないかという恐怖を覚えた。
何故これほど怒られているのか理解できず混乱した。あまりの激昂ぶりに、一瞬、自分が悪いと錯覚してしまうほどだった。
疲れて車で待つことがそんなに怒られるようなことなのだろうか。
彼の勢いに圧倒され、つい謝ってもおかしくない状況だった。しかし、私は「自分は悪くない」という思いをどうしても譲れなかった。黙り続ける私に、直哉はさらに怒りを募らせる。
「どう思ってんの? 黙ってないで、なんとか言え!」
部屋に響き渡る怒声に怯えながら、私は恐る恐る声を絞り出した。
「…直哉とは、価値観違うなって」
「へぇ、価値観違うなら俺ら終わりだな」
彼は馬鹿にしたように口元を歪めた。
「今日で会うの最後な」
恐怖で心臓が激しく鳴ったが、頭の中では不思議なくらい冷静に考えていた。
いくら好きでも、さすがにこの人と家庭を築くのは無理だ。
これを機にようやく直哉から離れる決心がついた。
以前、直哉は交際人数が12人と話していたが、この性格が原因で短い交際を繰り返してきたのだろうと察した。
その日は既に終電がなく、直哉の家に泊まらざるをえなかった。仕方なく寝る支度をしていると、コンタクトレンズの洗浄液を持参していないことに気がつく。
「ごめん、コンタクトの洗浄液忘れちゃって。近くのコンビニまで車出してくれない?」
時刻はすでに午前1時近く。コンビニまで徒歩10分程度ではあったが、周囲は街灯がほとんどない住宅街で、女性が1人で出歩くには心細かった。案の定、直哉の反応は悪かった。
「おまえ、コンビニについてこないくせに俺に車を出させるんだな」
それとこれとは話が違う。
そう反論したかったが、言葉を飲み込んだ。
これ以上機嫌を損ねたくない。
「外真っ暗だし、怖いからお願いします」
私が頼み込むと、彼は乱暴に車のキーを手に取り嫌々玄関へ向かった。
その後、コンビニから帰宅すると、直哉は無言でコンドームを取り出した。
え?この空気で?
理解が追いつかなかった。
「私、性交痛ひどいしこんな雰囲気じゃ無理」
そう伝えると、露骨に呆れた表情を浮かべて大きなため息をつく。
「俺、子どもほしいし、朱音と一緒にいても前に進めん」
彼の一言一言がグサグサと胸に突き刺さる中、黙って布団に潜り込んだ。彼も隣で無言のまま布団に入った。とにかく感情を押し殺して、無理矢理にでも寝ようとした。
長い沈黙が続く。
すると、隣にいる直哉がゆっくりと私に近づいてくる気配がした。
殴られるのではないか。
そう思った瞬間、反射的に体がこわばった。
「気まずいのやーめた♡」
突然直哉がそう言って、甘える声で後ろから抱きついてきた。頭の中は恐怖と戸惑いが入り混じり、軽くパニックが起こった。
何が何だか分からない。
数分前まで怒り狂い、自分を激しく責め立てていた人が、今は何事もなかったかのように甘えている。どう反応すればいいのか分からず、ただじっとすることしかできなかった。
優しさなのか、機嫌が直っただけなのか、それともまた突然怒り出すのか。
不安でほとんど眠れなかった。
早朝に目が覚めると、私は隣で眠る直哉を起こさないよう静かに荷物をまとめ始めた。
できるだけ物音を立てないようにしていたつもりだった。だが、どうやらそばで眠る彼を起こしてしまったらしい。それまで聞こえていた寝息がふと止まった。
起こしてしまった、と思った。
しかし、直哉は寝たふりをしているのか起きてこなかった。次に私がどう行動するのかを、監視しているような気がした。
そうやってなんとか荷物をまとめ終えると、まだ外が薄暗いうちに部屋を出た。
外に出た瞬間、ひんやりとした乾いた風が吹き抜けた。
帰宅後、LINEを開いて直哉の連絡先を確認する。予想通り、彼は私の連絡先をブロックしていた。今ごろ激怒していることだろう。
望んだ結末だったが、涙が止まらなかった。
失恋の痛み。
そして、また婚活地獄に放り出された絶望。
いくつもの感情が、一気に押し寄せてきた。
涙を拭うと、圭介宛てに短いメッセージを送る。
『会いたい』
誰かに孤独を埋めてもらおうとしている。
誰かに縋り付きながら生きている。
そんな自分の弱さに気づいているのに、そこから抜け出せなかった。

